私の最寄り駅は横須賀線の東戸塚で、駅周辺のマンション街のような品濃町が旗本の新見家の知行地であったことは、近所の白旗神社の由緒書きから知っていた。しかし、うちは駅からそれなりに距離も高低差もある山の向こうの平戸にある。あいだの尾根には旧東海道が通っている。近くの萩原代官屋敷跡のお宅には、筍を買いに行ったついでに展示コーナーを覗かせていただいこともあり、手始めにそのあたりから調べてみると、いろいろ驚くべき事実が判明した。
5月に雹害に遭った近所の果樹園に何度か足を運んだ際には、ご先祖が江戸時代からそこに住みつづけていると伺い、改めてこの土地が古くから人の住みつづけてきた場所であることを認識した。実際には、娘が通った中学校は縄文遺跡の上にあるらしいのだが、とりあえず江戸時代後期くらいまではさかのぼってみることにした。
じつは『横浜の文化財:横浜市文化財総合調査概報6』(1987年)に「相州鎌倉郡平戸村絵図面」という古地図を国会図書館のデジコレで見つけていた。かなり鮮明な画像だが、すべての文字が読み取れるわけではない。旧東海道をはさんで東側は平戸村で、西側が品濃村だったことが、この古地図からわかった。少し北へ行くと境木という場所があり、そこから先は武蔵国の保土ヶ谷宿であり、南側は相模国であることは地元の人なら知っていると思うが、平戸村までが鎌倉郡で、それより東側、つまり海側は久良岐郡であることは、この地図を眺めることで初めて理解した。近くに「かまくら道」が何本か通ることや、白旗神社が近所に2社もある理由が見えた気がする。いろんな意味で、かなり「国境地帯」に住んでいたことになる。国境には自然の障害物が残ることが多く、いまも近所には緑地がそれなりに残っており、この一帯が本格的に宅地化されたのは戦後になってからなのだ。
横浜の中央図書館の司書さんに教えられ、郷土戸塚区歴史の会が1978年に発行した『とみづか』4号にも同じ古地図が掲載されていることも判明した。古地図は安政6年3月に平戸村の名主田中三郎兵衞が作成したもので、34.5 x 50.5cmの和紙に5色で描かれていたことも『とみづか』の記事からわかったのだが、現物の所在は不明だと、ご子孫からは伺った。数年前に先代が亡くなられてから、古文書の類がどうなったかわからなくなってしまったのだそうだ。『神奈川県史 別編2』によると、67点もの古文書があったようなのだが、どこに行ってしまったのか。「10年遅かったですね」と言われ、悔しい思いをした。ここは毎年5月の節句には立派な幟旗を立てておられた旧家で、近くを頻繁に通りながら、一度も声をかける勇気がなかった自分が歯がゆい。
先述の果樹園でも、この地域の果樹園の先駆けとなったおじいちゃんがこの6月に亡くなられていた。ここに何度もみかん狩りなどにきていた娘から、昔のことをすごくよく知っておられる方なので、一度お話を伺いに行くといいと言われていたのに、あまりに多忙で動けなかったのだ。同様のことは、近所の旧家や古い住民を訪ねて回るたびに味わうことになった。若い現役世代は総じて日々の暮らしに追われて、自分の家の歴史にすら関心がない。いま動かなければ、古文書どころか、人の記憶すら失われてしまうだろう。健康維持のための散歩を兼ねて、近所のお年寄りの話を聞いて回り、失われた古地図を現代の地図に落とし込んで、幕末の平戸村の地図を再現してみよう、というのが、当面の私のささやかなプロジェクトだ。
『新編相模国風土記稿 上之巻2』(1841)を読むと、平戸村も品濃村もこの一帯は永谷郷と呼ばれていたことがわかる。当時の平戸村は戸数47で、旗本の杉浦房次郎の知行だった。杉浦氏は高座郡にいくつか知行があり、鎌倉郡では平戸村のみである。かつては8000石の大身旗本だったようだが、幕末や明治初期の杉浦大八郎がどういう人であったのかはいま一つわからない。明治初年内務省の調査では、平戸村は280石余で、実際には萩原代官が治めて120石8人扶持を得ていたようだ(『ヨコハマ散歩』より)。
この一帯が杉浦氏の知行だったことを知っている人が近所にどれだけいるだろうか。そんなことを考えながら先日、工事現場の上のほうに、だいぶ以前に訪ねたことがある古い石像物がまだ残っていることに気づき、裏手から回ってみた。改めて眺めると20基弱の古い墓標で、近所の方によると、無縁仏なのだそうだ。元禄のものがおそらく最古で、多くは幕末期のものだったが、一基だけ明治期につくられた大きめの墓標があった。表の文字は消えかっているが、背面は鮮明で、そこに「明治元維新之際◯旧主杉浦氏舊領當邨ニ住ス」と書かれていたのだ。印旛郡中根の芝橋という一族の人のようだが、横浜市が調査したところ、もう子孫もたどれなかったという。「杉浦」の文字が書かれているものを私が近所で目にしたのは、これが2例目だ。
1例目は、萩原代官屋敷の横に最近になって移された「萩原君碑」だった。木々のあいだに見上げるような碑が立っていて驚いたものだったが、久々に訪れると、門の横に移設されていた。ご主人の話によると、その昔、この碑を建てたときは、馬や牛で動かしてたいへんな作業だったらしいが、移設時にはクレーンが一台でささっと動かしてしまったそうだ。萩原家にあった古文書の写しは横浜開港資料館にあるようだが、ここでも現史料の所在は不明なのだという。隣にかなりの面積の竹藪が残っているので、この一角へくると江戸時代にタイムワープした気分になる。孫を幼稚園に迎えに行くときは、曲がりくねってはいるものの、まだ斜度の緩いこの坂を、孫を後ろに乗せて恐々と自転車で降りていた。
この巨大な石碑は直心影流の剣術師範として有名だった萩原連之助(太郎、行篤)の弟子たちが明治45年に建立したもので、そこには「萩原行篤通称太郎文政十一年七月生、於江戸湯島杉浦邸父行孝鈴木氏、出嗣萩原氏」と刻まれている。つまり、江戸の「杉浦邸」で出生したということだけだ。碑文にはそのあと、「行篤年甫十五学直心影流剣道於早田某」と書かれている。平戸村で剣の道場を開いていた萩原連之助は、剣術の世界ではかなり有名な人だったようで、近藤勇も立ち寄ったなどと、さまざまな書籍に書かれている。その彼が剣術を習った「早田某」がじつは上田藩士であることは、剣術史を調査した多くの方々解明してくださっていたおかげでわかり、確かにそれが幕末の上田藩にいた早田真太郎養徳であったことを私も確認することができた。早田の道場は神田同朋町にあったという記述を頼りに調べてみると、上田藩の湯島天神下の下屋敷は五軒町にあったのだが、そこから数十メートルほど先に旗本の小さな別宅のようなものが集まった一角があり、そこに杉浦の文字が見つかった。この一角の通りを挟んだ向かいに神田同明町の文字が書かれている。
弟子のほうはその後、さまざまな流派の道場で修行を積み、桃井春蔵から鏡新明智流を習ったりもして相当な地元の名士であったと思われるが、師匠のほうは、これまで上田藩関連の史料をそれなり見てきた私も初めて聞く名前だった。『東京教育大学文学部紀要』61によると、「直心陰流系図」に沼田の長沼氏の忠郷から義郷と並んで早田伝右衛門の名前があり、その子が早田真太郎となっている。上田藩の翻刻された文化10年の分限帳では父の名は伝左衛門で、藩士の重要な史料である「明細」にも私の見る限りそう書かれている。『上田藩松平家物語』では、弓町屋敷に剣術師範として早田の名前がある。「明細」の真太郎の項には文政元年に「若殿様剣術御稽古被遊候節 御相手被仰付候」などと書かれており、一瞬、松平忠固のことかと思ったが、年代からすると、おそらく先代の忠学の子で文政11年に24歳で死去した忠和のことだろう。忠固はそのため上田藩に養子入りすることになった。
先月、赤松小三郎研究会に出席した際に、何年ぶりかに秋葉原駅で下車して、下屋敷の跡地を訪れてみた。電気街方面を歩くのは本当に久しぶりで、昔はよく昼休みにラジオ会館、ヤマギワ電気、ニッピンなどで買い物をしたなあと懐かしくなった。まだ「やっちゃば」もあり、近道をしてガード下を通って末広町へ出るときは、段ボールを回収していたおじさんたちがそこで煮炊きをしていた時代だ。いつのまにか、自分が生きてきた時代も歴史になりつつある。
昌平橋から神田明神下の交差点方面に歩き、ビルにしか見えない昌平小学校を通り過ぎたあたりが、杉浦邸のあった付近だろう。萩原連之助はそこで生まれて、近くの上田藩の道場まで歩いて行って剣術を学び、萩原家に養子入りしたことになる。上田藩の下屋敷は妻恋坂を過ぎて、道が少し曲がった外神田6丁目6付近にあったと思われる。その裏手の中学校の跡地という練成公園のクスノキの下でお弁当を食べてから、坂を登って、霊雲寺という大きなお寺の前を通り、弓町屋敷近くの教会を確認してから、文京区シビックセンターを目指した。
肝心の古地図の再現のほうだが、まだ読めない文字も多い。『新編相模国風土記稿』の記述なども参考に、田中家の古地図の凡例の家マークに書いてあるのは「永谷民家」だろうとか、『とみづか』の記事から、一里塚の付近にある文字は「壱り山御林」かなどと、まだ一つひとつ解明中だ。「小名」つまり字には、筈井生、クワノ谷など、いまも確認できる字名が並ぶが、ほかにも孫左衛門谷、相澤谷、大夫谷などの文字もある。年貢は字ごとに割り当てられていたとのことなので、字という単位は重要だ。古地図のどこにこれらの文字が書かれているのかもしれない。坂は3つあって、焼餅坂、谷宿坂、品濃坂とある。古地図には焼餅坂が見当たらなかったが、旧東海道沿いにこの坂の案内板もあるので、私の再現図では少々訂正を加えることにした。村の鎮守は白旗明神社とされ、ここに先の果樹園のご先祖と思われる名前が刻まれた寛延の庚申塔などがあることがわかり、確かに江戸時代からつづいているんだと納得した。田中家では、植松寺という廃寺があったことなども教えていただき、跡地の碑やバス停名として残っていることを確認したり、吸収合併した光安寺のご住職にもお話を伺いに行ったりもした。
もしやこの駄文を読んでくださり、「うちに現物の絵図面のカラー写真があるよ」などという方がおられたら、ぜひご一報いただきたい。代々この地域に住みつづけてこられた方や、地域の歴史を調べられた方からの情報もいただけたら非常に嬉しい。古地図に描かれた道や水路も、できる限り正確に場所を描き入れられたらと思っている。それなりの完成度でできたら、近所の小中学校や自治会などに画像データを提供するなりできたらいいな、などと考えている。山あり谷ありの通学路を毎日通っている近所の小中学生も、地形がわかれば、学校に行くのが楽しくなるのではないだろうか。近所の人たちの散歩だって、単なる運動だけでなく、知的好奇心を刺激するものになるはずだ。
萩原代官屋敷跡。右側にそびえるのが移設された萩原君碑
無縁仏となった一群の墓
萩原代官横の竹藪
下谷絵図(江戸切絵図)嘉永2ー文久2 尾張屋清七(国会図書館デジタルコレクションより)
上田藩下屋敷があった付近
植松寺跡の碑
バス停名に残る地名

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