2021年7月19日月曜日

皇族古写真関連の追記

 前の記事を書いた数日後に、図書館にリクエストしていた『英傑たちの肖像写真:幕末明治の真実』(渡辺出版、2010年)という本が届き、目を通してみたところ、疑問に思ったことが一つ解けていた。  

 この本は古写真研究家五人の共著で、今回取り上げるのは倉持基氏という、比較的若い研究者が書かれた「明治天皇写真秘録」である。明治天皇の束帯姿と小直衣姿の写真の撮影日を明治5年4月12・13日としていたのがこの論考だったのだ。その理由は、明治5年7月発行の新聞に「四月十二三日の頃、(甲斐国)巨摩郡高砂村の人与住巨川といふ者、東京滞在中、親族の需[もと]めによって、写真の為め浅草瓦町内田九一を尋ねたるに、其日は、皇上御写真に付、亭主不在の由にて」と断られ、諸外国に倣って、天皇の写真も国内外に頒布する必要がでてきた旨などが書かれていたためだった。どうやら私は3月に、日本カメラ財団のサイトにある「幕末明治の写真史列伝」第53回、「内田九一その18」に引用されていた同じ記事を参照させてもらったようだ。  

 倉持氏は「近代国家の元首らしい洋装姿の天皇像を望んだ大久保[利通]と伊藤[博文]は、出来上がった和装姿の天皇写真に難色を示した。宮内省は洋装姿の天皇を撮影することを約束したが、大久保、伊藤が再渡航する同年五月十七日」には間に合わなかったとする。彼らが実際に駄目出しをし、宮内省が即座に洋装姿で写真を撮り直すと応じた、というのはやや信じがたいが、若い天皇と元勲らとの関係は実際にはそんなものだったのだろうか。  

 4月12日は、以前にも書いたように、英照皇太后が赤坂離宮に到着した日だ。『明治天皇紀』を読むと、11日には明治天皇が「皇太后の東上を迎へたまはんがため、午後一時三十分騎馬にて御出門、品川に行幸あらせらる」、さらに「大森に於て皇后の出迎を受け」ともあり、品川泊まりだったこの日に明治天皇・皇后に丁重に出迎えられたことがわかる。12、13日の明治天皇に関する記述はないので、先述の新聞記事を信じるとすれば、撮影はこのいずれかの日に行なわれたのかもしれない。  

 また、倉持氏は大久保らが再渡航した数日後の5月20日ごろに内田九一が、燕尾型正服という洋装で明治天皇の上半身の肖像と乗馬姿を撮影したとも書いているが、典拠がない。この2枚の写真は、通常の写真集や図録などには掲載されていない。大礼服のようなこの洋服は4月7日に新調したもので、「この時点では明治天皇はまだ髷を結っていたため、髷を隠すかのように帽子を被っている」と興味深い指摘もされていた。  

 燕尾型正服が新調されたという4月7日の条には、実際にはこう書かれている。「横浜より洋服裁縫師(外国人)の宮内省に至れるを召し、内密に聖体を度らしめたまふ、天皇著御の洋服は其の寸法等大凡の木さんにして、之れを度らしめられしことかつて無しと伝ふるは誤なり。又是の月三日、服装の事にて逆鱗あらせらる、但し其の事情詳かならず」。つまりこの日、ようやく採寸されたのだ。金モール刺繍の施された服は、大久保らの出発までに仕上がらなかったのに違いない。 

『明治天皇紀』は燕尾型正服姿の写真に関しては8月5日の条にまとめて、「天皇又馬上の英姿を撮影したへることあり、其の日時は未だ明かならずと雖も、宮内少録日録によれば、明治六年二月六日以前の事に属するものの如し」とだけ書いている。5月23日から7月12日まで明治天皇は西国・九州巡幸にでており、内田九一が専属カメラマンとして随行した。49日におよぶ巡幸中に撮影された写真に天皇の姿が写るものは1枚もない。  

 こうした状況を考えると、いろいろ疑問が頭に浮かぶのだが、「内田九一その18」が指摘するように、巡幸の出発日に当たる23日の条に、『明治天皇紀』はこう書く。「午前四時、燕尾形ホック掛の正服(地質黒絨、金線を以て菊の花葉を胸部等に刺繍し、背面の腰部には鳳凰の刺繍あり、袴は同じく黒絨にして、幅一寸の金モール線一条あり、帽は船形[後略])を著御し、騎馬にて御出門あらせらる。天皇の該正服を著したまへるは是れを以て始とすと云ふ」。絨はラシャやサージなどの毛織物を指す。これはまさに新調した正服のことだ。出発前の慌ただしい時期ながら、その記念撮影を試みたと考えれば、さほど不思議ではないかもしれない。  

 巡幸中も頻繁に「騎馬にて」移動した旨が書かれており、洋装で馬に乗ったことでこれだけの巡幸が可能になったと考えられる。もっとも、6月2日、「暑気甚し、孝明天皇後月輪東山陵を拝せんとし、午前五時騎馬にて御出門」という京都での日程では、「神饌供進の儀畢[おわ]るや、洋装を束帯に更め、歩して坂路を陵前に進ませらる」と書かれている。 

『明治天皇紀』をざっとめくってみた限りのことなので定かではないが、明治元年10月13日に東京に移動した明治天皇は、早くも18日には、「御廐馬訓練の日次を定め、三・八の日を以て之れを禁庭に行ふ、御馬乗役目賀田雅周奉仕す」とある。その後たびたび乗馬訓練に励む様子が記されている。目賀田雅周はフランス軍人から西洋馬術を習い、明治天皇の別当を務め、金華山号を調教した人という。馬上姿の天皇の横にいるのが、目賀田だろうか。 

 明治天皇は、巡幸から帰還後の明治5年9月13日(1872年10月15日)、鉄道の開通式について報じた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵では、束帯に見える和装で描かれている。和装へのこだわりは強かったのではと推察されるが、馬に乗る便宜上、洋装を受け入れたのをはじめとし、翌明治6年3月20日についに断髪し、新たにつくらせた肩章のある豪華絢爛な肋骨服姿の肖像写真を同年10月8日に再び内田九一に撮らせたのだろう。 

 こうして日本のナショナル・アイデンティティは急速に塗り替えられていったわけだ。その後、明治天皇が肖像写真の撮影に応じなかったのは、本来の自分の姿とは違うイメージを求められつづけたことへの抵抗だったのかもしれない。

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