祖先探しとは直接関係がないのに、この歴史的事件に関心をもった発端は、調査を始めてすぐに読んだ佐佐木杜地太郎の『開国の先覚者 中居屋十兵衛』(新人物往来社)で、非常に気になる記述を見つけたからだった。
桜田門外の変の2カ月ほど前の安政7(1860)年1月10日、神田見附の筋違御門にさしかかったところで、井伊直弼の駕籠めがけて弾丸が撃ち込まれた。たまたま刀の柄に当たって止まったため、大老は無傷だった。証拠の弾丸は幕府の蕃書調所で調べたが見慣れない代物であり、「内々で東禅寺の英国公使館に持って行って鑑定してもらった。それは西洋製最新式の短銃の弾丸で、おそらくアメリカ製の連発短銃より発射されたものであろうということであった」。この事件で水戸生まれの宇和島浪人、飯田一郎が逮捕され、隠れ家から外国製短銃1挺と100発ほどの弾丸が発見された。拷問の末、「中居──」と口走った飯田は舌を噛み切って自殺した。「藤田長鎮が鉄砲方与力であるから、短銃所持を咎められても申しわけは立つであろう、と細心の配慮をして」、中居屋重兵衛が「アメリカ商館のホールに多額の金を支払って購いもとめた五連発短銃二十挺を、長鎮の手を経て、水戸烈士たちに渡したのである」と、同書には書かれていた。
桜田門外の変で使用された銃は、ペリー来航時に贈呈された拳銃を水戸藩で模造したものが使われたという説をよく聞く。神奈川県歴史博物館所蔵の「ペリー来航絵巻」には、老中首座の阿部正弘に贈られた「六響手銃」(37.3m)を模写した正確な絵図があり、コルトM1851という当時の最新鋭の6連発銃の2番目のモデルとじつによく似ている。このときペリーは老中5人全員に「六響炮」も贈っており、こちらは全長74.6cmの6連発の小銃だったと思われ、その分解図もこの絵巻には掲載されている。しかし、拳銃は1挺しかなかったようだ。阿部正弘がそれを水戸藩に提供した可能性はあるのだろうか。水戸で製造されたと言われる高度な旋条が施された銃の現物も残っているようだが、安政7年の水戸藩に、いや日本のどこにもそんな技術があったとは信じがたい。明治以降につくられたものと考えるべきではないだろうか。
桜田門外の変は、横浜が開港してから9カ月ものちに起きた事件だ。その2年前に条約勅許を得るために上洛した岩瀬忠震は「連発銃(連響六響銃)を所持していて、これを川路聖謨や堀田正睦に貸している」と、小野寺隆太の『岩瀬忠震』には書かれていた。事件のころには外国製の拳銃を手に入れる機会は充分にあったはずだ。
「桜田門外の変斬奸趣意書」には「天誅に替り候心得にて斬戮せしめ候」と書かれていた。もし、暗殺に外国製の拳銃が使われたのだとしたら、なんとも皮肉な話だ。被害者の大老は、少なくとも建前上は開国を成し遂げ、当の拳銃の輸入を可能にした人なのだから。
同時代に神奈川にいたフランシス・ホールの1860年3月25日(安政7年3月4日)、つまり事件の翌日の日記にも驚くほど克明に事件の詳細が綴られている。「ピストルから2発、ノリモン[乗物]に向けて銃弾が発せられたが、激しい抗争ののち、襲撃者は抑え込まれた。ハリス宛のヒュースケンの手紙では、リージェント[大老]側は10人が殺され、襲撃者の2人が捕らえられたが、即座にハラキリをしたと報告されている。[……]襲撃者は水戸の従者と判明している」。日本人通詞とオランダ語で話し、それを英語に通訳・翻訳していたヒュースケンが、事件直後に詳しい情報を集めてハリス弁理公使に報告していたことになる。出どころは、ヒュースケンと親しく、英語も話せた通詞の森山栄之助だろうか。神奈川にいたホールに、大老の死は翌々日の3月26日に確実な情報として伝わっていたが、国内では5月20(閏3月晦日)にようやく公表された。
佐佐木氏が言及したアメリカ商館のホールは、詳細な日記を残したフランシス・ホールではなく、ウォルシュ商会にいた医師のジョージ・ホールのことと思われる。神奈川宿から横浜に移住した最初の外国商人と言われる重要人物で、同姓のフランシスの日記にもたびたび登場する。彼については拙著でもかなり触れたので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。
プラント・ハンターとして知られるロバート・フォーチュンは『幕末日本探訪記』に『エディンバラ・レヴュー』紙の記事をもとに桜田門外の変について詳しく書いている。しかし、同書で述べているように、フォーチュン自身は事件後に来日した。本国に詳細にわたる報告をしたのは、事件当時、品川の東禅寺にいたイギリス公使のオールコック自身と思われる。
井伊直弼が襲われたという知らせを聞いて、オールコックはすぐに外科医として援助を申しでたが、幕府からは援助にはおよばないと丁重に断られ、容体は「悪化していない」と言われつづけた。彼の著書『大君の都』(1863年刊)には、大老の行列の近くに「油紙の外套[桐油合羽]に身を包んでばらばらに歩く若干の集団だけがいた」ことや、護衛側も雨具を着て不意を突かれたために反撃できなかったこと、負傷して逃げ切れないと覚悟を決めた浪士がその場で切腹し、仲間がそれを介錯したこと、実際には「2つの首がもち去られており、逃亡者が手にしていたのは、追っ手を誘き寄せるためだけのもので、本物の戦利品は別の人物の手でひそかに運ばれた」ことなどが詳しく綴られている。なお、オールコックなどイギリス側の報告には拳銃が使用された旨は見当たらない。
次回は、オールコックが言及していた「2つの首」に関して書くことにする。
F, G, Notehelfer 編・校註、Japan Through American Eyes: The Journal of Francis Hall, Kanagawa and Yokohama, 1859-1866, Princeton University Press, 1992
ペリー来航絵巻の図は、ネット上に公開されている嶋村元宏「ペリー来航絵巻について(二)」『神奈川県立博物館研究報告─人文科学─』第 32号、p. 53のスクリーンショット。この論文には「六響炮」と思われる小銃の分解図も載っている。コルトM1851はウィキペディアより。ペリー来航時に贈呈されたもののリストは、『大日本古文書幕末外国関係文書の5』を参照
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