2008年1月4日金曜日

『2012地球大異変』

 2007年は仕事に追われているうちに、いつの間にか終わっていた。 年末、上智大学管弦楽団の定期演奏会の招待状を弟からもらったので、翌日締め切りの原稿を放りだして、数時間でかけてきた。上智オケの公演など、在学中は一度も聴きに行ったことがなかったが、学生オケにしては本格的な演奏会で、充分に楽しめるものだった。  

 会場で思いがけず、管弦楽団の名誉顧問をされているアルフォンス・デーケン先生にお会いすることができた。デーケン先生の「死の哲学」は確か半年だけの一般教養の科目だったが、講義の内容は卒業後も忘れられないものだった。当時はまだ癌などの病気は患者本人に告知しないことが一般的だった。突然の死を宣告された人はその不条理に怒り、反発し、落ち込むが、やがて徐々にそれを受け入れて、残された日々を豊かに生きられるようになると学んだ私は、癌になったらすぐに教えてほしいと家族に頼んだ覚えがある。 

 死は誰にでもかならず訪れるものだが、人は往々にして死を考えまいとして、いまの生活が永遠につづくかのように錯覚している。でも、死をはっきりと意識して、人生は限られた短いものだと考えることで、人はより充実した生を送れるようになる。大学1年でこうして死を身近に意識させられたおかげで、私は日々を漫然と過ごすような人生は送らずにすんでいるのだと思う。 先を見通す力を英語ではvisionという。人生の果てにある死を意識することも、visionをもつことだ。visionという言葉には視野や視力のような意味もあるし、幻覚という悪い意味もある。平和な世の中では、visionaryは夢想家として笑われる。現に、デーケン先生も1977年に死の哲学の講義を始めた当初は、縁起でもないと周囲から猛反対されたそうだ。高齢化が進んだ現在は、先生が力説されていたターミナル・ケアの考え方が日本でも浸透してきているが、当時はまだ「誰もが若くて永遠に生きており、死に関する話は差別的発言にも等しい」時代だったのかもしれない。 

 実はこの言葉は、暮れに出版された私の訳書『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』のなかで、著者のローレンス・E.ジョセフが書いていたものだ。 “太陽”と呼ばれる一つの時代が2012年12月21日に終わるとするマヤの長期暦を、科学ジャーナリストである著者がさまざまな角度から検証するという、一見、かなり怪しげな本だ。 

 一般にこの世の春を謳歌している人は、近い将来、地球全体に危機が訪れる可能性などまずないと考え、かりにあったとしても、はるか未来の出来事だろうと高を括っている。だが、現代のような状況がこの先もつづく保証は実はどこにもない。変化の時代には、広い視野と長期にわたる見通しをもって、この先に起こりうる事態に備える必要がある。死を意識することでより有意義な人生を送れるようになるのと同様に、文明の終焉を多数の人が予期すれば、人間社会全体はもう少し高尚なものに変化できるのかもしれない。もっとも、そう意識したからといって、現実に大惨事が起きた場合に自分が助かるかどうかは、どうやら別問題らしい。 新しい年が始まって、マヤの予言の日までまた一歩近づいた。現実的な私は、その年に大惨事が起こるとは思っていないが、万一、そこで人生が終わっても悔いが残らないように、これからはなるべく毎日を楽しむことにしよう。 みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 行徳での初日の出

『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』
 ローレンス・E・ジョセフ( NHK出版)

2007年11月30日金曜日

ビーズ鳥

 翻訳という作業は、黒子に徹することだ。言語や習慣の違いを考慮してわかりやすく説明を加えたりはしても、基本的には著者の声をできる限り忠実に読者のもとへ届けるのが訳者の仕事だ。そういう作業を毎日つづけていると、大量の情報を溜め込んでは吐きだすバッファのような気分になり、ときとして自分を見失いそうになる。慣れない分野の仕事がつづいたこの一年間は、仕事だけでも充分すぎるほどストレスがあったのに、私生活でも不幸やトラブルが重なり、経済的にも苦しく、頼みの綱とする人は連絡もままならず、このままではさすがの私も気が変になるのではないかと恐ろしくなった。 

 一区切りつくまでは、とにかく騙しだましでも乗り切らねばと、私はこの夏から奇妙な試みを始めた。集中できないときや、不安にさいなまれたとき、あるいは眠気覚ましに、天然石の2ミリビーズを使って鳥をつくるのだ。別にパワーストーンの効能を信じているわけでもないが、何かをつくっているときはそれに没頭できる。それに、天然石を通して見る日の光や、そこに凝縮された深い色には、少なくともなんらかの癒し効果はある。  

 高度な技術や道具を要する宝飾工芸とは異なり、ビーズ細工はどこかもろくてはかない。だから、敢えて高級に見せる必要も、本物そっくりにする必要もない。むしろ、古代の工芸品のように素朴で単純なものを、あるいは飴細工のようにつかの間だけ楽しめる作品をペンチ一本でつくれたら、それでいいのではないかと私は考えた。細かい部分にこだわりすぎると全体が肥大し、一粒ごとの輝きが失せて、ただの醜い塊になりはてる。何を削って、何を加えるか、試行錯誤を繰り返すうちに、ビーズの数を45個に限定していろいろな鳥がつくれるか試してみようと思いついた。不透明な石ばかりを並べると、一個一個の輪郭が目立ってボチボチに見える。かといって、透明なものだけでもインパクトが弱く、適度に交ざっているのがいい。鮮やかな色にたいするこだわりは大事だけれど、それと相殺しない地味な色も、負けず劣らず重要だ。なんだか生物の世界や人間社会のようであり、こんなビーズ細工にも学ぶことはたくさんあるんだという発見に私はうれしくなった。 

 暇つぶしに好きなだけビーズを買って遊べればいいのだが、貧乏性の私は最初から、できあがったものを売れないだろうか、と考えていた。ごま粒のようなビーズを通す作業は、細かいものが見えなくなり、手先もすっかり不器用になった私には、正直言って辛い。同じものを繰り返しつくるのも苦手だ。それでも、頭を使わず、単純作業に専念していると、タイの路上でジャスミンの花輪を黙々とつくるおばさんたちのように、不思議と心が穏やかになった。 

 先日は、娘の口利きで、大磯の宿場祭りに出店したアオバトの愛好会「こまたん」のブースの片隅をお借りし、ビーズの鳥を売らせてもらった。自然界の生き物は光がうまく当たった一瞬だけきれいに見える。捕まえて剥製や標本にしても、輝きは失せている。そんな瞬間的なはかない美に価値を見出せるバードウォッチャーなら、私の鳥も理解してもらえるのでは、と期待したとおり、声をあげて道行く人に宣伝し、買ってもくださり、本当にありがたかった。 

 ビーズの鳥のおかげか、いちばん苦しい時期はどうにか乗り越えることができた。失敗作品を壊し、バラバラになった多様な色のビーズに射し込む日の光を見ているうちに、子供のころ繰り返し読んだ『うちゅうの7人きょうだい』(三好碩也作・絵、福音館書店)の話を思いだした。泣き虫の末っ子ルーナが地球にたどり着くページが私のお気に入りだったが、土星のまわりに宝石でできた輪を見つけて、それを拾うのに夢中になった欲張りな衛星、レア姉さんの絵も、忘れがたいものがあった。 

 リタリンを飲む代わりに、童心に返ってビーズで遊んだと思えばいいのかもしれない。とはいえ、これで終わらせるのもくやしく、45個にこだわらない虫シリーズやクリスマスツリーも考えてみたが、どうやれば売れるのか、まだ模索中だ。商売を始めるのは、なかなか難しい。

 ビーズ鳥

クリスマスツリー 

 レア姉さん(のつもり)

 シオカラトンボのピアス

2007年10月31日水曜日

ワンオフ

 ワンオフ(one-off)という言葉を、最近よく見かける。「1回限りの」とか、「1個しかないもの」という意味の言葉だ。産業革命によって同じものが大量生産されるようになる以前は、ほとんどのものが手作りでワンオフだったに違いない。この言葉がいま、ときとして最高級と同義にすら使われているということは、ものがあふれた現代には、かけがえのない唯一のものであることが、いちばんの価値になったからかもしれない。 

 実は先日、ちょっとしたワンオフの体験をした。船橋の市制70周年を記念した演奏会に、同市ゆかりの演奏家の一人として私の姉が出演させてもらったのだ。しかも高校、大学時代を通じて、トリオなどを組んでよく一緒に演奏活動していたチェリストとの久々の共演で、さらにニューフィル千葉とのコンチェルトとなれば、たとえ台風で大荒れの日でも、たとえ校正原稿が届いていても、行くしかなかった。 

 スポーツでも演劇でも講演でも同じだろうが、人前でパフォーマンスをするためには、その陰にたいへんな努力が必要となる。出演する時間はわずか数秒かもしれないし、数時間かもしれない。いずれにしても、そう長くはない時間のために、たいがいは無償で長期にわたって練習を重ね、体調を整えて本番に臨まなければならない。それだけ準備しても緊張のあまり本番で大失敗することもあるし、練習しすぎて体調を崩すこともある。神経を尖らせている本人はもちろん、日々の生活のなかで膨大な練習時間を保証しながら、腫れ物に触らぬように気をつけなければならない家族の苦労も相当なものだろう。 

 先日の演奏会は地方都市で開かれたものだから、オーケストラも大編成のものではなかった。オーケストラの団員として食べていくのはなかなか難しいので、今回の演奏会も正規のメンバーは一部で、あとは「トラ」と呼ばれるエキストラなのだそうだ。でも、考えてみれば、これだけ大勢の人がこの日のために準備し、おたがいの忙しいスケジュールをやりくりして事前に何度かリハーサルをし、一つの音楽を奏でる、それだけでも充分にすごいことだ。 

 20数年ぶりに一緒の舞台に立つ姉とその昔の友人を見ると、歳月の流れを感じないわけにはいかない。学生時代のようにたびたび合わせることもできないから、息のぴったり合った演奏とは言いがたかったかもしれない。それでも、弾いているうちに長い空白の時間が一気に縮まったように思えたのは不思議だ。ふだんはいくつも仕事を掛け持ちし、三人の子供に振り回され、くたびれはてている姉の横顔が、なんだか生真面目な少女時代の顔に戻ったようにも見えてくる。演奏家なんて苦しいばかりで絶対になるべきではない、と私はつねづね思っているが、舞台に立ってこうして多くの仲間と一つの音楽をつくりあげる贅沢を味わっている姉を見ているうちに、この濃縮した一瞬のために彼らはみな生きているんだ、そういう生き方もあるんだ、と思えてきた。 

 会場には船橋高校のオーケストラ部時代の仲間が連絡をとりあって、たくさん聴きにきてくれたそうだ。地元のオーケストラに所属してチェロを弾いているという弟も、仕事後に駆けつけてくれたし、定年後にやはりアマチュア・オケに入ったという叔父も夫婦できてくれた。ふだんはなかなか顔を合わせることのできない人が一同に会する場でもあるコンサート。二度とないあのつかの間の時間は、大量生産された名演奏家のDVDやCDを何度聴いたところで味わうことのできないワンオフだったと思う。

2007年9月30日日曜日

『巨大建築という欲望』

「坂を下ったところを左に曲がって、角から三棟目で止めてください」  

 勤めていたころ、終電を逃して船橋からタクシーに乗ったときなどは、いつも運転手にこう伝えていた。延々とつづく工事用の壁沿いに坂道を下りて、その角を曲がってみると、三棟目があるはずの場所には、ただ黄昏の空が広がっていた。砂遊びをした公園も、鍵を忘れてお隣の家から手すりを越えて入らせてもらったベランダも、見上げるほどの高さのクチナシの木も、何もかも。橇滑りをしたスロープでさえ、工事用の板が敷かれて跡形もなく、「山羊さん」とあだ名をつけていたおじいさんが毎日、丹念に雑草をむしっていた芝生も無残にはがされていた。  

 私が以前に住んでいたマンモス団地は、建替え工事が着々と進んでいる。とうとう、うちの棟も壊された、と母から聞いてはいたが、自分の目で見るまでは実感が湧かなかった。ぽっかり開いた空間を飛んでいくカラスを目で追いながら、9.11後にニューヨーカーが味わった気分が少しわかったような気がした。生まれたときから見上げていた大きな建物は、いまでも私の本籍があるその場所は、ただの更地になっていた。  

 部屋は狭く、すべてが「団地サイズ」と呼ばれる、なんだか小さめの寸法でできていて、お世辞にも素敵とは言いがたい家だったが、まだ希望に満ち、ゆとりのある1960年代に建てられたので、起伏のある自然の景観を生かして、棟と棟の間隔も日当たりを考えてたっぷりと取った設計になっていた。道も自然に曲がりくねり、生垣の陰には秘密の小道や庭があった。あまり頻繁に手入れされない芝生にスミレやニワゼキショウが一面に咲いて花畑が出現することもあったし、夏みかんやビワ、ヤマモモ、銀杏などの木からの思わぬ収穫もあって、人工的な空間ではありながら、子供が楽しむには充分な自然があった。49万平方メートルという敷地内は、小さい子供でも自由に行き来できる場所であり、徐々に行動範囲を広げていくには最適の環境だった。  

 昨年来、私が長らく取り組んでいて、このたびようやく刊行された建築の本『巨大建築という欲望』(ディヤン・スジック著)に、ワールドトレードセンターを設計した日系アメリカ人ミノル・ヤマサキについて書かれた胸の詰まる章がある。一九七二年当時、世界一高層だったツインビルを完成させたマヤサキが、その栄誉に浴することができなかったのは、一九五四年に彼が設計したセントルイスの広大な住宅団地プルーイット・アイゴーが、アメリカの住宅計画史上最大の失敗として、その同年に爆破解体されたためだったという。その団地が巨大なスラムと化したのは、ヤマサキの意図に反してお粗末な建築基準で建てられ、維持管理費もないに等しく、極貧相の住民ばかりが集中したためであり、また当初の計画にあった庭園や児童遊園地などの公共スペースが削られたためだったそうだ。  

 母が移り住んだ新しいアパートからは、解体工事現場がよく見える。それを毎日、眺めている母は意外にも楽しそうに、こう言った。「怪獣映画を見ているみたいで、おもしろいんだよ。こうやってパクッと食いついて、ガガガッと壊してねえ」。解体工事を見ていると、木材だけを集め、パワーショベルで鋼材とコンクリートをみごとに分別し、さらに細かい砂利と土に分けている様子がわかった。壊されたうちの棟も、こうやって再生されるのかと思ったら、なんだか心の整理がついた。思い出は胸のなかにあるから、それでよしとしよう。

 3棟目の代わりに広がる空

 1月のエッセイに載せたテラスハウスも

 解体前に木材をひきはがす

 貴重な鉄くずを集めて

『巨大建築という欲望』 ディヤン・スジック著、
  五十嵐太郎監修(紀伊国屋書店)

2007年8月31日金曜日

八ヶ岳旅行

 数年前、タイの鳥のツアーで知り合って以来、何度もお世話になっていた鳥仲間が、八月上旬に日本に遊びにきてくれた。そこで、迫りつつある締め切りを尻目に、なんとか三日間だけ都合をつけることにした。八月の暑いさなかに鳥を見られる手軽な場所も思いつかず、綿密な計画を立てる暇もなく、結局、五年前にコマドリやルリビタキをよく見た北八ヶ岳の双子池に行くことにした。  

 ちょうど台風が日本列島を通過中だったうえに、準備不足、運動不足、睡眠不足と、かなりの悪条件が重なっていた。早朝、友人たちを迎えにいくのと、列車の席取りを娘と手分けしたために、のっけから双方でおにぎりを大量に購入するというハプニングが発生。どんよりした雲からはときおり雨がぱらつく。ピラタスロープウェイに乗れば、あとは確か下りと平坦な道だけのお気楽コースと記憶していたのに、友人たちは最初の下りですでに参っていた。タイ人は概して歩かないし、まして足場の悪い山歩きは苦手だ。風もかなり強く、鳥は声はすれど姿は見えず状態だ。道中、荷物を軽くしようと、数時間ごとにおにぎりを配給したので、友人たちもしまいに外側のフィルムを手際よく①→②→③とはがせるまでに熟練した。 

 以前にきたときも、このコースはほとんど登山客がいなかったが、今回はそれにも増して少ない。「あっ、前方に人間発見。♂は青と黒。♀は黄色とグレー」などと、怪しげなタイリッシュ(タイ語+英語)で冗談を言い合いながら雨池経由で双子池に向かった。  宿泊客は案の定、テントが一張りある以外は私たちだけ。前回と同様、やはり「お山の貸切り」状態だった。日本にわずか七日間しか滞在しないのに、双子池にくる人なんてまずいないよね、と自分で案内しておきながら苦笑する。そもそも八ヶ岳だって外国人にはあまり有名ではないし、第一、ヤツガタケなんて舌を噛みそうで彼らには発音できない。  

 前回はテント泊まりだったので気づかなかったが、小屋のなかに双子池の伝説なるものが貼ってあった。豪農の息子、与七郎と作男の娘、お染が身分違いということで結婚を許されず、将来を悲観した与七郎が、雨乞いのための人身御供代わりに、お染の名を呼びながら双子池の雄池に身を投げた。それを知ったお染もあとを追ったが、間違って雌池に入水自殺してしまい、それ以来、一年に一度、双方の池は増水して一つになるという話だ。以前に近くの黒百合で猛烈な土砂降りに遭ったことがあるので、さもありなんという感じだが、小屋のおじさんによると、「伊勢湾台風のときはつながった」けれども、毎年つながるわけではないそうだ。それにしても、なんだか怨念みたいで恐ろしい。お染を連れて、どこかへ逃げればよかったのに、と思うのは、選択肢のある現代人だからか。 

 小屋のおじさんが近くの湧水から汲んでくる水を飲み、夜は持参したレトルトカレーを食べ、温かいシャワーを使わせてもらい、小屋の周囲にいつもいるコガラやヒガラ、ホシガラスを眺める。どれも特別な体験ではないけれど、それを一緒に楽しめる仲間がいるって本当にありがたい。友人たちは今回の滞在で、この八ヶ岳の旅がいちばんよかったよ、とあとからメールで書いてきてくれた。鳥を見に行って、鳥が見られなくても、それはそれで楽しかったと思えるのはすてきだ。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」

 双子池雄池

2007年7月31日火曜日

イモムシ観察

 どこからやってきたのか、見たことのないイモムシが流しにいた。たぶん、母がもってきてくれたモロッコインゲンについてきたのだろう。とりあえず瓶のなかにインゲンとともに入れてラップに小さい穴を開け、輪ゴムで縛っておいた。  

 翌朝、目が覚めてから真っ先に瓶を見ると、イモムシの影も形もない。どうやって脱出したのか、信じられない思いだったが、床の上を這っているところを踏みつけないことを願いながら、忘れることにした。  

 数日後、そのままにしてあった瓶を何気なく見ると、なんとそこに件のイモムシがいるではないか。しかも、瓶の外でラップを葉の代わりにして蛹化の準備をしている。この暑いのに、ラップなんて全身にまとって窒息しないだろうか。私からは丸見えであることに気づきもせずに、イモムシは何度も上下の位置を変えながら、糸を吐いてラップの部屋を居心地よく整えている。ネットで調べたところ、コチャバネセセリに似ている。でも、コチャバネセセリの食餌は笹らしい。インゲンも食べるんだろうか? それともこれは別の幼虫?  

 生き物を捕獲して狭い容器に入れて飼うことには、いまだにちょっと抵抗がある。それでも、こうしてついイモムシに手をだしてしまうのは、どんなふうに変身するのかみたいという好奇心が半分と、ものの見方が変えられるという少々哲学的な理由からだ。 

 捕獲された虫は、囚われていることを知ってか知らずにか、狭い容器のなかをぐるぐると回り、ひどく滑稽で哀れに見える。虫はひたすら食べて、糞をし、そして眠る。わずか数週間で一ミリほどの卵から幼虫、蛹、蝶へと変身することも、当の虫は知らないのだろう。そんなことを考えていると、人間の営みだって空から見ている神さまの目には、同じくらい単純な繰り返しに映るちがいない、と思えてくるのだ。自分の世界から一歩離れて、神とは言わずとも、飼い主の冷めた視点でわが身を眺めれば、実際、たいていのことは悩むに値しないものに思える。人間の社会のなかで、人間の尺度で見れば、一大事であっても、少し視点を変えれば、大したことではないと思えるものだ。  

 虫や鳥の世界では、誰もがいまこの瞬間を懸命に生きている。うちの小さい柚子の木では、アゲハの幼虫が終齢になって緑色になったと思うと、いつもカマキリに食べられてしまう。隣家に巣をつくったムクドリの雛がカラスの餌になる事件も発生した。自然は残酷な一面も見せつけるけれど、与えられた短い生涯を精一杯生きる生物の姿も見せてくれる。狭いうちの庭でも、ふと目をやれば、蝶や蜘蛛がこんなドラマを繰り広げている。タバスコの瓶に挿してある抜け殻は、クロコノマチョウのものらしい。庭のススキがあまりにも繁茂したので、刈り取った際に見つけたものだが、昨年のナガサキアゲハと同様に、温暖化で北上中の蝶だ。 ラップのなかのイモムシは、昨夜、無事に蛹化したらしく、朝になったら、赤い色に変わっていた。いったいなかから何がでてくるのやら。冷蔵庫にしまってあったモロッコインゲンの残りを食べようと思ったら、なかからもう一匹、同じイモムシがでてきた。やっぱり、インゲンを食べていたのだ。冷蔵庫でも生きるのだから、結構、しぶとい。よし、こいつも育てよう、と私は大いに張り切っている。

 ラップにくるまるイモムシ

 Some like it hot...

 水晶屋

 クロコノマチョウの抜け殻

2007年6月30日土曜日

大桟橋

 以前から見たいと思っていた横浜の新しい大桟橋国際客船ターミナルへ、ついに行ってきた。竣工したのは2002年だから、もうあまり新しいとは言えないが、長らく取り組んでいた建築の本に大桟橋のことがちらりと書かれていて、こんな近くに住んでいながら、まだ見ていなかったので、ぜひ自分の目で確かめたいと思ったのだ。  

 電車賃をケチって桜木町から歩いたおかげで、途中、思いがけず横浜の古い建物もたくさん見ることができた。神奈川県立歴史博物館は、あとで調べたら、旧横浜正金銀行本店で、明治37年(1904年)に妻木頼黄が設計していた。横浜市開港記念会館は大正6年(1917年)に建設された辰野式フリークラシックスタイル。辰野式?と思ったら、東京駅を設計した辰野金吾に似せた……という意味らしく、確かによく似ている。 

 大桟橋に行ったのは、これが初めてではない。なにしろ、30年以上昔、ここからソ連船ジェルジンスキー号に乗ってナホトカへ渡ったこともあるのだ。ただの旅行なのに、親戚一同が見送りにきてくれ、紙テープを投げて出航した。いまはもう豪華客船がたまに入港する以外は、クルーズ船しか利用しないので、大桟橋ものどかな場所に変わっている。  

 新しいターミナルを設計したのは若い建築家夫妻で、奥さんのファッシド・ムサヴィはイラン出身だ。ターミナルは全体が板張りで巨大な船の甲板のように見え、そのうえ芝まで植えてあるので、海に突きだした半島のようでもある。潮風に吹かれながら、のんびりと横浜港を眺めて過ごすにはもってこいの場所だ。複雑な曲線を描いて張られている板は、イペというブラジルからの丈夫な木材らしい。板張りの床はよい雰囲気をだしているけれど、これもアマゾンの森林伐採につながるのかなと、ちょっと気になった。ターミナルの突先まで行ってみると、年配のおじさんがお連れの女性たちに、「ここはベストスポットで、キング、クィーン、ジャックが全部見えるそうだ」と、少々自慢げに話していた。よほど、なんの話ですかと聞こうかと思ったが、やめておいた。 

「くじらのおなかアフタヌーンコンサート」で、美人女性トリオの演奏を無料で楽しませてもらったあと、赤れんが経由でパシフィコ横浜まで歩いていった。旅行会社にいたころ、この場所へは何度も足を運んだ。最初に担当した道路の会議のときは、まだインターコンチネンタルホテルと遊園地しかなかった。ぷかり桟橋から船に乗って建設中のアクアラインの人工島まで行ったのもこの会議のときだった。その後、ランドマークタワーが建設されたので、ノルウェーのエージェントを連れて最上階にある宴会場を見に行ったこともある。彼は足元まであるガラス窓にすくんでしまい、「オスロにはこんな高層ビルはないからね」と苦笑していた。  

 家に帰ってから、今日見た建物を調べてみたら、開港記念会館がジャックの塔(36m)と呼ばれていることがわかった。おじさんが話していたのはこのことかと思い、さらに調べると、キングは県庁本館の塔で高さ49m、クィーンは横浜税関、51mだとわかった。ちなみに、ランドマークは295.8m。それですら、いまは周囲にたくさんビルが建っているのであまり高く見えない。横浜税関は昭和初期の建物で、大正時代のものは震災で崩れてしまい、赤れんがパーク整備時に遺構が見つかったため、いまは花壇として利用されている。  

 久々に歩き回ったので足が棒のようになったが、今日は有意義な一日だった。

 神奈川県立歴史博物館

 横浜市開港記念会館

 大桟橋国際客船ターミナル

 ターミナル内

大桟橋からのみなとみらい

 横浜税関

 税関遺構