2005年2月28日月曜日

「舶来」の日用品

 先日、スーパーで魚を買おうと思ったら、どれもこれもあまりにも高いので、仕方なく干物売り場へ行ってシシャモを買うことにした。樺太シシャモと書かれたパッケージが2種類あり、片方には太めの魚が6匹並んでいた。もう一方には細めの魚が2段重ねで20匹近く詰まっているのに、なぜか値段は同じだった。どうしてこんなに値段が違うのか、あれこれ理由を想像したが、結局、たくさん詰まっているほうを買った。家に帰ってからよく見ると、ノルウェー産、原産国タイと書かれていた。これではいったい樺太なのか、ノルウェーなのか、タイなのか、さっぱりわからない。 そこで、「樺太シシャモ」をネットで検索してみたら、あれはカペリンという魚で、シシャモとは別物、本物のシシャモは北海道でしかとれない、云々と書かれたページがいくつもでてきた。ということは、私が食べたのは、ノルウェーでとれたカペリンをタイで干物にし、それを日本へ輸出したものだったらしい。  

 以前にも、こんなふうにキツネにつままれた気分になったことがある。通販でフィンランド製パイン材のテーブルを注文したら、ベトナムから荷物が届いたのだ。この場合は察するに、フィンランドの木材をベトナムで加工し、それをさらに日本に輸送したのだろう。それだけ地球をめぐってやってきたテーブルが、日本国内の木材を使って、日本で加工したものよりはるかに安いことが、なんとも信じられなかった。  

 そして昨日、また新たな驚きがあった。インターネットで見つけたプリントショップにはがきの印刷を頼んだところ、どうやらベルギーで印刷されて、送られてきたらしいのだ。宛名のシールに小さい字で送り主が書いてあるだけなので、よく見なければ気づかないところだった。近所にも小さい印刷所があるけれど、インターネットを使えば、家から一歩もでずに注文から支払いまで完了し、できあがったものも届けてもらえる。その手軽さと安さにつられたのだ。それにしても、はるばるベルギーからやってくるとは!  

 ここ10年ほどの情報、流通の大革命は、人間の生活を根本的に変えてしまったのだと、いまあらためて思う。以前は、人間の生活は物理的な空間に大きく制限されていたが、いまでは自分の嗜好や値段しだいで、地球のさまざまな地域と複雑にかかわり合うようになった。それは一概にいいとも悪いとも言えないが、良質で安いものは売れるという原則が、地理的な制約を次々に取っ払っていくのは、どことなく恐ろしい。国内産業の空洞化もさることながら、こうしたことすべてが可能になっている陰に、膨大なエネルギーを消費して何千キロメートルも物資を運んでいる現実があるからだ。また、安い値段が、人件費の安い国に生産拠点を移すことで実現されているのなら、いずれはその格差が地球規模で縮まっていくのではないかと思われるからだ。  

 頭ではそうした現実に不安を覚え、社会の行く末を案じながらも、いざ目の前に、見たところ質の変わらない安いものがあれば、ついそちらに手が伸びてしまうのは私ばかりでないだろう。また、なんでも簡単に手に入る生活をいったん知れば、後戻りは難しい。こうして、異国情緒豊かでもなければ、高級でもない、「舶来」の日用品に囲まれて暮らしているうちに、いつのまにかごく平均的な世界市民ができあがるのかもしれない。

2005年1月31日月曜日

スマトラ地震とインド洋大津波

 スマトラ沖地震とインド洋大津波で何十万もの人が犠牲になったあの日から、1ヵ月以上がたった。タイで被災した子供たちが描いた津波の絵は、10メートルの高さの波に襲われた恐怖がどれほどのものかをよく表わしていた。アチェではなんと、津波の高さが34.9メートルにも達した場所があったという。日本でも1896年の三陸地震津波では、最高波高38.2メートルが記録されているそうだ。想像するだけで、水圧に押しつぶされそうだ。これではどんな堤防をつくってもかなわないし、第一、いつ襲ってくるともわからない津波のために、海岸線沿いに万里の長城のようなものを張り巡らされるのもたまらない。やはり、つねづね警戒を怠らず、いざとなったらすぐに避難するしかないのだろう。  

 これほどの規模の津波は予期していなかったとしても、スマトラ沖で地震が発生した段階で、近隣諸国がなんの警戒態勢もとっていなかったというのは、どうしたことだろう。タイのバンド、カラパオが津波の犠牲者への鎮魂歌をつくり、「ツナミ・クー・アライ、ルーチャック・テー・サシミ(ツナミってなんだ? サシミなら知っているけど)」と歌っている。まさに寝耳に水だった人も大勢いたようだ。 

 インドネシアは日本と同様、プレート境界に近く、世界的な火山地帯であると同時に、地震多発地域でもある。津波をともなった大地震は、過去に何度も起きていたはずだ。その証拠に、震源地の近くで津波の大被害を受けながら、奇跡的にほとんど死者をださなかったシムル島や、タイのスリン諸島では、海が急に引いたら、すぐに高台へ逃げろという昔からの言い伝えを島民が守り、そのおかげで命拾いをしたのだという。  

 タイの被災地では死臭がたちこめ、住民はピー(霊)におびえているらしい。タイでは、不幸な死に方をすると成仏せず、ピーになってこの世をさまようと多くの人が信じている。肉親を亡くした人や、いまも行方がわからない人にとっては、やりきれないものがあるだろう。この目で遺体を見るまでは、死が信じられず、きっとどこかで生きていると思いつづけるに違いない。心身ともに傷を負い、近親者を亡くし、家も仕事もなくし、援助に頼って最低限の衣食住を確保している人たちは、この先どうなるのだろう? 

 被災地では復興事業が始まっているようだが、被害にあった地域の多くが、それぞれの国の中心地から遠く離れた地方にあり、しかも以前から反政府運動が盛んな場所だったりするので、今後、さまざまな問題が生じそうな悪い予感がする。プーケットやカオラックのようなリゾート地は、しばらくは苦しい年がつづいたとしても、いずれまたもとのようなにぎわいを見せるかもしれない。でも、全滅したアチェの貧しい漁村などは、もう手の施しようがない。生き残った人たちは、悪夢を封じ込め、うつろな心をかかえてほかの町へ、都会へと離散していくしかない。  

 今回の大津波ほどの被害がでれば、この先は自然の恐ろしさが後世まで語り継がれるだろうか? それともいまだに海中に漂い、土中に埋もれて、行方知れずとなっている何万もの人びとともに、いずれ忘れ去られてしまうのか? おそらく、これだけの大災害も、100年もの歳月がたてばただの歴史上の出来事となり、その恐怖の記憶は消えてしまうだろう。そのころにきっとまた、災いは訪れるのだ。  

2004年12月31日金曜日

タイ旅行2004年

 年末にやむをえない事情があって、急遽タイへ行ってきた。折しも、インド洋大津波が発生した時期と重なった。私はそのころバンコクでの用事をすませ、タイ北部で鳥見ツアーに参加していたので、まわりにいたごく敏感な人たちが地震の揺れをわずかに感じた程度だった。新聞の一面に「チュナーミー」の大見出しがでて、あちこちで津波という言葉が飛び交うようになって、ようやく被害の大きさに気づいた。ちょうど、プーケットでカヤックに乗るといい、という話を聞いた矢先だったので、一歩間違えば、私も津波にのまれていたかもしれないと恐ろしくなった。被害に遭った地域の多くが、貧困や政情不安に悩まされていたところだけに、この津波による被害が最終的にどれだけのものになるか、まったく想像がつかない。  

 幸い、タイ旅行そのものは、大きなトラブルもなく、予想していた以上に楽しい一週間となった。何よりもうれしかったのは、この旅行を通じて、娘の成長ぶりを実感できたことだ。プラトゥーナームの衣料市場を歩きまわり、お小遣いで学校の制服用のブラウスを一枚75バーツ(200円くらい)で買い、気に入った服を見つけては、片言のタイ語で値切り交渉をして買っている姿は、なかなかたのもしかった。  

 鳥見ツアーでは、以前からの知り合いだけでなく、新たなメンバーともすぐに打ち解けて、タイ語と英語のチャンポンで奇妙な会話を交わしていた。普段からあちこちに出かけては、鳥や植物を通じて、見知らぬ人と平気で会話を交わす娘だが、相手が外国人でも臆することなく話していたので、次に参加するときは、もう親が同伴する必要はないかもしれない。 

 私自身も、インターネットでタイ語のニュースを聞きつづけ、タイのポップスをたくさん聞いたおかげで、リスニング能力が向上したらしい。鳥を最初に見つけた人が、その位置を教えるときに、わざわざ英語で言ってもらわなくても、タイ語の会話からおよその位置がわかるようになった。それに、こんなことを書くと娘に笑われそうだが、いつのまにか双眼鏡がうまく使えるようになっていたのもうれしかった。一緒に参加していたアメリカ人の奥さんは、スワロフスキーの双眼鏡をもっていながら、ほとんど使えず、始終あきらめムードだった。もちろん、あまりにも種類が多く、どれも似ているムシクイ類は、動きも速いし、のぞいてみる気にもなれなかったが。タイ人の常連ですら、「ウォーブラー・マイ・ドゥ」(ムシクイは見ない)と言い切っていたから、やっぱりね、と笑ってしまった。  

 タイもいまは乾季なので暑くなく、山の上はかなり寒かったが、日本に帰ってきて雪まで降っているのには驚いた。今年は暖冬だったはずなのに、随分まあ急変するものだ。自然災害がつづいた2004年も今日でおしまいだ。新年はよい年になることを心から祈っている。みなさま、いろいろお世話になりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 追伸:先日、「わたしの自然観察路コンクール」で、娘が最優秀賞をもらいました。興味のある方はお暇なときにのぞいてみてください。 

2004年12月1日水曜日

人はそれぞれ

 少し前のことになるが、近所に住む姉のところへ行ったら、小学生の姪が玄関にぺったりと座り、自治会の班長をやっている姉のために、チラシを折ってセットする仕事を手伝っていた。のんびりした性格の子なので、雑然と置かれたチラシの山から一枚取っては折り目をつけ、向きを直し、それを丁寧に重ねていくという作業を繰り返していた。こんな調子でつづけたら、いつまでたっても終わらない。せっかちな私は手早くセットする方法を教えた。それによっておそらく作業時間はかなり短縮されたと思うが、姪はただ戸惑ったような顔を見せた。  

 私は単純作業や二度手間になることが嫌いで、できるかぎり効率よく、手間を省いて早く終わらせようと努力する。当然ながら、できあがりは少々雑だが、それが自治会のチラシくらいなら、誰も気にしない。  

 これまで私は、自分のこうしたやり方が正しくて、姪のように非効率的な方法は改めるべきだと思っていた。でも、はたして本当にそうだろうか、とこのごろ考えてしまう。たしかに、仕事となれば、効率よく利潤を追求することが求められるので、姪のようなタイプは不利かもしれない。しかし、非効率であることが、かえってよい結果を生むこともあるし、のんびりとつづけること自体を楽しんでいる人もいることを知ったからだ。  

 先日、大磯の文化祭に行き、そこで「こまたん」探鳥会の人たちと話をする機会があった。生物の専門家は誰もいないけれど、メンバーはみな鳥の観察が大好きで、夏のあいだ毎日、照ヶ崎の海岸に通ってアオバトを観察したり、丹沢の繁殖地を探し当てたりしているらしい。優れた研究も発表している「こまたん」だが、たとえば足環をつける生態調査はしないのだという。足環をつければ、正確に簡単に生態がわかるかもしれないが、それでは楽しみが早く終わってしまうからだ。鳥になるべく負担をかけないという気遣いもあるだろう。鳥にしてみれば、生態を観察されるほど迷惑なことはない。  

 動物の生態学を研究している学者は、新たな生態の謎を解き、それを人に先駆けて発表しようと鋭意努力するだろうから、「こまたん」のような考え方は信じられないだろう。本職ではないから、と片づけてしまうのは簡単だが、「こまたん」の話を聞いてから、人間にはいろいろな生き方があって、どれが正しいとは言えないのだと思うようになった。  

 結局、幸せな生き方に絶対的なものなどなく、人それぞれ何を幸せと思うかは違うのだ。どんどん新しい研究を発表して有名な学者になることに幸せを感じる人もいれば、鳥好きの楽しい仲間とひたすら鳥を観察することが幸せな人もいるのだ。たいていの人はおそらく、何らかの功績を残そうと努力するけれど、結局はたせず仕舞いに終わるのだろう。すべてを犠牲にして、脇目も振らず目標に向かって邁進した人は、人生の後半にさしかかって夢破れたときに、生きている意味を見失うかもしれない。たとえ目的をはたしても、そのために大きな犠牲がでたらどうだろうか。「こまたん」メンバーのように、研究の過程そのものを日々楽しんできた人なら、そうした心配は無用にちがいない。彼らにとっては、観察そのものが目的であって、研究の成果はあくまでもその結果でしかないからだ。  

 前述の姪は、別にそんなことを考えてチラシを折っていたわけではないだろうが、子供だって何を楽しいと思うかはその子しだいなのだ。もしかしたら、単純作業をしながら、姪は哲学的な空想にふけっていたのかもしれない。あれは余計なお節介だったかなと、いま反省している。

2004年10月30日土曜日

娘の修学旅行

 私が以前、勤めていた旅行会社は、修学旅行用に臨時列車を走らせたことからスタートしたような会社だったので、修学旅行部門は重要な位置を占めていた。一人当たりの旅行の単価は安くても、なにしろ大口団体だし、毎年決まって実施してくれるから、修学旅行は旅行会社にしてみればありがたいお客様だった。 

 もっとも、私自身は修学旅行を扱うセクションにいたことはなかった。だから、旗をもち、声を張りあげたバスガイドが先頭に立ち、修学旅行生をぞろぞろ引き連れているところに遭遇すると、ひるんでしまうのだった。なにしろ、旅行会社にいながら、私は団体旅行が大の苦手だったからだ。 しかし、会社を辞めて10年近くもたつと、修学旅行を取り巻く環境も大きく変わっていた。じつは先週、娘が沖縄へ修学旅行に行ってきた。生徒は3方面から自分の行きたい方面を選べた。少子化で学校全体の規模が小さくなっているうえ、こうして分割するので、各方面の全体数は50人から100人程度になる。この規模なら一般団体の枠組み内に収まるので、宿泊場所等の制約が少なくなる。また、班ごとに分かれて、タクシーやバスを使って自由に見学する部分も大幅に拡大されていた。  

 集合は羽田空港なので、各自で空港まで向かう。班ごとに集まると搭乗券をもらい、勝手にゲートまで行く。1日目はさすがに貸切バスで移動したらしいが、2日目からは完全に自由行動で、事前に立てた計画に沿って班ごとに好きな場所をまわる。娘たちのグループはアウトドア派ばかり集まっていたので、慶佐次のマングローブ、億首川でカヌーこぎ、新原ビーチでガラスボート、漫湖干潟と、沖縄の自然を満喫できる場所ばかり訪ね歩いたようだ。それも、2日目に手配してもらった観光タクシーの運転手と意気投合したとかで、3日目も予定を変更してあちこち連れていってもらったらしい。最終日は、それぞれ見学先から、ゆいレールなどを使って那覇空港に向かい、また班ごとに人員の確認だけして飛行機に乗り込み、羽田に到着すると集まりもせずそのまま解散だったそうだ。  

 これでは、旅行会社も宿と航空券のほか、ほとんど儲けるところがない。2日目の観光タクシーの料金を事前に集金していたのは、苦肉の策だろう。元同業者には同情しつつも、これだけ子供たちを信用し、自由行動させてくれた学校には感謝したい。ほとんどの子が沖縄は初めての旅だったにちがいない。それでも、事前に充分に下調べをし、計画を練れば、高校生でも問題なく旅ができることがよくわかった。もちろん、予定どおりに行かないこともあるし、事故が起こる可能性だってある。それでも、どの子も知らない土地でなんとか行動し、夕食の時間や、空港での集合時間に遅れることなくやってきたというのだから、すばらしい。その間、引率の先生たちは気が気ではなかったろう。 

 旅の楽しみは事前の計画と、行った先々でのハプニングと、現地の人との交流だと私はつねづね思っている。万事順調に計画どおりに行った旅など、味気ない。あらかじめ想定したことしか起こらないなら、家で旅のビデオを見るのと大差ない。多少のトラブルにもめげず、自分の足で歩いた旅だからこそ、それぞれの子の心に深く残るものとなっただろう。旅行会社には気の毒だが、修学旅行がここまで変化したのは、うれしい驚きだった。

2004年10月7日木曜日

土地開発

 今朝の新聞に、大量のチラシとともに、近所に建設中のマンションの大きな広告が入っていた。以前に住んでいたアパートの少し先にあった木立ちを切り倒し、山を削って建てたマンションだ。東海道がにぎわっていたころから、旅人を見つめていたのではないかと思われるような大木を無情にも引き倒し、巨大な穴になった工事現場は、とても正視に堪えないものだった。完成間近なマンションはすでに街並みと一体化しており、元の光景が思い出せない。  

 ここだけではない。この夏、足繁く通った尾根道から神社にかけての散歩道に、先日、二週間ぶりくらいに行ってみた。民家のわきにある小道を抜けて、その先にある私の好きな「山道」に出ようと思った途端、息を呑んだ。道そのものがなくなっていたのだ。木はすべて切り倒され、ブルドーザーが何台か忙しく働いていた。仕方なく、下の道を通って神社に行ったが、途中で何台も工事用の大型トラックとすれ違った。無性に腹が立ち、石でもぶつけてやりたい気分になった。  

 すべての土地が建物で埋まるまで開発しないと、気がすまないのだろうか。こんな山の斜面くらい、放っておいてくれればいいのに。ストレス解消で通っていた散歩道が、かえってストレスのたまる道となり、私には逃げ場がなくなった。  

 数日前、チンギス・ハンの霊廟跡が確認されたというニュースが報道された。チンギス・ハンの墓は、当初からありかがわからないように、目印もつくらせなかったという。そのニュースに関連して書かれていた白石典之・新潟大助教授の言葉が、とても印象的だった。「生きるために大切な草原に物をつくらないのが遊牧民の正しい姿で、チンギス・ハンはそれを守った」、というものだ。人間が地球の環境のなかに住まわせてもらっている、というこの謙虚な姿勢にくらべ、いまのわれわれはどうだろう?  

 まず、新しい道路ができる。すると周辺の山が崩され、どんどん宅地化する。山を崩し、木を切ると雨水が川にあふれるからか、最近のマンションはみな巨大な遊水地の上に建っている。子供の遊ぶ場所がないと困るので、申し訳程度に公園をつくる。人工の遊具しかない狭い公園など、小学生くらいになるともう見向きもしない。遊び場のない小学生や中学生は、ゲームセンターにたむろし、ショッピング街をうろつく。学校でいくら環境保護の大切さを教えても、自然に触れることのない子供は、何を聞いても実感できないだろう。  

 今朝のマンションの広告には、小さな字で、環状2号線沿いの西側の窓には、特殊なガラスを使用と書いてある。おそらく窓はとても開けられないのだろう。駅に近く、周辺にはショッピング街、病院、学校、公園があり、暮らしやすい環境だそうだが、本当にそうだろうか? 幹線道路から50メートル以内は癌の発生率が高いというニュースを、このあいだ見たような気がする。  

 チンギス・ハンの墓はあえて捜さないほうがいい。草原を掘り返し、墓をあばいて分析するより、謎のままにしておいたほうがいい。チンギス・ハンは静かに眠らせてやり、モンゴル人の昔からの知恵を「先進国」の住民に聞かせてやるのが一番だ。

2004年8月30日月曜日

大叔母を訪ねる

 先日、ふと思い立って、茅ヶ崎に祖父の妹に当たる人を訪ねてみた。娘が夏休みの宿題で祖先について書くというので、この大叔母に昔の話を聞いてみたらどうかと思ったのだ。  

 91歳になる大叔母の記憶は、最近のことになるとかなりあやふやだったが、昔のことは不思議と覚えていて、一番知りたかった関東大震災の話も、大叔父の助けを借りながら聞きだすことができた。私の祖父は本所に住んでいたので、震災で家は全焼し、焼け跡に残っていたのは金槌一本だったという話は、私も子供のころから何度も聞かされていた。当時、学生だった祖父は隅田川に飛びこんで難を逃れたらしい。この地震ですべてを失ったためか、祖父の家の記録はないに等しい。子供のころの写真も一枚しか見つからないし、早くに亡くなったという曽祖父の写真も一枚あるきりだ。  

 今回、この大叔母をはじめ、いろいろな親戚に昔の話を聞き、高祖父の代まではたどることができたが、その先は誰に聞いてもわからなかった。たかだか150年前に、自分の祖先が何をしていたかすら、知るすべがないのだ。  

 大震災のとき、祖父の家族が被服廠跡に避難し、そのあとすぐに別の場所へ移動したおかげで命拾いしたことも、今回の「調査」でわかった。この跡地には4万人が避難したが、そのあと火災旋風が起こったために約3万8000人がここで亡くなったそうだ。関東大震災が起きたのは1923年9月1日午前11時58分というから、いまから81年前のことだ。14万以上の死者・行方不明者をだし、57万棟が倒壊または消失したという。それだけの規模の災害となれば、関東の人はほとんどがなんらかのかたちで、この震災とかかわっているはずだ。だが、こうした災害ですら、80年も経てば人の意識からすっぽり消え失せ、9月1日は防災訓練の日にすぎなくなる。あと10年、20年もすれば関東大震災の体験者はほとんどみな他界してしまうだろう。1世紀という歳月は、人間の記憶を一新するのだ。  

 いや、人の記憶がなくなるのに、それほどの年月は必要ないのかもしれない。普通の家庭であれば、親の体験は多かれ少なかれ子供に伝わる。とはいえ、たいていの子は説教じみた話は聞きたがらないから、親の苦しい体験談を積極的に知ろうとするのは、よほど歴史に関心がある子くらいだろう。思春期になれば、親と必要なこと以外はしゃべらなくなる子も多いので、実際には子供に伝えられる期間はかぎられている。祖父母が近くにいる環境であれば、さらにひと昔前の記憶も伝わるが、祖父母とは疎遠という家庭も多いだろう。 

 そう考えると、50年、ひょっとすると30年くらいで、大半のことは忘れ去られるのかもしれない。ひとりの人間が生きた痕跡など、いとも簡単に消えてしまう。死んで10年もすれば、誰も私のことなど思い出しもしないと考えるのは、ちょっぴり寂しい。だから、祖先のことを若い世代の娘が調べれば、あの世にいる顔も知らない祖先たちは喜んでくれるだろう。91歳の大叔母の記憶は、今回の訪問で口から口へ確実に伝わった。ルーツを知ることは、自分を知ることにもつながる。暑い日に茅ヶ崎駅から延々と歩いて訪ねた甲斐があったような気がした。