2023年1月9日月曜日

松平兄弟

 慌ただしい年末年始を過ごし、年が明けてから数日遅れでようやく物理学の歴史の翻訳原稿の残りを提出し、一息つく間もなく、柄にもなく引き受けてしまった月末の幕末史の講座のための資料づくりにかかっていたので、家のなかも、頭のなかも混乱しきっている。すでに開始が遅れている次の仕事に至急取り掛かるべきなのだが、まずは諸々の雑用を片づけて、忘れまいとして、頭のメモリーを食っていたことを細々としたことを書きだしておくことにする。

 昨年10月に拓殖大学の関良基先生から、同大の塩崎智先生が発見された松平忠礼・忠厚兄弟に関する史料コピーと、金井圓の「あるハタモトの生涯——私費米国留学生松平忠厚小伝」(1969年)という論考コピーを送っていただいていた。金井氏の論考は『トミーという名の日本人』(文一総合出版、1979年)にも収録されていたので、古本を入手してそれも読んでみた。  

 さらにそのずっと以前の昨年5月に、以前に祖先探しの調査で上田を訪ねた際にお世話になった長野大学の前川道博先生から、「みんなでつくる信州デジタルマップ」に拙著『埋もれた歴史』の紹介記事を掲載してくださった旨をご連絡いただいていた。そこには、私と同様に、上田藩士だった祖先探しをしておられた2人の方がすでに記事を投稿されていて、拙著の記事を読んで連絡を下さっていた。私にとって非常に嬉しいこれら諸々の進展を尻目に、翻訳の仕事に専念しなければならなかった日々は、何とも苦しかったが、赤松小三郎研究会主催の三谷博先生の講演会があった機会に、松平兄弟に随行してアメリカに渡った山口慎のご子孫の方が東京にお住まいだったのでお誘いしてみた。日比谷公園内の松本楼でランチをしながら、初めてお会いしたのに、まるで遠い親戚に再会したかのように、あれこれ尽きることのない話をしたあと、一緒に日比谷図書館の講演会場へ向かった。  

 前段が長くなったが、こうした経緯から、じつは新たな発見があったので、今回はそれを書いておきたい。上田藩の最後の藩主松平忠礼(拙著表紙の騎乗の人)と弟の忠厚は、山口慎とともに明治5(1872)7月に渡米し、兄の忠礼はラトガーズ大学を1879年に卒業して帰国したが、弟の忠厚は現地に残り、アメリカ人女性と初めて結婚した日本人となり、測量機器を発明して『サイエンティフィック・アメリカン』に日本人として初めて掲載された人なり、測量技師として活躍したが、1888年にデンヴァーで結核によって36歳で亡くなった。

 松平忠厚については、飯沼信子の『黄金のくさび』(1996年)という伝記があるが、インターネットの使えなかった当時の状況では仕方のないことだが、かなり間違いが多い。上田市立博物館発行の『赤松小三郎・松平忠厚』(2000年)は、その点、史料をもとに書かれているためより正確な情報が書かれている。この史料の多くを提供したのが、どうやら東大史料編纂所におられた金井圓氏(1927-2001年)だったようだ。1875年に一足先に帰国した山口慎が、明治14(1881)年9月に、生活費に苦労する忠厚に宛て「二白、金六十五円九十六銭にて(是は少々足し前あり、おまけなるべし)銀貨四十弗相求め、それに又金貨三十五弗七十銭相求め」送金したことを記した手紙が上田市博物館にあるが、これらも金井氏が収集・解読されたのではないだろうか。 

 私がお会いしたご子孫の方から、母上がまとめられた「祖父・山口慎」という論考も見せていただいたところ、母上が調査で上田市立博物館を訪ねた折に、奇しくもそれらの書簡3通が展示されていて、当時の寺島館長が山口家の「明細」等を見せてくださったのだそうだ。山口慎は帰国後に東京英語学校の同僚として高橋是清と出会い、1889年にペルー銀山の仕事にともに駆りだされ、断崖絶壁で落馬するなど危ない目に遭ったうえに、この事業そのものが詐欺に近いもので、たいへんな苦労を味わうことになった。是清とは生涯の友で、慎の葬儀も出してもらったという。高橋是清は、高校時代の親友の祖母に当たる方が是清邸に奉公されていたとのことで、私が歴史上の人物で身近に感じた最初の人だったので、祖先調査の折に『上田郷友会月報』で山口慎の追悼記事を見つけ、ペルーの一件を知ったときは驚いたものだった。 

 山口慎は「明治6年 新約克(ニューヨークと読む)にて」と書かれた1枚の写真を残していた。渡米した翌年撮影のウィキペディアにも掲載されたこの写真には、松平兄弟と山口慎が写っている。彼ら3人がどんな伝手で私費留学したのかについては不明な点が多く、そもそもどこで学んだのかもはっきりしていなかった。今回、塩崎先生からの史料で、忠厚がマサチューセッツ州のウースター・フリースクール(現ウースター工科大学)に、1874年から1877年まで在籍していたことがわかった。石附実「明治初期における日本人の海外留学」(『近代化の推進者たち』)によると、1866年からの10年間にニュージャージー州ニューブランズウィックで学んだ留学生は約40名いて、そのうちラトガーズ大学に入学したのは13名、卒業できたのは4名という。忠礼はその1人である。大半の留学生はラトガーズ・グラマー・スクールに2年ほど通ってから他校へ移ったり、帰国したりしていた。上田から渡米した3人も、おそらくは最初の2年ばかりグラマー・スクールに一緒に通い、忠礼はラトガーズ大学に進学し、忠厚は1874年からウースターに移り、山口は帰国したのだろう。福井出身の今立吐酔宛に忠厚が書いた1875年12月の3通の手紙に「学校モニトル選任」と書かれていたことが、今回、金井氏の論考から判明した。ということは、「生徒の風紀取締委員」と金井氏が説明する役に忠厚がついたのは、ウースーターの学校の話なのだ。 

 マサチューセッツとニュージャージーは300キロ近く離れているので、1874年以降、松平兄弟は頻繁には会っていなかったはずだ。金井氏の論考には、年次不明の年末に忠厚宛に名前不明の友人が書いた手紙もあり、そこには「今夜は阿兄公〔忠礼〕と談話の約束にて阿兄の尊居に参りたれ共、只彼美人の所に招かれ行くと耳(のみ)の書置にて、何如とも仕段なし」と書かれていた。書籍版のほうには、このあと忠礼がアメリカ女性などと並ぶ写真が2枚掲載されている。そのうちの1枚は裏書に、「Miss Cadie Sampson, Susie Powiston, Nettie Bentley, 南部英麿, 南部信方, 松平忠礼の名がある」とし、但し順不同でどれがカリー・サンプソンかわからないが、撮影日は1878年7月26日としている。 

 この説明を見てまず驚いたのが、南部英麿の名前だ。渡米したての1871年の有名な集合写真ではまだ初々しい美少年だった彼が、この写真では後方に立つ口髭の青年に成長していたからだ。英麿は1878年に帰国しているので、最後の記念撮影だったのだろうか。南部信方は彼の弟のようだ。この2枚の写真は私も何度も眺め、忠礼以外の男性は誰なのか、頭をひねったものだった。 

 カリー・サンプソンは忠厚の妻となった女性で、「Cadie Sampson」が確かにカリーなのだとすれば、これはいろいろ考えさせられる事実だ。ちなみに、もう1枚の写真についても金井氏はいろいろ書いておられるが、前列左端が忠礼である以外は、誰かはわからない。どちらの写真も現在は東京都写真美術館にあるので、いつか裏書を見てみたいものだ。

  しかも、同書にはこんなことも書かれていた。忠厚が友人の黒田長知(福岡藩主黒田長溥の世子)宛に、1878年と推測される手紙に「当秋末ニハ小生モ帰朝之心得ニ候」と書き、翌年夏の卒業式を待たずに出発する兄とともに1878年秋に帰国する予定だったという。実際には帰国間際になって忠厚はカリーと駆け落ちして姿をくらましてしまい、忠礼だけが帰ってきたことはよく知られる。忠厚も忠礼も日本に妻を残していたのだが、忠厚はカリーとの重婚に踏み切り、忠礼も、うろ覚えだが、「アメリカ人女性のように自立した人がいい」として最初の妻とは離縁し、その後、山内豊福の娘と再婚している。  

 忠厚が1874年以降、ニューブランズウィックにはいなかったことや、カリーが1859年生まれで、1878年秋にようやく19歳だった事実を考えると、もしやこれは帰国間際に2人のあいだに急に芽生えた恋だったのか、という疑問が湧いてくる。しかも、カリーとは忠礼が先に会っていたのかもしれない! だとすれば、帰国後も半年以上、弟に手紙を書かず、「男子の決心自由の存する処」と結局は受け入れるものの、「金銭の義は一切御構へ申さず、独立自弁の御事と、断然御承知成し下さるべく候也」と、絶縁状に近い手紙を送った忠礼の心情が少しわかるような気がする。まあ、いまさらこんなことを根掘り葉掘り詮索しても仕方がないのではあるが。  

 余談ながら、金井氏の書には、「明治期アメリカ留学の断面」という章もあり、そこにはラトガーズ大学に最初に留学し、結核で倒れて帰らぬ人となった日下部太郎の碑を囲む日本人留学生の写真も掲載されていた。『ザ・ファーイースト』紙1872年12月16日付に掲載されていたそうで、そこには「碑の右に立つのはスギウラコウゾウ氏、すなわち今の米国駐在公使館第三等書記官である。左に立つ二人の学生は、今ワシントンの日本公使館書記生のタカキ氏と、江戸の帝国大学の職員のひとりであるヤギモト氏である」という説明があるそうだ(まだ現物は確認していない)。  

 この写真も私が調査中に見つけていたもので、杉浦弘蔵(畠山義成)と高木三郎まではわかったのだが、左側の人物は吉田清成だと思っていた。金井氏によると、のちの名古屋市長の柳本直太郎だそうだ。ただし、金井氏はなぜか、墓碑のわきにうずくまるのが柳本だとするが、『ファーイースト』の記事に従えば、うずくまる人物はまだ不明だ。私はこの人物を碓氷峠列車逆走事故で息子とともに命を落とした長州の山本重輔と推測している。  少しも新年らしくない記事となったが、昨年からずっと気になっていたことなので、祝日の月曜日を利用して書きあげられてちょっと嬉しい。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 左から:松平忠厚、忠礼、山口慎
「明治6年 ニューヨークにて」撮影
 了承を得てウィキペディアからダウンロードした。 

『トミーという名の日本人:日米修好史話』金井圓著、
 文一総合出版、1979年

左側の写真に裏書があったようだ。後方の男性が南部英麿。前列左が松平忠礼、右は南部信方

カリー・サンプソンの写真として知られる2枚。左は上田市立博物館のパンフレット、右は『黄金のくさび』より

ラトガーズで1870年に結核で客死した日下部太郎の碑を囲む日本人留学生。1867年に松平慶永が送りだした最初の公式留学生だった。
左から:柳本直太郎、高木三郎、山本重輔?、畠山義成

日下部太郎の前に、ラトガーズでは1866年に密航した横井小楠の2人の甥が最初に学んでいたが、仕送りもない苦しい生活のなかで結核を患い、帰国後間もなく死去した。

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