2011年2月27日日曜日

ストレス解消と散歩

 以前は理性的にものごとを考え、知識も豊富で記憶力も抜群だった人が、集中力がなくなっていら立つようになり、ふとしたきっかけで、ごく簡単なことも理解できなくなるという事例にでくわしたことがないだろうか? 中高年だけでなく、若い人にも見られるので、原因はストレスにあるに違いないと以前から漠然と思っていたが、いま訳している本を読んで、その仕組みがもう少し具体的にわかってきた。  

 私なりに理解したところによると、人は不安を頭のなかで言葉にして考えているのだそうだ。文学でいう「内的独白」みたいに、頭のなかで声にしているのだ。その作業は脳の言語野で処理しているが、プレッシャーが増して不安が増幅すると、やはり同じ領域で行なう思考や推理などの活動に影響をおよぼすほど、大容量を占めるようになる。確かに自分でも不安を感じているときは、頭のなかで不安をあおる言葉が次々に浮かびあがるような気がする。不安が言語野を支配しているときは、脳のほかの領域との連携も悪くなるので、総合的な判断を下すことはもちろんできなくなるし、それどころか、ふだんなら考えずにできるような簡単な行動にも支障がでてくるのだという。 近年、日本の首相や閣僚は次から次へと失態を演じている。就任後、まるで決まったように無能ぶりを露呈するのは、本人の資質もあるだろうが、多忙なスケジュールによる睡眠不足と、四六時中、一挙一動を監視され、非難されるストレスで頭の働きが鈍っているせいもあるに違いない。  

 不安の原因となっている問題を直視し、根本的な問題解決をはかることは、もちろん何よりも大切だ。だいだい、いまの日本に暮らす人の悩みなど、社会が生みだした規範や理想像と自分の現実とのギャップのように、明日の命にかかわるほど深刻ではない問題がほとんどなのだ。少し見方を変えて、自分の価値観そのものを変えれば、些細なことに感じられる問題も多々あるはずだ。  ところが、いったん不安モードに陥ると、論理的な思考ができなくなるうえに、脳の他の領域の働きも鈍るので、この「少し見方を変える」ことができなくなる。脳の血流変化をfMRIなどを使って調べると、ストレスを感じている人は、活動すべき部位が動いていないことがわかるそうだ。要するに、頭の血のめぐりが悪くなっているのだ。それなら、ふだんからほかの脳領域を使わざるをえない状況を保つように心がければいい。 

 そんなことを考えて、最近は集中力が落ちているときだけでなく、興に乗ってつい長時間パソコンの前に座りつづけているときも、一日に一度は外にでて歩くように自分に命じている。あれこれ悩んでいるときは、歩きながらも考えごとをしがちだが、なるべく頭のなかを空にして、いままで通ったことのない道を試したり、富士山が見えるはずの場所まで行ったり、ハムストリングを鍛えるのにぴったりの急坂を登ったりする。バードウォッチングもいい。鳥を探すと、どうしてもスカイラインを目でたどるから、自然と上を見るようになる。そもそも人間の悩みなど、地表から1、2 メートル付近に集中しているのだ。上には空が広がっている。たとえ30分でも外を歩くと、気のせいか頭の動きがよくなったように感じ、そのあとは心穏やかに集中して仕事ができるようだ。

 ジョウビタキ

2011年1月31日月曜日

藤沢・江ノ島七福神めぐり

 一月なかばに、新聞記事を見て思いたち、藤沢・江ノ島歴史散歩「七福神めぐり」に行ってきた。だいぶ前に深川の七福神めぐりをして土鈴を集め、蒲鉾の板を削って娘に宝船をつくったことがあったが、藤沢の七福神はスタンプ・ラリーのように各寺社でスタンプを集めると、最後に100円で「開運干支暦手拭」が買えるというもので、いかにも商工会議所と観光協会が主催するイベントだった。肝心の七福神も、江ノ島の弁財天以外は、各寺社に祀られた多数の神仏の一つで、小さな置物が飾られているだけのところもあった。  

 それでも、湘南の冬のやわらかい日差しを浴びながら、小さい商店が並ぶ藤沢の町を地図を片手に歩くと、ちょっとした旅行者気分が味わえた。途中、真っ赤に塗られた遊行寺橋の欄干を見て、娘が中学1年の夏休みの宿題のために、旧東海道を歩いた際に同じ道を通ったことを思いだした。このコウモリ通信を書き始めて間もないころのことだ。あれからすでに10年以上の歳月がたっている。藤沢駅から南は、娘が大学受験から解放された直後に、2人で江ノ島まで行ったときにたどった境川沿いを再び歩いてみた。  

 それにしても七福神というのは、日本古来の神々から、ヒンドゥー教や道教の神々などが入り交じった不思議な信仰対象だ。宝船に乗った図は中国の八仙とそっくりだ。「福」が精神的な幸福よりも、商売繁盛とか長寿といった、財福に近い具体的なご利益であるところは、いかにも庶民的だ。七福神に限らず、日本で信仰対象となるものは得てして、合格祈願や安産、交通安全、豊作などのわかりやすいご利益のあるものか、先祖や土地の霊だろう。それぞれの願いをかなえてくれそうな神さまに、必要に応じて祈願し、その対象はお稲荷さんであったり、菅原道真や源義経のような歴史上の人物であったり、如来や菩薩であったりする。宗教は何かと問われて、答えに窮する日本人が多いのはそのためだろう。  

 でも、たとえば仏教国と言われるタイでも、街で人びとが祈りを捧げている対象はヒンドゥーの神やピー(精霊)の祠だったりするし、関帝廟も随所にある。中国風の観音菩薩の前でひれ伏して祈っている若い女性は、煩悩を捨てようとしているというよりは、恋愛成就を願っているように見える。同じような例は、一神教であるはずのキリスト教やイスラム教でも実際には見られる。カトリックではとくに、殉教者の聖遺物などが病気を治す信仰対象になっていたりするし、メキシコのグアダルーペなどでは聖母が出現したとされる地へ信者が這って詣でている。聖人信仰はイスラム教のスーフィズムにも見られ、アジアにイスラム教が広まったのは、そのためだと言われている。おそらく、土着信仰を頭ごなしに否定せずに、八百万の神に聖人を加えるかたちで徐々に布教した結果に違いない。 

 宗教的には少々怪しげなこうした信仰は、現実的かつ個人的なご利益を求めすぎるきらいはあるけれども、人びとが多様な神さまを信仰し、それによって安心を得て、結果的に多少のご利益もあるなら、結構なことではないかと最近は思う。壮大な神学体系を妄信することを強要し、勢力拡大をはかろうとして、ほかの人びとの信仰対象を否定し、暴力行為におよぶ信仰よりは、よほど平和的だ。商売繁盛だの家内安全だのを祈る人同士なら、宗教戦争にも発展しないだろう。境内のなかにところ狭しと並ぶ神さまを見ながら、八百万の神さま万歳、と言いたくなった。

 感応院

 白旗神社

 養命寺

 開運てぬぐい

2011年1月4日火曜日

イギリス旅行2010年

 暮れにバンコク経由でイギリスに行ってきた。まだ暗い早朝に上空から眺めたロンドンは、黄色い灯り一色で描いた絵のようであり、隣にいたフランス人一家が「セ・ボウ!」を連発していた。空港から市内に向かうあいだの町並みを見てまた驚いた。どの家も二階建て程度で、屋根からメアリー・ポピンズの映画の「チム・チムニー」の歌にでてくるような煙突が突きだしているのだ。築100年の家がざらにあるとは聞いていたが、家など建ててはつぶすのが当たり前の日本に慣れている身には、誰もが古い家を修復しながら住んでいるということが、新鮮な驚きだった。 乗り込んでくる早朝の通勤客の多くは、地味な色の質素なコートにニット帽をかぶっている。そうしたなかに、ニカブをまとって目だけをのぞかせている女性がいても、誰も気に留めない。イギリスは80年代以降、多文化主義を受け入れるなかで大きく変わったと、アマルティア・セン博士が書いていたことが思いだされた。 キングス・クロス駅までどうにかたどり着き、はずれにある9番線ホームを探し当て、ホグワーツならぬ、娘の住むケンブリッジ行きの列車に乗った。ロンドンを離れると、あたりは一面雪景色になり、真っ白な牧草地に羊が点々と見えた。  

 イギリスに行ったら訪ねてみたい場所は限りなくあったのだけれど、事前準備も軍資金も不足していたうえに、天候が思わしくなく、娘は休み明けに提出しなければならない課題がどっさりあったため、結局、一週間ずっと娘の狭い下宿に転がり込み、そこを拠点に行動することになった。その分、日常生活やケンブリッジ市内をよく見ることができたので、それはそれで興味深かった。大学のお友達のアパートや鳥仲間のおじさんの家にもお邪魔し、クリスマスの時期にならではのマルドワインやミンスパイをご馳走になった。新鮮なタラのフィッシュ&チップスも食べたし、ケム川を眺められるパブでIPAエールを飲みながら、ローストビーフのヨークシャープディング巻きも食べた。文字で読んで想像を膨らませていた食べ物を味見するのはじつに楽しい。まさに、百聞は一食にしかず。  

 ロンドンにも一度だけ足を伸ばした。雪のなかのロンドン塔見学はなかなか風情があった。子供のころにもきたことがあるのだが、大きな宝石のついた冠を見たことしか覚えていなかった。今回はラザファードの小説『ロンドン』でロンドン塔建設に少々詳しくなっていたので、登場人物オズリックが強烈な仕返しをしたギャルドローブ(便所)や、その後に隠れた暖炉も、しっかりと見てきた。『巨大建築という欲望』に書かれていたノーマン・フォスターのガーキンやロンドン市長舎も見たし、火力発電所を改造したテートモダンのタービンホールをのぞいたあと、ミレニアム・ブリッジも渡ってみた。対岸にあるセントポール大聖堂は、ドーム屋根といい、コリント式円柱といい、建設当時は確かにいまのガーキンと同じくらい異質な景観だったに違いない。  

 何よりもよかったのは、大雪の翌朝、銀世界のなかを凍結した川沿いにグランチェスター村まで10 キロほどの散歩したことだろうか。道中たくさんの鳥が見られ、氷点下の気温をものともせず、犬を連れたり、橇遊びをしたりして家族で楽しむイギリス人にもたくさん出会った。お茶を飲んでいると、隣のテーブルのおばあさんがにこやかに話しかけてくる。私の頭のなかにできあがっていた冷淡なイギリス人というイメージはすっかり崩れていた。娘がこちらの生活に瞬く間に馴染んだのも当然かもしれない。  

 帰国便の機内でディズニーの「クリスマス・キャロル」を観た。映画のなかの光景は、少し前まで歩いていたケンブリッジの町並みとそっくりだった。

 煙突の並ぶ町並

 トリニティカレッジの裏門

 雪のロンドン塔とガーキン(左)

 ロンドン塔内のトイレ

 ロンドン塔内の暖炉

 ミレニアムブリッジから見るセントポール

2010年11月30日火曜日

ピアノ教室

 先月、我孫子へ行った折に、母のところに、2泊ほど泊めてもらった。夕方遅くに訪ねると、母はピアノのレッスン中で、食卓に私のためのお茶とお菓子が用意されていた。私の記憶にある限り、母はいつもこうして仕事をしていた。学校から帰ると、戸棚のなかにお皿に小分けされたおやつがかならず用意されていた。たいていは、お中元やお歳暮でいただいた泉屋のクッキーだった。  

 うちに初めてピアノがきた日のことはほとんど覚えていない。物心ついたときにはすでにピアノがあり、自分の意思とは関係なく朝夕2回練習することが、まるで3度の食事のように決められていたように思う。うちでは朝から晩まで、誰かが絶えずピアノを弾いていたから、ピアノの音は空気のようなものだった。私は門前の小僧のように、たいていの曲を自分が弾く前から耳で覚えていたので、楽譜を大して見なくても、音で確かめながら適当に弾いて、それらしく繕うことができた。そのせいか、結局、私のピアノ歴は物まねの域を超えることなく、小学校を卒業する前に終わっていた。私の勉強机は、長いあいだアップライトのピアノと襖1枚を隔てた裏側に置かれていたが、とくにうるさいと思った記憶もないから、自然に耳栓もできていたのかもしれない。  

 母がなぜそこまでピアノにこだわったのかは定かではない。母自身はとくに音大をでているわけでもない。それどころか、外科の開業医だった祖父を手伝っていた母は、本当は自分も医者になりたかったらしい。切断された脚は重いんだよ、などと言っていたから、高校生のころは手術の助手もやっていたようだ。ところが、医者は女のやる仕事ではない、と祖父に猛反対されたため、母は仕方なく心理学を専攻した。それも、ハトの心理学とやらで、その道には結局、それ以上は進まなかった。その後、2 人の幼児を抱えて生計を立てなければならず、途方に暮れた母に、子供のころから習っていた「ピアノを教えたらいい」とアドバイスしたのが、やはり祖父だったという。母にとって、ピアノは生き延びるための手段であり、決して疎かにしてはいけないものだったのだろう。  

 それから半世紀近く、母はピアノを教えつづけた。ほぼ毎年、お弟子さんのために「小さい鐘の会」と題した発表会を開きつづけ、それが今年で40回目を迎える。途中から姉が開いている教室と合同で開催するようになったので、いまでは姉の生徒が大半を占めるようだが、後期高齢者となったいまも、母はまだ自宅で細々とピアノを教えている。 

「40回を記念して、冊子をまとめたいから手伝ってもらえない?」と、姉から数ヵ月前に頼まれた。昔からの発表会の写真を集めて、生徒にも配布できるアルバムをつくりたいのだと言う。第1回目は1966年だった。近所の幼稚園の講堂で開いた発表会の写真には、たくさんの幼馴染みや着物姿のお母さんたち、そして亡くなってしまった方々が写っている。別の写真には、小学校時代の同級生や近所の子供たちなど、ピアノを習いにきて、うちの家計を支えてくれた人たちが並び、やがて母の孫の時代となる。その孫たちも次々に成人し、まだピアノをつづけているのはいちばん下の高校生のみとなった。  

 記念冊子を編集しながら、これほどの長い年月、母が元気でピアノを教えつづけられたことを、つくづくありがたく思った。これは長い平和の時代がつづいたおかげでもある。

2010年10月31日日曜日

秋のお祭り

 今年も、我孫子で開かれたジャパン・バード・フェスティバルに参加してきた。鳥を見るのは好きだけれど、どちらかと言うと、バードウォッチャーの保護者兼図鑑・スコープ持ちとして、鳥見に参加することの多かった私は、鳥好きの娘が渡英してしまったこの秋のお祭りはいったいどうしようかと、実はひそかに悩んでいた。たとえて言うならば、子供が卒業したあとも、部活の試合にお母さんが顔をだすようなもので、なんとも恰好が悪いのだ。それでも、例年お世話になっているワイバードと「こまたん」がまた早々に誘ってくださったので、意を決して「お母さん」だけ参加することにした。  

 このところ多忙だったため、今年はほとんど新商品がない。昨年つくった鳥のお手玉と小物入れの「きびだんご」シリーズに、スズメとエトピリカが加わったくらいだ。娘がデザインするこの鳥の正面顔のお手玉は、点のような小さい目と、おなかに張りついた無防備な足と、背中のリアルな羽の模様が特徴で、いわゆるかわいいキャラクターとはほど遠い代物だ。それでも、甥っ子が幼かったころを思いださせるこのお手玉の鳥は、見るたびに表情を変えるようで、目が合うと「遊んでくれ~」と言っているように思えてならない。  

 ぎびだんごの原型は、おそらく娘が幼いころよくつくってやったスウェーデンのウォルドルフ人形にあるのだろう。人形の目は、子供のそのときどきの心情を映せるように、できる限り小さく刺繍するという考え方に私は大きな共感を覚えた。ダ・ヴィンチがモナリザの絵で使ったスフマートの手法にもどこか似ている。  

 いちばん新しくつくったエトピリカは、赤く吊り上ったアイリングのなかに小さな黄色い目があって、ムーミンのヘムレンさんのような白髪が後ろになびいており、一見、意地悪な魔法使いにも見える。それならいっそのこと、カボチャと一緒にハロウィーンの飾りにでもしようと並べてみたところ、さすがはバードフェスティバル。こんな鳥が意外に人気で、小学校低学年と思われる子でも、一目見るなり、「あっ、エトピリカ!」と触っているほどだった。  

 お手玉のかたちをそのまま拡大してつくったリュックサックが、今年は二つとも売れたのもうれしかった。そう言えば、昨年の第一作のメジロ・リュックを買ってくださった方は、「大事にします」と、まるで子犬や子猫をもらうみたいに言ってくださった。いまごろ、あのメジ君はどうしているだろうか。いつか、歩き始めたばかりの子が、このリュックにトレーニングパンツとぬいぐるみを入れて、よちよち歩いているところを見てみたい。  

 売上げそのものはさほど芳しくなかったが、娘があちこちでお世話になった方たちが大勢ブースに立ち寄って声をかけてくださったので、日ごろ家で一人パソコンに向かっている私には、それが何よりも楽しかった。自然のなかで鳥を見るのが好き、ということだけでつながっているバードウォッチャーの世界は、もともと多様な人が適度な距離を置きながらゆるりと結びついていて、新しい仲間を自然に受け入れてくれる。とかく排他的になりがちな共同体主義と、アイデンティティの問題に関する本をいま訳していることもあって、バードウォッチャーの世界の居心地よさを実感した2日間だった。  

 11月7日の大磯の宿場祭りでは、また「あおばとや」にお世話になる予定だ。アオバトはついに大磯町の町の鳥に昇格したらしく、今年は大いに盛り上がりそうだ。

2010年9月30日木曜日

独り暮らし

 人生初めての独り暮らしが始まり、今回のコウモリ通信ではその心境をしみじみと綴ろうかと思っていたのに、このところやたらに忙しくて、物思いに耽る間もなく日々を過ごしている。半年近く、ほぼぷー太郎生活を送ってきた身にとって、仕事があるのは非常にありがたいのだが、干ばつと豪雨が交互に襲ってくるようなこの生活、なんとかならないものだろうか。  

 もっとも、フリーランスの生活も長くなって、心臓に毛が生えてきたのか、複数の仕事を同時にかかえても、このごろは以前ほどストレスを感じなくなった。昔は膨大な仕事の量に圧倒されると、あせるあまり睡眠時間を削り、そのためにかえって能率が下がるという悪循環に陥っていた。最近は、締め切りや納品の期限を考えて、優先順位をつけながら、とにかく一つずつコツコツとこなせばいつかはすべて終る、という妙な自信がついてきたようだ。三枚のお札のように、できあがったものを小出しに投げる戦術も使っているが。  

 一方、今年のように長期にわたって仕事がこない状況はやはり辛い。減りつづける預金残高を見れば憂鬱になる。フリーになったばかりのころはとくに、少しでも仕事が途切れると、前回の出来が悪かったのだろうか、もう私の存在など忘れられてしまったのだろうかと心配になった。いまでもそういう不安がないと言えば嘘になるけれども、連絡がないのは、必ずしも私が無視されているわけではなく、たまたま適当な仕事がないだけであって、しばらく待てば、またいつか声をかけてもらえると、最近は思えるようになった。だから、失業中も求人広告を見てはため息をついたりせず、これまでやりたいと思っていた「研究」などに時間を費やし、思い切って旅行にでかけることもできた。もちろん、その間、食いつなげるだけの余裕がたまたまあったからだが。  

 仕事に限らず、たいがいどんなことでも、人はえてして実際以上に、ものごとを大げさに悪く考えて、余計な不安をかかえているように思う。不安に駆られて不眠症にでもなれば、ただでさえ悪い状況がさらに悪化する。現状は変えられない場合が多いけれども、その現状を自分がどう受け止めるかは別問題であって、ものの見方、感じ方は変えられると教えられたことは大きい。心の平安を保つことが肝心だと、はるか昔にもらった瞑想の本で読んだことがある。瞑想に耽ることで苦しい現実から逃れても、仕方がないではないかと、当時は思っていた。でも、外の現実でいかに波風が立っていても、心のなかが安定していれば、一緒になってさらに大きく揺れ動くよりはものごとがうまく行く、という意味だったのだろうといまは解釈している。  

 ものの見方を変えることには、思わぬ実用的な効果もある。独り暮らしをするうえで何よりも心配だったのがゴキブリだった。子供のころに見た水攻めゴキブリ捕りのグロテスクな光景と、不潔だという過度の思い込みのせいか、私はゴキブリを見ると足がすくんでしまう。昔は母に(素手でつぶす)、近年は娘に(紙を使ってつぶす)、ゴキブリ捕りをお願いしていたのが、ついに自分で立ち向かわざるを得なくなった。娘から聞いた「ゴキげんよう、お久しブリ」をおまじないのように唱え、「怖くない、たかが虫だ!」と自分を鼓舞して丸めた紙で狙いを定め、先日、最初の一匹を見事に仕留めた。ゴキブリ恐怖症を完全に克服したとは言いがたいが、これなら独り暮らしもなんとかなる、と思えてきた。

2010年8月31日火曜日

娘の巣立ち

 30代になったばかりのころ、勤めていた会社に訪問セールスにきていた生命保険のおばちゃんの執拗な勧誘に負けて、教育保険に加入した。お勧めのプランの「設計書」によれば、積立配当金はどんどん増えて、18年後の満期時受け取り総額は400万円ほどになる予定だった。途中で私が死亡しても娘に保険金が入る、という点につられて契約してしまったのだ。なぜか満期時の娘の年齢が23歳に設定されており、いちばんお金のかかる大学入学時には、育英資金を引きだすか、解約するしかない妙な教育保険だったが、卒業後だってさらに進学するかもしれないし、結婚資金が必要になるかもしれない。そう思って、失業中の苦しい時期もとにかく保険料を支払いつづけた。  

 幸い、親の懐具合を充分に承知していた娘は、小学校から大学まで国公立に通い、塾にも行かず、通信教育も受けず、必要最低限の教育費しかかからなかったため、この教育保険は無事に満期を迎えた。ところが、90年代のバブル時代に契約した保険は、蓋を開けてみたらシュルシュルと萎み、みごとに元本割れしていた。私が苦労して払いつづけた保険料は、利潤を生むことなく、あのおばちゃんの人権費に消えてしまったのだろう。  

 娘は理系の大学に進んだものの、自分は研究者タイプではないと早々に見切りをつけていた。とりあえず数年間どこかに勤めて資金を貯めてから、好きな絵の道に進む、というのが当初の予定だったが、あいにくいまは100社回っても就職口が見つからず、就職浪人すらでるようなご時勢だ。卒論のための研究調査に4年次のほとんどを費やさなければならなかった娘には、その「とりあえず」すらままならなかった。同級生の大半は進学し、残りの多くは公務員になった。  

 進路に迷った娘に、切り詰めれば1年くらいなら教育保険で暮らせるよと伝えると、あれこれ検討したあげくに、娘はイギリスで児童書のイラストを専門に学ぶコースを選んだ。これまで学んできた生態学や生物の知識を生かしつつ、美術の世界でそれを表現してみたい。そうすることで、自然とかけ離れた暮らしをしている都会の人びとの目を、自然に向けさせたいというのが、娘の漠然とした夢のようだ。それで食べていかれる保証などどこにもないが、絵の勉強をする機会を一度くらいは与えてやりたい。初めて親元を離れ、異文化のなかで暮らせば、自分を試し、鍛えることにもなる。留学後、改めて進路を決めればいいし、そのころには不況がいくらか改善することだって、まったくありえないわけではない。一時期の景気に、生涯を左右されるのもばからしい。 実際、この円高もわが家にとっては幸運であり、2年前まで230円くらいだったポンドが、いまは140円以下になっている。最大の出費となる授業料は、送金するまでもなく、ポンドが比較的安い日にクレジットカードで簡単に決済されていた。教育保険で損をした分、いくらか取り返したかもしれない。  

 娘が日本を離れる日がいよいよ一週間後に迫っている。いまはインターネットがあるし、国際電話も無料でかけられるし、送金も簡単にできるし、航空券でもなんでもカードで買える。巣立ちの練習も何度かさせたつもりだし、山川捨松のお母さんのような覚悟はいらないはずだ。大丈夫、頑張れるよ。娘にも自分にも、そう言い聞かせている。  

 前回のコウモリ通信に書いたアラスカの本がとりあえずできたので、ご興味があればのぞいてみてください。http://www.photoback.jp/introduction/home.aspx?&mbid=261542(現在はアクセス不可)