2021年8月10日火曜日

グランド・ホテルはブリジェンスの設計か?

 しばらく中断していた建築家ブリジェンスの続きで、彼が設計したと言われるグランド・ホテルについて、メモ程度に書いておきたい。 横浜のホテル史については、私も学生時代にお世話になった故澤護先生が、それは綿密に調べ、論文やご著書を残されているので、詳しくはそれを読んでいただくのがいちばんなのだが、ブリジェンスとの関連に絞って、判明している限りのことをまとめておく。  

 グランド・ホテルはもちろん、明治時代の横浜を代表するホテルだったのだが、このホテルがあった居留地20番は、1862年から1867年までイギリスの公使館が置かれていた場所だった。公使館付騎馬護衛隊隊長から馬術を習った私の祖先もそこを訪ねたかもしれないと思い、現在は横浜人形の家が立つこの付近を、何度もうろついてみた。  

 横浜開港資料館で買った絵葉書のうち、上のパノラマ写真はフェリチェ・ベアトが山手から撮影したもので、1864年10月29日号の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に木口木版で紹介された。ここは海岸通りの南東端に当たり、画面手前には1860年に掘削された堀川があり、海に注いでいる。撮影されたのは下関戦争の直前だったため、横浜港の沖合にたくさんの軍艦が商船に交じって錨泊している。  

 下の絵葉書は、明治10年代撮影とのみ判明しているグランド・ホテルの写真だ。ブリジェンスが設計したとすれば、これがその建物なのだが、実際にはこの場所に建設された二代目のグランド・ホテルだという。1867年にイギリス公使館が山手に移り、同年11月に事務室等が売り立てられた(澤譲「横浜居留地のホテル史(1)」)。居留地20番はヘンリー・ホウイがイギリス公使館に貸していた土地で、公使館が移ったあとここに初代グランド・ホテルを建設した。ところが、まだ完成しないうちに、ホウイは1869年12月末に暗殺されてしまい、ウィリアム・H・スミスやジョージ・M・デアなどが共同で買い取り、1870年にメアリー・E・グリーンの経営で開業した。『ファー・イースト』の同年9月1日号に掲載された写真に、この当初の3階建てのグランド・ホテルが写っている。W・H・スミスは1862年にイギリス海兵隊の少尉として来日し、その後、実業家に転身してさまざまな事業を手がけ、「公共心にあふれたスミス」と呼ばれ、国籍にとらわれず居留民をまとめた横浜ユナイテッド・クラブの支配人を務めた。J・F・ラウダーもこのクラブの前身の発起人の一人である。  

 その後、スミスや写真家のフェリチェ・ベアトらが出資してこの初代のホテルを改装もしくは再建し、スミスを総支配人として1873年8月16日に二代目グランド・ホテルが開業した。こちらは、絵葉書にあるように2階建ての建物で、『日本ホテル略史』(昭和21年刊)によれば、「建物は木造二階建、一階に食堂、読書室、料理場があり、二階に客室三〇室を有す」というものだった。澤先生は、この書の間違いを多々指摘し、「建物の〈木造二階建〉も、〈石造二階建〉とした方が正鵠を得ている」としている。1890年に、隣接する居留地18番・19番に、フランスの建築家ポール・サルダ設計の新館が建てられると、20番の二階建てのほうは旧館と呼ばれるようになる。  この旧館がブリジェンス設計とされている旨には澤先生も言及し、こう評している。「ブリジェンスの作風は華麗さとか優雅さに欠け、どちらかと言えばずんぐりした単調な建築が多いので、この平面的で変化に乏しい〈グランド・ホテル〉旧館の設計も、彼の手になった可能性は大いにあり得るが、その確証はつかんでいない」(ホテル史(2))  

 ところで、この「旧館」にイギリスの工芸デザイナー、クリストファー・ドレッサーが1876年に滞在し、当時の様子を書き残している。その2年前、日本がウィーン万博で買い集めた美術品が海難事故ですべて失われたことに同情したイギリスのサウス・ケンジントン博物館が、1200点もの美術品・工芸品を寄贈してくれ、その選定にもかかわったドレッサーが、寄贈品とともに来日したときのことだった。ドレッサーの著作『Traditional Arts and Crafts of Japan』には、1876年末にサンフランシスコ経由で横浜に到着し、グランド・ホテルに滞在した日々が綴られている。第一印象では、さながらパリのグラン・ドテルのようだと思った場所を、翌朝、じっくり眺めたところ、「驚いたことに、昨日は堅固な石造りの建物として眺めていたものが、単に木造の骨組みの表面が、薄い石の平板で覆われていたのだ。それぞれの石は貫通しない程度に孔が開けられ、二本の普通の釘で吊るされているのである」。  

 城の石垣は別として、大量の石材を切りだし、輸送することも、その石を積みあげた建造物をつくることも一般的でなかった当時の日本で考案された苦肉の策だったのだろうか。見た目の西洋建築らしさもさながら、たびたび火事に見舞われた居留地では、耐火性という意味でも、石造りやレンガ造りの建物が求められていた。私が買った絵葉書のグランド・ホテルは、レンガ造りにも見えるのだが、少なくとも角部分は石造りに見える。そうした部分をドレッサーはしげしげと眺めたのだろう。  

 この「旧館」はブリジェンスの設計だろうか? 現地で手に入る素材で折衷案を考えだしたという点では、なまこ壁を採用した彼の他の作品に通ずるものを感じる。横浜税関として建てられ、二代目神奈川県庁舎となった建物は、外観石造、木造三階建てと書かれており、窓が等間隔に並ぶ中央棟などはとくに、この「旧館」に似ている。初代の横浜駅と新橋駅はいずれも木骨石張りで、伊豆斑石という凝灰岩が使われていた。少なくとも、技法という点では、グランド・ホテルの「旧館」はブリジェンス設計の可能性大と言えそうだ。  

 横浜には、現在は県立歴史博物館となっている旧横浜正金銀行本店など、石積みの本物の石造建築もあるが、建設されたのは1904年で、明治末期のものだ。現代の石造りに見える壮大な建築物は、いずれも石積みではなく、ごく薄い板石で外壁を覆っていることを考えれば、これはむしろ時代の最先端を行っていたのかもしれない。木造の民家で外壁の一部を石張りにした建物などは、近所でも見かける。木骨石張りというアイデアが、どこから生まれたのか、探ってみたら面白そうだ。

横浜開港資料館で買った絵葉書 
(上)「山手から見た居留地 1864(元治元年)7月」

(下)「海岸通り 20番グランドホテル(現在の〈人形の家〉付近)明治10年代」

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