2026年10月15日木曜日

中居屋重兵衛その3

 唐突に中居屋重兵衛について調べ直すきっかけとなった本題について、今回はまとめてみる。長くなるがお読みいただけたら嬉しい。

 横浜は安政6年6月2日に開港した。西暦では1859年7月1日なのだが、横浜市の学校は毎年6月2日を開港記念日として休みにしている。開港前の数カ月間に、半農半漁の寒村であった横浜村が突貫工事で開港場につくり変えられていたころ、老中時代に開港を断行した藩主松平忠固のもと、貿易に活路を見出していた上田藩は、紀州藩、会津藩とともに輸出できる藩の産物のリストをつくり、藩専売の売込商として中居屋重兵衛を任命しており、幕府からも貿易の許可を得ていた。上田藩の産物としては、「白𥿻糸同織物類・木綿・真綿・麻苧[カラムシ]」などの繊維関連のほか、「うるし・紙類・生蝋・傘類・石炭あふら・松油・人参・麦粉・鉛・鋸並鉋・煙草」と多様な輸出品をリスト化していた(滝沢家文書、萩原進『炎の商人』に引用)。白𥿻糸は生糸であり、忠固は大坂城代時代に上田紬をみずから売り込んでもいたが、このリストにはのちに日本の主要な輸出品の一つになる蚕種、つまりカイコガの卵はまだ含まれていない。会津藩の産物にも「絹糸・同織物類」が含まれるが、紀州藩には木綿類以外の繊維製品はない。  

 上田藩では天保年間からあった産物改会所を刷新して、安政4年に上田と江戸に産物会所を設置して、着々と開港に備えていた。実際には文化年間(1804-18年)に上州から座繰り機を導入して製糸技術が向上していたことに、非常に重要な転換点があったと思われる。上田では古くから養蚕はしていたものの、繭は上州などに売り、製糸はしていなかったことを、遅まきながら『蚕都信州上田の近代』の井川克彦氏の論文「横浜開港前における上田小県地方の製糸業」を読んで知った。座繰り機にはベルトで駆動する奥州型と木製歯車を使う上州型があるらしく、どちらも開発の歴史を探ったら非常に面白そうなテーマだ。それまで品質がまちまちになる手繰りで行なわれていたものに、小さなものとはいえ機械が導入された過程には、きわめて重要な技術移転があったことになる。生糸の最大の産地は前橋であり、ここは酒井雅楽頭家の元領地であり、伊勢崎藩はその支藩だ。松平忠固が姫路の酒井家から上田藩に養子入りしたのは文政12年(1829)のことだが、経済活動まで積極的に目配りしていた姫路藩のことを考えれば、忠固の養子入りに先立って、何かしら政治力が働いてこの技術移転があった可能性も勘繰ってみたくなる。技術の伝播史は私の訳書の多くを占める分野なので、先祖探しを始める以前から、私の関心の的でもあった。  

 いずれにせよ、上田藩としては生糸と上田紬を柱に、城下町商人が運営する産物会所に出荷させて品質・量・形状等の統一を図り、「江戸産物会所へ差出、売捌ニ相成候金高ニ応じ、二分[2%]の割合を以て冥加可差出候事」となっていた(「江戸産物会所仕法触書」『長野県史 近世史料編 第1巻2』より)。  

 6月の開港に向けて準備を進めていた年の2月29日には、産物会所世話役を務める伊藤林之助と町田吉五郎が上田を発ち、横浜貿易交渉のために江戸上田藩邸(おそらく瓦町藩邸)の長屋に滞在していた。伊藤らは5月にいったん上田に報告に戻るが、開港前に再出府した(阿部勇「横浜開港期における小県上田の生糸輸出」『信濃』63-3-734)。  

 中居屋は豪華な店舗を建てたせいか、開港当日にはまだ準備ができておらず、6月19日に開店したことが伊藤林之助の「出府日記」から判明している。しかも、イギリス商人から取引をもちかけられ、やはり産物世話役を務めていた武蔵屋祐助がごく内々に中居屋から上田に向けて出立した旨が書かれていた。この経緯を解説した阿部勇氏の記事を『週間うえだ』で見つけ、イギリスのジャーディン・マセソンの記録にそれに明らかに該当する取引が言及されていたため、バーター取引とはいえ、これが実際には本邦初の生糸輸出と考え、拙著『埋もれた歴史』に書いた。現在は、こちらで上田側史料に関する阿部氏の解説は読める。  

 原町の『問屋日記』でも同じ取引の件は詳述されていた。「神奈川横浜貿易十九日相始、糸引合ニ相成候而、此方より御用掛りニ罷出居候武蔵屋祐助、廿二日暁海野宿まで罷越万屋平八江申遣対談致」。こちらは『長野県史 近世史料編』1-2に収録されているので、国会図書館デジタルコレクションで読める。上田の生糸貿易について詳しくないので、定かではないが、武蔵屋祐助は原町に店もつ人で、産物会所も原町にあったはずだが、秘密裏に上田に戻った産物世話役の武蔵屋祐助は、隣の海野町の万屋に相談に行ったと読めそうだ。「この行動は産物会所の許可を受けたものではなく、後日問題になり、処罰されている」と阿部勇氏は前述の解説で指摘する。  

 その後、7月1日の上田の城下町商人滝沢家の日記からもアメリカ人から45駄、オランダ人から7駄の生糸の注文があったことがわかり、かつ8月10日には「町田吉五郎、今未明、江戸より帰宅被致、右ニ付、産物会所へ罷越候処、此度ヲランタ人江糸四拾四箇売渡し、代金ハ壱歩銀ニて五百両受取候、外はトルラル銀壱ツ三分の通用と兼て厳重被仰出も有之義ニて受取候処」など、取引の様子が詳しく書かれている(「滝沢家文書」、西川武臣『横浜開港資料館紀要』9より)。  

 日本では天保期に財政難からそれまで重さで価値を決めていた銀を、額面で表わす表記貨幣に変えていたため、金銀比価が諸外国といちじるしく異なっていた。開港直前に安政二朱銀を発行して事態に対処しようとしたものの、外国人から猛反発を喰らい、6月23日に二朱銀の通用が停止されるというゴタゴタがあった。それゆえに通説では23日以前に生糸の取引はなかったとされてきた。その後も通貨をめぐる問題はすぐには解決しなかったと思われ、中居屋が洋銀(メキシコ・ドル、いわゆるピース・オヴ・エイト)で受け取り、交換できずに難儀していたことなどがライバルの三井の史料などからわかる。それでも、安政6年の半年間の生糸総輸出量は487,629斤とされ、1駄が150斤で90kgであることから考えると、開港後わずか数カ月間に驚くほどの量の生糸が輸出されていた。その大半を中居屋が扱っていると、三井側は苦々しい思いで見ていた(西川『横浜開港史料館紀要』9)。 

「その1」で触れた上田の飯沼村(岩村田藩領)の名主吉池家の記録からは、この年の10月6日に生糸集荷の第一報が入り、11日には20駄分を買い入れ、15日にも松代糸を10駄分買い取るなど、取引が始まっていたことが判明している(西川、『蚕都信州上田の近代』など)。ところが、11月16日の三井の書簡に「中居屋重兵衛と申方」に関して「先頃店預り支配人入牢被仰付、表〆切ニ相成、何共気之毒至」と書かれている(西川、『横浜開港資料館紀要』7、『蚕都信州上田の近代』)。おそらく、これが「その2」で触れた善助だろう。遅くともこの時点で中居屋には営業停止命令が下っていた。  

 これに呼応するように、翌万延元年(1860)4月に、上田藩が城下町商人の町田吉五郎と武蔵屋祐助を処罰し、産物世話役を罷免したうえで、押込を命じていた。上田市立博物館蔵の「宮下家文書」にあったという「抜け荷」に関する史料には、「彼是乗合ニて御用之合間ニ商内仕候」、「不正筋ニ付、御叱之上」といった言葉が並び、分析した西川武臣氏は、「処罰理由は、城下町商人が『産物会所』に集荷された生糸だけでなく、『御用』の合間に乗り合いで生糸を集荷、し多額の利益をあげたことであった」とする。上田藩は同年6月に、生糸出荷の窓口を中居屋から永喜屋に変更し、この店に城下町商人を常駐させて抜け荷を取り締まるようにしたという(『蚕都信州上田の近代』)。  

 実際には何が問題であったのか。幕末史をかじった人ならば、西陣織の関係者が開港による生糸価格の高騰に反発し、討幕を支援していたことはよくご存じだろう。錦の御旗に象徴されるものだ。中居屋のライバル三井はもともと呉服商だ。「織物を中心に扱った三井横浜店では、八月に入っても交易は極めて不調であり、中塚徳次郎は毎日二、三人の外国人が店に来るが、一日に六、七両の利益しか上らないと嘆いている」と状態だった。その状況下で、生糸ばかりが大量に売れていたのだ。この年、国内では蚕が凶作であるのに、「異人生糸被望候ニ付、益高直之品」など、価格が吊り上がっている様子も伺える(西川、『横浜開港資料館紀要』7)。  

 不満の声は江戸の生糸問屋からも上がった。江戸を素通りして生糸が横浜に向けて出荷されるため、江戸では生糸不足が問題になっていた。「取り締まろうとしても、『諸家様御差物之生糸荷物』(藩専売の生糸)には恐れ多くて手出しができないと記されている」と西川氏は解説する(『蚕都信州上田の近代』)。こうした国内の不満は、とくに「抜け荷」に向けられ、それが万延元年閏3月の「五品江戸廻送令」につながるのだが、本当の問題はそこにはない。というのも、前年7月22日の段階ですでに運上所から「外国人生糸ヲ多分相好候趣ニ在之、然ル処糸之侭ニて多分相渡候時ハ日本織物ニ差支、国々織元衰微之基ニ付、成丈ケ織物ニて相渡、生糸之方相渡ニ不申様」という命令が下っていたからだ(西川、『横浜開港資料館紀要』7)。  

 万延元年6月には、江戸町奉行の池田播磨守と石谷稲葉守から、全国の代官、大名、旗本に、領地で生産される生糸の量を調査し、輸出用にはその2、3割までを回し、生産地にて生糸に「荷印と送状」を添付して出荷先と数量を調査することなどを提案している(西川、『蚕都信州上田の近代』)。  

 つまり、中居屋が目をつけられた本当の理由は、銅瓦などではなく、生糸を大量に輸出していたことなのであり、上田藩や会津藩扱いの藩専売分については幕府の許可を得た行為であるため、問題視できない代わりに「抜け荷」が槍玉に挙げられたのではないか。上田藩にしてみれば、開港前に入念に準備していた販売ルートが、産物会所を通さない「抜け荷」も扱っていたことが判明し、関係者を処罰せざるをえなくなったのだ。中居屋の大番頭松田玄冲が飯沼村から集荷していた生糸も、岩村田藩が幕府の許可を得ていなかったとすれば、「抜け荷」だった言えるだろう。  

 欧米の列強が植民地とした地域から農産物や鉱物などの一次産品を大量に買いつけることが、その地域の経済を大きく撹乱してきたことは周知の事実だ。石油、ダイヤモンド、ウラン鉱石、綿花、タバコ、トウモロコシ、南洋材、レアアース、アブラヤシなど、天然資源に恵まれた地域ほど、貧富の差が大きく、社会としては歪な形で発展するか、低開発のまま取り残されている。反物として輸出できれば、生糸の生産者のほか織物産業に携わる人も潤うので、経済的にはより広い恩恵がある。各農家で蚕を飼い、座繰り機で製糸して出荷した生糸であれば、それなりに大勢の人の懐を潤すものになったとは思う。だが、開港から数年後に始まった蚕種となると事情はだいぶ変わってくるし、富岡製糸場のような大資本による機械生産となれば、富は一握りの事業主のもとに集中する。開港と同時に、帝国主義のまっただ中の世界経済に巻き込まれて直面したこの事実こそが、より正確には、それに抵抗しようとした幕府の動きこそが、生糸貿易の創始者と言っても過言ではない中居屋重兵衛を、早々に廃業に追い込んだ真の原因ではないだろうか。  

 中居屋重兵衛にとって、幕府の役人や諸藩の対応はひたすら理不尽な締め付けに思えただろう。営業停止を命じられて身動きが取れなかった数カ月間に、彼が開港当初に現金を受け取れない代わりに入手した20丁の拳銃を水戸浪士に提供して、現状打破を画策したとすれば、十分な動機といえる。それが、当時の幕府を象徴した人物である井伊直弼に向かったことも、ある意味、当然の成り行きではなかったのか。後世の歴史家の多くは、明治政府側から歴史を振り返るか、少なくとも古臭い武士の世が終わり文明開花した自由貿易の時代を歓迎する視点から見てきたので、明治から戦前にいたるまで日本最大の輸出品でありつづけた輝かしい生糸を最初に世界に売りだしながら、非業の死を遂げた中居屋を、勤王の志士として描きつづけたのだろう。  

 日本を開国させ、開港前から着々と貿易の準備を進めていた上田藩主松平忠固は、安政6年9月12日に死去している。老中を罷免されたのち、貿易に賭けていたと思われる忠固は、体調を崩すなか、開港後のこうした展開の報告をどの程度受けていたのだろうか。生糸が藩の一押し産品であることは忠固もよく承知していただろうが、上田藩の産物リストは飽くまで「白𥿻糸同織物類」とし、会津藩も「絹糸・同織物類」と織物とセットにしていた。そこに大きな意味はなかったのだろうか。幕府がどう制限しようと、生糸の輸出量は伸びつづけ、一時的に横浜鎖港で落ち込んだものの、慶応3年(1867)には二倍以上の1,000,117 斤にもなった。その間に幕藩体制は崩れ、上田の産物会所も過去の遺物となり、以後は大商人や実業家が力をもつ世の中になった。  

 たまたま本業でアイルランドのジャガイモ飢饉の本に取り組んでいるところで、イギリスが保護貿易(重商主義)から自由貿易に変わる過程でたいへんな葛藤があり、それを一挙に推し進めたのがこの大飢饉のさなかに緊急措置としてアメリカから大量輸入されたトウモロコシの挽き粉であったことを知った。時期としては横浜開港とたいして変わらない時代の話だ。アメリカのモンロー主義は20世紀に入ってもつづいていた。封建時代からいきなり自由貿易の時代に入ったような日本の明治維新は、はたして望ましい展開だったのか。拙著『埋もれた歴史』を執筆したときに抱いたこうした疑問が、いままた沸々と湧き上がっている。

中居屋重兵衛の店の跡地に立つ看板(2016年撮影)

一分銀3枚を洋銀1枚と交換することになったと再読し、昔買った一分銀を計ってみた!

赤レンガ倉庫も、もとは主として輸出用の生糸の倉庫だったことをようやく知った。汽車道もおもに生糸を運ぶために引かれた線路だったとのこと(2018年撮影)

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