2015年6月30日火曜日

150年ぶりの「再会」

 幕末の日本にイギリス公使館付きの騎馬警備隊隊長として来日し、6年近く滞在中に私の高祖父に西洋式馬術を教えたアプリン大尉について、コウモリ通信に書いたのは昨年4月のことだった。「あっ、また伝次郎さんしてる!」と娘にからかわれながら、どうやら私は1年半ほどご先祖探しをつづけているらしい。その間にいくつか大きな進展もあった。アプリン大尉の直系の子孫ではないが、アプリン一族の歴史を調べあげていた遠縁の方と知り合いになれたのは、なかでも画期的だった。イアン・アプリンさんというこの方は、アプリン大尉の孫に当たる人とロンドンの紳士クラブでの遊び仲間だったそうで、一族に関する多くの情報を教えていただいた。たいへんご高齢ながら、いまなお国際問題に関する論文を執筆されている方なので、その後もたがいの祖先の話題に限らず、多岐にわたる問題についてたびたびメールをやりとりしている。  

 イアンさんからは、アプリン大尉の長男レジナルドが書いたAcross the Seven Seasという自叙伝も、手元に二冊あるからと分けていただいた。レジナルドがハリー・パークスの息子と同級生であったことや、父のアプリン大尉が1877年に露土戦争でコンスタンチノープルに派兵されたことなど、私が興味をもちそうな箇所一つひとつに丁寧に付箋をつけて送ってくださった。レジナルドはそれこそ七つの海を越えて大英帝国の軍人および政治家として生涯を送った人であり、勲章をつけた軍服姿の写真からは武勲を誇る厳めしい人物が想像された。軍人の書いた自伝など、武勇伝ばかりなのではないかと期待せずに読み始めたのだが、これがじつにユーモアたっぷりの文章で、ボルネオの首狩り族から信頼された唯一の西洋人であったことや、演劇好きで、バイオリンを持ち歩いていたこと、自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じたことなどが綴られていた。1890年ごろ、21歳で赴任したシンガポールで、ラッフルズ・ホテルに宿泊したときのことを彼はこう書いている。「一カ月間、船の寝台で過ごしたあとで、陸に上がってゆっくりくつろげる晩になるだろうと期待した。ところが、大きな蚊帳の下で苦痛に満ちた、眠れない夜を過ごすはめになった。蚊帳のなかには、ホテル中の蚊がすべて入っていたらしい。蚊どもは私の体のいちばん柔らかい部分から血を吸って、たっぷり欲望を満たしていた。翌朝、起きると、顔も足首も手首も腫れあがり、シーツとカーテンには赤い染みがあったので、多くの敵をやっつけたのは確かだった。ただし、犠牲者が流した血は、私自身のものなのだが」  

 レジナルドの弟のアーサーは、若いころは劇団に入っており、のちに戯曲や小説を書いて有名になった。彼が残した作品は100冊以上ある。イアンさんのお勧めで、私はPhilandering Anglerという最晩年に書かれた自叙伝を購入した。末子であるアーサーは、父のアプリン大尉とよくフライフィッシングにでかけたようで、晩年までお父さんにもらった釣り竿と狩猟服を愛用していた。一家はデヴォン州トーキーにあるチェルストン・マナーという豪邸に住んでいたのだが、「私の父は財産を胴元の鞄に移してしまったので、私の教育は14歳のときに終わりを迎えた」と、彼は書いている。アプリン大尉が競馬で財産を失ったというのは、横浜で競馬に興じていた居留地の人びとのことを考えると、なんだか笑える。「私の父には不思議な魅力があった。父は犬や女たち、魚、家禽、それに自然とともに生きる貧しい民を魅了することができた」とも書いている。伝次郎もその魅力にやられた1人なのだろう。息子たちはいずれも金儲けには無頓着で、世界各地を冒険心の赴くままに渡り歩く人生を送ったようだ。  

 ほかにもアーサーの作品を読みたいと思ってネットを検索中に、彼の小説Piccadillyが、『ロンドン・バレー・ピカデリー』という題名で1930年に春陽堂から邦訳出版されているのを発見した! 原書はその前年に刊行されていた。訳者は西宣雄氏で、おまけに中出三也氏の挿絵付きだ。「世界大都會尖端ジャズ文學」シリーズの一環として昭和5年にこんな本が出版されていたのは、その後まもなく鬼畜米英の時代を迎えることを考えると、じつに意外な感じがする。これはまだ積ん読状態だが、時間を見つけてじっくり味わいたい。息子たち二人の家系は残念ながら途絶えてしまっているが、若くして亡くなったと思われる娘の子孫が、姓は異なるが存命であるらしいこともわかった。  

 5月初めには、イギリスに3カ月ほど滞在中の娘が、電車を乗り継ぎ、はるばるデヴォン州までイアンさんご夫妻に会いに行ってくれた。いわば150年ぶりの子孫同士の再会が実現したのだ。まるで孫を迎えるみたいに大歓待してくださったようで、一族に関する膨大なファイルを見せていただいたほか、アーサー・ランサムの話から鳥や絵のことまで話題が尽きなかったとかで、祖先の話にあまり興味がなかった娘も非常に楽しかったらしい。お土産には、アプリン大尉が来日した1861年に制作された、虫食いのある、芳虎の「外国人物尽英吉利」の横浜絵をもたせた。これまでわかった限りの事実と時代背景をまとめた25ページもの報告書や多数の画像データにも、イアンさんは丁寧に目を通してくださった。私も遠からぬうちにお金を貯めてイアンさんを訪ね、いまはホテルになっているチェルストン・マナーにも一泊くらいはしてみたい。

 レジナルドの本

 アーサーの本

 アーサーのピカデリー、右側が邦訳書

 イアンさんが送ってくれた「再会」の写真

 虫食いのある横浜絵

2015年5月31日日曜日

『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』

 人は自分が生まれた時代を基準にものごとを考える。19世紀生まれの人はもう存命ではないだろうから、いま生きている日本人はみな日本が先進国だと考えているだろう。たとえば私なら、テレビ、電話、自動車などが初めてうちにやってきたときのことは漠然と覚えている。最初の洗濯機には手回しの脱水機がついていたと思うし、時計はチクタク鳴るゼンマイ式や振り子式だった。それでも、電気・ガス・水道がなかった時代は知らない。平成生まれの若者なら、パソコンやファックス、ビデオがある生活が基準となり、いまの子供にいたっては、最初に目にした「玩具」がスマホかもしれない。  

 自分が生まれるわずか数十年どころか数年前まで、こうした文明の利器がなかったことなどは、人はあまり考えない。まして、それらがどうやって発明され、つくられたかなどは意識しない。現代の生活を限りなく楽で豊かなものにしているインフラや先端技術が大災害で使用できなくなって初めて、人はあわてふためく。自分たちがいかに、とうてい理解できないほど複雑になった人間社会のなかで、日々、仕組みも原理もさっぱりわからないもののボタン操作だけを学んで、家事や仕事をこなした気分になっていたかに気づかされるのだ。

 こんなことをあれこれ考えさせられるきっかけとなった本が、このたび河出書房新社から刊行される。『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』というやや衝撃的なタイトルで、著者ルイス・ダートネル氏は、一見すると大学院生のような若いイギリスの研究者だ。すべてが崩壊しても、種となる知識があれば、文明は紆余曲折した中間段階を省いて急速に復興できるかもしれないと彼は考え、本書はいわばそのマニュアルとなっている。「おそらく歴史上で最も感銘深い一足飛びの離れ業をやってのけたのは、十九世紀の日本だろう」という彼の言葉を訳しながら、つい苦笑した。幕末に入ってきた多数の蘭書や長崎海軍伝習所、明治のお雇い外国人による技術指導、それらのおかげでいまの日本がある。日本人はまさに詰め込み勉強をしたわけだ。  

 福島の原発事故以来とみに、科学技術によって人間は不幸になったとか、もう科学は信じられないといった主張を聞くようになった。技術がかならずしも人間を幸せにはしない実例は、確かにいくらでもある。それでも、著者が指摘するように、「科学の本質は、自分が間違っていたことを繰り返し認め、新しいより包括的なモデルを受け入れることにあるので、その他の信条体系とは異なり、科学の実践は僕らの物語が時を経るにつれて着実により正確になることを保証するのである」。科学の原理を応用したテクノロジー、つまり技術が役に立たなかったからといって、科学の原理そのものが間違っているとは限らない。間違いはたいがい、目先の便利さや利益にとらわれ、環境への影響を顧みなかった実践方法にある。文明というのは、農耕の始まりからして科学と技術の積み重ねだったのであり、「作物が栽培されている農地は非常に人工的な環境であり、自然はつねにそれに反発することを意味する」と、彼はいみじくも指摘する。移動しながら狩猟採集を営み、人口を増やさず、自然のリズムのなかで生きているごく少数の人びとを除けば、人類は農耕を始めて定住したときから、自然に背を向けてきたのだ。  

 若い著者の鋭い指摘や解説に唸らされながら、それを確認するために今回も時間の許す限り調べものをし、実験できるものは自分でも試してみた。たとえばリジッド・ヘドル。平織りするために、「細長い隙間と穴が交互に一列に並んだ長い板に、それぞれ経糸を一本ずつ通すという独創的なもの」で、経糸を交互に上下させるいちばん単純な形態の綜絖だ。ネット上で見た画像を参考に、私はアイスクリームの棒を使って工作し、織物らしきものをつくってみた。本書のヒントに従って小麦粉と水を混ぜて培養してサワードウをつくり、ガスレンジについている魚用グリルでパンも焼いてみた。サワードウは冷蔵庫で一週間は充分にもつので、それ以来このパンを定期的に焼きつづけている。鉱石ラジオにも挑戦してみたが、なにしろ電気はまったくの不得意分野なので、カミソリの刃や鉛筆で工夫するのはあきらめ、基本セットを購入した。接続が悪いうえにアンテナが不出来なので、ラジオと呼べるようなものにはならなかったが、どこかの局の放送を聴力検査のようなかぼそい音で拾ったときは感激した。三鷹にある水車も見に行ったし、以前につくった動くカラスカードの仕組みがクランクであることを、いまごろになって知った。カムやクランクや歯車の仕組みが簡単に学べる玩具があれば、子供は夢中になって遊ぶだろう。いつか石鹸くらいは挑戦してみたいが、苛性カリをつくるのは一仕事のようだ。マンハッタンのほぼ東西に走るストリートでは、春分・秋分に近い日にストーンヘンジのような現象が見られることも本書で知り、ちょうど同じような条件にある近所のマンション群で、ビルの谷間から昇る朝日と沈む夕陽も眺めてみた。  

 大惨事の生き残りが、私のような文系人間ばかりであれば、この本が見つかっても文明は再建できないかもしれないが、この本が植えた知識の種は着実に私のなかでも育ちつつある。意欲のある若い人にぜひ読んでもらいたい一冊だ。

『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』ルイス・ダートネル著(河出書房新社)

2015年4月30日木曜日

「大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史」

 東京都美術館で開催中の「大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史」に行ってきた。人類の数百万年におよぶ歩みを、100のモノを通して考えるというこの壮大なプロジェクトは、七つの海を制覇した大英帝国があってこそ可能になったものだろう。だが、世界の片隅の、とうに滅亡した文明にまで深い関心をいだき、残された断片を丁寧に調査、修復、保管し、世界中の研究者にそれを調べる機会を提供している大英博物館の姿勢には、やはり感服させられる。私はこの展覧会のもととなった本および、今回のカタログとパネルの翻訳に携わらせていただいたので、どの作品もすでによく知っているつもりだったが、やはり大きさや質感、細部や裏側などは、実物を見なければわからない。間近にじっくり見て初めて気づくことはいくらでもある。  

 小さくて、ガラスケース越しに見るだけではちょっと物足りないものもあった。スペインの銀貨のピース・オブ・エイトもその一つだ。インカ帝国を征服したスペインがポトシ銀鉱山の豊富な銀で鋳造し、世界中で使われるようになった硬貨だが、私にとってこれは、アーサー・ランサム全集にでてくる緑のオウムのポリーの言葉だった。「八銀貨」という訳語に小さくピース・オブ・エイトとルビ文字が振ってあったので、小学生の私には謎の呪文のようだった。  

 最近になって、この硬貨が幕末史によく登場するメキシコ銀、洋銀、メキシコドルと呼ばれていたものでもあることに気づいた。生麦事件でイギリスから10万ポンドの賠償金を要求されたとき、幕府はこれを1ポンド=4ドルの換算レートで、40万ドル分のピース・オブ・エイトで支払った。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のチャールズ・ワーグマンの絵には、神奈川運上所の役人が居心地悪そうに椅子に座りながら、硬貨を一心に数える3人の中国人と複数の日本人を見守る光景が描かれた。「早朝から2000ドルずつ収められた箱を積んだ荷車が公使館に到着し始めた。中国人の硬貨鑑定人(極東で硬貨が本物かどうか検査するために貿易商や銀行に雇われた人びと)がみな集められ、鑑定と勘定に取りかかった」と、アーネスト・サトウは書いた。「この作業に3日間が費やされた」のち、前年の第二次東禅寺事件の賠償金と合わせて44万ドルを詰めた合計220箱が、目を丸くした「ヨコニン」たちが「マロホド!」と見送るなか、アプリン中尉の率いる騎馬護衛隊と海兵隊に守られ、現在の象の鼻パークの桟橋の英海軍のパール号まで運ばれる様子も報じられている。  

 鎖国時代にこれだけの洋銀を幕府はどうやって集めたのだろうか。いや、幕府だけではない。たとえば生麦事件後に薩摩藩がグラヴァー商会からイギリスの鉄製蒸気船ランスフィールド号を購入する契約を破棄された際に、噂を聞きつけた長州藩が代わりにこの船を英一番館のジャーディン・マセソン商会から12万ドルで購入している。この洋銀を調達したのは横浜本町二丁目の伊豆倉商店で、交渉役は町人姿で現われた井上馨だった。番頭の佐藤貞次郎は「其翌日志道聞多君御出にて、町人の姿、無刀は勿論、紺地に白の花形有る紺更紗の風呂敷に紙入様の物を包み、頸に巻掛け、伊豆倉見世先に立ち、予が名を呼で云く、今日洋銀五百枚程入用なり、赤根方迄持参を頼むと」と語った(『井上伯伝』、『密航留学生たちの明治維新』犬塚孝明著に引用)。この硬貨は1枚27gほどなので、12万枚となれば重量が3.24トンにもなるが、いったいどうやってひそかに支払いを済ませたのだろうか。井上はその後すぐに、このコネを使ってイギリスに密航するのだが、ランスフィールド号のほうは壬戌号と名前を変えられ、下関戦争でアメリカ軍艦ワイオミングの砲撃を受けて沈没した。  

 今回の大英博物館展には、ほかにも花祭りの「天上天下唯我独尊」ポーズのお釈迦様にしか見えないゴアのキリスト像や、シルクハットをかぶったシエラレオネの儀式用仮面など、不思議なものがたくさんきている。後者は理想の女性像を表現した仮面なのだそうだが、19世紀末にエリート層が男女を問わず、ステータス・シンボルとしてシルクハットをかぶるようになった時代の珍品らしい。つい苦笑したくなるが、日本でも明治期に同じような光景が見られたので、いずこも同じということか。「親子で似たような装いをして夕飯時に帰宅の途につく日本のパパは、親としての威厳だけでなく、この奇妙な恰好の息子の本来のあどけない魅力も、ほとんど発揮させていない」と、1875年の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュースは伝えている。  

 東京都美術館では101番目のモノとして、坂茂の紙の避難所用間仕切りを選んでいた。紙管を使って教会も建ててしまう建築家なので、そのアイデアには脱帽だが、考えてみれば幕末にきた外国人はみな、日本人は木と紙の家に住んでいると書いていたので、いかにも日本らしい101番目のモノかもしれない。この展覧会は6月末まで東京で開催されたあと、福岡、神戸へと巡回する。4月からNHKラジオ第1で「モノが語る世界の歴史」という番組も放送されており、インターネットでも過去の放送を聴くことができる。一つの物を掘り下げることで見えてくる歴史の意外なおもしろさを、ぜひお楽しみください。 http://www.nhk.or.jp/radiosp/daiei/

『大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史』公式カタログ(筑摩書房)

2015年3月31日火曜日

御殿山

 桜が咲くのを待って御殿山に行ってきた。などと書くと、首を傾げる人が多いかもしれない。御殿山と聞けば、たいがいの人は御殿山ヒルズを連想するのではなかろうか。最近は御殿山トラストシティという名称に変わったらしい。

「この公園は江戸の人びとが宴会を開く大行楽地だった。ピクニック・パーティの風習がこれほど盛大に行なわれる場所は、世界中で日本のほかにはないだろう」。ジョン・レディ・ブラックは『ヤング・ジャパン』のなかで、御殿山の花見について書いた『ジャパン・ヘラルド』紙(1862年7月12日・19日)の記事を詳しく引用して書いている。執筆者は誰だったのか、家康はここに御殿を構え、江戸に渋々やってくる諸藩の大名を出迎えてもてなしたが、三代の家光はもうその必要はないと判断して、江戸湾も東海道も品川の台場も見下ろせる軍事的にも要衝のこの地を引き払い、広大な跡地に桜を植えて江戸の住民の行楽地にしたといった説明が記事にはあった。「江戸近郊で御殿山ほど楽しい場所はない。行楽地はほかにもあるが、彼らには海の景色が必要だった――小高い場所――紺碧の海を縦横に進む白帆――心地よい木陰――遠くまで見渡せる景観……」とつづく。

「御殿山に建設される屋敷に外国人を住まわせるわけにはいかないと、熱心な攘夷派によって最初から決まっていたのだといまでは言われている。……『やつらはわれわれの愛する桜の木を切り倒したのだ。外国人の家を建てる場所をつくるために。だが、それは落成する前にひどく赤い花となるだろう』と、侍は言った」と、ブラックはのちに書いた。

 侍の言葉はもちろん、文久2年12月(1863年1月)に起きた英国公使館焼き討ち事件を予告したものだ。襲撃者は高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤俊輔、品川弥二郎、松島剛蔵、赤根武人など10人ほどの長州の若者だ。「その後幾年かたって、最も確かな筋から、放火の犯人は主として攘夷党の長州人であったことを聞いた。少なくとも、その中の三人は、後に政府の高官になっている。それらは総理大臣伊藤伯と井上馨拍で、三人目はだれであったか思いだせない」と、この公使館の完成を心待ちにしていたアーネスト・サトウは書いている(『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳より)。

 御殿山は幕末のこの時期にどれくらい桜の名所でありつづけたのだろうか。広重の「名所江戸百景」(1856-58年)には、品川沖に台場を築くために山の形が変わるほど削られてしまったため、もう一度描いたという「品川御殿やま」の浮世絵がある。手前に見える崖のような部分だろうか。ほぼ同年に製作された地図には「御殿山 櫻ノ名所ナリ」という文字とでこぼこの区画がある。愛用の人文社の古地図ライブラリーには当時と現在を合成した地図もあるが、品川駅の場所は海だったようだ。桜の便りを待って、品川一帯を歩いてみた。  

 まずは大木が鬱蒼と生い茂った一帯を、ぐるりと囲む高い石垣沿いに延々と歩いた。入口にたどり着くと、「三菱 開東閣」とあり、立入禁止だった。あとで調べてみたら、奇しくも伊藤博文邸だった地所を三菱2代目の岩崎弥之助が買い取ったもので、なかにジョサイア・コンドル設計の豪邸があるらしい。GHQに一時接収されていたが、現在は三菱グループの賓客接遇施設だとか。

そこから原美術館へと回ると、ちらほら桜の木が見えてきた。御殿山通りにはちょっとした桜並木があってきれいに整備されている。その横には御殿山トラストシティの一角として池や人口の滝まで備えた日本庭園があり、この高級住宅街の住民の憩いの場となっていた。英国公使館があったとされる一帯は、御殿山を切り裂くかたちで山手線や新幹線が通っていることもあって見る影もない。「われわれの愛する桜」は、外国公使館の建設だけでなく、軍備と開発であらかた切り倒され、残された一等地にそうした行為で財を成した当人たちが住み込んで庶民を締めだしてきたということか。

釈然としない思いで、駅の北側にある東禅寺まで歩いた。仮住まいしていたイギリス公使館が、水戸の浪人とその警備に当たっていたはずの兵に二度も襲撃された現場である。 

追伸:4月18日から東京都美術館で始まる「大英博物館展――100のモノが語る世界の歴史」の公式カタログが出来あがりました。今回の展覧会にやってくる新たなモノたちの来歴を含め、A4変形版で写真も格段に大きくなりました。カバーが一新された筑摩選書の『100のモノが語る世界の歴史』(全3巻)と合わせて、ぜひ展覧会前にご一読下さい!

 広重の品川御殿やま

品川御殿山のイギリス公使館設計図 (東京大学史料編集所所蔵)

 御殿山通り

開東閣の石垣

2015年2月28日土曜日

キンセ・シリアク『近世史略』

 近年、版権の切れた古書の多くが大学などの特別プロジェクトのおかげでネット上で手軽に読めるようになった。先日もジョン・R・ブラックの『ヤング・ジャパン』の原書を読んでいたところ、その記述の典拠が「Kinsé Shiriaku」となっていて、思わず首を傾げた。キンセ・シリアク? 近世……尻悪? 調べてみると、アーネスト・サトウが1873年に翻訳したもので、原書は山口謙が1871年に著した『近世史略』であることがわかった。サトウの訳書のほうはいまでも簡単に買え、幕末史の本として海外で知られているようだが、原書の『近世史略』は古典籍総合データベースなどにはあるものの、いまや忘れられたも同然だ。運よく¥3,000の古書を見つけ、思わず衝動買いした。

 届いてみると、その軽さにまず驚いた。裏が透けるほどの和紙に、おそらく木版で印刷され、和綴じになっている。しかも、私が入手したのは明治5年刊で、サトウが底本とした初版かもしれない。ぱらぱらとめくってみて、ふと「亜國使節丿下田ニアルヤ長州吉田松陰其門人渋木某ヲ率ヒ卒然使節ノ舟に就キ倶ニ航セン事ヲ請フ」という下りが目に留まった。『花燃ゆ』で先日、放送していた松陰の密航の箇所だ。

 さらにこうつづく。「其邦禁ヲ犯スヲ以テ吉田渋木及ヒ佐久間象山ヲ獄舎ニ囚フ象山ハ松代ノ人文學該博傍ラ洋書ヲ讀ム松陰初メ兵ヲ象山ニ學フ」。サトウの訳はこうだ。“For this infraction of the laws Yoshida, Shibuki, and Sakuma Shôzan were cast into prison. Sakuma was a Matsushiro (in Shinano) man of vast learning, and also acquainted with European literature. He was Shôin's first instructor in the military art.” 

 明治初期に書かれた日本語よりも、英語のほうがよほどわかり易いのはなんとも情けない。こんな和本を出版してすぐに見つけ、一年後には訳書として刊行してしまったサトウの日本語の能力に感服した。このあとさらに、象山がオランダからの船の購入は、海外の情勢を知り、航海術を学ぶ機会にもなるので、オランダ人任せにせずに、日本人を派遣するようにと主張する言葉に「松陰斯ノ儀ヲ聞キ大ニ感發*スル所アリ窃ニ航海ノ志ヲ起ス」とつづく(私の版は*が叢に似た字になっている)。大河ドラマでは見事に省かれた密航の経緯が、ペリー来航に伴う近世の大事件として、ここにはきちんと書かれていた。これに先立って長崎のロシア船に密航を企てた松陰が、象山に別れの挨拶にきたときのことも、「象山其意ヲ察シ旅費ヲ興ヘ詩ヲ作リ行ヲ送ル」と記される。「環海何茫々、五州自成隣、周流究形勢、一見超百聞」で知られる餞別の詩と金四両のことだ。「松陰ノ捕ハル所持ノ行李ニ象山送別の詩アリ故ニ事象山ニ牽連スルナリ」として、象山が逮捕された理由もある。

 じつはブラックの本で最初に引っかかったのは、Ohara Shigetamiという名前だった。その一文の典拠がキンセ・シリアクだったために、この古書を入手するはめになったのだが、『近世史略』にはこうある。「松陰幕府ノ複タ輔クヘカラサルヲ謂ヒ乃チ廷臣大原重徳ヲ其藩ニ迎ヘ尊攘ノ説ヲ以テ藩論ヲ鼓動セント窃カニ書ヲ重徳ニ呈ス」(“Shôin declared that it [the Bakufu] could not be saved. He secretly wrote to a court noble named Ôhara Shigétami inviting him down to Chôshiu, in order to get up an agitation in the clan for the expulsion of the barbarians, and the restoration of the Mikado.”)。大原重徳(しげとみ)はのちに島津久光に警護させて幕府に文久の改革を迫った勅使で、これは幕府の権威を貶めた前代未聞の出来事だったそうだが、薩長に使い捨てられたのか、この人はあまり知られていない気がする。久光の一行はこの帰りに生麦事件を起こしている。

 松陰の再逮捕の下りではこう記されている。「適々間部下総守元老ノ命ヲ受ケ京師ノ有志ト唱フル者ヲ捕フ松陰即チ下総守ヲ圖ラント死志ヲ募リ京師ニ遣リテ事成ラス」(It happened that Manabé Shimôsa no kami had arrested, by order of the Chief Minister, all the patriots of Kiôto: and Shôin, collecting a number of desperate men, despatched them to the capital to assassinate Shimôsa no kami.)。そして「匿名書ヲ禁中ニ投シ及ヒ梅田源次郎長州ニ遊フ時梅田ト密謀ヲ合スル事」は否定し、「因テ詳ラカニ之ヲ辯解シ却テ呈書及ヒ閣老ヲ圖ル事ヲ陳ス」(He therefore gave complete explanations on these two points, but confessed his letter to Ôhara and his plot to assassinate the Minister.)。「松陰一タヒ航海ノ機ヲ誤ルヨリ為ス所皆蹉跎人其志ヲ哀ムト云」(Every plan conceived by this man since his failure in the attempt to get a passage on board the American squadron had ended in disaster, and his fate excited universal pity.)

 なぜ英語を学ぶのか、といった議論が最近また盛んになっているが、『近世史略』をサトウ訳を頼りに読めば、歴史も古文も英語も一石三鳥で学べる。明治の刊行なので、本書はすでに明治政府の意向が反映されているだろうが、当時の日記、書簡、新聞などを幅広く引用しており、少なくともこの時代の通説は読みとれる。自国の歴史を忘れ、古語は読めなくなり、為政者に都合よく書き換えられても気づかない国民にとって、外国語は必携の鏡かもしれない。

2015年1月31日土曜日

人力

 このところの円安のせいで観光地はどこも外国人で賑わっているという。「5年後の東京五輪に向け、人力車の台数を増やすか検討している」。先日、こんな記事を毎日新聞で読み、思わず苦笑してしまった。Rickshawという英単語があり、同様の乗り物がアジア各地に見られるので、中国かインドで発明されたのだろうとずっと思っていたが、人力車はどうやら日本が発祥の地らしい。まさに日本の伝統文化なのだが、発明されたのはじつは明治になってからだ。

  刀や甲冑をつくる鍛冶屋はいたのに、鉄を量産できなかったせいか、日本では車輪に鉄製の箍をはめることも、ハブを金属で補強することもなく、明治初期まで御所車のような巨大な木製の車輪が大八車にも使われていた。これではもちろん重過ぎて、人間一人の力ではとうてい引っ張れない。軽量で丈夫な車輪の製法は、幕末に馬車が導入されたときに伝わったと見られ、1865年にはフランスの技術指導で横浜に製鉄所もつくられたが、なぜか普及したのは人間が引く乗り物だった。そもそも家畜を去勢して荷を引かせる習慣がなく、牽引用に特殊な馬具を必要とする馬は、簡単な軛で間に合わせられる牛以上に利用が難しかったのだろう。畜産ですら、一部の藩で行なわれていたに過ぎない。馬車の通れるような舗装された広い道が少なく、橋もほとんどが木製で、渡し場があったことなども、江戸幕府が敢えて馬車を普及させなかった理由らしい。横浜には「馬車道」とわざわざ名づけられた通りがある。国によっては2000年以上も前から使われていた馬車が、日本では明治期の最新技術であったことが、この名称からもうかがえる。

 「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」と明治の流行歌にうたわれた「文明開化」という言葉は、福沢諭吉が最初にcivilizationの訳語として使ったものだという。文明と対置するのは未開または野蛮なので、そう考えると江戸時代までの日本は未開の地だったことになる。そんなことを書けば、むきになって反論されそうだが、室町末期に来日したザビエルはもとより、幕末にきた外国人の目にも、日本はきわめて特異なお伽の国として映っただろう。なにしろ、独特の文化があって、秩序も保たれているが、彼らが文明国の条件として考えるじつに多くのものが、江戸以前の日本には欠如していたからだ。何よりも、日本には人力以外の動力を使おうという発想がなかった。水車にしても、明治以前に普及していた地域は限られており、大半は最も単純な下射式だ。古代ローマには水車の動力を利用した製材所があったというが、日本では江戸末期でも人力一筋だったことが北斎の絵などからもわかる。

  じつは現在、なんらかの原因で文明が崩壊したあと、人類が狩猟採集生活に戻ることなく、再び文明を再建するためにどんな知識が必要か考える本を訳している。ところが、新しい章に入るたびに、うーむ、日本ではこれも明治の新技術なのに、と考え込まざるをえない。たとえば焼成煉瓦。関東大震災で煉瓦造りの西洋建築が多数崩れたこともあって、日本では一時的なブームに終わったようだが、煉瓦は建材であるだけでなく、家庭の暖炉から高炉までつくれる炉材でもあった。金属を製錬するにも、ガラスやセメント、化学肥料といった、「文明」を支えるさまざまなものを製造するにも、高温に耐える炉がなければつくれない。日本にも5世紀なかばには登窯が、ろくろや炭焼きの技術とともに伝わったようだし、粘土製の炉で木炭と鞴を使って砂鉄から鉄をつくるたたら吹きは行なわれていたようだが、トリップハンマーのような水力機械は普及せず、もっぱら鍛冶職人の腕頼みだったためか、大きな産業に発展することはなかった。トリップハンマーは前漢末期の書物にすでに書かれていて、後漢の杜詩はこれで冶金用の高炉を改良していたと知れば、なぜその知識が海を越えてこなかった、と唸りたくもなる。なお、江戸時代の参勤交代はひたすら徒歩だった。九州などの遠方の藩は部分的に御座船も利用したが、あっても小さな横帆一枚なので、基本は櫓走、つまり人力だったようだ。

  世界の発展からひたすら取り残された禁欲生活だった感が否めないが、だからこそ外国から物資を恒常的に輸入しなくても、島国で「自国軟禁」生活をつづけられたのだろう。製鉄業は世界各地で燃料の木炭をつくるために森林を破壊してきたし、明治以降は日本も足尾銅山に始まる公害に苛まれた。いろいろ考えれば、江戸時代の人びとは日々スポーツジムに通っていたようなもので、健康的でエコロジカルかつエコノミカルだ。何をなすにも大勢の人手が必要であれば、機械を所有できる少数の人間だけが絶大な権力をもつこともなく、失業者もなく、かなり平等な社会ということにもなる。文明滅亡が150年前に戻る程度なら、むしろ歓迎する人もでてきそうだ。もっとも、最近の人力車に取りつけてある自転車のようなホイールは、かなりの「文明」でなければ製造できない。歴史のどのあたりの日本を取り戻すべきなのか、悩ましいところだ。

Illustrated London News 1872年10月12日号(雄松堂書店版より)

『百人一首 うばがゑとき』春道列樹 葛飾北斎画(岩波書店版より)

2014年12月31日水曜日

伊藤博文の千円札

 何年か前にアメリカの友人が、自分はもう使わないからと言って日本円とアジアの他国の紙幣を普通郵便で送ってきてくれたことがあった。開けてみると旧札だった。沖縄に駐留していた夫のもとで新婚時代を送ったときの記念として、何十年間も手元に置いてあったものらしい。このところ時間を見つけては片手間に幕末関連の本を読んでおり、伊藤博文や井上馨など明治の元勲の経歴を調べた際にふと昔の千円札を思いだし、この友人からもらった旧札を引っ張りだしてみた。そこには板垣退助の百円札も同封されていた。

  大英博物館のニール・マクレガー館長によると、「あらゆるイメージのなかで最も効果的なのは、あまりにもよく目にするためにほとんど気づかなくなっているもの、コインである。そのため、野心的な支配者は通貨をつくる」(『100のモノが語る世界の歴史』)。しかし、一万円の聖徳太子は別として、お札に刷られていたあとの人たちが誰なのか、子供のころはあまり気に留めたこともなく、両目のところで折り目をつけ、見る角度を変えて笑わせたり、泣き顔にしたりして楽しんだ記憶しかない。ウィキペディアで確認してみたところ、1951年に岩倉具視(五百円札)と高橋是清(五十円札)が、53年に板垣退助、63年に伊藤博文と、元勲たちが日本を象徴するイメージとして選ばれていた。明治以来、日本銀行券に選ばれたそれ以外のシンボルは、大黒様や菅原道真、藤原鎌足、武内宿禰など、神や伝説的な人物である。戦後、次々に元勲が選ばれたのは、当時すでに彼らが英雄としていわば神格化されていたからだろうか。

  伊藤博文と井上馨はともに、江戸末期に横浜居留地一番地にあった英一番館、ジャーディン・マセソンの支店長サミュエル・ガワーの手引きで1863年5月にイギリスへ密航し、長州五傑として知られるようになった。犬飼孝明氏(『密航留学生たちの明治維新』)などによると、長州藩がこのロスチャイルド系貿易商社から鉄製蒸気船ランスフィールド(壬戌丸)を購入した際に、井上が横浜で資金工面をしているので、そのときの縁故を頼ったようだ。伊藤と井上の二人はイギリスで薩英戦争や長州の外国船砲撃事件の報道を見て驚愕し、翌年6月に先に日本へ戻った。アーネスト・サトウは、「伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕らえ、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。……二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派した」((『一外交官の見た明治維新』)と書いている。

  ところが、この二人は渡航数カ月前の1863年1月まで、御殿山に建設中のイギリス公使館に放火するなど、過激な攘夷活動に走っていたのだ。犬塚氏によれば、井上はその直前には高杉晋作や久坂玄瑞らとともに、横浜の金沢まで遠出した外国公使暗殺計画を立てたものの未然に阻止されたため、「百折屈せず」と御楯組の盟約書に花押血判している。伊藤にいたっては、同年2月にも山尾庸三とともに塙忠宝と知人の二人を暗殺している。山尾庸三も長州五傑の一人で、のちに法制局初代長官を務めた。塙忠宝は塙保己一の四男で、幕命によって外国人待遇の式典について調査していたところ、孝明帝を廃位させようと企んでいると邪推されたあげくのことだった。 

 要するに、外国人や自分と異なる意見の人を短絡的に敵と決めつけ、放火や殺人も厭わなかった人びとが、当の外国人を頼って渡航し、あまりの国力の差に肝をつぶして前言を撤回し、外国の力を借りて政権の座に就いたのだ。君子は本当に豹変するらしい。その背景には、英公使館焼き討ち事件後に佐久間象山を訪ねた久坂玄瑞らが、象山から開国の必然性を説かれたことがあるようだ。井上は象山の海軍興隆論だけを聞きかじり、突然、「外国へ遊学して、海軍の学術を研究する必要がある」(「懐旧談」、犬塚氏の書に引用)と目覚めたという。 

 ハルビンで伊藤博文を暗殺したとされる安重根がテロリストか抗日義士かをめぐって、少し前にいろいろ騒がれていたが、当の伊藤は自身の非業の死を当然の報いと思っていたかもしれない。いずれにせよ、国を象徴する人物としてはあまりふさわしくないと判断されたためか、1984年にもう少し当たり障りのない夏目漱石に取って代わられた。件の旧札を送ってくれた友人は、かならずしも恵まれた人生を送っているわけではないので、円安で辛いが、せめて同額をドルに変えて、遅まきながら郵便で送ろう。このエピソードも添えて。 年末、仕事や雑事に忙殺されて引きこもっていたため、新年にふさわしくない話題で申し訳ありません。本年もどうぞよろしくお願いいたします。