2022年12月15日木曜日

『アマルティア・セン回顧録』

 訳書の宣伝つづきになってしまうが、こちらは2年越しの仕事で、たまたま発売月が重なる結果となった。『アマルティア・セン回顧録』(上下2巻、勁草書房)で、いぶし金と銀の素敵な表紙の見本が先ほど届いた。カバーの図柄はだいぶ前から拝見していたのだが、なかの表紙も高級チョコレートを連想させるお洒落なデザインで、嬉しかった。

 私がアマルティア・センを初めて知ったのは、『人間の安全保障』(集英社文庫、2006年)と題された一連の論考集の翻訳に携わったときのことだった。大学受験を控えた娘をかかえ、経済的にも精神的にも追い詰められていた時期に、下訳の仕事でメールのやりとりをしただけの編集者のもとへ、どんな仕事でもいいからもらえないかと押しかけたところ、思いがけず頂戴したのがこの仕事だった。学生時代に緒方貞子先生の授業は受けていたので、人間の安全保障という、何やらピンとこない概念を緒方先生がセン博士とともに提唱してきたことなどはわかったし、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」という考え方をセンが非常に問題視していることは、訳し始めてすぐにわかった。しかし当時の私には、それぞれの言葉の意味を深く掘り下げ、抽象的な理論を展開する彼の文章はじつに難解で、編集者のアドバイスをもとに何度も書き直してようやく仕上げたものだった。だが、そこに書かれていた多くのことは、私の頭のなかに不思議と残り、何年も経ってからふと、そう意味かと納得したりもした。『人間の安全保障』はその後、わが家の窮状に合わせるかのように版を重ねてくれたので、彼はわが家の守り神のような存在となっていた。  

 その後、もう一度、『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)という、国や宗教など、集団のアイデンティティ問題を論じたセンの本の翻訳に携わる機会があった。そのころには多少は彼の人となりがわかっていたし、何であれ集団の色に染められるのが苦手な私には大いに共感するものがあり、この本は自分のものの考え方に多大な影響を与えた一冊となった。当時は娘がケンブリッジのアングリア・ラスキン大学に留学中だったので、ケム川沿いの遊歩道ザ・バックスを一緒に散歩しながら、センが学寮長を務めたトリニティ・カレッジを裏門からちらりと覗いてみた。回顧録には、人間開発指数を一緒に開発したマブーブ=ウル・ハックとともに、彼がこの遊歩道を歩きながら話し合ったことなどが書かれていた。大雪の降った翌朝、ケム川沿いを娘と歩いて行ったグランチェスター村なども本書に登場し、自由に語らえる空間と時間こそが自由な思想を育むのだろうと思った。  

 個人的には伝記の類いは苦手なほうだ。高齢になって書かれた自伝は往々にしてI, me and myself的なものが多く、私が好んで選ぶ分野ではない。昨年4月にセンの回顧録の翻訳のお話をいただいたときは、長年にわたるセンの熱心な研究者が大勢おられるうえに、原稿段階で本文だけでも400ページほどあり、もろもろ不安はあったが、波瀾万丈の彼の人生への好奇心が先立ち、恩返しのつもりもあって頑張ろうとお引き受けすることにした。  

 ところが、蓋を開けてみたら、そんなことは杞憂に過ぎなかった。原書は実際かなり分厚く、前半はとくにベンガル人のご親戚や友人がやたら大勢登場するので、かなり気圧されはした。それでも、途中少しも飽きることなく、最後まで毎日楽しく訳し通すことができた。ひとえに彼の驚くほど変化に富んだ人生と、合間に平易な言葉で語られる哲学や倫理の説得力、それに抜群のユーモアのセンスのおかげだ。エンタイトルメント、エージェンシー、公共の推論など、セン用語とも言える難解な言葉で、彼が本当は何を意味していたのかも、私は本書でようやく理解することができた。彼のこれまでの著書を読んで挫折した経験のある方も、ぜひこの回顧録は読んでみてほしい。 

 10年以上の歳月をかけて書き溜めてきたというこの回顧録では、非常に多くの重要なテーマが論じられており、そこには無神論、平和主義、マルクス主義などの重いテーマに関する深い考察から、センがのちになぜ厚生経済学や社会的選択理論、ゲーム理論などを専門とするようになったかまでが、詳しく語られている。わが家の守り神だったセン自身は、少年時代から断固とした無神論者だったことも、私は本書で初めて知った。今回の仕事で彼から学んだいちばん大きなことは、相手がたとえ誰であっても、批判的精神を忘れずに、盲信はするな、ということかもしれない。 

 彼が人生でかかわってきた人びとがまた壮観だ。彼の祖父キティモホン・シェンはラビンドラナート・タゴールの右腕だったため、幼いころからタゴールの影響を強く受けて育ち、マハートマー・ガーンディー、物理学者のサティエーンドラ・ボースなど、インドの賢者たちとじかに接して育った。モーリス・ドッブとピエロ・スラッファに学びたくてケンブリッジに留学してからは、エリック・ホブズボーム、E. M. フォースター、A. C. ピグー、アイザイア・バーリンなどと交流し、間接的ながらケインズやヴィトゲンシュタインも身近な存在として登場し、アメリカではポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ケネス・アロー、ジョン・ロールズなどとの交友関係が描かれる。 

 第二次世界大戦中に200万とも300万ともいう人が命を落としたベンガル飢饉を体験し、植民地時代からインド・パキスタンの分離独立という動乱の時代に多感な時期を過ごしたセンが、親族や知人、のちには教師や友人たちとの対話から学んだことの大きさに何よりも圧倒された。ベンガル人がアッダ(無駄話)と呼ぶ日常の議論こそが、物事の裏の裏までを突き詰めて考える彼の思想の根底にあるに違いなく、それはまた民主主義の根幹をなすものだろうとも思った。センはタゴールのシャンティニケトン(サンティニケタン)学校の生徒だった時期から、学校に行けない近隣の子供たちのために友人たちと夜間学校を開く活動もしていた。後年、ノーベル経済学賞を受賞して欧米の各地の大学で活躍した彼の目が、つねに社会の下層で虐げられてきた人びとに向けられてきた理由がそこからよくわかった。  

 日本との関連もそれなりに書かれていた。駐タイ大使を務めた岡崎久彦とは留学生同士でかなり親しかったようだ。日本ではパール判事として知られるラダビノド・パルについて、彼と議論したことにも触れられている。そもそも、センの人生の最初の大きな転機は、ダッカの進学校から自由に学べるシャンティニケトンに転校したことで訪れたのだが、その原因が当時ダッカまで迫りつつあった日本軍にあった。非暴力主義を貫いたガーンディーと正反対に、日本軍と手を組んででも武力によるインド独立を目指したスバス・チャンドラ・ボースに関する鋭い考察もあった。

 この回顧録で論じられていることは、いずれも興味をそそられるテーマばかりで、翻訳しながら関連の書籍を買ってはみたものの、あまりに多忙でまだ積読状態のままだ。随所で『リグ・ヴェーダ』や『ラーマーヤナ』、『バガヴァッド・ギーター』が引用されるので、いつかこれらの古典もじっくり読みたくなる。「マルクスをどう考えるか」という章も非常に考えさせられた。彼が共産主義をソ連と強く関連づけて理解している点は、エンゲルスの評伝を訳した身としては惜しい気がしたが、ソ連の影響を強く受けた時代に周辺諸国で生まれ育った人にとっては、それはあまりにも大きな現実であったのかもしれない。厚生経済学に関しても、福祉という言葉の意味とともに、いつか私なりの感想を書いてみたい。  

 翻訳の作業そのものは、センのその他の著書に比べて文章が平易であったことにも助けられ、慣れない経済学関連を含め、楽しかったのだが、この回顧録にはとにかく大勢のベンガル人が登場し、ベンガル語を使った説明も随所にあり、それがずっと悩みの種だった。ベンガル語の発音入門サイトを探し、グーグル翻訳で音声を聞いて頑張ってはみたものの、細かいルールはどうしてもわからない。ベンガル語は世界で7番目に話者の多い言語なので、今後を考えると、これはやはり専門家に見ていただくべきと考え、編集者にお願いしたところ、東京外国語大学の博士課程に在籍されているベンガル語専門の石川さくらさんをご紹介いただいた。 

 400語にもおよぶベンガル語の単語をエクセルでお送りして、カタカナに直していただいたデータをもとに、もう一度、翻訳原稿に手を入れるといった作業を経て、ゲラが出てきたころには、私はグレタ・トゥーンベリの『気候変動と環境危機』という、同じくらい大部で重要なうえに急ぎの仕事に忙殺されていた。双方の仕事のゲラが入れ替わり立ち替わり送られてくる状況下では、この回顧録の年内刊行を実現させるだけで精一杯だった。そのため、この紹介記事も何とも中途半端な内容となってしまった。  

 せめてもとの思いから、先月、都内に出た機会に、本書で触れられていたチャンドラ・ボースの墓所である杉並区蓮光寺と靖国神社の「パール博士顕彰碑」を訪ねてきた。チャンドラ・ボースとインパール作戦については、あまりにも勉強不足でいまは何も書けないが、本堂と寺務所しかないような杉並の住宅街の小さなお寺に、1975年に建てられたという彼の記念碑と、1990年建立の胸像があった。終戦直後の1925年8月18日に日本から脱出しようとして飛行機事故で死亡したボースの遺骨は、当時のご住職が引き取られ、それ以来ずっとこの寺の本堂に安置されているとのことで、毎年の命日は午後1時から法要が営まれている。記念碑の横に置かれた芳名帳に、驚くほどの数のインド人が名前と長いメッセージを書き込んでいた。ボースはインド人にとって決して忘れることのできない祖国の英雄なのだろう。  

 東京裁判とパール判事、ことラダビノド・パルについても、回顧録に書かれていた以上の知識が私にはほとんどない。彼の反対意見書は1235ページにもおよび、さすがのセンもその要約だけ読んだという。近年、再び彼が注目されていることは知っていたものの、靖国神社の遊就館前に2005年建立の記念碑があることは知らなかった。翻訳中に検索したところ、この碑の銘文として刻まれた意見書の結語が、実際には彼の言葉ではなく、南北戦争時代の南部側の唯一の大統領ジェファソン・デイヴィスの言葉の引用なのに、わざわざ引用符を外して碑に刻まれていることを元渋谷区議の方のブログで知った。改めて検索したところ、2019年3月にワシントン&リー大学法学大学院のマーク・ドランブル教授がOpinioJurisというサイトに詳しい論考を掲載していた。同教授によると、パル判事は引用元を明示しておらず、反植民地主義であるはずの彼が、白人至上主義のデイヴィスの言葉を引用したことへの驚きが書かれていた。この問題は実際にはかなり複雑と思われ、ドランブル教授の論考へのコメントを読むと、センが回顧録に書いていた当時のインドの時代背景をよく考えなければ、とうてい理解できそうにはない。  

 思いつくままにここに書いたことは、この回顧録の魅力のごく一部でしかない。「最高の知性はどのように生まれたのか」という本書上巻の帯の宣伝文句は、決して誇張ではなく、この作品をよく表わしていると思う。早いところではクリスマスごろには書店に並ぶかもしれない。ご自分へのクリスマス・プレゼントに、年末年始を豊かに過ごすために、お買い求めいただけたらとても嬉しい。

左: 原書 Amartya Sen, Home in the World: A Memoir 
右:邦訳版 『アマルティア・セン回顧録』(勁草書房)

軽井沢町碓氷峠見晴台に1980年に建立されたタゴール碑。1916年8月に日本女子大の成瀬仁蔵学長の招きで軽井沢の三井邸に滞在し、講話したことを記念したもの。2016年秋に、軽井沢で姪が結婚式を挙げた際に母と偶然ここを訪れた。

杉並区蓮光寺のチャンドラ・ボースの記念碑
2022年11月撮影

靖国神社のパール判事顕彰碑
2022年11月撮影

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