2021年8月17日火曜日

ブリジェンス設計の町会所

 謎の建築家ブリジェンスについてだらだらと書いてきたが、ようやく本題とも言える町会所に関して、隙間時間に在宅で調べられる限りのことをかき集めてまとめてみた。これは町会所というより、「時計台」の愛称で親しまれていた建物という。現在はこの跡地に、1917(大正6)年竣工の横浜市開港記念会館、通称ジャックの塔が立ち、これが国の重要文化財である歴史的建造物なので、それ以前にこの地にあった町会所のことはあまり知られていない。 

 きっかけは、このところずっと訳していた時間・時計の歴史に関する本に、公共の時計台に秘められた、とてつもない意味が書かれていたことだった。時間など、いまでは誰もが空気や湯水のように当たり前の存在として接しているが、これは改めて時間とは何か、それを可視化した時計とは何かを考えさせられた本だった。大まかに言えば、時計はローマの昔から支配者によって秩序を保つために使われてきたものであり、いまでは人工衛星に搭載された原子時計によって、私たちの暮らしのあらゆる側面が管理されているという驚くべき内容の本だ。

 これまでにも『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で、時間や時計に関連して深く考えさせられたことはあったし、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)には、スイスから開港当初にやってきた時計職人フランソワ・ペルゴの店に所狭しと並べられた時計を見に、日本の商人たちが群がったことが書かれていた。だから、文明開化と時計は密接に結びついていたんだろうと漠然とは思っていたが、改めて調べてみると、これは思っていた以上に重大な出来事だった。

 1932(昭和7)年刊の『横浜市史稿』地理編には、「町会所址」という項目があり、町会所が1874(明治7)年4月に改築されたことや、その建物が「石造で、屋上の高塔に大時計が据付けられ、本建物は時計台の名で通っていて、当時の横浜一名所となって居た」と書かれている。同風俗編でも、「石造二階の洋式建築」とあり、「其宏壮雄渾な誇姿には、其名も懐しい時計台と呼称が付せられて、明治初期の時代的雰囲気を語る記念の建築物であったので、其保存方法が慎重に考案されて居た最中の明治三十九〔1906〕年十二月に、可惜〔あたら、残念ながら〕、類焼の災厄に罹って灰土となった」と記されている。町会所の写真や銅版画を見ると、ブリジェンスのその他の作品とよく似た造りで、石造にしては華奢に見える。老朽化が進み、高塔は焼失する前年に撤去されていたというし、そもそも石造であれば「灰土」とならなかったように思うので、町会所も彼のその他の作品同様、木骨石張りだったのではないだろうか。 

『横浜市史稿』政治編三には、「之に要した建築費約八万円は、歩合金から支出した。此金は、明治六年五月、皇居が炎上して、直に造営に著手せられた時、横浜の貿易商人等が、歩合金の内を献金して、其費用の一部に充てんことを出願したけれど、遂に聞届けられなかったので、当時の神奈川県令陸奥宗光の発意を以て、其金を町会所建築費に転用したのであった」と、その由来が書かれている。  

 しかし、『横浜市史稿』の説明には、これがブリジェンスの設計だとは一言も書かれていない。それどころか、全11巻のどこにも、彼に関する言及はない。昭和の初めには、「横浜一名所」の設計者は、すでに完全に忘れ去られていたのだ。近年、彼の功績がいくらかでも知られているのは、先述の1907年の『横浜貿易新報』の記事に、1983年に掘勇良氏が目を留めて以来なのではなかろうか。この記事には「過般、火災の為めに一朝烏有(うゆう)に帰したる横浜会館、即ち時計台なるものは、氏等夫婦の設計に成りし唯一の記念物なりしと云ふ」と、書かれていたという。  

 設計者については早々に忘れ去られたようだが、町会所は「時計台」と呼ばれて親しまれたという。そのためか、町会所はむしろ、ここに時計を設置したジェームズ・ファーヴル=ブラントとの関連で記憶されつづけたようだ。以前は、そのことが不思議でならなかったが、時計台に込められた意味を考えれば、当然のことに思える。  

 なにしろ、日本ではそのわずか1年数カ月前まで十二辰刻制で時を刻んでおり、庶民が時間を知るすべは、ほぼ2時間置きに鳴らされる時の鐘の回数を数えるしかなかったのだ。横浜の時の鐘は、うちの近所の境木の鐘が野毛山に移されたそうで、もちろん人手で撞くものだった。江戸時代までは基本的に昼と夜の時間をそれぞれ6等分する方法が取られており、そのため夏には昼の一刻は長く、夜の一刻は短くなり、冬はその逆になった。日の出とともに起きて活動し、行灯しかない夜間は基本的に寝て過ごす暮らしだっただろうから、生物時計に従った健康的な生き方だったとも言える。  

 夜間、誰もが寝静まったあいだも起きて鐘を打たねばならない人は、おそらく和時計を頼りに、時の経過ばかりを気にしながら当番をこなしていたのだろう。ウィキペディアの和時計の項やセイコーミュージアムの説明を参照すると、江戸時代に開発された和時計は、もともと昼と夜の時間の変化を、棒状のテンプの分銅の位置を明け六つ(卯の正刻)と暮れ六つ(酉の正刻)で変えることで調整していたが、のちに2本のテンプが昼夜の境で自動切り替えできる二挺天符が開発され、二十四節気に合わせて15日毎に分銅をずらし、一刻の長さを調整すれば済むようになった。文字盤の時刻の間隔を15日ごとに変えて表示する「割駒式文字盤」型というのもあったようだ。  

 いずれにせよ、和時計は厳密に日毎の日の出と日没の時刻を追っていたわけではなく、その30分ほど前後の薄明を明け六つと暮れ六つとしていた。東西に長い日本列島では、実際には場所によって日の出、日没の時刻に2時間近いずれがあるためだろうか。和時計がどれだけ普及していたかわからないが、同じ仕様でほぼ各地で違和感なく使うためには、厳密でないほうがよかったのかもしれない。  

 そうした暮らしが唐突に終わりを告げたのは、明治5(1872)年11月9日に詔書が発表され、そのわずか23日後の12月3日が明治6(1873)年1月1日となり、それまでの太陰太陽暦が太陽暦に改められ、不定時法だった十二辰刻制が24時間の定刻制に変わったためだった。12月がほぼ1カ月なくなってしまったことは確かにショックだっただろうが、急に24時間制になり、何時何分という細かい単位で時間を決められるようになった時代の変化は、じわじわとストレスになっただろう。明治5年10月14日に鉄道が開通したのも、この変化と無縁ではなかったはずだ。半刻(1時間)という認識まではあったとはいえ、横浜–新橋間を1日9往復とはいえ、単線で列車を走らせるうえで、より正確な時刻を運行者も乗客も知る必要があっただろう。  

 幕末に長州や薩摩からひそかに留学した若者たちが、まだ13、14歳の子供まで、これ見よがしに懐中時計の鎖を胸に垂らしていたのは、24時間制で正確な時刻がわかることが、文明化した人間の証のように感じられたからではなかろうか。彼らにとって断髪して洋装したあと、最初に手に入れるべきものは懐中時計だったに違いない。明治7年にもなれば、横浜では懐中時計をもつ日本人はかなりいただろうが、そんなものを買えない庶民にとっては、見上げれば時間が一目瞭然でわかる町会所の大時計は、1日に何度でも見てしまう画期的な存在だっただろう。4階の高さでそびえ、てっぺんに4方向から見える大時計を搭載した時計台は、当時すでに2階建て建物が増えていたとはいえ、居留地や日本人町のかなりの場所から見えて、ランドマークとなるとともに時刻を伝えていたのである。  

 残念ながら、町会所の時計台は日本初のものではない。TIMEKEEPER古時計ドットコムというサイトによると、明治4年に現在の北の丸公園にあった近衛歩兵隊衛所竹橋陣営の時計塔が第1号という。同サイトによると、明治6年には工部大学校時計と並んで、なんと横浜岩亀楼にも時計塔が誕生したことになっている。後者は高島町遊郭に移転した岩亀楼の明治8年ごろ写真に確かに時計塔が確認できる。高島町に移転してから、3度焼失しているようなので、時計塔のある建物が何年に建設されたか正確に知るのは難しそうだ。町会所と同年同月に東京の江戸橋付近にあった駅逓察新庁舎にも時計塔があり、これもファーヴル=ブラント商会が納入していた。京屋の外神田本店と銀座支店もその後、同商会からの機械式四方塔時計が設置されている。本邦初ではないにしろ、町会所は5本指には入る日本で最も初期の時計台だった。  

 ジェームズ・ファーヴル=ブラントは1863年にエメ・アンベール率いるスイスの使節団に加わって来日した時計職人兼貿易商で、前述の同郷のペルゴとも交流があったが、一方で武器も扱っており、西郷隆盛や大山巌と親しく、長岡藩ともやりとりがあったようだ。長岡藩士の先祖を探すうちに、ファーヴル=ブラントを調べたという人のブログ等によると、松野久子という日本人配偶者がいて、彼女の死後はその姪の松野くま子を後添えにもらったらしい。いつもながら豊富な情報を提供してくれるMeiji-Portraitsは、この日本人妻をMatsouno Shisaとしており、横浜外国人墓地に眠る夫妻の墓には、確かにこの綴りで彼女の名前が刻まれていた。フランス語読みならシサ・マツノとなる。江戸っ子だったに違いない。彼女は有名なMitsuno clan(水野氏か?)の出身と同サイトには書かれていた。  

 いろいろ読むとファーヴル=ブラントも探り甲斐のある人物のようだが、とりあえずここでひとまず、ブリジェンスに関する報告はおしまいとしよう。幕末・明治期の時間や時計に関連したことでは、ほかにもいくつか調べたことがあるので、いずれ翻訳書が刊行されたときにでも書き足すことにしたい。

町会所の写る絵葉書。元の所有者の筆跡から、焼失する直前の写真と思われる

『神奈川の写真誌』(確か明治中期、有隣堂)に掲載されていた町会所の全容

横浜外国人墓地22区にあるフランソワ・ペルゴの墓。2018年10月撮影。誰かが花を供えていた

同墓地9区にあるジェームズ・ファーヴル=ブラントと松野久の墓。2018年10月撮影

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