2021年7月12日月曜日

皇太后古写真に見られる誤解

 以前、英照皇太后について調べた際にネット上で見つけたいくつかの論考に、鈴木真一撮影の肖像写真があると書かれていた。あれこれ検索するうちに、参考文献に上がっていた明治神宮発行の古い図録『五箇條の御誓文発布百三十年記念展 明治天皇の御肖像』に、その写真があるのだと勘違いをして古本を入手したところ、期待はずれで、すでに知っている写真しか掲載されておらず、そのまま放置していた。最近またいくつか古い史料を入手したこともあって、虫眼鏡を片手に着物の紋様やら、絨毯の模様を調べたりしたところ、件の図録から思いがけずいろいろな情報が得られたので、とりあえず古写真の件でブログ記事を書くことにした。  

 一つ目は、英照皇太后の写真として広く知られるものが、実際には明治天皇の美子妃の写真だと、より確信をもって主張するものだ。前回参照した写真集では、内田九一が明治5年に撮影したとされる明治天皇の束帯姿の肖像写真(明治神宮の図録では写真1)の周囲が切り取られていたため、下の絨毯の模様がわからなかったのだが、この図録では全体が見えたため、はっきりと確認することができた。そして、その模様は、英照皇太后の写真として、このカタログにも掲載されていた、釵子(さいし)をつけて眉毛のない女性の肖像写真(同図録の写真25)の絨毯とまったく同じだったのだ。同図録には明治天皇のこの写真が、湿板コロジオン法によるもので、ネガ硝子板が現存することや、岩倉使節団からの依頼で撮影されることになった経緯、およびそれらの情報の典拠が『明治天皇紀』であることなども書かれていた。幸い、図書館で貸し出し可能だったので、第1、2巻を借りてみると、2巻の明治5年8月5日の条にこう記されていた。 

「曩(さき)に天皇・皇后、写真師内田九一を召して各〻御撮影あり、是の日、宮内大輔万里小路博房を以て之れを皇太后に贈進したまふ、九月三日、皇太后、亦宮城に行啓せられ、九一を召して御撮影あり、十五日、九一、天皇・皇太后の御写真大小合せて七十二枚を上納す、当時の宸影、一は束帯にして、一は直衣を著御し金巾子を冠したまふ」

  図録に解説されていたように、8月5日に天皇・皇后の写真が皇太后に贈られたことから、9月3日に皇太后の写真も内田九一によって撮影されたことが確認できる。同日の条はさらにこうつづく。 

「是より先二月、特命全権副使大久保利通・同伊藤博文が書記官小松済治を随へて米国より帰朝するに際し、特命全権大使岩倉具視、済治をして御写真拝戴を宮内省に申請せしむ、宮内省は御写真出来せば直に外務省を経て之を送付せんとせしが、五月両副使再渡米の期に至りても未だ成らざりしが如し」 

 やはり図録の解説どおり、肖像写真の撮影の発端は岩倉使節団からの要請であり、5月にはまだ撮影されていなかったことがわかった。つまり、明治天皇の束帯姿の肖像写真の撮影日は明治5年5月14日以降、8月4日以前としかわからないことになる。内田九一に関する資料にはなぜ4月12・13日撮影と具体的な日にちまで書かれていたのだろうか。

 ちなみに、大久保利通と伊藤博文はこのとき、不平等条約を改正しようと意気込んで渡米したのに、「固より条約改正に関する全権委任状を携帯せず」、それを取りにもう一度日本に戻るという失態を演じており、そのことも第2巻の同年3月、5月の箇所に説明されていた。  

 ネット上では、「英照皇太后」とされる写真(25)の唐衣の文様が九条家の紋で、やはり九条家出身の貞明皇后が結婚の儀で着用した唐衣と同じと書いている記述も見られたが、九条家の紋は下がり藤らしく、昭憲皇太后の実家である一条家もよく似た下り藤なのにたいし、この唐衣の紋はどちらも五瓜に桔梗に見える。それが何を意味するのか私にはわからないが、いずれにせよ、この文様を理由に写真(25)を英照皇太后と決めることはできない。 

 明治神宮の図録には、掲載された写真の詳しい目録もあり、明治天皇の束帯姿の写真(1)は、寸法が「縦二七、横二一、五」(27×21.5cmか)、制作者が内田九一、年代は明治五年、所蔵・奉納者(年)は千葉胤茂(昭和四九)となっていた。一方、「英照皇太后」の写真(25)のほうは、「縦二七、八、横一九」(27.8×19cm)、制作者は空欄、明治時代、徳大寺米子(昭和四九)である。双方の写真の大きさはほぼ同じで、同じ明治5年に内田九一が撮影した明治天皇のもう1枚の肖像写真(2)の寸法は27×19.8cmで、さらに近い。寄贈・寄託されたのがどちらも昭和49年で、「英照皇太后」の写真に関してはとくに、明治神宮所蔵のこの1枚しか、少なくともネット上では確認できないことを考えると、この当時の誤解がいまにつづいていると考えるほうが自然だろう。図録の写真(25)は、内田九一が初めて皇居に呼ばれた明治5年に撮影された美子皇后の写真と考えるべきだ。  

 慶応2年末に崩御した孝明天皇の写真が残っていないことは周知の事実なのに、英照皇太后が東京に移る前に御所なり実家の九条邸なりに写真家を招いて写真を撮影したと考えるには、無理があるのではないか。  

 二つ目は、内田九一が9月3日に撮影した英照皇太后の写真が実際には何カットか残っていて、私が以前に入手した冊子と絵葉書に使われていた肖像写真が、いずれもこのときの作品であった可能性が非常に高いことだ。今回も特徴的な敷物がヒントになった。よく似た模様の敷物が、昭憲皇太后(美子妃)の肖像写真(13)として有名な内田九一撮影の写真にも写るが、こちらはどうやら少し厚手の絨毯のような敷物で、かたや英照皇太后の明治5年の肖像写真のものは薄手で皺が寄りやすい大きな布状のものに見える。その特徴的な敷物が、ほぼ同じ姿勢を保ちつつ、撮影の角度や表情が異なる皇太后の何種類かの写真に皺までほぼ同じ状態で写っているのだ。撮影のあいだ、皇太后は相当な忍耐力で、重い衣装を着て同じ姿勢を保ちつづけたものと思われる。よく見ると、大半のカットでは、後ろに椅子か、身体を支える器具の先端が覗いているが、私が入手した絵葉書ではそれが隠れている。  

 このときの写真として知られるものは、明治神宮の図録に収録された写真(26)を含め、大半はソフトフォーカスというか、露出過多でピントが甘い。ちなみに、写真(26)の寸法は27.81×19cmで、寄贈者・寄託者を含め、(25)と同様の情報が目録に書かれていた。 

 ところが、私が入手した『御大喪図会』第136号の写真と絵葉書(昭憲皇太后の肖像と間違えているもの)の写真は、いずれもピントがかなり合っており、とくに前者は目の窪みや、現代風にくっきりと整えられた眉までがはっきり見え、カメラのアングルが違うせいか、おすべらかしの頭頂部の窪みがなく見え、意志の強そうな大人の女性を感じさせる写真になっている。そのせいで、これは後日まったく同じ衣装で撮影されたものと思い込んでいたが、長袴の皺にいたるまでが同じなので、いずれも同日に撮影された一連の写真と考えるべきだ。『御大喪図会』には「小川一眞謹製」とクレジットが入っているが、遺影に使われたもう1枚の写真の撮影者と混同されたのではないか。若く優しく見えるソフトフォーカスのカットのほうが、英照皇太后はお気に入りだったのか、それらが名刺大の写真、カルト・ド・ヴィジットなどに焼き増しされた。  

 ここで重要なのは、ピントの合っている2枚のカットには、眉がはっきりと見えることだ。その数カ月前に撮影された美子妃と私が考える写真(25)には眉が見えないので、明治5年9月3日撮影の英照皇太后の写真が、本邦初の眉有り既婚女性写真ということになるのではないだろうか? 日本の近代化に向けてみずから行動で示した皇太后の強い意思の表われ、と私は思う。  

 三つ目に、明治神宮の図録は、内田九一撮影の昭憲皇太后(美子妃)の写真(13)を明治5年撮影としているが、これも間違いと思われる。この年の3月に明治天皇が断髪し、10月8日に新制軍服姿で撮影された有名な肖像写真と対にしてよく使われた、くっきりと眉の見える皇后の写真だ。この写真を、明治5年撮影の皇后の写真と思い込んだことからの誤解ではないか。  

 これと同じ写真に手彩色を施した写真が神奈川県立歴史博物館に所蔵されており、図録『王家の肖像──明治皇室アルバムの始まり』に写真10として掲載されている。寸法もほぼ同じだが、明治6年とされ、画像は明治神宮所蔵のものよりずっと鮮明だ。同図録には、『明治天皇紀』の明治6年10月14日の条が引用され、「皇后午前十時御出門、吹上御苑に行啓あり、先ず御梅茶屋に御小憩、尋いで写真場に入りたまひ、和装にて撮影あらせらる」とし、そのあとにこう付け足す。「この軍装の天皇と和装の皇后の写真は市中に出まわった。それらが現在もあちこちで確認できるということは、相当数が売られていたことになる」  

 まだ天皇髷のあった明治天皇の2枚の肖像写真に比べて、軍装の明治天皇の写真も格段に鮮明であり、皇后の写真と同じ絨毯の上で、同様のやや高めのアングルから撮影されている。宮内公文書館には洋装姿の明治天皇の写真とセットで保管された史料(32240)があり、皇后の写真は明治5年撮影としているが、神奈川県立歴史博物館の解説のほうが正しいと思われる。  

 明治6年に内田九一が撮影した軍装写真を最後に、写真嫌いだったと言われる明治天皇の肖像写真は撮られていない。御真影として全国の小学校などにも配られ、最敬礼が教育勅語で定められていたキヨッソーネによる肖像画は、『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)によれば、「天皇お食事の隣室控え襖を隔てて正面よりの御姿をスケッチさせた」もので、その後、キヨッソーネが「天皇の正装を借り受けて自らモデルになり、スケッチ画を元に精密なコンテ画を描き上げ」、写真師・丸木利陽が数十日かけて撮影したという。

 明治31年に失火により御真影を焼いてしまった上田の尋常高等小学校の校長で、作家の久米正雄の父は、責任を負って割腹自殺したと、ウィキペディアの御真影の項に書かれていた。天皇の肖像写真はそれほど神聖視されたのに、皇后や皇太后の写真は撮影当時こそスターのブロマイドのごとくありがたがられたものの、その後は宮内省すら長く顧みないものとなったのだろうか。敗戦後、御真影は焼却処分にされたとも、同じ項に書かれていた。

(左)昭憲皇太后の崩御時に発行された絵葉書(英照皇太后の写真が間違って使われている) 

(右)『御大喪図会』第136号に「小川一眞謹製」とされていた写真

明治5年、内田九一撮影の明治天皇・皇后の写真と思われるものの敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

「英照皇太后」と貞明皇后の唐衣の紋比較
(上)『天皇4代の肖像:明治・大正・昭和・平成』(毎日新聞社)に、「英照皇太后」として掲載された写真
(下)同書から、「結婚の儀 貞明皇后」の写真

英照皇太后と昭憲皇太后の写真の敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

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