2022年2月20日日曜日

 車偏の漢字は、私が長らく興味をもってきたものの一つだが、これまで「輦」の字の意味をきちんと調べたことはなかった。訓読みは、てぐるま、音読みは、れん、という。字を見てのとおりに、複数の人間が引く車を指す言葉だというが、のちに輿と混同され、川を人足が担いで渡る際のお神輿のような乗り物も「輦台」と呼ばれるようになった。  

 正月明けに切羽詰まって仕事をしていたとき、ふとヤフオクで古い雛道具が安く出品されているのが目に留まり、以前から小さな御所車を欲しいと思っていたので、ほかに入札者のいなかった極小のものを手に入れてしまった。掌に乗るようなミニチュアで、屋形と呼ばれる本体は紙でできており、しかもその部分が箱のように、パカッと外すことのできる楽しい作りのものだ。その昔、娘が小さかったころ、古語辞典の口絵だけを頼りにフィルムの蓋を車輪代わりにして、御簾まで竹ヒゴで編んで牛車をつくってやったことがある。ところが、出品されていた何点もの御所車をしげしげと眺めた結果、私がいくつも勘違いをしていたことが発見された。  

 乗降用の階段付きのタイプもあって、いずれも御所車の後部にそれがあるので、乗り降りは後ろからしており、通常、前後に開口部があった。屋形部分は軽く丈夫にするために、竹を格子状に編んだり、網代張りにしたりしていたようだ。大半の駕籠もそうした造りで、まさしく人の乗れる「籠」だったわけだ。  

 雛道具や着物のデザインに描かれる御所車は、総じて轅(ながえ)と軛(くびき)が置き台の上に載せられていて、牛はいないことが多い。本当に牛車だったのか、というのが私の長年の疑問だったが、その答えが「輦」にあったようだ。日本では畜力がほとんど使われず人力頼みだったことを以前に何度か書いたが、元祖人力車に限りなく近いものが、この輦なのだ。日本には去勢の習慣がなかったので、牛の制御が難しく、人も一緒に、もしくは牛なしの人力だけで引っ張る必要があったのだろう。  

 御所車に関心があったのは、以前からの車輪の歴史への関心に加えて、英照皇太后の葬儀で使われた乗り物が確かに牛車であったのを知ったためだった。当時の雑誌に掲載されたイラストでは、牛の絵の上に描かれた乗り物に「御輦」と書かれており、大喪時の写真や説明から、牛4頭と人が一緒になって引っ張ったことがわかった。皇太后の大喪では人が担ぐ御輿も使われており、輦を使う習慣がなかった東京では青山御所から青山停車場まで輿が、京都では停車場から大宮御所、そこから御陵墓まで輦が使われ、その間は汽車が使われた。青山を明治30(1897)年2月2日午後2時ちょうどに出発し、京都には翌朝8時35分に着く通過駅ごとの詳細な時刻表が掲載されていた。  

 このイラストを掲載した東洋堂発行の雑誌『風俗画報』の第135号、臨時増刊「御大喪圖會」の裏表紙には、発行者からのこんな広告がある。「苟くも帝國民たる者は。必ず一本を求め。机右に置て以て涙襟の紀念とせられむことを」。当時、輦なる乗り物を実際に見たことがあった国民はごくわずかだったと思うが、それが雛道具の一つとして後年盛んにつくられたのは、職人たちがこぞってこの雑誌の「一本を求め」たからかもしれない。英照皇太后は、おすべらかしに着物を着て御殿に住んでいた最後のお雛様のような人だったからだ。

 嘉永元(1848)年12月15日、英照皇太后が女御として入内した日にも「輦車を聴す」と『孝明天皇紀』は書き、「次引出御車、於中門外懸牛」などの文字も見られる。「懸牛(かけうし)」は、牛車を引く牛のことだ。「九条家記」からの引用であるこの長い一節は、私にはおおよそしか理解できないが、「次御車さしよせ[差に車](檳榔)於寝殿階、殿上人二人附御轅、諸司二分八人引之」などともあるので、二手に分かれて8人で牛と一緒に引いたのかもしれない。

 檳榔の文字が気になり、調べてみると、驚いたことに檳榔毛車(びろうのけぐるま)と呼ばれる乗り物のことだった。しかもこれは、檳榔子(areca nut)のできるビンロウではなく、同じヤシ科でも四国南部から南西諸島にかけて自生するビロウ(別名:蒲葵、アジマサ、クバ)の葉を細く裂いて並べた、雨覆いのように垂らした代物のことらしく、現代人の感覚からすると南の島の小屋にしか見えない飾りだった。  

 私が買ったミニチュア御所車のように、唐破風の屋根のついたものは、最も大型で最上級の「唐車」と呼ばれるものらしい。それに檳榔毛が取りつけられることもあったが、女御が入内するときに乗る檳榔毛車は、もう少し小ぶりの、物見のための窓のないタイプのようだ。一方、大喪のときに使われた輦は、車輪の直径1.8m、車軸からの車高が約2.3m、屋形の横幅が1.4mほどの大型のものだった。孝明天皇が崩御した際に牛車を製造した70歳過ぎの大工がまだ健在で、その人に造らせたと『風俗画報』第136号にある。  

 大喪時に発行された雑誌類は、だいぶ前に入手したきり、まだざっと目を通しただけだが、不可解な点は多々ある。大喪使長官は有栖川威仁親王だった。兄の熾仁親王とは葉山の御用邸となる場所を提供してもらうなど、交流があったようだ。斎主は廷臣八十八卿列参事件で中心的な役割をはたしたと主張する、当時82歳という高齢の久我建通で、両名の写真は雑誌『太陽』第3巻第4号では口絵のそれぞれ1ページを使って大写しになっていた。ところが、英照皇太后の実家である九条家当主で、同じ雑誌に「皇太后宮には内実御弟にて表面は甥御に当たらせらる」と書く九条道孝は、ようやく事務官の一人に名を連ねるだけで、写真は一枚も掲載されていない。下の弟たちである松園尚嘉、鷹司煕通、二条基弘、および甥の九条道実という近親者は8人の斎官の半数を占めていたと思われるが、それすら記述は一定しない。『風俗画報』135号には、「皇太后陛下の御乳母 たりし故菅山女官の生家たる京都加茂の南大路綱一郎氏」に関する記述もあった。菅山は「御乳母」だったのか。  

 英照皇太后の父は、右大臣も左大臣も務め、その後、公家の頂点である関白にまで登り詰めて、幕府とともに開国に向けて尽力していた矢先に、廷臣八十八卿列参事件で槍玉に挙げられた九条尚忠だ。関白は平安前期からあった職なのに、雛壇に関白はいないなあ、高位の公家であるはずの右大臣・左大臣が弓矢をもって下のほうに位置しているのも変だなあ、と思って調べてみたら、雛人形のこの名称は通称であり、本当は「随身」、つまり護衛なのだそうだ。  

 ヤフオクでは御所車のほかにも、壊れかけた古い雛道具をいくつか入手した。うちのお雛様にはなかった挟箱や長持をはじめ、「樹上の鶴」(コウノトリ!)が描かれた箪笥などを、日本の伝統工芸である蒔絵に孫が触れる機会にもなるのでは、という口実で自分を納得させ、購入したのだが、孫は少しばかり触っただけでとくに興味を示さなかったので、ざっと修理をしてしばらくは私が本棚に置いて楽しむことにした。  

 一方、ネット上でサイズがよくわからず、入手してみたら雛道具にしてはいやに大きかったお膳のセットのほうは、孫が大いに気に入り、あちこちで拾い集めた木の実や葉っぱ、種、BB弾などを上手に盛り付けて、盛んにぬいぐるみや人形たちの宴会を催している。漆塗りのままごとセットで遊んだ体験は、美意識や色彩感覚に何かしら影響を与えそうだ。 

《追記》
  この記事を公開したのち、図書館にリクエストしてあった京樂真帆子著の『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』(吉川弘文館)が回送されてきて、ざっと読んでみたら、檳榔に関する16世紀初頭の『浅浮抄』からのこんな一節が引用されていた。「ビロウヲホソクワリタレバ。イトノヤウニホソク。シロクウツクシクミユルナリ。(中略)ビロウヲホソクサキワルニハ。シヲゝ水ニ入テヨクニレバツヨクテ。雨ニモツヨク。日ニモヨクタユルナリ」。つまり、塩茹でして繊維だけを抽出したようなのだ。ところが、南国でしか栽培できないビロウは近衛家の島津荘の特産であり、時代が下がるとともに入手困難になりスゲで代用されたとのこと。画像検索で見た時代祭の「檳榔毛車」らしきものの写真では、繊維というよりは枯葉に見えたので、塩で煮ていなかったに違いない。

『風俗画報』臨時増刊、第135号、「御大喪圖會」と小さな唐車

その昔つくった御所車。前後が同様に「夕顔形」に開いていることを理解していなかった。

ようやく少しばかり目を通した明治30年刊の諸雑誌・刊行物

 樹上の鶴を見て、つい買ってしまった箪笥

 雛道具で孫が催す大宴会

「シロクウツクシクミユル」檳榔毛という描写からの連想で、シルクリボンを解いてみた。このような繊維を一定の間隔で留めていたんだろうと想像している。

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