私が読んだのは岩波文庫から2018年に刊行されたものだったが、もともとは御茶ノ水書房から2004年9月に刊行された。著者の保苅氏が32歳で病死してから4カ月弱のちのことだ。本書は、保苅氏が1996年から2001年までオーストラリア国立大学に留学中に、ノーザンテリトリー準州に住むオーストラリア先住民の一氏族であるグリンジの、ダグラグ村を中心に現地調査をした結果をまとめた彼の博士論文をもとに、余命2カ月の末期がんとの宣告を受けてから、書籍として刊行するために多くの人の手も借りながら完成させたものという。
決して読みやすい本ではない。「幻のブック・ラウンチ会場より」として始まる第1章はとくに、「ども、はじめまして」という砕けた口語体の割には、オーラル・ヒストリーとは何なのかの説明もないまま、自分はインタビューも録音もせず、相手が自然に語ってくれるのを待つのだと読者は知らされる。エスノグラフィー(行動観察調査、保苅氏は参与観察とする)との違いを説明するのに、「事実確認的」(constative)、「行為遂行的」(performative)といった、やたら難しい用語が使われ、一般の読者には理解しづらいカタカナ語や、「歴史実践」(historical practice)、「歴史する(doing history)」など耳慣れない表現が多出する。最初のページのブック・ラウンチは出版記念会ではダメだったのか、なぜ「ローンチ」(launch)ではないのか等々、いちいち気になって、しばらく先に進めなかった。
それでも我慢して拾い読みしていくうちに、「僕たちは、歴史というものを、歴史学者によって発見されたり生産されたりするものだと思い込みすぎていないでしょうか。[……]学者以外がおこなう歴史実践は、せいぜいで歴史の授業に出席することくらいだと、思い込んでいないでしょうか」というくだりまできて、興味が湧いてきた。
「〈われわれ〉歴史学者が、〈かれら〉インフォーマントの話を聞くという態度」にも疑問をいだいた著者は、歴史の語り手は人間に限らず、「場合によっては、石だって歴史を語りだす」、「いろんなモノや場所から歴史物語りが聞こえてくる」と述べ、それゆえに「過激で極端なオーラル・ヒストリー」という題名を考えたのだという。大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)を訳した私としては、石が語るのは、何ら不思議なことではない。もともとは、「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー」(通文化化する歴史)という題名を考えていたそうで、そうしなかったのは賢明だった。これではただ舌を噛んで終わりそうだ。
「キャプテン・クックより以前に」オーストラリアにやってきたとグリンジの長老たちが主張する西洋人について、保苅氏が師と仰ぐジミー・マンガヤリ老人は「白人(カリヤ)は奴をキーン・ルイスと呼び、我々はジャッキー・バンダマラと呼ぶ」と説明した。「キーン・ルイスはこの土地にグロッグ[アルコール]をもたらした」、「バンダマラは、奴はライフルをもっていなかった。奴は長いあいだ、あれで暮らしていたんだ。……あのシャンハイを知っているかい?」などとも語った。
グロッグは、1730年代からイギリス海軍で支給されたラム酒の水割りを指す言葉だろうか。クック船長が第1回航海でシドニーのボタニー湾に上陸し、グウィーガルという先住民の一氏族と遭遇したのは1770年のことだ。クックの一行は突然の来訪者に敵意を見せた現地民の足元を狙ってマスケット銃を撃ち、現場に残された樹皮製の盾をもち帰り、のちにこれは大英博物館の収蔵品となって、100のモノの1つとして歴史を語った。クックの一行もグロッグは持参していただろうが、このときの出会いは非友好的に終わっているので、それを先住民に分け与えたのはもう少しのちの出来事だろう。
シャンハイはスリングショット、つまりパチンコとも呼ばれる小さな武器のことだ。これは意外にも、加硫した天然ゴムが1839年に発明されて以降に普及した武器のようで、シャンハイはそれが大量に生産された上海にちなんだ名称に違いない。興味深いことに、オーストラリアなどではこれをパチューンガと呼ぶらしい。ライフルは1849年ミニエー銃が開発されて以降、普及したので、キーン・ルイスあるいはジャッキー・バンダマラは、クックよりのちの19世紀なかばごろの人物だったかもしれない。保苅氏はジミーじいさんの言葉が、諸々の史実とは異なることを充分に理解しながら、聞き役に徹したようで、そのことに関して「歴史経験への真摯さ(experiential historical truthfulness)とはつまり、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったという歴史を真剣に考える歴史学のことです」と述べている。私ならば、客観的な証拠を示し、ジミーじいさんの記憶違いを正したくなるだろう。
グリンジの暮らす地域では1880年代から白人入植者が牧場開発に乗りだした。多くの人が働き手として雇われていたウェーブヒル牧場で1924年2月に大洪水が起こり、年間降水量が4インチ(1016ミリ)という地域であるため、ほとんどの牛はヴィクトリア川沿いに集まっており、何千頭もが溺死した。オーストラリアの国土の8割は年間降水量が600ミリ未満なので、グリンジの地域はそのなかでは湿潤ということになる。この出来事は人びとのあいだでは、日照りつづきであっため、ダグラグ村の長老が雨を司る虹蛇に雨乞いをした結果、数日間、雨が降りつづけたと語り継がれ、なかには洪水で白人を押し流すのが目的だったと主張する人もいたという。
この虹蛇を、保苅氏は「レインボウ・サーペント」、「レインボウ・スネーク」、あるいはただ大蛇などと表記していたため、小野有五氏は私が前述の訳書で使用した「虹蛇」という表記に疑問をもたれたようだが、現在ではこの訳語でウィキペディアの項目が立つほど、よく知られたものになっている。グリンジの人びとは蛇をJurntakalと呼んでおり、保苅氏はジミーじいさんとの対話のなかで、「ジュンダガル」について相当なページを割いているが、これが虹蛇かどうか言及していない。このあたりの用語の統一、定義がなされないまま本書は刊行されてしまったように思う。
ちなみに、先住民の言語はもともと250以上あり、現在ではそのうちわずか13言語のみが若い世代にも使われており、100言語ほどはもう高齢者のみが話すものとなり、残りは失われてしまったようだ。それほど多様であるため、「虹蛇」の現地語もボルルン、ダッカン、カジュラ等々何種類もあり、結局、共通語として英語表記が定着したのだと思われる。
ヘビと川は、ヤマタノオロチやインドや東南アジアのナーガを考えればわかるように、世界の多くの文化で密接に結びついている。極端に乾燥した広大なオーストラリアで、移動手段は自分の足しかなかった先住民について書いたブライアン・フェイガンは、『水と人類の1万年史』(河出書房新社)のなかで、「代々の狩人に知られてきた水場の在り処」が「〈ドリーミング〉行路、もしくは〈ソングライン〉と呼ばれるものであり」、「ソングラインの歌詞を繰り返すことで広大な土地を歩くことができる」と書いていた。こうした環境では、降雨の有無は生死を左右するものだ。恵みの雨をもたらしたあと空に浮かぶ虹を、天に昇る大蛇と考えたのか、などとも想像してみた。
もっとも、保苅氏が記録したジミーじいさんの説明はもっと断片的で、「見回してごらん、太陽はあっち(西)に沈む、そしてあっち(東)から起き上がる。これが正しい道だよ」といった調子だ。季節ごとに太陽が昇る位置も沈む位置も大きく変わるので、こんな大雑把な方角の把握で、水場が見つかるのだろうかと、心配になった。
ウェーブヒル牧場で暮らしていたグリンジの人びとは、劣悪な労働条件に抗議して1966年に牧場を退去し、1975年にはその一部である3300平方キロの土地を返還させたのだという。ジミーじいさんは1998年ごろ保苅氏が初めて会ったとき、すでに80歳前後のダグラグ村の最長老だったという。とすると、大洪水があった当時はまだ子供で、牧場の返還運動をしていたころは30代の働き盛りだったことになる。日本からきた若者を相手に、多くを語ってくれたジミーじいさんは、「尊重しなければいけないけど、今さら頼るには年をとりすぎ知恵いる人物」だったようだが、彼の記憶はその時点でどのくらい確かだったのだろうか?
私自身、祖先の足跡をたどるために、高齢の親族から聞き取り調査をするなかで、同じ出来事でもその当時の年齢や各人の性格によって、記憶された内容がまるで違うという経験を何度もした。数年後にもう一度問い直したときには、その記憶すら失われていることもあった。同じ事件の目撃記録でも、人によって、立場によってまるで異なることも知った。歴史は勝者によって書かれるという言葉の意味も、嫌というほど味わわされた。
歴史とは何かを問うのであれば、わざわざノーザンテリトリーまででかけなくとも、身近な老人との対話からでも充分にわかりそうな気がする。保苅氏は、周囲の世界を知るための最善の方法は、静かに注意を傾け、平原の向こうに飛ぶ鳥や、南方の山火事や、新しい轍に目を留めることだと教えてくれたジミーじいさんに大いに感銘を受けたようだ。だがそれとて、大半のバードウォッチャーや自然観察者は日本のどこにいても、日々どんな時間でもやっていることではなかろうか。オーストラリアン・クリーオルというクレオール言語で語るジミーじいさんと、英語を母語としない保苅氏がどれだけ先住民の思考を理解できたのかも、やや疑問が残った。
いまではオーストラリア先住民はほかのどの民族にも先駆けて7万2000年ほど前にアフリカをでた可能性が遺伝学から判明しているようだ。それでもヨーロッパや南アフリカ、南アメリカなど世界各地の洞窟で見つかっているのと同様の壁画を残すなど、人類共通の特徴が見られる。先住民が語る歴史の最も貴重な点は、そのとてつもなく長期にわたる時代の記憶であるはずだが、保苅氏はその最後の数百年の植民地時代の歴史をもっぱら研究した。私にはそれが残念に思われるが、世紀の変わり目はまだポストコロニアル理論にどっぷり浸かっていた時代だったのだろう。
なお、本書では白人にカリヤ、アボリジニにグンビンとルビが振られているが、白人を意味する先住民の言葉はカーティヤ(Kartiya)またはガバ(Gubbah)しかネット上で検索されない。グンビンはグリンジを含む言語族ンガンビン(Ngumbin/Ngumpin)のことと思われ、彼らはンガンピット(Ngumpit)と自称するようだ。さらに言えば、アボリジニ(Aborigine)という用語がいまでは差別用語と広く認識されているので、文庫化に際してはそうした旨の注記が必要だったのではないだろうか。私も昨年のサイニーの訳書でようやく気づいたのだが、読み返してみると『100のモノが語る世界の歴史』の原書(2010年刊)はAboriginalという形容詞は使っても、Aborigineは使っていなかった。オーストラリア先住民についてたびたび書いたブライアン・フェイガンは、2012年の原書でもまだAborigineを使っていた。
ついでに言えば、「歴史とはそもそもナラティブである」などと唐突に書き、「物語り」(ナラティブ)と「物語」(ストーリー)とそれぞれルビを振り、注意散漫な読者には表記の不統一と誤解されるのがオチの書き方をする辺りも、編集サイドでもう少し補うべきではなかっただろうか。
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