2013年8月31日土曜日

『世界一賢い鳥、カラスの科学』

 群集や暴徒を意味する英語にモッブ(mob)という言葉がある。この言葉は動物が捕食者にたいし群がり、騒ぎ立て、ときには集団で攻撃するモビングという行動を表わす場合にも使われる。生物にとって危険な状況を記憶し、次に同様の目に遭ったときにそれを思いだして、闘争か逃走かという恐怖反応を引き起こすことは、生存に必要なごく基本的な機能であり、脳の扁桃体の働きで深く脳裏に刻まれる。だが、カラスのように高度な生物は、自分がじかに体験した危険だけでなく、仲間からも危険な人間について学ぶのだという。  

 今月、河出書房新社から刊行される拙訳書『世界一賢い鳥、カラスの科学』にはこんな一節があった。「彼らはわれわれに威嚇した物知りのカラスを観察し、その仲間に加わっていた。威嚇行為は広まりやすい。そのため、一羽が威嚇すると、聞こえる範囲にいるすべてのカラスが飛んできて、その群れに加わる」。こうした「社会学習」は動物のなかでは特殊であり、認知機能として高度なものだ。自分より強い相手に立ち向かうモビングは、繁殖期にテストステロンで攻撃性が高まっている時期に増えるのだという。  

 インターネットで情報を交わし、全国から集まってくるデモと、カラスのモビングはじつによく似ている。勤めていたころ、組合活動でメーデーのデモに参加させられ、シュプレヒコールを聞きながら延々と歩く行為にうんざりした経験が何度かある。私のデモ嫌いの一部はこの体験からくるのだが、残りは自分の生存を脅かす敵がいるという意識が希薄だからかもしれない。賃上げしてくれない経営者も、原発の再稼動を目論む電力会社も、日本の離れ小島の領有権を主張するアジアの隣人も、私とは意見が異なり、議論すべき相手だとは思っても、敵ではない。しかし、中東のデモや、ヘイトスピーチを連呼する在特会のデモの参加者などは、「話せばわかる」とか「相手を説得する」理性的な段階は超え、「やるか、やられるか」という防衛本能に駆られているように見える。その多くは血気盛んな年代で、自分がじかに痛い目に遭っておらずとも、敵についてインターネットなどを通して学び、不安と憎悪のスイッチが入ってしまったようだ。  

 この本にはカラスの子殺し、仲間殺しに関するこんな気になる言及もあった。「カラスは何にとりつかれて殺害に走るのだろうか? 脳の化学的性質に生じる微妙な変化が、群れの一員にたいする態度のそのような激変の根底にあるのだろうか? われわれは誰でも、環境しだいで、あるいは社会的仲間から受ける合図しだいで、自分の感情が急速に変わることを経験している」。縄張りを守る、伴侶を守る、または捕食者を巣の近くから追い払うため、ストレスホルモンや性ホルモンによって攻撃性が高まったあげくに、それが本来は守るべき別の対象に向けられる可能性が示唆されているのだ。自制心があるはずのエリートや、正義感が強いはずの警察官が、性衝動に駆られて信じがたい行動に走ることから考えても、人間はストレスを受けると、理性が働かなくなり本能に操られるようだ。衣食足りて礼節を知るではないが、道徳教育が役立つのは世の中が平和である限りなのだろう。  

 本書には、ワタリガラスと暮らした経験もある共著者による表情豊かなイラストが多数掲載されている。邦訳版の表紙には、娘のなりさによるリノリウム版画を採用していただいた。イギリスで3年間、絵本の勉強をし、鳥のスケッチ修行を積んできた娘にとって、何よりもありがたい第一歩となった。書店で見かけたら、ぜひお手にとってみてください!

『世界一賢い鳥、カラスの科学』
 ジョン・マーズラフ/トニー・エンジェル著
(河出書房新社)

2013年7月31日水曜日

アイデンティティ

 外国語が多すぎて精神的苦痛を味わったとして、一ヵ月ほど前にNHKが訴えられていたが、日本人が理解しにくい概念で、適切な訳語も見当たらない言葉はやはりある。その典型がアイデンティティだ。最近は「同一性」とよく訳されるようだが、この訳語を読んでも正直、意味はさっぱりわからない。  

 一般には、心理学者のエリクソンが提唱した自己同一性という意味と、日本人のアイデンティティのような、集団への帰属意識という意味で使われることが多い。両者はまるで違う言葉のようだが、平たく言えばどちらも自分は誰なのか、ということになる。以前、『Who Are We?』という原題のハンチントンの本の翻訳に携わったことがある。国としてのまとまりが失われ、分裂してゆくアメリカの現状を憂えた内容で、「自らを定義するために、人は他者を必要とする。では、敵もやはり必要なのか?」と、著者の本音をちらつかせた書だった。アイデンティティというのはそういう意味かと納得し、以来、私は「同一性」ではなく、「自己認識」という、少しは理解しやすい訳語をカタカナと併用するようになった。自分は自分と同一だ、そっくりだなどと言われるより、よほどわかりやすい。  

 自分は誰なのか。そんなことは歴然としているようだが、実際には自分がどういう人間で、何をしたいのか、どう生きたいのか、多くの人はわかっていない。『ソロモンの指環』に登場するガンの子マルティナは、生まれてすぐに見た生き物であったローレンツを親だと思い込み、後を必死で追った。いま訳している『世界一賢い鳥、カラスの科学』(マーズラフ/エンジェル著)によれば、カラスは自分がどういう種に属しているかは知っていて、家族や集団は見分けられるが、鏡に映った姿を見て自己を認知することは基本的にはできない。幼鳥時に拾われて人間に育てられたカラスは、人間の言葉を覚えたり、ペットの犬と遊んだりする。それでも、「もともと野生の鳥は、いずれは異種の友達のもとを去って、自分と同種の群れに再び同化する」。「秋になって、野生のカラスやワタリガラスの群れが集まるとき、あるいは翌春にホルモンが繁殖行動を促すとき、刷り込まれた記憶は成長しつつあるカラスに自分の社会に戻るよう呼びかけるのだろう」と、同書にはある。  

 カラスから類推すれば、実際には「自己同一性」よりも、「集団への帰属意識」のほうが先に形成されるのだろう。乳幼児は自分が誰なのかなどと悩みはしないが、誰についてゆけばよいのかは知っている。大方の人は、自分は誰なのかなどと深く考えることなく、与えられた環境の既存の枠組内で、自分の外面を適当に調整しながら、内面とさほど葛藤することもなく生きられるのかもしれない。ところが、たまに社会が押しつける模範的生き方を受け入れられず、軌道修正を試みる人がでてくる。「自分探しの旅」というのがひところ流行り、いまはとかく揶揄される原因もこのあたりにありそうだ。社会の制度や価値観が大きく変わる時代には、悩む人の数も増える。自分は誰なのか、悩み始めた人は浮き足立つ。その不穏さに耐えられず、原理主義的、排他的な共同体意識を同胞に押しつけ、似て非なる隣人とのあいだのグレーゾーンに明確な線引きをしようとする動きもでてくる。つまり人為的な集団アイデンティティの創生だ。  理性をもち、個を確立したことは、人間と動物のいちばんの差異に思われるが、人間は今後、さらに進化を遂げて自由に生きるようになるのか、退化してまた縄張り争いを繰り広げるのか、生物としては頭脳が大きくなり過ぎてただ自滅するのか、なかなか興味深い。

『世界一賢い鳥、カラスの科学』トニー・エンジェルによる挿絵

2013年6月30日日曜日

カササギの橋

 このところカラスの本を翻訳している。そのなかに同じカラス科の鳥である賢いカササギがたくさん登場する。カササギと聞いて、たいていの人がまず思い浮かべるのは、あの和歌だろう。「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」。読み手は万葉集の編者とも言われる大伴家持(718~785年)だ。ところが、カササギってどんな鳥と聞かれて、白と黒にくっきりわかれた鳥の姿がすぐに目に浮かぶ人は少ないだろう。それもそのはず、カササギは日本では佐賀平野と筑後平野を中心とした九州の一部にしかまず見られない鳥だからだ。秀吉の朝鮮出兵の際にもち帰った移入種だとする説が有力だ。  

 では、なぜ奈良時代にカササギの橋などという言葉が歌に詠まれたのか? カササギの橋って、いったいどんなもの? 私はついぞ知らなかったのだが、「カササギの橋と言えば、七夕に決まっているじゃない」と、母にあっさり言われた。前漢時代に編纂された『淮南子』の巻末付録に書かれたのが最初と考えられている。七月七日に織女を牽牛のもとへ渡すために、カラスとカササギが河をうずめて橋をつくるのだそうだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』にその引用として、「烏鵲填河成橋而渡織女」とある。  

 カササギもカラスも、冬季には集団でねぐら入りをする。大群が空を舞う様子を見て、天の川を連想し、空に架ける橋を思いついたのかもしれない。カササギは飛ぶと羽の白さが際立つから、暮れゆく空に映えるだろう。なにしろ、カササギの学名はピカ・ピカ(Pica pica)なのだ! もちろん単なる偶然で、ラテン語のピカはまだらという意味で、カササギを指す。カササギの分布を調べると、東は朝鮮半島からシベリア沿岸部、カムチャッカ半島まで、西はイギリス諸島まで広大な地域にまたがるが、暑い地域は苦手らしい。またアイスランドや日本の本州にいないことを考えると、海を渡るのも好きではなさそうだ。  

 カササギの橋という概念は、日本には機織の技術と七夕伝説とともに5世紀ごろに入ってきたようだ。養蚕や原始的な織物の技術はさらに早く3世紀ごろに伝わっている。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。中国では漢代にはすでに庶民の男は牛を使って農地を耕し、女は機織をするのが一般的になり、このころ七夕伝説も確立したようだが、日本では牛が少なかったからか、牽牛の技術のほうは広まらなかったらしい。彦星という、職業不詳の名称に変わったのも、牛飼いのイメージが湧かなかったからかもしれない。6世紀末に推古天皇が新羅に送った特使が2羽のカササギをもち帰っている。大阪にある鵲森宮という神社がその記念のようだが、このときは繁殖しなかったようだ。  

 大伴家持は子供時代を大宰府で過ごしているので、朝鮮半島から渡ってきたカササギをそこで見たのではないかと思ったが、可能性は薄そうだ。彼が読んだ歌も七夕ではなく、冬の情景であり、宮中の階に降りた霜を見ての連想だろうと解釈されている。有名な「月落烏啼霜満天」の漢詩も、天の川を天の霜にたとえたらしい。要するに黒地に白のまだら模様は、天の川であり、カササギの橋であり、霜なのだろう。想像すると幻想的なので、娘に頼んでカササギの消しゴム判子をつくってもらい、烏鵲橋の絵を描いてみた。  

 ついでに大伴家持の経歴を読むと、その後782年に陸奥按察使に任命され、まもなく死去したが、桓武天皇が信頼していた中納言・藤原種継の暗殺事件の首謀者と目され、埋葬も許されなかったとある。奥州で日本初の金が見つかってから約30年後のことだ。彼が書いた「賀陸奥国出金詔書歌」の一部は、準国歌とも言われた「海ゆかば」の歌詞となった。

2013年5月31日金曜日

船体験

 ブライアン・フェイガンの『海を渡った人類の遥かな歴史』という本が河出書房新社から刊行された。私にとって彼の著書を訳すのはこれで5冊目になる。これほどの縁になった理由が、本書の序文を読んだとき初めてわかった。70年におよぶ彼の航海人生の原点に、子供のころ読んだアーサー・ランサムの本があったと書かれていたのだ。私も子供のころランサム全集にはまった一人で、昨年は小説の舞台の一つとなったコニストン湖まで行ってきたほどだ。彼の根底にある価値観に、私が共感してきたのは無理もない。  

 とはいえ、自分のヨットで世界の海を旅してまわるフェイガン氏とは異なり、私の海の経験と言えば、彼が嫌う大型クルーズ船やフェリーの旅くらいしかない。帆船に乗った経験は一度もないし、カヌーやボートも川や湖でしか漕いだことがない。5万年以上におよぶ人類と海の歴史を探ろうとする本書を訳すには、私はあまりにも力不足だった。関連書をあれこれ読んでみたが、なにしろ「海を解読する」と彼が表現するものは、スポーツや芸術分野の体で覚える感覚と同様に、文字では伝えきれないものだ。大海の真っ只中で波と風に翻弄される体験は、実際にそれと闘った人にしか理解しえないだろう。それでも、その感覚を少しでもつかめたらと思い、時間を見つけてはあちこちに足を運んだ。  

 数ヵ月前には、和船に乗れる場所があることを知り、江東区の横十間川親水公園まで行ってみた。江戸時代、この一帯は縦横に運河が張りめぐらされ、多数の船が行き交っていた。この文化をいまに伝えるために、和船友の会の人たちが伝馬船、網船などに無料で乗船体験をさせてくれる。少しだけ櫓も漕がせてもらった。  

 ここで知り合った人に勧められ、神奈川大学で開かれた国際常民文化研究機構主催の研究発表会にも行ってみた。ミクロネシアのカロリン諸島ポロワット島で、手に入る材料のみを使い、上半身裸の太めのおじさんたちが大勢でわいわいがやがや楽しげに、ひたすら人力だけで大型外洋カヌーを建造する過程を撮影した貴重な映像記録などを見ることができた。蔓を巻尺代わりに使い、中央の位置は蔓を半分に折って決める人びとに、生きる力を見た気がした。そのほかに、これまで素通りしていたみなとみらいの日本丸にも初めて乗ってみたし、御座船安宅丸に一人で乗って東京湾ミニクルーズもしてみた。  

 しかし、この本が追究するのは造船の歴史ではない。海図もコンパスもなかった時代、自分がいまどこにいるのか、どこへ向かっているのかも定かでない状況で、人はなぜ海に乗りだし、どうやってその海を読み解いたのかを探るものだ。最初はもちろん、陸地から離れず、目立つ陸標を頼りに航行した。地乗りとか、山あてと呼ばれる航法だ。簡単そうに思えるが、山並みだって見る方角によってまるで違うし、天候によっては見えないこともある。船乗りは空を眺めて天気を予測し、季節ごと、日ごと、時間ごとの風、潮流、干満の変化を知り、水深を測り、五感であらゆる兆候を察知しながら慎重に海にでていった。六分儀もない時代に、太平洋に点在する小島へ渡っていった人びとの知恵と勇気は私の理解を超える。それでも高所から遠方を眺め、太陽の位置で方角を推測し、風向きを肌で感じ、日没点の変化をたどるなど、ささやかな努力はしてみた。体で覚えるこういう感覚こそが、本当の生きる力になる。怖いけれど、いつか私も本物の海を味わってみたい。

 コニストン湖

 日本丸

 横十間川親水公園

 御座船安宅丸

『海を渡った人類の遥かな歴史』
ブライアン・フェイガン著、河出書房新社

2013年4月30日火曜日

ジパング伝説

 先月の「コウモリ通信」で、江戸初期にヌエバ・エスパーニャからきた使者ビスカイノについて触れた。マニラ・ガレオン船の安全な寄港地を探すため、カリフォルニアの海岸線を測量してサンディエゴなどの地名をつけ、イギリス海賊のキャヴェンディッシュに襲われたサンタアナ号にも乗船していた人だ。ビスカイノはただ返礼のために訪日したわけではない。日本近海の北緯38度付近にあるとされた「金銀島」を探す密命を帯びていたのだ。『東方見聞録』に「島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している……その宮殿は……屋根がすべて純金で覆われている」と書かれて以来、ヨーロッパ人にとって日本は謎の黄金の国だった。測量を名目に家康から航海を許可されたビスカイノのために、向井忠勝は江戸時代三隻目のガレオン船を建造したが、この船は浦賀沖ですぐに沈没した。  

 黄金の国ジパングの伝説は、平泉の金色堂の話を伝え聞いた人の妄想から生まれたのだろうと、これまで漠然と思っていた。しかしそれならなぜ、北緯38度などという具体的な位置が伝えられていたのか。この時代、日本全国の地図はまだどこにも存在しなかった。マテオ・リッチの坤輿万国全図に描かれた日本も、近畿以東は完全にデフォルメされている。1602年の日本版では、太平洋の東の沖に大きな「金嶋」が浮かぶ。もちろん、こんな沖合に島はないが、東日本大震災で5m東にずれた牡鹿半島の目と鼻の先には、その名も金華山という島がある。この島の黄金山神社は古くから金華山信仰の場で、女人禁制の修験場だった。しかし、この島では金は採れない。  

 ならば、金色堂の金はどこからもたらされたのか。すぐに思い浮かんだのは佐渡金山だったが、開発されたのは江戸時代だった。答えはどうやら北緯39度の海岸から5キロほど内陸に入った、陸前高田市の玉山金山らしい。この恐ろしく入り組んだリアス式海岸を、スペインのガレオン船に乗って測量し、金銀島を探していたビスカイノ一行は、1611年12月2日に越喜来村(現在の大船渡市三陸町)の沖で慶長三陸地震の4mの大津波に遭遇し、村人が山に向かって走って逃げ、村が一瞬にして消える様子を目撃している。

 玉山金山の歴史は、仙台藩の鉱山を1595年から代々監督してきた松阪家に伝わる、江戸後期に書かれた文書にしか残されていない。しかし、その内容は他の史料からもおおむね裏づけられるという。当初は砂金採掘だったようだ。白村江の戦い(663年)以前に人質として日本に送られてきた百済の王子の子孫、百済王敬福が743年に陸奥守に任じられ、陸奥国小田郡で大陸の採金技術を使って日本で初めて金を産出し、献上した900両の金は東大寺大仏のめっきに使われた。

「続日本紀」には749年に「陸奥国始貢黄金」と記されている。「平家物語」の「金渡」にも気仙郡の金が登場する。平重盛が1175年ごろ寧波の育王山阿育王寺と南宋皇帝に黄金数千両と材木を、宋人船頭の妙典に託して贈ったと記されているのだ。ちなみに金色堂は1124年に完成している。マルコ・ポーロが元代のモンゴル人や中国人から伝え聞いた黄金の国ジパングの噂のもとは、ここにありそうだ。  

 玉山金山は、秀吉の天下統一とともにその支配下に入ったが、金山一揆(1594年)のあと伊達政宗の直営となり、以後、仙台藩の莫大な財源となった。ビスカイノは政宗に江戸時代四隻目のガレオン船サン・フアン・バウティスタ号の建造をもちかけた。この船は石巻の月の浦か水浜で、800人の船大工、700人の鍛冶屋、および3000人の大工を総動員して45日間で建造されたと言われ、慶長遣欧使節はこの船に乗って太平洋を渡った。ビスカイノは金銀島こそ発見しなかったが、日本の金のありかにはたどり着いていたのである。
 
 坤輿万国全図(部分)

2013年3月31日日曜日

浦賀散策

 昨年、徳川家康の時計を調査した大英博物館が「16世紀最高傑作」だと発表したニュースが話題を呼んだ。1607年に房総沖で座礁したスペイン船サンフランシスコ号の乗組員317人を石和田村民が救助したことへのお礼に、来日したビスカイノから家康が贈られた品である。記事を読んで、私は時計そのもの以上に、江戸初期に1000トン級のガレオン船が房総沖でいったい何をしていたのかに興味を覚えた。少し調べてみると意外な事実が次々にわかってきた。  

 スペインはそれに先立つこと1565年には、アメリカ大陸に建設したヌエバ・エスパーニャのアカプルコから太平洋を横断して香料貿易の拠点であるマニラへ向かう貿易ルートを開発していた。アカプルコとマニラはほぼ同緯度にあるので、往路は北東からの貿易風に乗って、途中マーシャル諸島やグアムに寄航しつつ西へ向かえばよい。復路は北緯38度付近までいったん北上し、そこから偏西風に乗って島一つない太平洋のこの海域を横断し、サンフランシスコ沿岸に達したあと南下したと考えられている。スペイン船はその少し前の1596年にも土佐沖に漂着しているので、フィリピンから黒潮に乗って日本沿岸を航行していた可能性が高い。日本が鎖国しているあいだも、スペインのガレオン船は1815年にメキシコが独立するまで近海を定期的に行き交っていたのだ。  

 それどころか、家康はこの貿易の途中でスペイン船に日本に寄航してもらうことを考え、その拠点として浦賀にフランシスコ会修道院の建設を許可していたという。スペインは旧教だが、一連の交渉にはウィリアム・アダムズが通訳として幕府とのあいだに入った。浦賀については、幕末にペリー艦隊が沖合に来航したことくらいしか知らなかったが、江戸初期にアダムズが乗ってきたリーフデ号もここへ廻航されてきたし、徳川水軍の将で、巨大な安宅丸を建設した向井忠勝の本拠地でもあり、重要な湊だったらしい。そこで先日、ようやく春らしくなった日に浦賀湊と灯台や砲台跡のある観音崎を歩いてみた。  

 いちばんの目的はフランシスコ会修道院跡を探すことだった。ところが、地元の人たちに聞いてみても、「そう言えば昔は大きな墓のようなものがあった」とわかっただけで、古そうな石垣の先は行き止まりになっていた。近くにあったはずのアダムズの浦賀邸も、井戸と江戸末期の祠が残るばかりだった。三浦半島のこの一帯は関東大震災のときの震源地でもあり、江戸時代の痕跡はかき消されてしまったようだ。川幅ほどしかない浦賀湊には、桧皮葺の屋根を模した遣明船のような渡し船がいまも行き来するが、ペリー艦隊はとても入れそうにない。やはり久里浜沖に投錨してボートで上陸したようだ。海岸まで丘陵が迫り、あちこちにワカメが干してある浦賀はあまりにものどかで、マニラ・ガレオンが寄航する一大貿易港に発展したかもしれない場所とは想像もできなかった。  

 造船所で12年間、徒弟として働いた経験のあるアダムズは、家康に懇願されて80トンと120トンの小型ガレオン船を伊東で建造している。サンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴ総督らスペイン人は、後者の「サン・ブエナ・ベントゥーラ」号を家康から譲り受けて無事に太平洋を横断し、アカプルコに帰還した。ちなみに日本ではこの時代にもう二隻ガレオン船が建造されており、いずれにも向井忠勝がかかわっている。四度の貴重な実習体験を積んだ船大工たちが、江戸時代に和船の造船技術を大きく進歩させた可能性も大いにありそうだ。

 観音崎灯台からの浦賀水道

 浦賀の渡し

 フランシスコ修道院の跡地

2013年2月27日水曜日

江戸の水道

 江戸初期の史料『慶長見聞集』の「江戸町の水道の事」の項にこう書かれている。「見しは昔。江戸町の跡は今大名町に、今の江戸町は、十二年以前まで、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海を埋め陸地と為し、町を立て給ふ。然るに、町豊かに栄ゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民これを嘆く。君聞し召し、民を哀れび給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を、江戸町へ遍く与え給ふ」。十二年以前までは海だったというのは、先月のコウモリ通信で書いた日比谷入江の埋め立てを指す。同じ史料によれば、この工事は慶長8年から行なわれたそうなので、4年間で成し遂げたということだろうか。人力も侮れない。  

 一昨年、ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』を訳して以来、水道や運河の存在が気になる。水源から一定の量の水を自然流下させ、途中で両岸を浸食したり氾濫したりすることなく遠隔地まで水を運ぶには、綿密な測量にもとづく微妙な勾配の調整が必要であることを知ったからだ。人類の多くは遠くの水源から水を引いてくることで、どうにか共同体を維持してきた。灌漑用水路や水道とともに文明は発達したのであり、測量術や水理学は生きるための知恵だった。一方、世界でも稀なほど雨量の多い日本では、湧水も地下水も容易に手に入ったため、立地条件の悪い場所に許容量を超える人口が集中した江戸の建設時まで、飲料水を供給するための本格的な上水道は必要とされなかった。  

 江戸時代の水道について知ろうと、本郷にある東京都水道歴史館に行ってみた。クレタ島ではテラコッタのパイプが、ローマでは石樋や鉛管が使われており、タイでは17世紀後半に西洋人技師がやはり素焼きの水道管を導入していたが、江戸の水道管の多くは木樋だった。大半は厚板を組み合わせた、およそ水道管には見えない構造物だったが、日本では古墳時代から下水、トイレ、近距離の導水管などに同様のものが使われていたし、木材も豊富なので、当然の選択だったのかもしれない。一本だけ丸太をくり抜いた木樋も展示されていた。江戸時代にどんなドリルでこれを製造したのか想像もつかないが、イングランドでは12世紀ごろすでに中空の丸太の排水管が使われていたとフェイガンの本に書かれていたのを思いだす。画像検索で見た16~18世紀のロンドンの水道管も、これとそっくりだった。江戸時代のこの丸太の水道管は、日本で独自に発明されたものなのだろうか? 
 
 『慶長見聞集』に書かれた水道は実際にはごく限定的なもので、寛永6年(1629)ごろ水戸藩邸に上水が引かれているため、神田、日本橋方面に給水していた神田上水は、それ以降に懸樋で神田川を越え、地面に木樋を埋設するかたちで整備されたと考えられている。  

 稲作をするには田んぼを水平につくり、近くの川から水を引いてこなければならないし、巨大古墳を建造するには相当な土木技術が必要だ。ギリシャ人が発明したコロスバトス(コロバテス)と思われる水準器は、鎌倉時代にすでに日本にもあったようだ。夜間に提灯をもった人びとを立たせ、灯から灯の高さを離れた場所から測って勾配を知る提灯測量の記録も江戸時代にはかなりある。多摩川から全長43キロ、標高差92メートルで水を引いた玉川上水でも、こうした測量が実施されたとも言われるが、実際はどうだったのだろう?  

 この時代にはイエズス会士から航海術や天文測量術を学んだ人もいたし、明の数学書も入ってきている。さらに1643年のオランダ船ブレスケンス号事件の埋め合わせに、1649年から51年までオランダ商館に外科医カスパル・シャムベルゲルや臼砲射撃専門のユリアン・スヘーデルらが派遣され、このスヘーデル伍長が家光の家臣に三角測量を伝授したようだ。玉川上水は1652年に計画され、翌年4月に着工した。偶然の一致だろうか? 「当君の御威勢」の陰には、諸般の事情による技術の伝播と、試行錯誤があったに違いない。

 東京都水道歴史館の木樋

 神田上水懸樋跡