2026年10月10日土曜日

中居屋重兵衛その1

 ようやく本業に専念できる状況になったはずなのに、少し前に横浜の歴史を見直したことをきっかけに、思いがけない発見や、ずっと引きずってきた疑問等が多々あり、結局、幕末史からなかなか抜け切れずにいる。先日、近所の歴史を調べるために久々に中央図書館に行った折に、ヨコハマ資料の書棚で『蚕都信州上田の近代』(阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年)を借りてしまったのが運の尽きで、そこから中居屋重兵衛について再々度調べ直したりしている。きちんと一つにまとめる余裕も気力もないので、頭のなかのメモリーを食っている問題を小出しに備忘録代わりにブログに書いておく。

  取り敢えずは、以前にブログに書いた桜田門外の変と中居屋重兵衛のかかわりについて。この問題について西川武臣氏が、中居屋が水戸浪士と一緒になって事件に深くかかわったとするのは、昭和初めに野史台隠士と中里機庵が書いた俗説に過ぎず、「確かな資料が新たに発見されない限り」事実ではないと断定しておられることへのささやかな反論だ。西川氏は、私がこの件について最初に読んだ佐佐木杜太郎の『開国の先覚者 中居屋重兵衛』(新人物往来社、1972年)を、「俗説に基づき記された部分も多く、間違いも多い」と評価しておられない。確かにこの時代に書かれた歴史書の多くは、出典が記されておらず、読者は真偽を確かめようがない。それでも、中居屋については当時日本にいた外国人も多く書き残しており、傍証はいくらでもあると私は考え、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも多少触れたほか、残った疑問点は何度かブログにも書いた。

  また、近年、ネット上の情報も増えたし、国会図書館デジタルコレクションが拡充したおかげで、古い多くの史料を誰もが家にいながら検索できるようになったために、数日間調べただけでも、じつに多くのことが判明した。まず、西川氏が問題視した野史台隠士と中里機庵は同一人物であり、本名は中里右吉郎であることだ。明治29年の官報などで同名の人物が大分県士族としてヒットするので、中津藩士またはその子孫の可能性が高い。佐佐木氏の著書から私が信憑性の高い証拠と思った林鶴梁(1806-1878)と福井藩の村田氏寿(1821-1899)の対話は、明治10年までに両者が接する機会があれば不可能ではなく、中津藩士の中里氏が横浜開港期の福沢諭吉の足跡を調べるなかで中居屋に出会ったとすれば、村田氏寿から当時の秘話を聞きだすこともまったくありえない話ではないだろう。

  今回、中居屋について調べ直すなかで、上田市飯沼地区についての論考や史料を多数読むことができた。飯沼村は実際には上田藩領ではなく、岩田藩領(藩主内藤正縄)であり、そこの名主である吉池家は、嘉永4年から信州糸を集荷し、上州商人に販売していたという。中居屋の大番頭だった松田玄冲は飯沼村の出身で、焔硝(硝石)の商売を通じて中居屋と知り合ったと考えられている(阿部勇『信濃』63-3-734、2011年)。  吉池家当主、文之助の息子、由之助が父親宛に安政7年3月10日に桜田門外の変について実行犯をはじめ、事件の詳細を書き送っていることが、上田の歴史家阿部勇氏によって明らかになっている(詳しくはこちらで)。 3月3日に生じた事件については、閏3月晦日まで公表されずにいたことを考えれば、由之助がこれだけの情報を得ていたということは、中居屋が事前に水戸浪士と深い関係にあったことの十分な証左となる。

  佐佐木氏の著書には、桜田門外の変の知らせを受けて中居屋が歓喜した一件が綴られている。一人娘たかの初節句の祝いの席だったという描写で、肝心の情報源が書かれないまま、ドラマ仕立てになっていたが、これは長野県小県郡祢津村新張出身の中居屋の番頭、小林七次郎が昭和4年の『群馬県吾妻郡誌』で語っていたことは、萩原進の『炎の生糸商 中居屋重兵衛』からわかる。中居屋は前年10月中旬には幕府によって閉店させられたと思われ、上田藩が11月下旬には産物世話役を処罰していることは、本書および横浜開港資料館紀要9の西川氏論文から判明している。翌安政7年に、手持ち無沙汰の中居屋は雇人7、8人を連れて郷里の中居村に帰り、その後草津温泉でも数泊している。3月3日のお祝いの席に江戸から知らせが入ったのだとすれば、横浜で聞いた可能性が高いと思われる。ただし、『群馬県吾妻郡誌』は読めておらず、萩原氏の引用文からは、それ以上に詳しいことはわからない。 

 ついでに、『NHK歴史ドキュメント3』(1986)という書が国会図書館デジコレでヒットし、ざっと読んでみたところ、桜田門外の変で使われた拳銃、コルトM1851についての一応の分析が出ており、中居屋重兵衛の子孫の手元にある銃はそれをもとに日本でつくられた青銅製のもので、施条(ライフリング)されていないとしている。近年も桜の花が刻まれた日本製の拳銃が使われたという説をテレビ番組で報じていたようだが、私はこの説には懐疑的だ。中居屋に銃を売ったのはアメリカ人ホールと言われており、なかには「エッチ・ホール」とする記述もあったが、開港当初から横浜にいて、ウォルシュ商会にいたジョージ・ホール医師(ミドルネームはロジャース)と私は考えている。日記を残したことで有名なフランシス・ホール(ミドルネームはフランク)は、ジョージとも懇意だったが、神奈川に住んでおり、彼の日記も桜田門外の変について3月26日には書かれているが、拳銃の提供者とは考えにくい。

  取り止めのない記事になってしまったが、中居屋と桜田門外の変は関係があるはず、という私の従来の主張の裏付けとなれば幸いだ。中居屋に関する西川氏の論文には多くの貴重な情報が含まれており、それらを参考に、中居屋が拳銃を提供することになった動機という、より重要な点についても、追々まとめてみたい。

『蚕都信州上田の近代』
阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年