2020年10月13日火曜日

森山栄之助の弁護を試みる

  祖先の足跡をたどって多様な文献に当たるなかで、強く印象に残った人が何人かいる。そのうちの1人が、通詞の森山栄之助だとメールでお伝えしたところ、岩下哲典先生が2005年に書かれた「日米和親条約の締結前後における領事駐在権をめぐって──オランダ通詞森山栄之助の関与とハリス駐在問題の発生と解決──」(『明海大学大学院応用言語学研究科紀要』「応用言語学研究」No.7)のコピーを、後日再びお送り下さった。この論考のなかで多く引用されていた三谷博東大名誉教授の『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)を図書館で借りて読んだうえで、私なりに考えたことを以下にまとめてみた。条約問題は、素人が論じるにはあまりに複雑で、拙著『埋もれた歴史』でもほとんど触れなかったので、今回、史料を再び読み直すよい機会になった。図書館では館内閲覧しかできない『大日本維新史料』が、古いものは国会図書館デジタルコレクションで公開されていることに気づいたのも収穫だった。膨大な史料のどこを読めばいいか、ピンポイントで教えてもらえることが、こうした専門家の研究のありがたさだ。

 手短に言えば、「日米和親条約」の第11条の問題で、英語の条文と日本語の条文が異なっているために、2年後にハリスが赴任した当初トラブルが生じた一件は、森山が通訳を誤ったために生じた、と三谷氏は主張しておられ、それを受けて岩下先生はその間の経緯を詳しく論じておられる。
 
第十一條 兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣により、合衆國官吏のもの下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候ては不及其儀候事 

 Article Ⅺ There shall be appointed by the government of the United States consuls or agents to reside in Simoda at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty; provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.  

 問題の箇所は、「両国政府に於いて據無(よんどころな)き義これ有り候時は」と、「provided that either of the two governments deem such arrangement necessary」の部分である。双方を読む限り、意味に大差はなく思えるのだが、日本語版は両国が一致して必要と認めた場合、英語はどちらか一方が必要と考えた場合、と解釈しうるのだという。当時は英語を解する日本人がほとんどいなかったため、条約文は日米双方が理解できるオランダ語と漢文をあいだに介して内容の擦り合わせがなされた。交渉のあらましは以下のようなものだった。

●嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 第1回目交渉 
アメリカ側の要求は①漂流民の保護、②寄港地の開港、③通信・通商で、最大の目的は太平洋航路を開くために石炭補給ができる寄港地を確保することだったので、通商は無理強いしなかった。ただし、日本が外国船の打ち払いや漂流民の入国拒否をつづける「寇讎」の国(敵国)となるのであれば、20日以内に100隻の軍艦を集結して戦争におよぶことも可能だとペリーは脅した。「彼国の者どもは強硬不撓の性質にて、一度申出し候事をば、如何様繰り返し」と、ペリー来航後に応接掛は老中に報告している(『幕末外国関係文書5、244号)  

●2月19・26日(陽暦3月17・24日) 第2・3回目交渉 
日本側からは、長崎で欠乏品を代金と引き換えに供給、5年後にもう1港を開くことなどを提案したのにたいし、ペリーは日本の東南(往路)と北部(復路)で5、6カ所開港するよう要求する。前年のフィルモア大統領の書簡は日本の南部に1港開港を求めていた。結局、日本側が下田を提案し、最終的に下田と箱館の開港が決まる。 

●2月30日(陽暦3月28日) 第4回目交渉 
日本側が用意した書面は用いられず、アメリカ側が用意したオランダ語の条約案を森山栄之助にその場で訳させて協議した。同日のペリー側の記録にはこうある。(『ペリー艦隊日本遠征記』原書p. 377、邦訳書、下巻、p. 215) 
「日本国内に領事代理を居住させる提案は、明らかに委員[応接掛]たちの不安を最も掻き立てたものだった。[……]代将[ペリー]はそのような代理人は、アメリカの自国民のためであるのと同じくらい、日本人自身のためにも置かねばならないと断固として主張した。最終的にそのような官吏が下田に滞在することで譲歩され、ただし条約締結後、1年もしくは18カ月は任命しないことになった。議論された新たな点を含めてさらに2つの条項が議論され、条約案の写しに加えられ、日本人は条約に関して合意した限りのことで彼らが理解したことをオランダ語でまとめ、翌日、ポーハタン号まで届けることを約束したため、代将はその場を離れた」

 前述の応接掛から老中への報告でも、「すべて條約の文は、異人より蘭文の草稿を持参仕り、且、彼方日本通詞にて漢文を心得居候者も、応接の席に出、互いに論議致し」行なった、つまりオランダ語版をまず作成したとする。このとき老中から、「下田へ亜墨利加人差置き候と申す義、十八ヶ月後、有無の答致すべく事か、如何や」と確認されて、応接掛は「来春より下田港へ館舎を建て、吏人を置く事を乞う事度々[……]ヘルリ申し聞き候は、段々御断の趣、某は得と承伏[承服]致し候へども」としたあとで、ペリーが言ったのと同様のことを述べ、「此後再び此相談に及ぶ事も有るべし、但し、それとても十八ヶ月後の事に致すベくと申し候意を認めたる事」と答えている。

 『大日本維新史料』(第2編第5 p. 377以降)では、急にもちだされた領事駐在の件に、「政府に於いて、とても相許し申すべき義にこれ無き」と、林復斎がまず強く拒絶すると、ペリーは「左候はば、先ず其の儘に成し置かれ、もしまたお差支えの義、出来候節は、一人指し置き候ように成られしかるベく存じ候、猶又十八ヶ月の後、使節参り申すべく候間、其の節此事はご談判に及び申すべく候」と、即答は求めなかった。 

●3月1・2日(陽暦3月29・30日) 
3日の調印式を前に日米の事務方が最後の作業に追われた。ペリーの遠征記は「アメリカの通訳官らは日本人と協力しながら、条約を漢文、オランダ語、日本語でそれぞれ作成するのに追われた」と、先ほどの続きに書く。1日の午後、条文作成のために森山と徒目付で漢学者の平山謙二郎、および浦賀奉行与力2人がポーハタン号に派遣された際には森山がすべてを取り仕切っていて、平山らは黙り込んでいたとアメリカの中国語通訳ウィリアムズは『ペリー日本遠征随行記』に書く。

 だが、平山は2日の夜8時に「日本語版から作成した漢文版の条約をもってきて、若干の変更と、下田の遊歩の距離に関する重要な間違いを訂正した」(原書、pp.150-52、邦訳書、pp. 252-3)。平山は当日のメモに、「合衆国の官吏を置く、約條にいたし候、一、十八月の後、両官府の一にて余儀無き筋有らば官吏を置くべし」(同維新史料 p. 462)と書いている。ところが、先に合意を見たオランダ語版をもとに作成され、平山が確認した漢文版では条約の第11条は「倘両国政府均有不得已之事情」(もし両国の政府、均しく已むを得ざる事情あらば)と、両国の意味が強調されていた。オランダ語版そのものは現存していないようだが、和解(和訳)はあり、「両国政府之内一方より貴官を設けんと要する時至らば」、つまりeitherの意味になっていた。

 思うに、ペリーにとって領事を置くことはしごく当然の手続きであり、応接掛がこれ以上、態度を硬化させないうちに条約を締結してしまえば、あとは1年半後に領事が赴任したときに何とかなるという思いがあったのではないだろうか。交渉全体の通訳だけでなく、オランダ語版の作成にも責任を負った森山栄之助は、日米のどちらかの政府が必要と認めれば、という意味だと正確に理解していたのであり、それに関しては平山謙二郎も、たとえその成り行きが不服だったとしても、理解はしていたのだ。三谷氏の書では、森山が「領事在住問題を継続交渉に委ねようという日本全権の言葉をアメリカ側に通訳せず、逆に日本側に対してはペリーの断固たる意向を将来の予想のように訳した」と推論し、森山は日米の「両者の強い意志に挟み打ちされた時、これを糊塗する道を選んだのである。森山の始めた作為は交渉妥結まで続けられ、交渉関係者全員を加担者に巻き込んだ」(『ペリー来航』、p. 179)とまで書くが、はたしてそうだろうか。むしろ、先に合意したオランダ語の内容を書き換えて漢文版を作成・承認した平山に作為があったのではないのか。三谷氏も「これは明らかに日本側の欺瞞行為である」とするのだが、それにつづいて「日本全権はアメリカ側だけでなく、公儀の老中も欺こうとした。交渉に使ったオランダ語版ではなく、漢文版を条約の正文とし、日本語版はそれからの翻訳として報告したのである」と書く(同、p. 181)。これはウィリアムズの説明とは異なり、応接掛から老中への説明にも、私が読む限りでは「全権が条約本書と称する漢文版」(同、p. 198)に相当する部分は見つからず、老中は交渉がまずオランダ語版で作成された経緯は理解していたと思われる。

 実際には、拙著にも書いたように、ペリー来航時、林復斎ら応接掛は、交渉前の2月2日に、月番老中の松平忠優(のちに忠固と改名)から「応接の事一々旨を老中に請うなかれ。[……]後日の咎は老中、これに任せんと」送りだされており、6日に水戸の斉昭が和親交易は決して許してはならないと応接掛や老中に言い含めたにもかかわらず、この日「老中等大学[林復斎]等に諭して前納言[斉昭]の命に従わざらしむ」と、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安紀事』に書いているのだ。福井藩の中根雪江の『昨夢紀事』にもこの間の出来事に関連して随所に老中間の意見の違いがあったことが示唆されている。「一説、林・井戸二氏、下田の事を申出せしは、両氏杜撰の意見にはあらで、内実は閣老衆の両人へ被命し時、為ん方なくは下田位はと何となく申されたる事あれば」(第1巻、p.165)。この箇所を引用した『水戸藩史料』は、「此の時月番の閣老は松平伊賀守忠優なり。其の人の阿部正弘と一致せざりしは前後の事情に明なり」と注を入れている(上巻乾、p. 286)。下田・箱館の開港が決まった2月26日は、老中首座の阿部正弘がひそかに辞表を書いた日だが、交渉が自分の手に負えなくなったことを苦にしたのかもしれない。平山謙二郎(省斎)はのちに一橋派として岩瀬忠震や橋本左内らとともに忠固に敵対した人物だ。 

 『水戸藩史料』には下田に関連した松平忠優のかなり驚くべき発言も残されている。これは水戸の斉昭から息子の川越藩主松平直宛の私信と思われるものに書かれた内容であり(上巻乾、p.632-636)、私は忠優の真意を測りかねて拙著では引用しなかったのだが、関良基氏の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で詳しく取り上げられている(pp. 62-64)ので、ぜひお読みいただきたい。「殊に松平忠優の如きは戦を忌むこと尤も甚だしく区々たる下田一港の如きはしばらく委棄するも可なりと発言」と、水戸の史料はこの一件を解説する。このあと、忠優は老中を解任された。

 四カ国語で作成された条約の各版間に齟齬あることは、翌年初めに下田にアダムズ艦長が再来した際に、箕作阮甫と宇田川興齋が確認作業を命じられ、第11条を含め、数カ条に問題を見つけたようだ(『水戸藩史料』上巻乾、pp. 519-527)。この年の正月に書かれた阿部正弘から水戸の斉昭宛の書簡は長文で私には充分に理解できないが、ロシアとの条約調印を担当していた筒井政憲と川路聖謨がアメリカとの条約で「漢文には倘両国政府均不得已之事情云々と御座候て、両国均と申す三字、後日此方より彼是と口出し相成り候」、あるいは「墨夷條約蘭文和解の方は漢文の両国均と申す字に符合仕らず[……]彼よりは是を差出し、此方よりは漢文を持出し終に所謂水掛にて論定仕りまじきか」などと書かれている(同、pp. 533-537)。条約に問題があったことは当事者のあいだでは周知の事実だったが、事前に誰かが再度交渉に現われるはずで、そのとき再度談判できると思い込んでいたのではなかろうか。

 1856年にハリスが突然来日した際に、幕府は確かに慌てふためいた。ハリスのオランダ語通訳ヒュースケンの日記の英訳版(原文はフランス語)には、8月21日の条(27日の読み違いか)に、日本側はアメリカの領事をこの地に置く必要性を感じておらず、その理由は条約で在日本領事が任命されるのは、「either [sic] of the two governments deemed it necessary」と書かれているからだと彼は記していた。その箇所に英訳者・編者が、「ヒュースケンはここで誤解していた。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合に(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と、注を入れている(pp. 85, 235)。英語のeitherは、ヒュースケンが気づかなかったように、「どちらか」ではなく、「どちらでも」と解釈できる言葉なのだ。オックスフォード英語辞典の定義を借りれば、「one or the other of the two people or things」という意味だ。その点で言えば、日本語の「両国政府に於いて」も解釈の余地がある言葉だ。

 ハリスの日記では8月27日の条に、上級の通訳(つまり森山)が前日にやってきて、「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなってはいない。[……]条約では領事は両国が派遣を望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた」と書かれている。この箇所の脚注では英語版の第11条が引用され、「日本語版はあいにく、両国政府が領事を任命する必要があると見なした場合にとしていた」とする(原書、pp. 208-209、邦訳書、中巻、p. 26)。安政の大地震から10カ月後でまだ復興していない日本に来日したハリスは、当初、困惑した幕吏に迎えられたが、29日には下田の柿崎の玉泉寺に入った。

 岩下先生は「後で一部の人々が、齟齬に気が付きながら、目をつぶった」食い違いを、再び現場に立たされた森山が臨機応変に対処したとする(p. 85)。諸々の背景を考えれば、私には応接掛が勝手に交渉を進めたわけでもなければ、森山栄之助が条約締結時に通訳を間違えたわけでもないと思われる。ハリスが突然やってきた当初、老中首座を退いたものの、なんとか開国を取りやめにしたい阿部正弘のもとで、森山はウィリアムズが署名している漢文版条約を盾に、領事駐在は両国が「均しく」已むをえない事情になれば、という意味なのだと主張するよう言い含められて、交渉に当たったと解釈することは可能であり、その方がより自然ではないだろうか。外国事務はその10月から老中首座の堀田正睦の担当となり、ハリスにとってはよい結果になった。

 蛇足ながら、ペリー再来の際に松代藩の軍議として横浜警備に就いた佐久間象山の「横浜陣中日記」の2月13日の条にある「例の謀る事」が、歴史学者の松浦玲の推測どおり、「横浜を以てこれに仮すの愈(まさ)れり」と『省諐録』にある下田開港阻止運動のことだとすれば、応接掛が19日に下田を提案する前の情報入手ということになる。象山が同月21日に出府して下田開港に反対し、「已むことなくば寧ろ横浜を開くに如かず」と建言したことは『水戸藩史料』(上巻乾、pp. 294-296)からもわかる。これは交渉の成り行きを見越して幕府内で事前に下田で根回しが進んでいた証拠であり、またこの時点ですでに横浜を代案として主張していた象山の慧眼には、驚かされるばかりだ。
 

森山栄之助(多吉郎と改名)の墓所は長崎の本蓮寺だけでなく、巣鴨の本妙寺にもあること岩下先生から教えていただき、先日、訪ねてみた。「日本最初の通詞」という案内標識は誤解の多い表現だが、この寺は参拝者の便宜を図ってくれており、ほかにも遠山の金さんや、剣術家の千葉周作など著名人が埋葬されていた。

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