2021年4月16日金曜日

今太閤か、元祖渋沢栄一か

 鈴木藤吉郎と聞いて、おっ、と思う人は、森鴎外の全作品を読破するほどのファンか、よほどの講談通か、『昨夢紀事』を読み込んだ歴史家か、はたまた関良基教授の『日本を開国させた男、松平忠固』を熟読した人に違いない。歴史上の人物としてはかなりマイナーなこの名前を見て、私がピンときたのは、ひとえに菊地久教授が『井伊直弼試論』という大論文のなかで、この人物と上田の松平忠固との関係についてたびたび言及しておられたからである。  

 拙著『埋もれた歴史』は、松平忠固に一つの章を割いただけなので、調べかけて放置した件や、重要でないと思われたため省いた出来事が多々あった。「藤吉一条」として、菊地教授がかなり詳しく論じておられた一件は、大論文のなかに凝縮されていたあまりにも膨大な情報のなかで、私が勝手に淘汰してしまったものの一つだった。  

 ところが、ペリー来航時の応接委員の1人、伊澤政義について調べる必要があり、あれこれ検索しているなかで引っかかってきたのが、鴎外の「鈴木藤吉郎」という作品を「梅雨空文庫」がネット上で公開してくれていたページだった。文豪がかなり念入りに調査したうえでこの作品を書いたのは、松林伯圓が講談「安政三組盃」で悪役として登場させた藤吉郎の名誉回復を、藤吉郎の遠縁の人から依頼されたためだった。この作品を読むとともに、藤吉郎について調べてみると、安政期の幕閣が交易開始を前に経済改革に乗りだしていた事実にいまさらながら気づかされた。貧農から立身出世した人物として秀吉になぞらえ、今太閤と呼ばれた藤吉郎は、頭角を現わすのが10年遅ければ、むしろ渋沢栄一になれたような人だった。 

 森鴎外は藤吉郎を「有爲の人材」と書き、「江戸市のために物価を調節する機関を設けむと欲して成らず、これがために禍を買ひ身を滅した。我市のブウルス[証券取引所、Bourse]の沿革を窮めむと欲するものは、此等の人物に泝(さかのぼ)り及ばなくてはならない」とまで書いている。それなのに、「藤吉一条」はなぜ歴史の闇に葬り去られたのか。こういう人物を潰したのは誰であったのか。重要な問題と思うので、以下に概要だけ記しておく。 

『昨夢紀事』では、安政5(1858)年5月1日に岩瀬忠震から橋本左内にもたらされた情報が初出と思われる。「鈴木藤吉郎だに鞠問せば、好党の悪事は露頭すべければ、伊賀殿[忠固]も落職になるべけれど、彼は大和殿[久世広周]の腹心なれば」などと書かれていた。以前にも書いたように、このころ岩瀬は忠固をひたすら敵視し、彼を失脚させるべく画策していた。藤吉郎の素性として著者の中根雪江は「元房州の百姓より出て浪人の体をなし、一橋殿小普請組鈴木某の養子となれり」とし、その後、「水戸殿御家人の名目を買得し」、「近来、御家人に御抱入れとなり格式を定められす。与力の上席に在りて町方御用聞の役名を汚し」などと詳しく書く。そして、「関閣[久世]の金主なるを以て邸内に出入して言聡かれ謀行わる。上閣[忠固]も亦金融を依頼し」と、忘れずに付け足す。  

 一橋家や水戸家に召し抱えられた藤吉郎が、どういう経緯か老中首座の阿部正弘からの指示で「追々御用の品もこれ有り候に付」として、町奉行「直支配」となったのは、岩瀬らに問題視されるより2年前の安政3年5月だったようだ。彼には阿部、久世という老中2人に加え、北町奉行跡部良弼という、3人の後ろ盾がいた。「藤吉は大和を掛けて伊勢参り使ひ果して跡部どうなる」という当時の狂歌を鴎外が紹介している。早くに両親を亡くした百姓の倅がこれほどの大出世を遂げたのは、米相場で儲けて大名や旗本にも金を貸し付けるほどになったためと言われる。藤吉郎はその数カ月後には、鴎外が「異様な職名」と評した潤沢掛に任命され、米油の取引所の創設を企てたが、それに反対した南町奉行所与力の東條八太夫から反対の声が上がった。  

 私がこの一件に興味をもった当初のきっかけである伊澤政義は、安政4年12月に大目付から南町奉行に転任になり、藤吉郎に反対したこの八太夫を長崎に転任させていた。「藤吉郎が最後の上役は伊澤であった」が、翌年6月には今度は「潤澤掛り与力上席共差免るさる旨、伊澤美作守申渡」となった。「差免」は「さしゆるす」と読み、本来は許可するという意味だが、お役御免、罷免の意味に変わったらしい。つまり、藤吉郎は伊澤に罷免されたのだ。彼の運命はこうして一気に暗転し、同年7月に入牢、翌年5月5日に「口書拇印」を取られたうえで獄死した。享年59歳だった。 

「藤吉一条」がスキャンダルとなったころには、阿部正弘はすでに他界しており、跡部良弼も安政5年5月23日に左遷され、後任に「大老腹心」とされる石谷因幡守が決まると、残された久世広周は苦境に立たされ、早速、「今日より久世大和守殿御不快にて御登城なし。鈴木藤吉郎の波及と聞こえたり」と、『昨夢紀事』は書いた。 

 同年5月27日には土佐藩主の山内容堂が、久世が風邪だの腹痛だのと病名をころころ替えて欠勤する旨を揶揄し、中根の主君である松平慶永宛と思われる書を送ったことも同書からわかる。久世の仮病の原因は、「羽柴にはあらで荒川戸の藤也。近々落花に及ぶべく申し候。是も愉快なれど、瑣々たる[微々たる]一と。唯願う桐の落花耳(僕吉兆を案し申し候。桐は即ち藤吉秀吉の紋。此度、藤吉退けられ候得ば、桐は自然退くの道理なるべし)」だと、隠語を多用してあざ笑う。荒川はいまの隅田川のことだ。「荒川戸の藤」は、羽柴(浅草橋場とかけて)秀吉ではなく、それより少し下流の花川戸に住んでいた藤吉郎という意味か。桐は、上田の松平家の紋で、忠固は桐閣と陰で呼ばれていた。  

 これらの噂話で盛り上がっていた人びとは岩瀬や左内を含め、みな一橋派であり、彼らの共通の敵は当初、慶喜を将軍継嗣にするうえで邪魔になると思われた松平忠固だったのである。鈴木藤吉郎に関する「密告」を忠固が受けると、なぜかそれが忠固を失脚させる好機になると見た一橋派と、大老に就任して以来、開国路線を強硬に主張する忠固が邪魔で仕方がなかった井伊直弼の双方が飛びつき、藤吉郎はそのとばっちりを受けた、というのが真相ではないだろうか。  

 藤吉郎の論告・求刑には、「米油を始め、所色会所を取立て、国々へ前金相廻延商の仕法」を目論んだなどと書かれた。だが、菊地教授によれば、江戸に「諸国産物会所」を創設して「究極的には幕府による商権の掌握を目指したこの構想」は、久世と堀田が月番で勝手掛を分掌しながら推し進めていたものだった。阿部正弘は安政2年の大地震に見舞われた翌10月に老中首座を堀田正睦に譲り、同4年なかばに病死するまで勝手掛の老中を務めており、その後任となったのが義弟の久世だった。奉行所関係者が「潤沢の新法」と呼んだこの経済改革は、「外国と貿易するに先だって、江戸に諸色取引所を設け、諸色を潤沢ならしめ、剰余を以て輸出品に充てよう」とする試みだったという。当時はまた天候不順のために江戸の市中米価が高騰しており、「幕府当局は需給対策を進める中で先物相場の創設へと踏み出した」。それこそがこの仕法の試行であり、藤吉郎が勝手に不正を働いたわけではないと、菊地教授は推測する。  

 もちろん、だからと言って藤吉郎にまったく落ち度がなかったわけではなく、上田の郷土史家の小林利道は、安政4年に忠固が老中に再任した折に、藤吉郎が5千両という大金や馬を贈り届けて、忠固から返された記録があると書いている。この件は、忠固が賄賂を受け取らない性格だったという文脈で語られていた。だが、中根雪江こそ、忠固が再任直後の9月13日に「五千金」で買収しようと画策していたではないか。菊地教授によれば、翌5年6月1日に、久々に登場してきた久世から上田の「在所川徐普請の儀に付、拝借金相願い置き候」一件につき、「金四千両」で許可された旨の「書付が」送られたことが忠固日記からわかるという。財政難に苦しむ上田藩は、この当時、安政の大地震で江戸屋敷が被害を受け、千曲川の治水工事費なども捻出できずにいた。何かしら藤吉郎を介した融資があったか、その話がもちあがった可能性はありそうだ。  

 藤吉郎が町奉行所に採用された安政3年5月という時期は、忠固が老中を罷免され、役職に就いていなかった時期だった。藤吉郎を水戸藩から引き抜いて御家人にした阿部正弘ら当時の閣老の動機が、交易開始のための準備という以上に、安政の大地震からの復興や不作への対処だったとしても、老中たちは経済改革の必要性をひしひしと感じていたのであり、そのためには身分を問わず、藤吉郎のような人材の活用を試みたのだろう。上田藩が諸藩に先駆けて上田と江戸に産物会所を設けたのは安政4年4月のことなので、忠固も同じ認識をもっていたと言える。老中に再任してからは、忠固が勝手掛になっていた。拙著でも触れたように、忠固は「算盤を採って実業界に活動す、殿様としては異例の人物」だったし、堀田正睦や久世広周も利根川の水運の要衝に領地をもっていた。  

 彼らが経済改革を着実に推し進められていれば、横浜開港時に日本が見舞われた衝撃をいくらかは緩和できていたかもしれない。あいにく、一橋慶喜という「英名・年長」の人物を将軍にすることですべてが解決するかのように思い込んだ一橋派と、同じくらい頑迷で猜疑心の強い南紀派の争いが、その機会を台無しにしたのではなかったのか。鈴木藤吉郎が入牢する1カ月前に堀田と忠固は罷免され、同年10月には久世も罷免させられた。こうして、江戸の「ブウルス」開設は頓挫したまま、翌年6月2日(西暦1859年7月1日)に横浜が開港したころには、藤吉郎は獄死していたのである。「牢熱に侵されて死んだ」という説を鴎外は紹介し、死後、「存命ならば遠島」と罪案には書かれていたとする。

図書館にリクエストしていた『鴎外全集』第18巻(岩波書店)がようやく届いたので、確認してみると、鴎外が参照した佐久間長敬という元町奉行所与力が書いたものの抜粋が、「鈴木傳考え異二」として、その他の史料とともに転載されていた。いくつか重要な訂正と追加があったので、書いておく。

北町奉行跡部良弼は水野忠邦の弟だった。当時、東條八太夫が関与した可能性のある2つの事件の捜査に、跡部や藤吉郎が乗りだし、東條を左遷させたしっぺ返しに、藤吉郎の罪状を密告した者があり、「此密告を受けたのは老中松平伊賀守忠固である」。忠固は密告を受けた側だった。「伊賀守は公事方勘定奉行石谷因幡守穆清に取調を命じ[……]北町奉行跡部に依怙のある事を発見して、これを伊賀守に上申した」とつづく。

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