それもすべて、そこを歩くムジナがいたからだった。
最後にムジナを見たのは京橋地区の年寄りの商人で、三〇年ほど前に亡くなっている。これは彼が語ったその話である。
ある晩のこと、遅い時間に紀伊国坂を急いで上っているとき、お濠端に女がたった一人でしゃがみ込み、ひどく泣いているのに気づいた。身投げしようとしているのではないかと案じた商人は足を止め、何か自分に助けられることか、慰められることはないかと尋ねた。女はほっそりとした上品な人と思われ、美しい着物を着ていた。髪は良家の娘らしく結っていた。「お女中」と、彼は女に近づきながら声を上げた。「お女中、そんなに泣くもんじゃない! 何があったのか話しておくれ。何か助けられることがあれば、喜んで手を貸そう」(商人は本当にそのつもりだった。彼は心根の優しい人間だったのだ)。だが、女はすすり泣きつづけ、片方の長い袖で顔が見えないように隠していた。「お女中」と、彼はまたできる限り優しく声をかけた。「どうか、どうか聞いておくれ! ここは夜に若い女性のいる場所じゃない! 泣くのをおやめ、後生だから! ただどうすれば助けてやれるのか話しておくれ!」女はおもむろに立ち上がったが、商人に背を向け、袖の陰でうめき、むせび泣きつづけた。商人は彼女の肩にそっと手を置いて畳み掛けた。「お女中! お女中! お女中!……聞いておくれ、ほんの少しでいいから! お女中! お女中!」そのとき、お女中が振り返り、袖を下ろして、手で顔を撫でた。そのとき男が見たものは、目がなく、鼻もなく、口もない女の姿だった。彼は叫び声を上げて逃げだした。〉
一昨日、何気なく開いたアルバムのなかに、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ムジナ(狢)」の訳文を見つけた。中学か高校時代に姉が最初に訳し始めたと思われるものだ。もしやと思って本棚を探すと、記憶どおりの緑色の表紙のテキストが出てきた。昭和49年(1974)刊の第26版の開拓社発行の英語の教材のようだった。なかを見ると、びっしりきちんとした字で書き込みがあったので、このテキストを使って勉強したのは姉に違いない。冒頭部分のあと、雑な筆跡に変わっているので、記憶は不確かだが、たぶん私が残りを後日、完成させたのだろう。
ただ、「ムジナ」を読んだことだけは覚えていた。というのも、大学時代のスキー・サークルで迎賓館一周コースをそれなりの頻度で走らされ、息を切らしながら紀伊国坂を上るたびに、「ムジナの坂だ」と思っていたからだ。私の学生時代から、坂の左手は迎賓館のある赤坂御用地の高い塀がつづき、右手は外堀通りと首都高、そしてその向こうに弁慶濠があり、いまもその景観は変わらないようだ。弁慶濠でも、練習と称してよくボート漕ぎをした。大学が借りている真田濠の土手で滑る真似をするイメージトレーニングと並んで、私の好きな遊び半分のトレーニングだった。
弁慶濠の上にはホテル・ニューオータニがそびえる。ここの広い日本庭園も学生時代に何度か入ったし、新入社員時代に誰かの応援添乗をした際に、庭園内のレストランでご馳走になり、そのとき初めてヴィシソワーズを飲んで感動した記憶がある。ニューオータニの敷地が彦根藩中屋敷だったことは、「紀尾井町」の由来を聞かされた学生時代から知っていた気がするが、明治以降、ここが戦後まで伏見宮本邸となっていたことは、今回調べて初めて知った。ちなみに、赤坂御用地の場所は紀州藩中屋敷で、上智大学は尾張藩下屋敷だった。
「ムジナ」は、私にとって馴染みのある場所を舞台にした怪談であり、おそらく高校時代の自分の拙い訳文を読んだこともあり、土地勘がないとわかりづらい「with high green banks rising up to some place of gardens」の部分を多少工夫しながら、昨夜遅くについ前半部分だけ訳してみたのが、この記事の最初の部分である。
もちろん、ラフカディオ・ハーンの略歴もウィキペディアで確認してみた。1890年に来日、その後、何とアメリカで出会った服部一三の斡旋で島根に行ったのだという。長州藩士の服部一三は明治期にラトガーズ大学に留学し、上田藩の最後の殿様松平忠礼より一足先に理学部を卒業した人なので、調べたことがあった。ハーンは1904年に西大久保で没しており、日本に滞在していた10年余りのあいだに、妻となった松江藩士の娘小泉節子が語った伝承などを参考に『怪談』を執筆したようだ。物語の内容をそのまま信じるとすれば、30年前に死去した京橋の商人が語った話という設定なので、ムジナが出た時代背景は、実際には幕末で、商人の死亡時期は明治初年と考えるべきだろう。
といったことまであれこれ調べてしまうのは、長年、ノンフィクションを翻訳してきたためだが、この十数年、幕末史をかじってきたからでもある。そんなこんなで、時間もないのに、朝っぱらからこんな記事を書くはめになった。
実際には、この数日間、姉宅で見つかった祖父と母が翻訳した絵本2冊を借りてきてスキャンし、手書きの訳文を打ち直し、パワーポイントで簡易に編集したものをカラーコピーして、子どもが読めるように簡単に製本していた。手書きの文字をたどる作業は楽しかった。祖父も母も踊り字の「ゝ」を多用しており、祖父にいたっては「ゐました」「云ひました」「しまふのです」「おさむいでせう」といった旧仮名遣いで、「㐂」、「驛」、「𫞂」、「廿」などの旧字満載で、時の流れを感じさせた。孫などは当分読めないだろうが、こうした文字もできる限り忠実に活字にしてみた。
祖父は私が幼児のころに脳卒中で倒れ、最晩年まで頭はしっかりしていたが麻痺が残っていたので、母がリハビリを兼ねて、ドイツ語の絵本(Ach lieber Schneemann『あゝ雪だるま君』)の翻訳を勧めていた。ドイツ留学の夢を戦争で絶たれながら、晩年になってもラジオのドイツ語会話を聴きつづけていた祖父が、便箋13枚にほとんど書き直しの跡もなく綴った訳文を読む作業は、胸の熱くなるものがあった。翻訳してくれたことは覚えているのに、子どものころは「読めない! わからん!」と読まなかったことが悔やまれる。文体は古めかしく、昭和初期の童話に影響されたような妙な会話も多く、「ストーブへくめました」など、祖父が生涯間違えて覚えていたのではと思う言葉もあるが、言葉に出して読みながら、子どもたちが楽しんでくれたらいいなと思う。ついでながら、この題名で検索してみたら、アニメ仕立ての動画が発見された! 有名な話なのだろうか。
母が訳したジョン・バーニンガムの『Harquin』は、『ハーキン:谷へおりたキツネ』として童話館出版から2003年に邦訳版が刊行されているようだ。いつか借りてみよう。バーニンガムの絵は子どものころから大好きで、母の「ハークィン」は上手に訳してあったこともあり、それなりに読んでいたと思う。ただ、細かい字で行間にびっしりと書き込まれていたため、子どものころは集中して読めなかった。改めて読んでみると、ストーリーも面白く、赤い上着が印象的なキツネ狩りの場面は、私には何やらクリミア戦争のバラクラヴァの戦いなども思いださせ、よくも悪くもイギリスの絵本だなと感慨深いものがあった。
偶然なのか、ドイツ語の『あゝ雪だるま君』にはOberförster(祖父は森番頭と訳していた)が登場し、「ハークィン」にはgamekeeper(母は狩り番と訳していた)が出てくる。どちらもおそらく、『ハリー・ポッター』のハグリッドのような人だろうな、と読みながら思った。いまなら公園を管理するレンジャーのようなものか。日本で言えば、マタギに近い存在かもしれない。完全に人間の支配下に置かれた地域と自然界の境目にいた人びと、と言えるかもしれない。
本棚の隅を探せば、まだまだ何か出てきそうだ。ゴミとして処分される前に、掘り返しておきたい。