2026年3月2日月曜日

レゴによるストレス発散

 6年ほど前、「コウモリ通信」をブログに移行するに当たって、1カ月に1本は最低投稿しようと思っていたのに、先月はあまりに多忙で、ついに一度も書く余裕がなかった。昨秋あたりから締め切りのオンパレードで、ベルトコンベアーを前にした作業員のごとく目の前の仕事を終わらせることに必死になってきた。昨日、本来の締め切りより2カ月以上遅れでようやく苦手な物理分野の本の翻訳原稿を提出した。一息つく間もなく、ようやく確定申告に取り掛かった。ところが、昨年まではマイナンバーカードを手動で入力する抜け道があったはずなのに、今年のe-tax画面ではどうにも見つからず、マイナポータルとやらを使用せざるをえなくなり、昨夜はそれを使って本人確認ができるまでにやたら手間取って終わってしまった。今朝、多少は頭の冴えた状態で、数年分の自分の乱筆メモとネット情報を頼りに難関の入力作業に取り組んだが、今年も同じところを何度もぐるぐる回るはめになった。それでも何とか迷路を抜けだしたのは、この先もいろいろ詰まっており、少しでも自由時間を確保したいからだ。  

 本来ならば、この数カ月間、少なくとも私のささやかなストレス発散の場となってくれたレゴについて、何かしらまとまったことを書きたかったのだが、頭が疲れ過ぎているので、取り敢えずひな祭りに関係するものだけ少しばかり書いておく。何しろ、今日は3月3日なので。  

 自分でもなぜこれほどお雛さまにこだわるのか不思議だが、たぶんそこに凝縮された職人のわざに惹かれるからであり、またこの数年、公家社会についていろいろ調べたためでもあるかもしれない。子どものころ家にあった古い段飾りのうち、私が何よりも好きだったのは、さほど大きくない木箱にすべてが収まっていて、箱そのものも使って七段飾りを魔法のようにつくれる仕組みだった。後年、何種類ものお雛さまをつくったが、そのたびに階段作りにいちばん工夫を凝らした。そのためか、フェイスブックのタイムラインに流れてくるさまざまなレゴサイトの投稿で、わずかなピースでつくった階段や、1×1の細かいピースを積み重ねた香水やお酒のボトル作品を見た瞬間から、頭のなかに小さな雛壇が浮かんでいた。  

 実際につくってみると、袖や裾などを側面につけると、たとえ1×1を基本としたものでもスペースが足らず、階段は当初予定した二倍の幅でつくらざるをえず、いろいろ失敗はあったが、おおむね頭に描いたとおりに、欄干と階のあるミニチュア段飾りが出来上がった。昨年3月に書いたように、「平等」の本を訳しながら、階段づくり励んでいる自分に苦笑せざるをえなかったが、「殿上人」の意味を知るうえでは階は欠かせない。  

 出来上がった段飾りを見せると、孫は「仕丁がいないから嫌」と言うし、姉は「うちのお雛さまでいちばん好きだったのは御殿だった」と言う。いまは姉宅にある昭和初めのうちの段飾りには、「源氏枠」という屋根のない「御殿飾り」が最上段にある。ネット情報による天保期ごろに始まり、その後、檜皮葺などの屋根がついた形に移行したらしく、実際、伯母の1歳時の写真と思われるものには、この段飾りの横に、屋根のついた別のセットも写っていた。どこで制作されたものなのか、調べてみたら面白そうだが、御簾のある御殿らしき頭上の飾りくらいなら、レゴで簡単につくれる。というわけで、まずそれを付け加えることにした。  

 階があると、地下人以下と思われる仕丁は、その下の砂利敷きにいたはずだ。階があると、その両側に並べざるをえないが、仕丁は3人が定番で、「十五人飾り」がフルセットらしい。そのうちの1人は下足番なので、その人を階の脇に置いて、あとの2人を両脇にするか、などと考え、仕丁も加えることにした。それによって本来、庭にあるはずの桜・橘も下に降りて、何とか五段飾りに見えるようになる点が何よりも重要だった。日本文化の奇数へのこだわりは、日本庭園の本で何度も読んでいたからだ。ちなみに、孫は、私が青いタイシルクの端切れでつくった布製の仕丁がツルツルしているため、赤ん坊のころから気に入っていた。私自身も子どものころから、足が見えて、血色のよい仕丁には親しみを覚えていた。よって、レゴでもクリップで足をつけてやった。  

 こうして入れ替えると、右大臣・左大臣の段が寂しくなるので、最後に菱餅も加えてみた。平安時代には三公として太政大臣に次ぐ地位にあったはずの大臣たちが、なぜ弓矢までもち番兵のような恰好をしているのか長年、疑問だった。今回、ちらりと調べてみた限りだが、実際にはこの2人は実際の大臣ではないとする記述も散見され、階の下に置かれているお雛さまの画像も見つかった。江戸時代には関白が朝廷を仕切るようになり、三公は位ばかり高く、実権のない役職であったことの名残なのかもしれない。 あとになって、ライトヌガー(いわゆる肌色)の1×1のオープンスタッドならあることに気づき、左大臣と仕丁のうちの2 人は赤い顔にした。レゴのピンクは、素敵な色がないので、この淡い色をもっぱら使い、御殿の桜はヤマザクラなので、中心部分が濃いオレンジ色なるようにして白い花にした。ヤマザクラの芽吹いたばかりの葉は、実際そのような色をしている。  

 段飾りとほぼ同時に、レゴで牛車もつくっていた。うちのお雛さまには残念ながら牛車はなく、娘にはフィルムケースの蓋を車輪にした牛車をつくってやったことがある。レゴでは、あの巨大な車輪をうまく再現できず、ずっと諦めていたのだが、馬車用の車輪を丸いプレートにバーで取りつけることを思いついたのだ。それでも、覗き窓のようなものを引き戸にするアイデアがなかなか浮かばず、溝付きブロックが使えることがわかってようやく乗りだすことができた。牛は、ネット上で見た黒い雄牛のアイデアを基本に、黒毛和牛のようなものを適当につくった。牛車のなかには、ちゃんと長い黒髪にミニフィグも乗っているが、簾はうまく上にめくれないので、出入りするときは取り外すしかない。  

 この数カ月、実際にはこのほかにも自作レゴが随分と増え、娘が使っていた机の上を占領するようになっている。飽きるまでもうしばらく飾って、いずれはバラバラにしてまた何かをつくり直すつもりだ。レゴのいいところは、完成しないところかもしれない。

 改良版がこちら

 当初の段飾り

 側面から見たところ

レゴの牛車ともに。後ろにあるのは、曽祖父から母がもらった内裏雛。木箱に「寶印けし親王」と書かれており、芥子親王は15-20cmほどの小さい雛人形のことらしい。宝印は久月の可能性もありそうだ。

2026年1月21日水曜日

『〈平等〉の人類史』

 2年越しで取り組んできた仕事がようやく形になった。本文が450ページほど、膨大な原注を入れると結局500ページを超える分量となり、私の得意ではない思想史の本であったことや、出版社側の都合等で、なかなか刊行に漕ぎつけられなかった。  

 この間、ウクライナ戦争はつづき、ガザ侵攻も悪化の一途をたどり、第2次トランプ政権が発足して、世界中が振り回されてきた。長年、自由貿易を主張してきた民主主義国のアメリカが、幕末の「不平等条約」の関税率が穏当に見えるほどの高関税を一方的に課すようにもなったのだ。今年に入ってからは、年始よりベネズエラの大統領夫妻を拘束したうえに、石油利権を獲得して内政に干渉するという事件に次いで、トランプ政権は中国・ロシアに対抗するという名目でグリーンランドにも食指を伸ばし、国内では移民・関税執行局ICEがナチスのゲシュタポや戦前日本の特高警察まがいの一斉検挙や家宅捜査を強行している。 

 予測不能なこの2年余りを、それなりに心穏やかに客観視しながら過ごせたのは、『〈平等〉の人類史』(作品社)を訳す機会に恵まれたことが大きい。これまでの常識では考えられないこうした展開が、戦後の民主主義社会の当然の帰結ではないとしても、十分に予測しえた結果であることを理解したからだ。 本書の原題はEquality: The History of an Elusive Idea(『平等——捉えどころのない理念の歴史』)という。著者のダリン・M・マクマホンはダートマス大学の歴史学の教授である。書名を見ても、多くの人はさほどピンとこないだろうし、かく言う私もリーディングを依頼されたときはそうだった。近年は単なる平等(equality)ではなく、結果の平等を実現させるべく、ハンディキャップを考慮した衡平(equity)が主流ではなかったのか。そんなことを考えながら、500ページ以上におよぶPDFを読み始めたのだが、いつのまにか引き込まれていった。レジュメにはこう書いた。「平等という考えは想像上のもので、絶対的な平等など矛盾した言葉だという著者の主張は、とりわけ示唆に富む。しっかり読み込んだら、視野が一気に開けそうな気がする」 

 大和言葉は極端に抽象名詞の少ない言語であるため、哲学や思想関連の翻訳は、まるで辞書をつくる作業のように、一つひとつ言葉の定義を確かめながら、漢語やカタカナ語を織り交ぜた訳語を選ばなければならない。本書のテーマ「平等」にいたっては、著者によるequalityの説明と日本語の「平等」の意味がどうにも食い違う。本来は「同等」のほうが近かったのかもしれない。「平等」は最澄が唐で学び伝えた概念と言われ、日本人なら10円玉の裏側にある宇治の平等院鳳凰堂が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。 

 私などは平等と言えば、漫画『ベルサイユのばら』で学んだ「自由・平等・博愛」や、「男女平等」や「四民平等」が思い浮かぶが、後者は「士農工商」とともに、最近の歴史の教科書からは消えているらしい。後世の歴史家が明治維新を美化するためにつくった用語だったのだろうか。「博愛」はいまはもっぱら「友愛」と訳される。もっとも、この言葉の本来の意味は兄弟愛であり、そこに姉妹は入っていなかった。私は男女雇用機会均等法が制定された年に、おそらくその恩恵を受けて就職したが、この法律の名称には「平等」ではなく「均等」が使われていた。このころには、「平等」はどこか道徳臭くなっていたのだろうか。 

 日本にいつequalityの概念が入ったのかは、ちょっと調べたくらいではわからなかったが、ヘンリー・ウィートンの『国際法原理』が1864年に中国語に翻訳されたとき、equalityに相当する中国語が見つからず、「平行」と訳されたというエピソードが本書で紹介されていた。この中国語版である『万国公法』は一年を経ずして日本にもたらされ、勝海舟や松平慶永、坂本龍馬らが読み、大いに感化されたという。その後まもなく、日本人は「平行」の代わりに古い仏教用語の「平等」を訳語として充てたようだ。空海が9世紀に一律に誰でも平等に扱う「悪平等」ではなく「善差別」を主張していたそうなので、仏教用語としての「平等」は当初から、数学的なイクォール「🟰」の意味の強い絶対的なequalityとはやや異なり、もう少し曖昧さを含む言葉だったのだろう。 

 西洋の厳密な意味の平等を掲げたアメリカの建国理念やフランス革命は、古代ギリシャ時代の民主主義を手本としていた。それは要するに、税金を支払い、兵役に就ける能力のある男性のみが対象で、奴隷や召使による労働にもとづく「メンズ・クラブ」的なものだった。古代のスパルタでは虚弱児や障害のある新生児は奴隷として売られるか、野垂れ死にさせられていた。従来の西洋の平等の理念は、能力があることを前提とした平等だったのである。だが、人の能力には当然ながら大きな幅がある。女性を含めるとなると、平等にしなければならない人数は一挙に倍になり、男性と同じ能力と義務を期待することも難しくなる。それでも、能力主義の理想を頑なに信じる人は、能力の多くは世代を超えた財力から生みだされるという事実には目を向けない。  

 占領軍が駐留していた敗戦後の7年弱の期間を除けば、他国の支配下に置かれたことのない日本では、「鬼畜米英」だった時代の記憶はすぐに忘れられ、明治以来、西洋社会はおおむねずっと追いつくべき理想でありつづけた。実際には、二度の大戦のあいだの時期に、日本は国際連盟規約の前文に人種的平等条項を入れる人種差別撤廃提案を出し、欧米諸国の二重基準にいち早く楯突いていたことを、恥ずかしながら本書で初めて知った。だが、その動議が握りつぶされると、日本政府は西洋を真似て、独自の民族的、人種的優位性を主張し始め、近隣諸国に侵略するという愚挙に出たことはよく知られる。 戦後は、国連憲章によって主権平等が謳われ、日本でも自由と民主主義が目指すべき理想となり、欧米社会をロールモデルに西側陣営につき、ひたすら先進国の仲間入りをすることが国是となってきた。

 数世紀にわたり植民地化されてきた国々は、名目上は独立したものの、安い労働力として原料生産や下請け産業を担わされた。これらの国々に工場を移転させた先進国が環境を改善する一方で、「開発途上国」と呼ばれた国は公害を押しつけられ、いくらかでも経済が上向けば、今度は消費者として購買力を期待される。 主権平等は結局のところ建前だけであり、現実にはさらに核保有国として認められた米英仏中露の戦勝五カ国と、その他の非保有国のあいだには歴然とした差があった。インド、パキスタン、イスラエルはいずれも表向きは民主主義国だが、核拡散防止条約は非加盟で、脱退した北朝鮮とともに、公然と核兵器を保有している。近視眼的に日本でも核武装をという声もあるようだが、イラクやリビア、あるいはいまのイランのような事態にはならないのか。それとも、こうした動きは危うい均衡を保ってきた戦後の核をめぐる体制が総崩れになることを意味するのか。 

 この数十年は、先進国に端を発する人為的気候変動によって、もともと人間が暮らすには脆弱な環境であった地域に住めなくなった人たちが、どんどん移民となって先進国に押し寄せている。先進国でも、安い労働力である移民と競合する低所得者層ほど排外主義に傾くため、いまやどの国も極右が台頭してきている。本書のファシズムを扱った章はとりわけ面白く、引用されていたナチスの法学者カール・シュミットの言葉、「民主主義は第一に同質性を必要とし、第二に——その必要が生じるとすれば——異質性を排除または根絶しなければならない」は、あまりにも的を射ており、訳しながら思わず唸っていた。ファシズムはもちろん、民主主義から生まれたものであり、表裏一体のものだ。 

 いまや、西洋の道徳的優位は崩れ、国連憲章などが謳ってきた世界の道徳的秩序も崩壊の瀬戸際だ。古くは公民権運動に始まり、アイデンティティ・ポリティクスや、昨今の気候変動絡みのグローバル・サウスの訴えは、当初の「平等」の枠組みから除外されていた人びとが、西洋の二重基準を糾弾するものだ。著者マクマホンはアメリカ人らしく、この現状にまだ希望を失わないが、道徳的・精神的秩序を失えば、弱肉強食が当たり前の世界になり、いっそう混沌とするだろう。世の中には弱者のほうが圧倒的に多く、その人口は増える一方だからだ。機械化、IT化が進み、大量生産・大量消費も不要になったうえに、AI時代が到来したいま、能力の劣る弱者は強者にとって労働者としても、消費者としても不要になってきた。すべての人が必要に応じたものを受けられる平等な社会など実現するのだろうか。 

 著者は将来に向けた明確な指針を示しはしないが、「想像上の平等の歴史を学ぶことで、その平等を新たに想像し始めることができる」と語りかける。そのための材料を、この分厚い一冊が提供してくれる。 

 日本国内でも不穏な動きは広がっているし、主食である米の値段は二倍になったまま一向に下がる気配がないが、世界の国々と比べたら、いまのところまだ平和と言えるだろう。日本にも被差別民は存在したし、明治になっても身分制度は残った。それでも、日本列島という、ほかに行き場がなく、鉱物資源も乏しい島国で、ひたすら人力に頼って地域が共同で水を管理して稲作をつづけきた日本では、早くから奴隷や畜力、機械力を利用してきた西洋諸国よりも、結果的に平等な社会で生きてきたのではないだろうか。万人どころか万物の平等を説いてきた仏教の教えも、社会の根底には残っているはずだ。現状を憂える人びとが、幕末の過激な攘夷論者のように、安直なヘイト思考に走るのではなく、本書を手にして、今後どんな社会に生きたいのかを真剣に想像し始めてくれることを切に願う。

【追記】
こちらで本書の序文を試し読みできます。執筆動機から、本書の概要までが語られています。用語の定義が多く含まれ、具体的な話でない分、多少読みづらいかもしれませんが、本書の言わんとすることはここに凝縮されています。
 

『〈平等〉の人類史』
(ダリン・マクマホン著、作品社)
 原書(左)のカバーの筆による二本線は🟰かと、ずいぶんあとから気づいた(苦笑)。
 邦訳版(右)は、平等にはつねに差異がつきまとい、一色に塗りつぶされるのではなく、同質と異質の相剋であることをデザイナーが表現してくださったもの。


 宇治の平等院鳳凰堂

2026年1月17日土曜日

人力車

 相変わらず、当初の締切り予定を大幅に過ぎてしまった物理本と格闘中だが、難関だった技術史の第2部が終わり、少しだけ峠を越えた感がある。本来、脇目も振らず先を急ぐべきなのだろうが、長年ずっと疑問に思ってきたことに答えらしきものが見つかったので、忘れないうちに書き留めておくことにした。  

 きっかけは、ハンサムキャブという元祖タクシーのような一頭立ての二輪馬車について訳した際に、その説明をあれこれ読んだことだった。ウィキペディアの日本語ページに、ナルニア国物語の『魔術師のおい』で魔女ジェイディスが乗っ取り、古代の二輪戦車チャリオットのように乗り回したのが、この馬車だと書かれていたのだ。その挿絵は朧げながら記憶にあり、母宅から引き上げてまだ床の上に積み上がっている本の山から探しだして確認してみた。瀬田貞治は辻馬車と訳していて、馬車屋のコックニー訛りはべらんめえ調になっていたので、何やらダサい馬車なのだと思っていた。もちろん、それがハンサムキャブであることも、二輪馬車を立って操縦する行為が古代の戦士を思わせることも、子どものころの私には理解できなかった。原書は姉宅に行ってしまったのか見つからず、正確な言い回しは確認できないが、いまさらながら、そういうことかと納得したのだった。  

 ポーリーン・ベインスの挿絵は細かいところまでじつによく描けているが、肝心の車軸はどこを通っているのかわからない。このところ、車輪の仕組みばかり訳していたので、つい気になってあれこれ検索すると、古い写真も、現存する馬車の写真もたくさん見つかった。ハンサムキャブは、フランスの二輪馬車キャブリオレを改良する形で1834年にイギリスでハンサム氏が考案した新型だった。小回りが効き、重心が低くて安定がよいため、たちまち人気を博し、1869年5月にはニューヨークでも利用が始まったようだ。いろいろ見た画像のうち、メトロポリタン美術館所蔵のイラストに目が釘付けになった。何と軽やかな乗り物であることか! 19世紀後半の欧米社会は、自転車技術が大きく発達したことから、馬車に関しても軽量かつ丈夫で実用的な乗り物が多数生産されたのだという。

 シンプルなデザインをしげしげと見ているうちに、この轅(ながえ)部分を人が引っ張れば人力車になると思い当たった。2017年に『馬・車輪・言語』を訳した折に、金貨チョコレートのフォイルを使ってチャリオットの模型をつくったあと、戯れに轅を逆にしてみたら人力車になることを発見して、一人で吹きだしたことがあったが、あながち間違いではなかったかもしれない。古代のチャリオットと車体を逆向きにし、乗客が座れるようにした軽量の二輪馬車がまずつくられ、それをヒントに馬の代わりに人間が引っ張る乗り物が考案されたのだろう。発明はあるとき突然生まれるものではないことは、今回の本でも随所で強調されていた。  

 人力車は日本で1869年か1870年に発明されたとされている。ウィキペディアの人力車のページには、1899年になってから「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出され、1870年に和泉要助が発案し、何人かの助けを得て製作したことが認定されたと書かれており、これが通説となっている。ただし、ウィキのページにもあるように、当初から異論もあり、とりわけ横浜にいたアメリカ人のバプティスト派宣教師ジョナサン・ゴーブルは自分が発明者だと主張しつづけたことで知られ、1909年発行の『ジャパン・ガゼット50年史』に寄稿した長年の横浜在住者も『横浜市史稿』もその説を伝える。  

 ゴーブルは海兵隊員としてペリー艦隊のミシシッピ号に乗って日本に最初にやってきて、そこで知り合った日本人漂流民のサム・パッチ(三八)こと仙太郎とともに、1860年4月に妻イライザと2歳の娘ドリンダとともに再来日し、一時期、神奈川の成仏寺にヘボンやブラウンなどの宣教師とともに住んでいた。ドリンダは1862年にコレラで亡くなってしまったが、ゴーブル夫妻にはほかに2人の娘が生まれている。1867年にはグラバー商会の依頼でしばらく長崎などに行き、後藤象二郎や坂本龍馬にも会う。ゴーブルと土佐藩の関係についてはこのブログを参考にさせてもらった。翌年、横浜に戻ったころから妻の病気が悪化し、歩行困難になり、移動手段として人力車を思いついたという。  

 ゴーブルの来日目的は布教で、日本語版マタイ伝を刊行したことでいちばん知られるが、性格にやや難があり、宣教師たちとの関係もぎくしゃくしていたようだ。しかし、多芸な人で、肥後のプリンス(熊本藩主か)のために天草に製材所を建てる依頼がきたと、1861年に隣人だったフランシス・ホールに語っているほか、靴職人として生計を立てていたとの記述も見つかった。  

 1990年にF・カルヴィン・パーカーがJonathan Goble of Japanという評伝を書き、人力車の発明をめぐる問題に一章を割き、さまざまな典拠を上げている。この本の一部は、2017年にアメリカのフォトヒストリアン、マーナ・ゴールドウェアと大量のメールをやりとりするなかで見せていただいていたが、まだ自分で確かめていない。上智大学図書館にあるので、暇になったら館内閲覧させてもらおう。  

 取り敢えずネット検索するうちに、ゴーブルが人力車の設計をアメリカの知人であるフランク・ポーレイに依頼していたという記述がいくつか見つかった。ニューヨーク州北部のキューカ湖畔のプトゥニー村のポーレイはペリー艦隊に乗り込んでいた大工だったらしい。店に残っていた「人が引く車」の原型の木型を、その鉄鋳物部品を担当した鍛冶屋の孫が見ており、1952年に新聞のインタビューに答えていたという。当時はまだ自転車の車輪も木製だったので、ポーレイは車輪と車体を製造し、車軸、ハブ、軸受等にのみ鉄製品が使われたのではないかと思う。人力車が誰の発明かを論じた「インベンション&テクノロジー」のサイトでは、ポーレイが製作した完成品を船で横浜まで輸送したと書いているが、根拠はすぐには確認できない。  

 開港後の横浜で大八車が使われている様子は、生麦事件の賠償金が支払われた際にワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に描いている。牛車のような巨大な車輪ではなく、それなりに実用的に見える木製のスポーク車輪がついたものだ。戊辰戦争時には砲車も使われたようだし、火消しの大八車も普及していただろう。大八車に病人を寝かせて運ぶこともあったかもしれない。実際、1871年1月号の『ジャパン・パンチ』にワーグマンが初めて描いた人力車は大八車の上に椅子を載せたような乗り物で、乗客の西洋人は仰向けにひっくり返り、車夫が梶棒に宙吊りになっている。 ちなみに、その下には「Suspension of Habeus Corpus」(人身保護の停止)と書かれている。サスペンションを「停止」と「吊り下げ」の両義で読ませて笑いを誘い、さらに乗り物のサスペンションも掛けたのかもしれない。

 余談ながら、筆記体の文字を読み取ったあとフェイスブックで見た動画が、アメリカの国土安全保障長官クリスティ・ノームが人身保護令状の意味を勘違いしていたうえに、その停止がアメリカ憲法第1条第9節で反乱などの非常時以外は禁じられていることも知らなかったことを皮肉る内容で、おかげでよく意味を理解することができた! 

 人力車に話を戻すと、『ジャパン・パンチ』の1871年9月号のイラストでも梶棒が車軸を越えて後部まで一直線につながり、その上に幌付きの椅子らしきものがあるが、乗客の西洋人は長い脚の置き場に困っている。1872年10月になると、梶棒と椅子の角度はやや狭まり、車夫が梶棒を小脇にかかえても乗客が後ろに倒れない、いわゆる人力車の形になっているうえに、板バネのサスペンションまで備えたイラストになっている。明治初期のベアト撮影とされる写真の人力車は、サスペンションはないが、まさにこのタイプの原型的な乗り物だ。注目すべき点は、乗客の足の高さが車軸よりやや低めで、重心を下げて安定性を高めてあったと思われることだ。ハンサムキャブとそっくりではないか。  

 明治、大正時代の人力車の写真を見ると、実際にはいろいろなタイプがあることがわかる。ゴーブルが「発明」した乗り物は、設計面だけでなくおそらく製造自体もポーレイに頼ったものだったのだろう。ゴーブルとほぼ同時期に大八車に椅子を載せただけの乗り物を、偶然にか、噂を聞いてか、和泉要助が考案した可能性も大いにある。何しろ、1871年以降日本全国に瞬く間に広まったのだ。明治初期にハンサムキャブが輸入され、それを和泉らが見たとも考えられなくはないが、横浜絵などを見る限り走っている馬車は四輪馬車が圧倒的に多い。通説で言われるように、馬車をヒントにしたのであれば、ハンサムキャブのイラストを見た可能性のほうが高そうだ。  

 最後に、ゴーブルが人力車を考案するきっかけとなった妻イライザについて書いておきたい。イライザは1882年に45歳で亡くなり、横浜外国人墓地に幼い娘の隣に埋葬されている。2017年に別の埋葬者の墓を訪ねるために許可を得て奥の区画に入らせてもらった際に、たまたま見つけて1枚だけ写真を撮っていた。墓碑には「イライザ・ウィークス、J・ゴーブル牧師の愛する妻」とあり、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから」と、欽定訳聖書の詩編23章4節が刻まれていた。ゴーブル自身は翌年帰国し、1896年にセントルイスで没している。  

 2017年に前述のフォトヒストリアンとやりとりするなかで、ピエール・ロシエが1861年刊行のネグレッティ&ザンブラ社のViews in Japanのために撮影したステレオ写真で、イギリスのヴァイス領事の使用人である日本人男女3名とともに写る若い西洋人女性のことがたびたび話題になった。ヴァイス領事は独身で、ブラウン牧師の娘ジュリアでもない。何年かのちにゴーブル夫人のイライザの後年の写真を見たとき、あの写真の女性は彼女だと直感したのだったが、そのことを件マーナに伝えたのだったかどうか。いつか暇になったら、鎌倉の八幡宮にでも行って人力車にも乗ってみよう。

ハンサムキャブをレゴでつくってみたあと、ほぼ同じパーツで人力車もつくれるのではないかと試してみた。梶棒の角度がうまくついていないため、ミニフィグが苦労している(苦笑)

ハンサムキャブを乗り回す魔女ジェィディス

メトロポリタン美術館のサイトで見つけたハンサムキャブのイラスト。パブリックドメイン

ベアト撮影とされる明治初期の写真。オークランド図書館のサイトにあり、パブリックドメイン

ワーグマンの『ジャパンパンチ』3巻より

横浜外国人墓地にあるイライザとドリンダ・ゴーブルの墓。2017年撮影