2023年1月26日木曜日

横須賀開国史研究会

 昨日、横須賀開国史研究会主催の連続講座のうちの1回分として、「日米和親条約締結の舞台裏」という大それたテーマで発表をしてきた。寒波の影響で冷え込んだ一日だったにもかかわらず、ヴェルクよこすかの会場がほぼ満室状態になるほど、大勢の方にご参加いただいた。正月明けから、本業の傍ら、この不慣れな大役のために、図書館から大量の本を借り直して資料を作成し、4年ぶりにパワーポイントを立ち上げ、時間オーバーしないように、発表する内容を大幅に減らして調整を重ね、当日に挑んだ。それでも、何分、複雑きわまるテーマであるうえに、準備不足やら、人前で話し慣れていことやらで、どれだけご理解いただけたかはわからない。  

 今回、このお題をいただいて調べ直した際に、たくさんの新しい史料を見つけてしまい、「舞台裏」は当初思っていたより、はるかに深淵であることが判明したが、とりあえずこのような講座を担当するきっかけとなった日米和親条約第11条の誤訳問題に関して、少々まとめたので、ご興味があれば、お時間のあるときにお読みいただきたい。これまでもブログに「森山栄之助の弁護を試みる」をはじめ、平山謙二郎、井戸覚弘など、関連人物について何度か書いてきている。  

 今回はハリスの日記の原書(pp. 208-210)から始めたい。 1856年8月27日(前日の書き忘れとする条)で、上席の通訳(森山)についてまず「優秀な通訳で、非常に気持ちのよい態度の、真の廷臣(courtier)」と評したあと、トラブルをこう書いた。日本側は「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなっていない。[中略]条約では領事は両国[原文both]がそれを望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた(注275)」とつづく。注275は第11条の「和文条文はあいにく、両[同both]政府が領事の任命を必要とみなした場合としていた」と書き、その典拠にJ. H. GubbinsのThe Progress of Japan、pp. 68-69を挙げる。1911年刊のこの書が誤訳説の始まりとなった。  

 ハリスはさらに8月27日当日のことを記した条(この日付の条が2回ある)に、再び日本側との交渉についてこう書く。「追加の条項がまだ批准のために送付されていない(注277)。彼らはアメリカ政府が批准された条項を携えた大使を特派し、そのあと領事を送ることについての交渉に入るものと考えていた」。注277は、「Additional Regulations[下田追加条約と呼ばれるもの]は1854年6月17日に下田でペリー代将と日本の委員[応接掛]とのあいだで締結された」と書く。  

 これに相当する日本側の記録が『幕末外国関係文書』14の〔181〕と〔183〕にある。対応したのは支配組頭の若菜三男三郎と、調役並勤方に昇進した森山栄之助らである。領事駐在については条約に定めたのでこちらも承知しているが、「右は往々両国おいて差支えの筋これ有りの節は、尚談判の上差置き候積もり」(p. 522)と26日に言い、翌日も「去春条約本書取替せの節、条約付録差越されず候につき、その節応対の役々より掛合いに及び候ところ、追って持渡るべしの趣につき」(p. 535)と述べている。  

 ハリスのオランダ語通訳のヒュースケンは8月21日(27日の読み間違いか)の日記に、日本側はアメリカ領事をこの地に置く必要性を感じていないと記し、理由として在日日本領事が任命されるのは「either of the two governments deemed it necessary」と条約に書かれていたからだと書く。ところが、原書(英訳板)にはこのeither ofのあとに[sic]と書かれ、「ヒュースケンはここで間違っている。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と注がある。しかし、通訳に当たったヒュースケンは、森山が「両国おいて差支えの筋これ有りの節は」と言った言葉の、「差支えの筋」つまり、「必要と見なした場合には」という条文の但し書き部分にこだわっていたことを、正確に理解していた可能性が高い。  

 というのも、ハリスは最初、領事駐在は「既に治定の事」と言い切ったあと、「自国において余儀無き次第これ有りに付き、此度差越し候事」と言い直しているのだ。それにたいし、日本側は「其政府おいて差支えの義は、素より当方にて知るべき謂れこれ無く」と言い返している(pp. 530-531)。当時は、両国間に連絡を取る手段がなかったことを考えれば、そうだろうなと読んでいて笑いたくなるようなやりとりである。

   ハリスはおそらく当初、第11条英文条約の最後に書かれた、provided that either of the two governments deem such arrangement necessaryの但し書き部分が重要だと認識していなかったのだろう。彼が赴任した安政3年7月21日(1856年8月21日)は、日米和親条約が批准された安政2年1月5日(1855年2月21日)からちょうど1年半後で、その日を狙って来航した可能性がある。条約の条文では、調印日である嘉永7年3月3日(1854年3月31日)から18カ月後なら任命可能と読めるのだが、アメリカ側が日本の事情を配慮して、批准書が交わされた日から1年半後まで待ったのではないか。ハリスは満を持して意気揚々と下田にやってきたのに、冷遇されたため、憤慨したのではなかろうか。  

 日米和親条約の第2条では「下田港は本条約調印のうえで即時開港」と定めているが、ペリーは口頭で、条約が批准されてから、早くとも10カ月ないし1年以上先でなければ、アメリカからの船が下田に来航することはなく、領事も今後1、2年は派遣されないと請け合い、日本側はそれを記した書面を求めていた(『遠征記』下巻、pp.228-229)。ペリーとの交渉では、正式の交渉でない事務方との協議で土壇場に決まったと思われる第9条の件をはじめ、口約束や双方の暗黙の了解がかなりあったようだ。『墨夷応接録』という日本側の公式記録で、応接掛の林大学頭らが領事駐在は18カ月後に再度「ご談判に及び申すべく候」と述べたことは、この公式記録に見られる改竄と解釈されることが多かったが、これはペリーの口約束だったと考えるほうが自然ではないだろうか。  

 また、ハリスが来日当初に言及した「追加の条項」は、日記の注釈にあるような下田追加条約のことではなく、森山が「条約付録」と述べたものであり、ペリーに随行していたウィリアムズが言及していた「付属文書」のことだったと思われる。『ペリー日本遠征随行記』に、「その他いくつかの点が付属文書(supplementary letter)に加えられることになり、そのうちの一つは下田が実際には来秋(next autumn)まで開港されないことで、もう一つは領事に関するものである」(拙訳、邦訳書p. 252)と書かれているものだ。「付属文書」に関しては今津浩一氏が『開国史研究』第11号で指摘しておられた。 

 付属文書を交わす話は、結局のところ口頭でのやりとりでうやむやになったに違いない。アメリカ側は下田追加条約でこれは解決済みと考えたのにたいし、日本側は領事駐在という重大な案件に釘を刺す頼みの綱として、ハリス来日までずっとすがっていたのだ。反故にされたこれらの口約束こそ、ハリス来日時のトラブルの原因だった。そうした一連のトラブルをハリスがbothという言葉を使って日記に書いたのを、1911年にJ. H. Gubbinsという研究者が条文の相違に端を発するトラブルと解釈したことから、その後の誤訳説が生まれたと私は考える。 

 ハリスの日記の原書は1930年に刊行された。翌年には、Treaties and Other international Acts of the United States of AmericaのVol. 6が刊行され、そのなかで第11条の和・英の条文に違いがあることが言及されていた。当時、アメリカ議会図書館に勤務していた坂西志保氏が和文条約を英訳した際に、「両国政府に於いてよんどころなき儀これ有り候模様により」という部分を、「After the two Governments think it necessary and desirable」と英訳したものが、この箇所に引用されている。これらのことから和文版はboth であるのに、英文版はeither ofで、これは誤訳だ!という短絡的な誤訳説が広まったと、私は推測している。今津氏の前述の論文によると、最も古い誤訳説は、竹村覚著『日本英学発達史』(1933年)だそうだ。日米和親条約の条文が掲載された1931年刊の書はGoogleブックスで全文が読める。

 「両国政府において」という日本語は曖昧な表現であり、「両国政府共に」と言っているわけではない。かたや英文条約のeither ofは両国政府のいずれでも、という意味であり、いずれか一方のみが、という意味ではない。オランダ語条文のeen van beideは、森山が「両国政府の一方より」と訳したように、英文より明確に意味を伝えていた。よって、彼が誤訳したわけではない。 条約交渉前に老中が五年後の交易開始に前向きであったことや、応接掛に全権委任をし、後日にお咎めがあれば、自分が受けると責任を取ったと内藤耻叟が後年『開国起源安政紀事』(pp. 60-61)に書いたことを考えれば、「ご談判」に関する誤解が森山の通訳の不手際だとか、応接掛による隠蔽工作だという説明は腑に落ちない。森山と応接掛は当時、松平忠固をはじめとする大半の老中からは交易に向けて平和の談判をするようにと指示され、水戸の徳川斉昭からは交易は絶対にならんと命じられ、そのあいだに立って言葉を失う阿部正弘の苦渋をよく承知していたのだ。  

 以上が、第11条の誤訳問題に関する付け足しだが、本当に解明しなければならない問題はもっとずっと複雑かつ広範囲にまたがる。日米和親条約の締結(1854年3月31日)から5年と数カ月後の1859年7月1日に横浜は開港された。日米修好通商条約の締結に最後の一押しを加えたあと、老中を解任された松平忠固は、ペリー来航時に日米双方で交わされた5年後に交易開始という条文外の約束を守ったのだろうと私は想像している。そして、森山栄之助はその双方の条約の締結に向けて、現場で誰よりも身を粉にして働いた人だ。誤訳問題が解決することで、日本開国の真の功労者が正当に評価される一助となれば嬉しい。

 会場となったヴェルクよこすか

0 件のコメント:

コメントを投稿