2021年7月25日日曜日

偽お龍写真の女性

 古写真関連の本を読み返した折に、「偽お龍写真」と言われる写真が内田九一のスタジオで撮影されていることに気づき、ウィキペディアに「お龍の写真」という項目までできていたので、読んでみて驚いた。なにしろ、この写真の裏に「土井奥方」と裏書きされたものが見つかったと書かれていたのだ。土井……土井忠直の奥方だったりするだろうか? 

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)に思い当たる写真があった。上田藩最後の藩主松平忠礼には実子がなかったため、弟で土井家に養子に入った忠直の次男、忠正を養子に迎えていた。その忠正が数えで5歳時の1890年に撮影された写真の隣にすらりとした美人が写っているのだ。養子入りしたのはその5年後の1895年のことらしいので、隣に立つ女性は実母の可能性が高い。  

 土井忠直は嘉永5(1852)5月年生まれで、上田の記録にもほとんど功績は残されていないが、明治3年から4年にかけて、末弟の忠孝とともに鹿児島藩に「留学」していたことが、彦根藩留学生の相馬永胤について調べた瀬戸口龍一氏の「明治初年における鹿児島藩の軍学教育」(『専修大学史紀要』、2009)から判明している。旧三河刈谷藩の土井家に養子に行ったのは、『人事興信録』データベースによると1873(明治6)年12月。結婚相手は刈谷藩7代藩主土井利祐の娘、良(または輿志、良子「よしこ」か)で、弘化3(1846)年7月生まれという、6歳も年上の女性だった。  

 譜代大名だった刈谷藩の土井家は、よほど運に恵まれなかったのか、6代目土井利行(1822–1838)のあとは養子を迎えつづけたようだ。良の父、利祐も、彼女がまだ1歳半にもならない弘化4年に26歳で死去しており、末期養子という形で家を継いだ8代目利善は、藩内から天誅組の変の中心人物を2人だした責任を取って隠居、家督は養子の9代目利教が継いだものの、この人も明治5(1872)年11月に26歳で死去。その1年後に忠直が21歳で、27歳の良と結婚し、家督を継いだことになる。ウィキペディアの土井利祐の項に、良は金森近明の正室だったとも書かれている。2人のあいだには1884年に長男利美が生まれ、1886年に次男利正が誕生、松平家の家督を継いだ際に忠正と改名している。ということは、1890年に幼い利正(忠正)と並ぶ女性が母の良だとすれば、43–44歳! 相当な美魔女だったことは間違いない。  

 この土井良が、「偽お龍」ということはありうるだろうか? 忠正と並ぶ写真は不鮮明なので、確実なことは言えないが、全体の印象と髪の生え際、耳の形は似ているし、7頭身に近いプロポーションで姿勢のよい点も似ている。「偽お龍」の顔は、松平忠正に似ていなくもない。  

 この写真がいつ撮られたかについては、長崎の上野彦馬のスタジオで撮影されたと言われる一連の松平兄弟の写真が、本当に彦馬撮影か疑問に思った際に、以前に参照させてもらった高橋信一氏の『古写真研究こぼれ話』(渡辺出版、2014)に詳しくでていた。彦馬のときも背景に使われている欄干の変遷を教えられたのだが、九一のスタジオでも置物は頻繁に変わっていたという。背景の腰板と敷物の組み合わせから、高橋氏はこれが、明治5年初めから明治6年と推定されていた。時期的にはぴったり符合する。  

 というのも、同じ組み合わせで九一のスタジオで撮影された、松平一家の写真があるからだ。松平忠礼・忠厚の兄弟がアメリカに留学したのは明治5年7月で、出発前に4人兄弟と姉の俊、母としで別の場所で撮影したと思われる写真も残っている。九一のスタジオで撮影された家族写真には忠礼・忠厚はおらず、下の弟2人、つまり忠直と忠孝、母とし、それに姉たちと言われる女性2人、および幼児を含む不明の人物が計3人写る。同じときに撮影された姉1人、母とし、忠孝のポートレートも残っている。堀直虎の未亡人だったは、1874(明治7)年に再婚しているので、その前の記念写真かと思っていたが、忠直の養子縁組が決まった記念だった可能性もある。末弟の忠孝はこの撮影直後に死去したと思われるので、いろんな意味で忘れ難い1枚だっただろう。  

 一応、調べるからには、もう少し詳しく知りたいと思い、「偽お龍」写真の真相を長年追いつづけた古写真研究家の森重和雄氏の論考を読むため、ワック出版(!)の『歴史通』の古書を2冊(2011年5月号、2014年5月号)も購入した。高橋信一氏はこの写真の女性を髪型や服装から「高貴な家柄の夫人」と判断されているが、森重氏は2011年の記事では芸妓と考えておられ、2014年の記事では華族にまで調査範囲を広げ、「土井家は子爵で、下総古河八万石の土井利与家、越前大野四万石の土井利恒家、三河刈谷二万三千石の土井忠直家の三つの家があることがわかった」という。一応、忠直は候補には入っているのだ。ただし、各家の「奥方」の写真が見つからず、「土井子爵の妾になった元新橋芸者」のおまさという女性を見つけ、その人が写真の女性と結論づけている。しかし、不鮮明な画像のその女性はかなり面長で、顔が大きめ、かつやや猫背気味で、どう見れば同一人物と言えるのかがわからなかった。  

 森重氏は、「偽お龍写真」が1982年に最初に発見されたのが薩摩藩士中井弘のアルバムであったことから、中井弘に関係のある女性だと考えている。忠直は前述のように鹿児島に「留学」しているので、瀬戸口氏の論文を読み返してみると、相馬永胤の日記に、「折節、西郷隆盛、桐野利秋、楢原[奈良原]繁、中井弘、伊知地[伊地知]正治、其他知名の士を訪い」と書かれていた。忠直、忠孝兄弟が現地で中井に会ったかどうかはわからないが、養子入りと結婚の報告を、美人の妻の写真付きで忠直が中井に送った可能性はありそうだ。ちなみに、桐野利秋は上田のヒーローである赤松小三郎の暗殺犯、奈良原繁は生麦事件でリチャードソン殺害に加わったとされる1人だ。  

 もちろん、ほかの土井家の奥方や、華族以外の裕福な土井さんの奥方である可能性もあるだろうが、もし写真の女性が土井忠直の年上妻だとすれば、ちょっと画期的なことだ。土井忠直・松平忠正の父子は何度か上田郷友会の会合に参加しており、私の曾祖父が同じ集合写真に写るものもあったからだ。龍馬ファンが40年あまり、妄想を逞しく眺めていた「お龍」さんが、じつは忠直の奥さんだったとすれば滑稽だ。父松平忠固の子のなかでいちばん幸せな人生を歩んだのは、案外、1897年には正四位に叙せられ、1909年、57歳まで生きたこの忠直だったのかもしれない。本家の藤井松平家を継いだ兄の忠礼は、藩主でも藩知事でもなくなったのち、従五位を唯一のタイトルとしてアメリカでも愛用していたが、44歳で病死したのちに正四位を追贈された。

森重和雄著、「龍馬が愛した〈おりょうさん〉」、『歴史通』2011年5月号より

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)より

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)より

『上田郷友会月報』明治42年1月号より。前列中央の和服姿が土井忠直、隣が松平忠正。私の曾祖父は2列後ろの、2人の中間あたりにいる

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