2025年5月24日土曜日

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』

 遅まきながら、マイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(早川書房、2021/2023年)を図書館で借りて読んでみた。じつは、初めてのサンデルの本だ。訳者の鬼澤忍さんは、鈴木主税先生のところで短期間ながら一緒に勉強した仲間であり、サンデルは何かと話題になるので興味はあったものの、ベストセラーは順番待ちが長く、そこまでして読まなくてもと後回しになっていた。また、コミュニティの一員というアイデンティティ(自己認識)をその構成員に押しつけがちなコミュニタリアニズム(共同体主義)に、アマルティア・センが非常に懐疑的であり、サンデルの著書も批判の対象として挙げていたために、二の足を踏んでいたこともある。  

 今回、長い順番待ちをして読んでみたのは、日本では能力主義とか実力主義と訳されるメリトクラシーについてサンデルが書いていることを、平等の思想史を翻訳中に知ったからだ。鬼澤さんとは違い、私は哲学も思想史も苦手なほうで、少しでも多く参考書を読んでおかねば、というのが正直なところだ。読んだと言っても、寝る前のわずかな時間に細切れに読んだので、どれほど理解できたかはなはだ怪しいが、文庫版巻末にあった本田由紀さんの解説なども参考にしながら、備忘録代わりに書評を書いてみた。  

 メリトクラシーという用語は、1959年にイギリスの社会学者マイケル・ヤングがよい意味ではなく、ディストピアを表わすために生みだした言葉なのだという。デモクラシー(民主主義)が定着してきたかのような20世紀なかばになって、この言葉が批判と警告を込めて生まれたわけだ。実際には旧来のアリストクラシー(貴族社会)が、メリトクラシーに取って代わっただけではないかと長年思ってきたので、今回、この本を読んだことで非常に得るものがあった。  

 解説でも指摘されていたように、英語のmeritは「能力」よりは「功績」に近い言葉なので、本来は「功績主義」という訳語が定着すべきだったのだろう。どれだけ手柄を立てたかという実力の結果主義、といったところだろうか。いずれにせよ、この言葉は旧来の家柄や血筋ではなく、本人の能力、実力しだいで出世が約束される社会を意味する。  

 一見、よさそうに聞こえるメリトクラシー、能力主義だが、その背景には旧世界のしがらみを断ち切って、誰もが平等に出世できる社会をつくったと自負するアメリカ人の建国理念が深くかかわっているのだろうと思う。もっとも、サンデルは「アメリカが偉大なのは、アメリカが善だから」とか、「われわれは歴史の正しい側にいる」といった近年、繰り返し聞かされてきた主張は、実際には20世紀後半以降に盛んに言われるようになったと指摘し、こうした言葉は国家に応用された能力主義的信仰なのだとする。 

「2016年、大学の学位を持たない白人の3分の2がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た」というような分析を引用し、学歴偏重が現代の政治におよぼしてきた影響と反動を鋭く指摘している点で本書は注目されてきた。再選されたトランプがハーバード大学を目の敵にしていることでも、いままた新たな読者を惹きつけているだろうと思う。反エリート的な傾向はアメリカに限らず、日本でもヨーロッパでも顕著になっており、先日も「韓国男性に被害者意識」と題した見出しが毎日新聞の一面を飾っていた(5月23日朝刊)。 

 では、能力主義のどこに問題があったのだろうか。本書は、1933〜53年にハーバード大学学長を務め、マンハッタン計画の科学顧問でもあった能力主義の推進役ジェームズ・ブライアント・コナントについて詳述する。戦前までハーバード、イェール、プリンストンの御三家には、プロテスタントの白人エリートの子弟で、プレップスクール出身の男子学生であれば、成績が悪くとも入学できていたそうだ。映画『ある愛の詩』(1970年)でライアン・オニールが演じたオリヴァーは確かにそんなプレッピーだった。原作者のエリック・シーガルはラビの息子で1958年にハーヴァードを卒業しているので、ユダヤ系アメリカ人としてハーヴァードを出た最初の世代だったと思われる。 

 プロテスタントの世襲エリートを打ち倒し、能力主義エリートに置き換えようと画策したコナントは、「既存の非民主的なアメリカ人エリートを退陣させ、代わりに頭脳明晰で、行き届いた教育を受け、公共精神を持つ新しいエリートをあらゆる分野と経歴の人材から集める」目標を立てたという。これはサンデルが引用していたニコラス・レマン(『ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度』)の言葉だ。このビッグ・テストがSAT(旧称:大学進学適正試験)であり、コナントがこだわったのは「測定するのは生まれつきの知能であり、学科の習熟度ではないことだった」。

  IQであれば、プロテスタント、白人、金持ちといった属性との相関関係はとくになく、それ以外の属性をもつ有能な学生に教育の機会を提供できるだろう。だが、IQも遺伝や幼少期の教育に影響されるのではないだろうか。出来の悪いエリートの子弟が、親から将来の成功を約束する狭き門に入れと強いプレッシャーをかけられれば、精神的に追い詰められることにもなる。アメリカでは「大学生の五人に一人が前年に自殺を考えたことがあり、四人に一人が精神的障害の診断あるいは治療を受けた」そうだ。私の知る1980年ごろのんびりしたアメリカ社会は様変わりしたようだ。 

 しかも、「成功すれば自分自身の手柄であり、失敗しても自分以外の誰も責められない」自己責任論が、人生の勝者には驕りを、敗者には屈辱を与える。「あなたは〜に値する」(you deserve)という言い回しは、レーガン時代から盛んに使われるようになり、ビル・クリントンはレーガンの2倍、オバマは3倍多く使っていたという。自分を主語に「I deserve〜」と言われると、正当化やおこがましさを感じ、どこかひっかかるものがあったのだが、本書の説明を読んで納得するものがあった。この言葉は失敗したときにも、自業自得という意味で使われる。 

   能力主義も万能ではなく、弊害のほうが大きくなった昨今は、脱落した人びとの不満や恨みを巧みに利用したポピュリストが台頭している。その構図は、20世紀前半にファシズムが台頭したときと、じつによく似ている。サンデルは能力主義の欠点を補う方法として、機会の平等ではなく条件の平等を、消費者的共通善ではなく市民的共通善を尊重すべきと主張しているが、一読したくらいでは、何やらよくわからない。解説も「何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない」と書いているので、私の理解力がいちじるしく劣るわけではなさそうだ。  

   そもそも、共通善(common good)などという言葉は日本人には非常に理解しにくい。以前にこの言葉については憲法絡みで調べたことがあるが、それでも具体的イメージはさっぱり浮かばない。こうした議論でよく思いだすのは、マルクスの『ゴータ綱領批判』(1875年)の有名な一節「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」だ。当面はまだそれぞれの能力に応じて報酬を受け取ったとしても、将来的には、各人が生きるのに必要なものを受け取れる社会を目指すべき、という見解だった。ようやく貴族社会から脱しつつあったこの時代に、よくそこまで見通せたなと思う。

  つまり、各人の必要に応じて分配できる社会にするには、共通善なり公共の福祉なり、公益、公共財等々として富をプールしなければならない。そのためには、能力の秀でた個人がどれだけ目覚ましい働きをしようが、国家予算に匹敵するような富を蓄積させてはいけない。経済的には何の貢献もせず、足を引っ張るだけの人にも何らかの存在意義があるのだから、生きるために必要な糧は社会として与えなければならない、ということだろう。  

 熟読せずに言うのも何だが、サンデルの場合、私にはどうも1950年代以前の、コミュニティや愛国心や労働の尊厳を取り戻せば、コナント以降の能力主義への間違った方向への進路は是正されると主張しているように感じられる。このところ、アメリカの建国史の影の部分に触れることの多かった私には、能力主義どころか、共和主義や民主主義ですら、その根底から揺らいでいるような気がしてならない。

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021/2023年

2025年5月18日日曜日

「ムジナ」ほか

〈東京の赤坂の道に紀伊国坂と呼ばれる坂があった。この坂がなぜ紀伊の国坂と呼ばれるのか、私は知らない。この坂の一方には古いお濠がある。かなり幅が広く深い濠で、緑の土手が高くそびえた上に庭園などがある。通りの反対側は離宮の高い塀がずっとつづいている。街灯や人力車が登場する前の時代には、この界隈は日が暮れるとじつに寂しい場所となった。遅い時間に歩いて通る人は、日が沈んだあと一人で紀伊国坂を上るよりは、何里でも遠回りをするのだった。
 それもすべて、そこを歩くムジナがいたからだった。  

 最後にムジナを見たのは京橋地区の年寄りの商人で、三〇年ほど前に亡くなっている。これは彼が語ったその話である。  
 ある晩のこと、遅い時間に紀伊国坂を急いで上っているとき、お濠端に女がたった一人でしゃがみ込み、ひどく泣いているのに気づいた。身投げしようとしているのではないかと案じた商人は足を止め、何か自分に助けられることか、慰められることはないかと尋ねた。女はほっそりとした上品な人と思われ、美しい着物を着ていた。髪は良家の娘らしく結っていた。「お女中」と、彼は女に近づきながら声を上げた。「お女中、そんなに泣くもんじゃない! 何があったのか話しておくれ。何か助けられることがあれば、喜んで手を貸そう」(商人は本当にそのつもりだった。彼は心根の優しい人間だったのだ)。だが、女はすすり泣きつづけ、片方の長い袖で顔が見えないように隠していた。「お女中」と、彼はまたできる限り優しく声をかけた。「どうか、どうか聞いておくれ! ここは夜に若い女性のいる場所じゃない! 泣くのをおやめ、後生だから! ただどうすれば助けてやれるのか話しておくれ!」女はおもむろに立ち上がったが、商人に背を向け、袖の陰でうめき、むせび泣きつづけた。商人は彼女の肩にそっと手を置いて畳み掛けた。「お女中! お女中! お女中!……聞いておくれ、ほんの少しでいいから! お女中! お女中!」そのとき、お女中が振り返り、袖を下ろして、手で顔を撫でた。そのとき男が見たものは、目がなく、鼻もなく、口もない女の姿だった。彼は叫び声を上げて逃げだした。〉  

 一昨日、何気なく開いたアルバムのなかに、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ムジナ(狢)」の訳文を見つけた。中学か高校時代に姉が最初に訳し始めたと思われるものだ。もしやと思って本棚を探すと、記憶どおりの緑色の表紙のテキストが出てきた。昭和49年(1974)刊の第26版の開拓社発行の英語の教材のようだった。なかを見ると、びっしりきちんとした字で書き込みがあったので、このテキストを使って勉強したのは姉に違いない。冒頭部分のあと、雑な筆跡に変わっているので、記憶は不確かだが、たぶん私が残りを後日、完成させたのだろう。  

 ただ、「ムジナ」を読んだことだけは覚えていた。というのも、大学時代のスキー・サークルで迎賓館一周コースをそれなりの頻度で走らされ、息を切らしながら紀伊国坂を上るたびに、「ムジナの坂だ」と思っていたからだ。私の学生時代から、坂の左手は迎賓館のある赤坂御用地の高い塀がつづき、右手は外堀通りと首都高、そしてその向こうに弁慶濠があり、いまもその景観は変わらないようだ。弁慶濠でも、練習と称してよくボート漕ぎをした。大学が借りている真田濠の土手で滑る真似をするイメージトレーニングと並んで、私の好きな遊び半分のトレーニングだった。  

 弁慶濠の上にはホテル・ニューオータニがそびえる。ここの広い日本庭園も学生時代に何度か入ったし、新入社員時代に誰かの応援添乗をした際に、庭園内のレストランでご馳走になり、そのとき初めてヴィシソワーズを飲んで感動した記憶がある。ニューオータニの敷地が彦根藩中屋敷だったことは、「紀尾井町」の由来を聞かされた学生時代から知っていた気がするが、明治以降、ここが戦後まで伏見宮本邸となっていたことは、今回調べて初めて知った。ちなみに、赤坂御用地の場所は紀州藩中屋敷で、上智大学は尾張藩下屋敷だった。

 「ムジナ」は、私にとって馴染みのある場所を舞台にした怪談であり、おそらく高校時代の自分の拙い訳文を読んだこともあり、土地勘がないとわかりづらい「with high green banks rising up to some place of gardens」の部分を多少工夫しながら、昨夜遅くについ前半部分だけ訳してみたのが、この記事の最初の部分である。 

 もちろん、ラフカディオ・ハーンの略歴もウィキペディアで確認してみた。1890年に来日、その後、何とアメリカで出会った服部一三の斡旋で島根に行ったのだという。長州藩士の服部一三は明治期にラトガーズ大学に留学し、上田藩の最後の殿様松平忠礼より一足先に理学部を卒業した人なので、調べたことがあった。ハーンは1904年に西大久保で没しており、日本に滞在していた10年余りのあいだに、妻となった松江藩士の娘小泉節子が語った伝承などを参考に『怪談』を執筆したようだ。物語の内容をそのまま信じるとすれば、30年前に死去した京橋の商人が語った話という設定なので、ムジナが出た時代背景は、実際には幕末で、商人の死亡時期は明治初年と考えるべきだろう。 

 といったことまであれこれ調べてしまうのは、長年、ノンフィクションを翻訳してきたためだが、この十数年、幕末史をかじってきたからでもある。そんなこんなで、時間もないのに、朝っぱらからこんな記事を書くはめになった。 

 実際には、この数日間、姉宅で見つかった祖父と母が翻訳した絵本2冊を借りてきてスキャンし、手書きの訳文を打ち直し、パワーポイントで簡易に編集したものをカラーコピーして、子どもが読めるように簡単に製本していた。手書きの文字をたどる作業は楽しかった。祖父も母も踊り字の「ゝ」を多用しており、祖父にいたっては「ゐました」「云ひました」「しまふのです」「おさむいでせう」といった旧仮名遣いで、「㐂」、「驛」、「𫞂」、「廿」などの旧字満載で、時の流れを感じさせた。孫などは当分読めないだろうが、こうした文字もできる限り忠実に活字にしてみた。

  祖父は私が幼児のころに脳卒中で倒れ、最晩年まで頭はしっかりしていたが麻痺が残っていたので、母がリハビリを兼ねて、ドイツ語の絵本(Ach lieber Schneemann『あゝ雪だるま君』)の翻訳を勧めていた。ドイツ留学の夢を戦争で絶たれながら、晩年になってもラジオのドイツ語会話を聴きつづけていた祖父が、便箋13枚にほとんど書き直しの跡もなく綴った訳文を読む作業は、胸の熱くなるものがあった。翻訳してくれたことは覚えているのに、子どものころは「読めない! わからん!」と読まなかったことが悔やまれる。文体は古めかしく、昭和初期の童話に影響されたような妙な会話も多く、「ストーブへくめました」など、祖父が生涯間違えて覚えていたのではと思う言葉もあるが、言葉に出して読みながら、子どもたちが楽しんでくれたらいいなと思う。ついでながら、この題名で検索してみたら、アニメ仕立ての動画が発見された! 有名な話なのだろうか。 
 
 母が訳したジョン・バーニンガムの『Harquin』は、『ハーキン:谷へおりたキツネ』として童話館出版から2003年に邦訳版が刊行されているようだ。いつか借りてみよう。バーニンガムの絵は子どものころから大好きで、母の「ハークィン」は上手に訳してあったこともあり、それなりに読んでいたと思う。ただ、細かい字で行間にびっしりと書き込まれていたため、子どものころは集中して読めなかった。改めて読んでみると、ストーリーも面白く、赤い上着が印象的なキツネ狩りの場面は、私には何やらクリミア戦争のバラクラヴァの戦いなども思いださせ、よくも悪くもイギリスの絵本だなと感慨深いものがあった。 

 偶然なのか、ドイツ語の『あゝ雪だるま君』にはOberförster(祖父は森番頭と訳していた)が登場し、「ハークィン」にはgamekeeper(母は狩り番と訳していた)が出てくる。どちらもおそらく、『ハリー・ポッター』のハグリッドのような人だろうな、と読みながら思った。いまなら公園を管理するレンジャーのようなものか。日本で言えば、マタギに近い存在かもしれない。完全に人間の支配下に置かれた地域と自然界の境目にいた人びと、と言えるかもしれない。 

 本棚の隅を探せば、まだまだ何か出てきそうだ。ゴミとして処分される前に、掘り返しておきたい。

Lafcadio Hearn KWAIDAN、清水貞助編、開拓社、1962/1974

姉と私の合作と思われる昔の訳文

祖父と母の訳文を入れて簡易製本した絵本  

2025年5月3日土曜日

深谷・本庄の旅

 大型連休のはざまの5月1日、思い切って遠出をしてきた。といっても、高崎線岡部まで行って、駅近くのカフェで自転車を500円で借りて、深谷市と本庄市の境界あたりを延々4時間余り走り回るという、ささやかな遠出だ。昨秋、ファミリー・ヒストリアン仲間の方が貴重な史料を見つけてくださり、年末に叔母に手伝ってもらって最初のページはおおむね解読していたのだが、それ以来、まとまった時間が取れず、どうつながるのか皆目見当のつかない雑多な情報が増えつづけていた。  

 史料に書かれていた関連の地名、横瀬村、阿賀野村、牧西村をグーグル・マップで検索すると、ひたすら農地が広がる一帯だった。しかも、渋沢栄一の血洗島と隣り合わせの地域だ。門倉姓との関連で見つかった本庄市の四方田を含めても、どうにか自転車で回れそうな距離で、驚くほど平坦な土地のようだが、埼玉のこのあたりは炎天下に走ったら熱中症になること請け合いの地域だ。下調べは十分とは言い難かったが、比較的自由に動ける連休中の晴れ間に決行した。  

 以前にもコウモリ通信に書いたように、この史料には「本氏 桃井」とか「桃井播磨守直常之後胤」などと書かれていたほか、「家紋井桁菱之内橘 抱桃」ともあった。「抱桃」はよくわからないが、前者は祖父の家(門倉)の紋であり、しかも上田に行く以前の古い墓碑にも刻まれていた。ほかに出自を探るうえで大きな手がかりとなるのは、江戸時代まで戸籍代わりの役目をはたしていた寺であり、少なくとも元禄時代に上田に行って以来、門倉家は真言宗智山派に属していた。こうした断片的な情報と、桃井直常と一緒に戦った新田義宗(義貞三男)などに関する生半可な知識だけを携えての現地調査となった。  

 ネット上で得られた情報は、横瀬神社とその隣にある渋沢家の菩提寺の華蔵寺のものが大半で、遠い祖先が仕えた主人と思われる新田義貞の「末男横瀬新六郎貞氏」がこの神社と寺にかかわっていた。横瀬神社の拝殿の彫刻、渋沢栄一揮毫の扁額などは見られたが、もっと凝った彫刻が施されていたはずの本殿のほうは見逃してしまった。華蔵寺には、新田義貞の祖父に当たる義兼が植えた「樹齢七百余年」の枝垂れ桜が昭和18年に枯死したあとの碑や、代わりに植えられた2代目の木、朱塗りの大日堂などは見られたが、境内には人影もなく、よくわからないまま退散した。それでも、私の曽祖父が各地の墓地から集めてきたとされ、まだ現存する4基の古い墓碑とよく似たものが、華蔵寺の裏手の墓地に多数並んでいることは確認できた。おそらく無縁仏となったものを集めたのだろう。  

 華蔵寺は真言宗でも豊山派なので、この付近で智山派の寺として目星をつけていた大福院にも途中立ち寄ってみたが、ここでも歴代住職の墓碑などによく似た形のものがあったほかは、収穫はなかった。この地域は南阿賀野らしく、南北の阿賀野村は別々の小藩の領地になるなどして、いくらか分断されていたようだ。  

 すぐ近くに、渋沢栄一の「中の家」があったので、短い時間ながらそこも寄らせてもらった。深谷のこの付近は、まさに「サザエさんの家」のような昭和もしくは、それ以前からある家が立ち並んでいる。ところどころにある墓地には、渋沢家と書かれたものもあった。地元のボランティアと思しき人たちが何人も来訪者の対応をしており、深谷市民がいまも渋沢に大きな期待を寄せていることが感じられた。そう言えば、往路で見た深谷駅は1996年竣工の赤煉瓦風の立派な駅舎で、隣の岡部駅とはずいぶんな違いがあった。渋沢が深谷に創設した日本煉瓦製造株式会社を記念したものだそうだ。渋沢の生誕地である「中の家」は、明治28年に建て替えた豪邸で、アンドロイドの栄一が語る藍玉にまつわるエピソードを拝聴したほか、流水の心地よい音が聞こえる庭を縁側越しに眺めるなど、無料で楽しませていただいた。  

 北阿賀野は、目指すものがないまま一帯を走ったのだが、途中で桃井可堂の碑があることに気づいて、そこも立ち寄った。本名、福本儀八というこの人物は、私がだいぶ以前にずいぶん調べた横浜の外国人居留地襲撃未遂事件の首謀者の一人であることがわかった。文久3年(1863)4月に清河八郎らが最初に襲撃を計画したものの、このときは幕府が清河を暗殺して未遂に終わった。その後、同年11月に渋沢栄一らの一派70人余りと、桃井可堂らによる300人余りの二つの集団が再び襲撃を計画した。だが、「挙兵は失敗した。可堂は挙兵計画を幕府に訴えた仲間の裏切りを知り天朝組を解散。自ら一切の責任を負って自首し、元治元年(1864)7月22日絶食して死去した」と、碑の横の説明には書かれていた。碑文のなかで渋沢は「故ありて事を共にせず」と、このときのいきさつを明治になってから書いたそうだ(裏面を確認しなかったので碑文はわからず)。  

 帰宅後、桃井可堂について調べ直すなかで、横瀬村に桃井直常創建とされる暦応2年(1339)創立の寺があったことを知った。直常は1376年死去とされるので、50代後半までは生きた人ということになりそうだ。この寺は赤城山多門院福王寺という新義真言宗の寺だったが、昭和の初めごろ廃寺になったと思われる。真言宗智山派も豊山派も、新義真言宗から派生した宗派で、それぞれ戦国時代、江戸時代初期に創建されていた。となると、曽祖父が大正期に古いお墓を整理しにやってきたのは、その福王寺だった可能性がありそうだ。 

 憶測ながら、深谷のこの一帯は利根川に近く、利根川と都内の小名木川は水路でつながっていたはずなので、大正期なら墓石を運んでくれる船も探せたのではないだろうか。茨城県谷田部で没した高祖父の遺骨と墓標もその手を使った可能性がある。自家用車も宅急便もない時代に、どうやって重い石を運んだのかという謎は、解けたかもしれない。上田のお墓からは遺骨だけ集めて、1893年に開通したアプト式鉄道で碓氷峠を通って運んだのではないかと、想像をたくましくしている。 

 北阿賀野を回ったあと、牧西に向かうと、周囲が一面、青々とした麦畑になった。ところどころ収穫が終わったらしい区画では、取水口からボコボコと水があふれていた。どうやら冬大麦か小麦と米の二毛作地帯のようだ。何しろ、スマホを片手に村内の狭い道や農道をぐねぐねと走り、曲がり角ではいちいち老眼鏡をかけて画面を拡大し、確かめながら走行したので、この田園風景を楽しむ余裕はあまりなかったが、何度かヒバリが目の前で飛び立ち、頭上まで高く上がって鳴く光景にも遭遇した。だいぶ以前に、娘が麦畑とヒバリのイラストを描く仕事を請け負ったのを思いだし、もしやこの付近がモデルだったのではと思った。 

 牧西は本庄市にあり、深谷市とは雰囲気がだいぶ変わる。農村であっても近代的だ。大きな道路沿いには大型店舗が点在する。私の祖先はこの牧西の郷士となったのち、どういう経緯か戸田忠昌の家臣となり、その息子が出石藩時代の藤井松平家3代目の忠周に仕えるようになった。出石は兵庫県北部なので、なぜと頭をひねるばかりだが、戸田忠昌も松平忠周も岩槻藩主だった時期があるので、いつかそのあたりを調べてみたい。 牧西は、武蔵七党の一つ児玉党を構成していた氏族の名前でもあり、同じく児玉党の四方田氏の本貫地に門倉という家があることがネット検索からわかっていた。この門倉さんは深谷や本庄の歴史書にもときおり名前があったし、上田藩に四方田という家臣がいるのも知っていた。

 すでに日も高くなり、暑さでだいぶくたびれてはいたが、本庄早稲田駅の先の四方田にある臨済宗の光明寺という寺まで、自転車を漕ぎ進めた。墓地には確かに門倉家のお墓がたくさん並んでいたが、どの家も家紋が揚羽蝶だった。臨済宗のこのお寺にも、うちの門倉のお墓とよく似た古い墓碑が多数あって、まとめて供養されているようだったが、梵字が刻まれているものはなかった。宗派によって、いろいろ違いがあるようだ。 

 結局、あちこち走り回った割には大きな収穫はなかったと言わざるをえない。同じ家紋の門倉さんの生き残りはもういないのだろうか。家紋について検索するうちに、橘にもいくつかのバージョンがあることがわかった。15年ほど前に建て替えられたお墓の家紋が正確に刻まれていたとすればだが、うちの門倉の紋は実の部分に筋が多く入る「久世橘」だった。ついでながら、井伊家と日蓮宗が井桁に橘紋だが、うちのは向きが違って菱井桁というらしい。 

 その紋を調べているうちに、大生部多(おおふべのおお)という飛鳥時代の宗教家が、橘の葉を食べる青虫を「常世神」と崇めたという妙な記述に出合った。柑橘類の葉を食べるならアゲハか、と考えたら、四方田の門倉さんはやはり遠い遠い親戚かも、と思えてきた。大生部多の「常世神」は柑橘類の葉も食草とし、繭をつくるシンジュサンの幼虫で、古代日本の最初の養蚕はこの種ではないかと推測する論考まで見つかった! 中世に生きた祖先の足跡をたどったことで、あれこれ思いがけない発見があり、頑張って遠出をした甲斐はあったかもしれない。

北阿賀野付近の農道。ひたすら平らな農地が広がる。

渋沢栄一の「中の家」のアンドロイド!

「中の家」はまさに伝統的日本家屋だった

 桃井可堂の碑

 牧西に向かう途中の麦畑