2021年7月2日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その1

 横浜の開港史と深く関わった建築家リチャード・パーキンス・ブリジェンスについて、以前にもコウモリ通信に書いたことがあったが、少し前に現在の開港記念会館の場所にあった町会所の時計台について調べ直したこともあって、重い腰を上げてブリジェンスについてまとめることにした。かなり込み入っているので、すでに忘れかけている記憶をたどり、調べ直しながら数回に分けて書くことにする。  

 汐留に、ブリジェンス設計の初代新橋停車場を2003年に再建した建物があることは、多くの方がご存じのことと思う。当時の石段などを活かしながら復元され、鉄道歴史展示室とレストランになっている。汐留の再開発で見つかった新橋停車場の遺構の上に、古い写真をコンピューター分析して寸法などを割りだす先端技術を使ったものという。この初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社があり、蓬莱橋と呼ばれた石橋もあったはずだが、いまではその名を残す交差点しかない。ここにある陸橋から眺めると、ガラス張りの高層ビルに囲まれて、所在なさげな旧新橋停車場の全容がようやく見える。  

 ブリジェンス設計の建物で現存するものは残念ながらない。二代目神奈川県庁舎となった建物の門柱だけが、あじさいの里という瀬谷区の個人宅の門として残っている。ただし、上のランプは戦時中の金属供出で失われ、戦後につくり直したものという。『ファー・イースト』誌に掲載されたこの建物は、もともと1873年に横浜税関庁舎として建てられ、その後、税関がもっと港寄りに移転したため、前年に火災で庁舎(横浜役所と呼ばれていた)を失っていた神奈川県に1883年に譲渡された。  

 以前の記事でも書いたように、ブリジェンスが横浜にあったイギリスの公使館や領事館など、数多くの明治初期の西洋建築の設計を手がけることになった背景には、彼をめぐる複雑な人脈があった。初回は、横浜の競売人だったラファエル・ショイヤーとその妻アナとの、比較的よく知られた関係についてまとめたい。  

 ショイヤー夫妻ついて調べているうちに見つけた史料が開港直後に来日したオランダ商人デ・コーニングの書だった。これはあまりに面白かったので企画をもちかけ、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)として翻訳出版させていただいた。来日当時、アナは30歳前後の美人で、それまで居留地にほとんど西洋人女性がいなかったこともあって、パリの最新流行のドレスに身を包んだ彼女を一目見ようと、居留民も日本人も寄ってたかって眺めたという滑稽なエピソードが同書では紹介されていた。デ・コーニングは彼女のことを、「とびきり美しいスペイン系アメリカ人のクレオール」ではないかと思ったようだが、実際にはアナは1827年、アイルランドのロンドンデリー生まれだったことが、フロリダ州ジャクソンヴィルにある彼女の墓標からわかる。  

 開港当初、このショイヤー夫妻が住んでいたのは、ペリー上陸のハイネの絵に描かれた「玉楠」のすぐ裏手にあったアメリカ25番で、玉蘭斎(歌川貞秀)の大絵図には「画ヲ能ス女シヨヤ住家(ホイス)」と書かれていた。玉蘭斎は1860年に「玉板油絵・大胡弓・笛・二線」という題名の西洋美人の絵を描いているほか、『横浜開港見聞誌』(国会図書館では「横浜文庫」)でも、同一人物ではないかと思うアメリカ婦人の絵を複数描いており、いずれもモデルはショイヤー夫人のアナではないかと私は推測している。日本人画家たちと交流のあった女性だからだ。  

 この「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして石板の術を知る」と、写真家の下岡蓮杖について『写真事歴』(山口才一郎著、1894年)に書かれていたことから、アナの妹が、ビジン、つまりブリジェンスの妻ジェニーだったと考えられている。ブリジェンスの名前は、耳で聞きとれる音と綴りが一致しなかったためか、表記が定まらず、彼が忘れ去られた一因はそこにもあったようだ。下岡蓮杖は、ハリス領事の通訳だったヘンリー・ヒュースケンに下田で写真の原理を習ったあと横浜にきて、このユダヤ系アメリカ人のショイヤーのもとに手代として住み込んでいた。  

 ブリジェンスが横浜にきたのはショイヤー夫妻の来日より数年後のことで、日本には、1864年4月30日に夫人のジェニーと子供がまずサンフランシスコからやってきたことが『ジャパン・ヘラルド』紙から判明している。同じ船でE・ショイヤーという人物も来日しているので、幼児連れで太平洋を横断する若い母親の付き添いだったのかもしれない。翌年の3月25日付の同紙の乗客リストに、ブリジェンスという名前があるため、彼自身は1年遅れて来日したようだ。  

 夫人のジェニーは町会所が焼失した翌年の1907年まで生き、亡くなった際に『横浜貿易新報』に「横浜開港以来女子建築家として夙に在留外人間に知られたるブライトゲン夫人」という死亡記事が掲載されていた。ブライトゲンは、もちろんブリジェンスである。姉のアナは高橋由一などに絵を教えたことで知られるが、妹のジェニーも「夫ブライトゲンに死別れたる後は健気にも女子の腕にて専ら夫の事業を引継ぎ家屋の築造設計の業を営」んだという。1983年にこの古い新聞記事をもとに墓を探し当てた横浜開港資料館の堀勇良氏が、「謎のアメリカ人建築家」という記事を『市民グラフヨコハマ』第46号に書いたときは、まだどうにか墓碑銘が読み取れ、そこには「R. P. BRIDGENS BORN 19TH APRIL 1819 DIED 9TH JUNE 1891」とあり、別の面には「JENNIE M. BRIDGENS」の刻字が読めた。しかし、私が何度も外国人墓地をうろついて2018年にようやく墓石を見つけたときには、表面はさらに風化してかろうじてRとBRIDGENS、DIEDの文字が読める程度になっており、上に立っていたはずの相輪のような突起物も落ちていた。  

 ブリジェンスが来日した年の8月21日に、ラファエル・ショイヤーは居留地三次会の初代議長に選出され、その席上で「大演説の終了直後に心臓発作で急死した。享年六十六歳であった」と、藤倉忠明氏の『写真伝来と下岡蓮杖』には書かれていた。ショイヤーは横浜外国人墓地の22区に葬られている。「ショイヤー夫人の館にショイヤーの遺産管財人として居留する建築家ブリジェンス」とも、同書には書かれており、ラファエル・ショイヤーの事業の処理を、ブリジェンスが引き受けていたことが窺われる。「建築絵画師のビギンと云ふ人から、始めて石板印刷術を習ひました」と、『横浜開港側面史』で蓮杖本人も語っている。

 翌1866年1月にアメリカの弁理公使として元北軍の将軍ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグが赴任してきた。任期は短く、1869年11月には離日しているが、その間に幕府が発注した軍艦ストーンウォール(甲鉄艦、のちに東艦)を、戊辰戦争勃発による局外中立を理由に引き渡さず、1869年2月になって薩長軍側に斡旋したことで知られる。  

 幕府に対抗できるだけの軍艦を購入したいと焦る薩摩の五代友厚と寺島宗則に、「諸外国に局外中立を要求する通牒をすぐに発するよう助言した」のはサトウだった。「そうすれば、アメリカ公使が〈ストーンウォール・ジャクソン〉を徳川側に引き渡すのを防げるし、回航待ちのフランスからの二隻の甲鉄艦も食い止められるからだ」と、『一外交官の見た明治維新』には書かれた。同艦と対抗できるのは「この近海では英国の甲鉄艦オーシャン号あるのみ」という状況で、「大君がストーン=ウォール号を手に入れる場合、ただちに制海権を獲得するであろう」ことを危惧したと石井孝氏は『増訂明治維新の国際的環境』に書いていた。ストーンウォール号は、私の遠縁の若者が戦死した箱館湾海戦では旗艦となった。

 そのヴァルケンバーグの夫人アナの旧姓がショイヤーなのを発見したときは唖然とした。ネット上で見られる家系図調査のいくつかのサイトの情報からは、彼らが1867年11月25日に横浜で結婚したことがわかる。ヴァルケンバーグも最初の妻を1863年に亡くしていた。アナは夫ラファエルの死後、この弁理公使と再婚して、アメリカにともに帰国したのである。横浜の墓地にラファエルのみが眠っている理由がこれでわかった。  

 ここまでのことは、私が以前に調べ、当初は『埋もれた歴史』に書くつもりだったものの、大幅に削らざるを得なかった原稿の一部だった。しかし、ネット上の情報は歳月とともに驚くほど増える。今回、原稿を書くに当たって再度、典拠や文字、数字を確認するため検索をかけていたら、少々驚くべき新情報を見つけた。外国人に日本を教えるためのブログに、「米国と〈サツマみかん〉」と題して書かれていたなかに、ヴァルケンバーグ夫妻(記事ではヴォルケンバーグと記載)が九州を旅した際に日本の温州みかんを食べ、夫人のアナがそれを大いに気に入ったため、日本から帰国して9年後に苗を取り寄せて、サツマと名づけて1878年からフロリダ州で栽培を始め、それがアメリカ南部でこのみかんの栽培が始まった最初だというのだ。もう一説あることも紹介されており、それはなんと、横浜の開港当初にいた重要人物ジョージ・ホール医師が、1875年に日本を再訪した際に入手した温州みかんの苗を翌年から栽培しだしたというものだ。ジョージ・ホールがかなりの植物採集マニアだったのはよく知られているので、どちらも事実だろう。サツマの名称を誰がつけたかについては、イギリス編も書かれていたので、後日読んでみたい。もっとも、この記事を書いた方は、アナの驚くべき経歴は調べなかったようだ。  

 ネット上にはほかにも、1870年春にヴァルケンバーグ家の人びとが親族の金婚式に集まったときの集合写真も掲載されており、写真のなかのアナは、相応に年を取ってはいるが、まだ豊かな黒髪を結いあげ、玉蘭斎の絵にあるようなたくさんのフリルのついたドレスを着て写っていた。  

 次回はさらに複雑な人間関係を解さなければならないが、ブリジェンスについて知ることは、幕末・明治の過渡期の居留地をめぐる人間関係を知ることでもあるので、引きつづきお読みいただければありがたい。

 町会所、『横濱銅板畫』より

 新橋停車場、明治40–大正7年

横浜の三代目大江橋(1922年7月竣工)。奥に見えるのが横浜駅。翌年の関東大震災で大きく損傷する前の撮影。

 横浜税関、『FAR EAST』より

 あじさいの里、2017年9月撮影

『横浜開港見聞誌』国会デジタル図書館の「横浜文庫6編、[3](右)、[4](左)

横浜外国人墓地のブリジェンス夫妻の墓、2018年2月撮影

 同、ラファエル・ショイヤーの墓、2017年9月撮影

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