2021年11月3日水曜日

東京都立中央図書館

 広尾の有栖川宮記念公園内にある東京都立中央図書館に初めて行ってきた。父方の先祖をたどるために佐賀の歴史関連で調べたい本が何冊かあり、そのほぼすべてがこの図書館に揃っていることを発見したのだ。ところが、11月11日から年始まで工事等のため休館となるというので、遅れている仕事を挽回するための貴重な祝日だったが、頑張ってでかけてきた。時間がなかったので、他県の資料を見る暇もなかったが、地方史関連の蔵書はかなり充実しているのではないだろうか。嬉しいことに、私の『埋もれた歴史』もちゃんと明治維新関連の書籍のあいだに並んでいた!  

 じつは何年か前に『佐賀藩多久領の研究』(三木俊秋著、文献出版)という本を古書で手に入れていたが、そこでは祖先らしき人の名前は一カ所しか見つからなかった。「献金による身分獲得」という明治2年6月の記録で、「東郷初太郎」という名前が「梶原九郎左衛門被官」の一人として書かれ、その隣に「南里吉左衛門」という名前が並んでいた。この組み合わせにピンときたのは、父の家に残された記録では「東郷初五郎」の妻が南里千代で、その父が南里吉左衛門だったからだ。「五」と「太」の崩し字を読み違えたと考えれば、ここに並ぶ2人が私の祖先である可能性は非常に高い。  

 この本には被官は「大庄屋・小庄屋・横目・村山留・咾等の村役人、あるいは領主の艫方・舸子・天下荷物宰領役等の公的な役目について、領主より扶持米を貰っているばあいもある」などと書かれていたが、要は「被官=家来=召使」であるようだった。  

 こんなことを調べる気になったのは、曾祖母は「多久藩の家老の娘」と聞かされていたからであり、アルゼンチンの親戚からも祖先は侍なのかと質問されたためだ。まず、曾祖母だと明治以降の生まれで、すでに「家老」は存在しないので、少なくとも高祖母だろうと私は踏み、墓石に南里氏千代と刻ませていた人が、可能性としていちばん高そうだと考えた。その後、「多久藩」ではなく、「佐賀藩多久領」であることがわかり、多久邑の家臣団の家老は軒並み多久姓だったので、その時点で家老説は私のなかでは完全に否定されていた。  

 少し前に佐賀県立図書館データベースというサイトも見つけ、南里吉左衛門の名前では『佐賀藩多久領の研究』のページしか検索されないことが確認できたので、千代さんの父親は初五郎と同等の「被官」なりたて、という身分だったと言えそうだ。もっとも、南里姓なので、下級武士の次男や三男だったのかもしれない。そこまで判明したら、あとは2人の主人である「梶原九郎左衛門」がどういう人だったのか調べる以外にない。それが本日、都立中央図書館まで行った大きな目的だった。データベースのおかげで調べるべき書籍もページ数もわかっていたので、効率よく調査できた。  

 梶原九郎左衛門に関してはそれなりに記録があり、しかも慶応4年正月に大坂か京都、もしくは長崎で情報収集に走っていた人のようだ。慶喜の回天丸による東帰を含め、戊辰戦争の重要な出来事を随時、多久六郎左衛門宛に書き送っていて、史料として貴重であるという。多久邑の第11代領主多久茂族は官軍側で会津攻撃をした人で、松平容保父子と重臣5人を東京まで護送してもいた。そのなかに梶原九郎左衛門がいたかどうかは不明だ。いずれにせよ、私の祖先たちがこの梶原の家来になったのは明治2年のことなので、そうした活躍がすべて終わってのことだろう。  

 都立図書館には『多久の歴史』という昭和39年刊の非売品の書籍もあり、思いの外、多くの情報が得られた。親戚からは曾祖父が炭鉱に手をだして失敗し、痛い目に遭ったと教えられていた。多久では明治3年から石炭採掘が始まり、11年には19の炭鉱があり、「主として、現在の高木河内、莇原附近に集中していた」という。そのあとにつづくリストには確かに、小侍宿の西南端の観音山炭鉱や、同西の鼠喰ひ炭坑、莇原の柚の木原炭坑などは「出炭なし」と書かれているので、掘ってみたものの外れのところもあったようだ。だが、このリストの炭坑はいずれも明治11年までに開業で、曾祖父は同8年生まれで、34歳で早世している。となると、炭坑に手をだしたのは高祖父で「被官」の初五郎だったかもしれない。  

 佐賀の叔父の家で見せてもらった『多久市史』も、都立図書館に全巻揃っていた。1年ばかり多久市長を務めた祖父については、その「人物編」で読んでいたが、ほかにも「現代編」で若干触れられていた。昭和29(1954)年に多久の5つの町村が合併する際の協議会の会長に、当時北多久町長だった祖父が選ばれ、合併前の五町村の全議員100人で残る任期をまっとうすることになり、その第1回の市議会で、祖父が市長職務執行者として承認されたのだという。その3年前、終戦の翌年には、多久は「文化、芸術の分野では未開の土地柄」であるため、「文化、芸術活動における欲求」が芽吹いてきて「北多久町文化連盟」が結成され、祖父を初代会長にして公民館をつくる運動をしたようだが、「せっかくの試みも会員の確保など組織維持が困難になり、一年足らずで解散した」そうだ。  

 前述の『多久の歴史』にも、祖父の人物紹介のページがあり、昭和35(1960)年に市長に当選したあとの7月の定例市議会の演説の抜粋が掲載されていた。「第一に、市政を執行する心構えとして『正しい市政、明るい市政、誠実な市政』の三つをあげております」と、いかにも無難なスピーチをしたようだが、「すなわち『正しい市政』とは、公正であり、一方に偏しない妥当性のある市政の意味であり、『明るい市政』とは、市政について民主主義の趣旨にそい、あらゆることについて話し合いの場を作り」云々とつづく。当時の時代背景でそれが斬新なことだったのか、すでに耳にタコができそうな道徳のお話となっていたのかはわからない。さらに「昭和三十七年八月七日東郷市長は、激務のため久留米大学附属病院に入院加療中であったが、治療のかいもなくついに不帰の客となられた」と、締め括られる。 

 私の姉は、この祖父からもらったという、妙なオレンジ色の藁入りで重いクマのぬいぐるみをもっていて、私にはそれが『ももいろのキリン』の意地悪なオレンジのクマとも重なって、幼な心に近づき難い存在に感じられた。半世紀以上の年月を経て、会うことのなかった祖父について読むのは、なかなか不思議な感覚だ。  

 佐賀県立図書館データベ-スでは、曾祖母の名前も検索されていたので、かなり期待して『多久市史』のそのページを開いたのだが、下川内というところにある阿弥陀如来の石像の寄進者の一人だった。まだ残っているだろうか。  

 そんなわけで、2時間もかからずに無事にコピーも取り終え、「宮さん、宮さん」の有栖川宮像を見上げながら、元南部藩下屋敷という公園内を抜けて帰宅の途に就いた。周囲は何度か通ったことがあるけれど、公園内入ったのは今回が初めてだった。

 東京都立中央図書館

『埋もれた歴史』発見!

『多久の歴史』は安価な古本を見つけたので、購入した。

 宮さん、宮さん

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