2012年5月31日木曜日

イギリス旅行2012年

 この一年半近く、文字どおり年中無休で働き詰めだったので、校正の合間を縫って、一週間ほど娘のいるイギリスへ行ってきた。旅の目的の一つは、もちろん大英博物館に行くことだった。翻訳中にあれこれ調べ、想像力をかきたてられてきた所蔵品を自分の目で見てみたかったのだ。膨大なコレクションをすべて見て回る時間などなかったし、展示替えで見られなかった作品もあった。それでも、博物館の執念と修復技術によって蘇った「モールドの黄金のケープ」や、滑稽なほど浮かない顔をしたルイス島のチェスのクイーン、黒いファラオ像や柿右衛門の象など、私には馴染み深い作品を眺めるのは楽しかった。  

 中国の染付花瓶の章にでてきた、イギリス製「中国風」絵柄であるウィロー・パターンの磁器は、娘がお世話になっているお宅にも、ふらりと入ったパブの壁にも、テムズ川を下ってグリニッジまで見に行ったカティサーク号船内にもあった。グリニッジ天文台を通る本初子午線は、ここの時刻をクロノメーターで正確に刻むことで、航海中の船が自分のいる場所の南中時刻との差から経度を割りだした基準線だ。東経と西経にまたがるこの記念すべきラインは有料の中庭内にあるが、ありがたいことに天文台の下までラインが延びていて、貧乏人はそこで記念撮影できるように配慮されていた!  

 今回の旅のメインは湖水地方を回ることだった。親子二代にわたるアーサー・ランサム・ファンとしては、『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの舞台を訪れないわけにはいかない。ここはビアトリクス・ポターのナショナル・トラスト発祥の地でもあり、ジョン・ラスキンやワーズワースのゆかりの地でもある。数日前で最低気温は零度に近い100年来の雨の多い寒い春だったらしいが、私が滞在した一週間は異様に暖かく、雲一つない晴天がつづいた。ウィンダミア湖をフェリーで渡ったあと、現地調達した陸地測量部発行のOS地図をもって、イングランドの低山や放牧地を越えながらコニストン湖まで歩いた。空から見たパッチワークそのもののイギリスの田園風景にも驚かされたが、実際に歩いてみると、どこまでもつづく天国のような光景にわが目を疑った。イギリスでは芝がどこにでも自生しているらしく、林床から牧草地までいたるところがゴルフ場のような鮮やかな緑で覆われている。しかも、羊や牛が草を食むので芝刈りも不要だ。木立のなかには青いツリガネスイセンやシダが咲き乱れ、野原では一面に咲いたキンポウゲやヒナギクが家畜の餌となる。  

 私たちが泊まったB&Bは、ツバメ号の子供たちが滞在したハリハウ農場のモデルとなったバック・グラウンド・ファームだ。どこへ行くにもパブリック・フットパスの表示がある木戸を抜けて、私有地である牧草地内の羊や牛のすぐ脇を、糞を踏まないように気をつけながら歩いて行ける。乳の張った牝牛もたくさん放牧されていたが、ミルクは仔牛のためらしい。日本の農業や土地利用からは考えられないこんなシステムがなぜうまく稼動するのかと、驚くばかりだった。  

 今回、私にしては珍しく北回りの直行便を利用したため、シベリア上空で無数の湖、雪原、海氷、大河が眺められ、スカンディナヴィア半島の雪山やフィヨルドや、北海の真っ只中の風力発電地帯まで見ることができた。上空から白夜を体験しながら、夏に雪が解けるかどうかで、すべてが変わることを改めて実感した。短い旅行だったけれど、娘の友人たちにも会うことができて、本当に充実した一週間を過ごすことができた。

 大英博物館

 ウィローパターン

 キンポウゲとヒナギクの野原
一面のブルーベル

 バンク・グラウンド・ファーム

 パブリック・フットパス

2012年4月30日月曜日

『100のモノが語る世界の歴史 1』

「アブラハムの宗教」という表現を最近よく目にする。アブラハムを始祖とするユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という意味だ。クルアーンではユダヤ教徒、キリスト教は「啓典の民」として特別扱いを受けるが、その他の異教徒は強制的に改宗すべき存在とされた。このアブラハムは紀元前二〇〇〇年ごろの人とされており、「創世記」によれば生誕地はカルデアのウルで、彼の家族はここをでてカナン地方に向かった。このカルデアのウルは、世界最古の都市の一つで、現在のイラクにあるウルだと考えられている。  

 そのウルで、紀元前二六〇〇~前二四〇〇年ごろにつくられた「ウルのスタンダード」という作品がある。この半年ほど取り組んでいる大英博物館の本で、その鮮明な写真を見たときの衝撃は忘れられない。よく引き合いにだされるので名前だけは知っていたが、それが何なのか理解していなかった。実際、何に使われたのかはいまも判明していない。小さいブリーフケースほどの木製の箱で、表面にラピスや赤い石、貝殻でモザイクが施されている。戦争と平和を描いた二枚のパネル絵が前後にあって、シュメール人の社会がそこに凝縮されている。ここには世界最古の車輪付きの乗り物が描かれ、上層階級はビールとおぼしきものを飲んで談笑している。彼らの暮らしを支えるのは、羊やヤギ、魚などの貢物を携えてやってくる民だ。なかにはインド原産であるコブウシもいる。インダス文明とメソポタミア文明が交流していた証拠はあるが、牛を運ぶとなれば海路からだろうか?  

 モザイクは一部はがれ、染みにしか見えない人物もかなりいる。「確実にわかることには限界があるのをわれわれは認め、別の種類の知識を見つけようとしなければならない。物は本質的にわれわれと同じ人間がつくりだしたはずだ。だからこそ、彼らがなぜそれをつくり、それがなんのためなのかも解き明かせるはずだと気づくことだ。ときにはそれが、過去だけでなくわれわれの時代においても、世界の大半の人びとが何をしようとしているのかを把握する最良の方法かもしれない」。この本の著者である大英博物館のニール・マクレガー館長の言葉に触発されて、このパネル絵を穴の開くほど眺めるうちに、これをつくったシュメール人の職人が、似たような人物を随所に配置して大勢に見せていることに気づいた。そこでふと、鮮明な部分を寄せ集めて消しゴム判子をつくり、それをポンポンと押せば、不鮮明な部分も私流に補って完璧な絵ができるのではないかと思いついた。  

 何の貢物をもっているのか、最後までわからずに悩まされた一人は、左手を前方に突きだしている。あれこれ考えるうちに、ひらめいた。鷹狩り用のセーカーハヤブサだ! 調べてみると、鷹狩りの最古の記録は紀元前二〇〇〇年ごろのメソポタミアかモンゴル、中国のようだ。私の推理が正しければウルのスタンダードが最古の鷹狩りの証拠となる!  

 老眼鏡をかけて私が彫った消しゴム判子製の「ウルのスタンダード」は、上出来とは程遠いけれど、このたび筑摩選書として刊行された邦訳版『100のモノが語る世界の歴史』のよいブックカバーになった。この本で紹介される100の所蔵品は、純金の宝物から文字どおりガラクタまでさまざまだが、いずれも人間の本質を深く考えさせる物だ。原書は厚さが6cmもある巨大な本だが、日本語版はペーパーバックで三分冊されているので、通勤電車にも、大英博物館への旅にも簡単にもち運べるし、写真の刷りあがりは実は原書より格段によい。これまで歴史は年号を丸暗記する嫌な教科だと思ってきた人も、ぜひ読んでみてほしい。歴史の見方が、ものの考え方が大きく変わるはずだ。

『100のモノが語る世界の歴史1:文明の誕生』ニール・マクレガー著(筑摩選書)

 私が再構築してみたウルのスタンダード
 
 ブックカバーにしてみた

2012年3月31日土曜日

『水と人類の1万年史』

 高校時代に一年ほど、テキサス州エルパソで暮らしたことがある。リオ・グランデ川をはさんでメキシコと国境を接し、ニューメキシコ州、アリゾナ州との州境にもあり、周囲には禿山が連なり、巨大なサボテンがあちこちに生え、タンブルウィードが転がっている砂漠のなかの都市だ。私がホームステイした家は川に近い谷間の一角にあったので、広い庭にはクルミ科ペカンの大木や桃の木などがあって芝も青々と茂っていた。右隣の家はヤギを10匹くらい、左隣は馬を3頭放し飼いにしていた。裏庭の先は土手になっていたので、そこを1マイルほど走るのが私の日課だった。土手のあいだに水はなく、ただ太い溝があったように記憶している。その向こうには綿花畑が広がっていた。  

 ある日、裏庭全体が水浸しになっていて驚いた。「エリゲイション」だと教えられたが、当時の私の語彙にそんな言葉は含まれておらず、だいぶあとになってようやくそれがirrigation(灌漑)であることがわかった。リオ・グランデ川から定期的に取水して溝に流し、各戸の水門を開けておくことで、庭が浸る程度に水が流れ込む仕組みになっていたようだ。なぜそんなことをするのか、当時の私はよく理解していなかったが、エルパソの年間降水量は240ミリ程度しかない。郊外も含めると人口80万人のこの都市は、リオ・グランデとなって600キロほど先のコロラドやニューメキシコ北部から流れてくる雪解け水のほかは、地下水に頼るしかなく、年々、後者の比率が上がっているようだ。  

 昨年から半年以上にわたって翻訳に取り組んだブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』が先月、河出書房新社から刊行された。昨年は身近なところで自然災害が多発したこともあって、否応なしに水の問題を考えさせられた。人間は水がなければ生きられないが、水が多すぎてもやはり生きられない。おおむね適度な雨が一年を通して降るという、日本人にとってはごく当たり前のことが、世界のどこを見回しても考えられないほどの贅沢であることを痛感させられたのだ。日本の年間降水量は1700ミリ前後で、世界平均の1.7倍あるだけでなく、雨や雪の多くは身近な山に降り、一時的に積雪となったり、その土中で溜められたりして、やがてろ過されてきれいな湧水となって流れでてくる。  

 水問題と言うと、飲料水の話だと思われがちだが、そうではない。地球上の淡水の大半は農業に使用されている。短い用水路を引くだけで水がいくらでも手に入るからこそ、日本では米づくりが可能なのだ。いまは人件費、耕作機械による大規模生産や政府補助金の有無など、経済的な要因だけが世界の農産物の価格を左右しているが、近い将来、人口増加と温暖化によって水資源がますます希少になれば、水が容易に手に入るかどうかが食料の価格どころか、生産の可否までを決めるようになるだろう。  

 不況が始まって以来、そして大震災以降はとくに、日本の将来を憂う声ばかりが聞こえてくるが、日本はいまでも間違いなく世界屈指の住みやすい環境にある。日本の経済発展は、豊富な水と温暖な気候に支えられていると言っても過言ではない。天からただで降ってくる雨を家庭や町単位で無理なく貯水してろ過し、生活用水はそれで賄う。日本のお粗末な食料自給率を高める。多くの水を必要とする必需品の生産を、世界に代わって引き受ける、等々、翻訳の合間に近所を散歩しながら、この豊かな水を無駄にしない方法をあれこれ考えた。
『水と人類の1万年史』ブライアン・フェイガン著(河出書房新社)

2012年2月28日火曜日

仏像を見る

 最初に見たのがいつのことだったのか、どのお寺だったのか記憶にないが、おそらく修学旅行か何かだったのだろう。「これがお釈迦さまの足跡です」と説明されて、巨大な仏足石を見せられたとき、子供だった私は、「いくらなんでも大きすぎるし、お釈迦さまが日本にきたはずがない。それにしてもずいぶん偏平足だ」などと、つまらぬことを考えていた。  

 ところが、昨秋から訳している大英博物館の本によると、仏陀の足跡は、インドボダイジュ、法輪などと並んで、仏教が広まった当初から用いられていた数少ないシンボルの一つなのだそうだ。「仏足石の信仰はいまでもインドでは重要なものとなっています。足跡は、もはや存在しないけれども、地球に痕跡を残した人を意味しています」という解説を読んで、自分の浅はかさを恥じた。かつて存在した偉大な人の教えを忘れないために、その足跡をシンボルにしていたのだ。  

 釈迦(紀元前463?年~前383?年)が生きたとされる時代からアショーカ王(在位 前268?年~前232?年)の時代を経て、数百年後のクシャーナ朝(1世紀~3世紀)時代のガンダーラで初めて、仏陀はいわゆる仏像として描写されるようになった。「絹のような貴重な商品とともに、僧侶や伝道者は旅をし、彼らとともに人の姿で表わされた仏陀の像も広まった。おそらくそのような図像があると、言葉の壁を超えて教えるときに役立つのだろう」(同書より)。仏教が日本に伝来したのは6世紀なので、そのころにはもちろん経典と仏像はセットになっていた。日本人にとっては、最初から仏像ありきだったのだ。  

 仏像はいちばん最初から、釈迦本人の姿を知るどころか、民族もまるで異なる人によってつくられたため、それが仏陀の像であることを人びとにわからせるために、ポーズや印相のほか螺髪、白亳など、いろいろ細々とした特徴が決められた。そのなかに垂れ下がった耳たぶというのもあった。「耳はもはや金の耳飾りで垂れ下がってはいない。それでも、長い耳たぶにはまだ穴が開いており、この人物がかつては王子だったことを示している」。このピアスホールは耳朶環というそうだ。高校時代に鎌倉の大仏(1252年に造立開始)を見て、パンチパーマにイヤリング(に見えた)に口髭まであるのに気づいて、かなり異国風だと驚いた記憶がある。東大寺の大仏のほうが古いが、何度もつくり変えられているそうなので、顔立ちはずっと日本風だ。ちなみに、高徳院の大仏にも大仏殿は何度か建てられたが、大風、地震、津波で失われて野ざらしになったという。津波はここまできたのだ。  

 仏像などどれも似たり寄ったりだと思いがちだが、注意して見ると、制作者の容貌や時代背景が感じられておもしろい。たとえば鎌倉の長谷寺の十一面観世音菩薩(721年)は口髭を生やしているので、明らかに男性だ。ところが、大船観音(1929年)のように、近年つくられた観音像は女性的だ。いつごろから性別が変わったのかは不明だが、聖観音の涙から生まれたとされ、チベット仏教などで信仰されているターラー(多羅菩薩)と、福建省や浙江省、台湾などを中心とする航海安全の女神、媽祖の信仰とどうやら関係がありそうだ。中国南部からの移民が多いタイの観世音菩薩でも、大船観音でも、五体投地さながらに礼拝している人を見たことがあり、どちらも女性的な観音像だった。ただし、ごく最近、近所に建てられた観音堂の菩薩には耳朶環と口髭がある。仏像の世界には、世相を反映する流行があるようでとても興味深い。

 鎌倉長谷寺の仏足石

 鎌倉大仏

 横浜媽祖廟

2012年1月31日火曜日

ココア

 昨年から一瞬のアイドリングもできない「一輪車操業」がつづいているが、いまや遅れがちな仕事が団子状に重なり、さらに厳しい綱渡りを強いられている。楽しみと言えば日課の散歩くらいだが、もう一つ、昨秋からはまっているささやかな楽しみがある。ココアだ。  

 ポリフェノールを多く含むということから、ココアは近年やたらと注目された。でも私のきっかけは、アマゾンの低地にあるジャノス・デ・モホスという場所で紀元前一〇〇〇年から住んでいた人びとが、カカオの木を植え、ココア飲料を飲んでいた、という一節をフェイガンの水に関する本で知ったからだった。強い興奮作用のあるこの飲料は、のちに中米のマヤ族やアステカ族にも伝わってショコラトル(苦い水)と呼ばれ、戦士と貴族の飲み物とされた。スペイン人がこれをヨーロッパに広めて、牛乳、砂糖を入れて飲むようになったのは十八世紀以降だった、というようなことを、そのときネットで少々検索して知った。カカオの産地は西アフリカだとつい思ってしまうが、原産地は南米だったのだ。  

 いま訳している大英博物館の本によると、スペイン人がくるまで中米には役畜がいなかったそうだ。ということは、元祖ショコラトルには牛乳を入れようがなかったのだ。そもそも成人した人間が牛乳を飲むためには、腸内でラクターゼがしっかりと分泌しなければならず、分泌が不充分な乳糖不耐症の人は下痢をしてしまうのだという。「われわれの祖先が苦労しながら食べ方を学んだ物がわれわれなのだ」と、その著者が書いている。  

 中米のカリブの島々はサトウキビ産地として有名だ。それなのに、なぜ砂糖を入れなかったのか。実際には、ニューギニア原産と言われるサトウキビが熱帯の各地に広まったのは、ほんの数百年前のことでしかない。したがって、砂糖を入れて甘くすることはできなかったのだ。蜂蜜は使われていたようだが。  

 そんなことをあれこれ考えるうちに、無性にココアが飲みたくなり、バンホーテンの小さい缶を一つ購入した。19世紀初頭にカカオマスから油脂を分離して粉末化し、牛乳に溶けやすくしたココアパウダーの生みの親だ。ふだんはつくり方などまず読まないが、眼鏡をかけて缶に小さく書いてある説明書きを読んでみた。ココアと砂糖を「少量の水か、冷たい牛乳でペースト状によく練る」。これは以前から知っていた。缶にはスプーン1~2杯の砂糖と書いてあるが、砂糖のような単炭水化物はアルツハイマーのもとなので、すりきり1杯にする。2番目の「沸騰直前で火からおろす」というのが、どうやらおいしいココアをつくるコツのようだ。ショコラトルの説明にも、「泡立ち」のことが特筆されていた。仕上げにはシナモンを振ってみた。確か、エセル・ケネディがそんなことを言っていたのを思いだしたのだ。シナモンはもちろん、東南アジアや南アジアが原産だから、これも元祖ショコラトルには入れられるはずがない。  

 この冬、私が病みつきになって飲んでいるココアは、身体の芯まで温めてくれる心地よい飲み物だが、これを味わうたびに複雑な思いがする。やたらに強い円の恩恵か、貧乏人の私でもなんの苦労もなく近所のスーパーですべての材料が買え、毎日でも飲める。その陰には不当な低賃金で働かせられている人や、無駄に使われている資源があるはずだ。昔では考えられなかったこういう贅沢な生活が、あらゆる成人病の原因となっているのはなんとも皮肉なことだ。健康のためにも、食べ物のありがたさを忘れないためにも、一日一杯までと決めている。

2012年1月6日金曜日

フェイスブック

 数年前、友達に誘われてフェイスブックを始めた。最初のうちは海外の友人ばかりだったし、どう利用すればよいのかわからず、「顔なし」のまま持て余していた。そんな折にSNSに関する本を仕事で読み、友達の友達に輪を広げることが人間関係を大きく発展させることに気づかされ、興味をもつようになった。  

 もともとインターネットという公共の場で、自分の考えを述べることには関心があった。十数年間、この「コウモリ通信」を書きつづけているのもその一環だ。ネット上とはいえ、文字で残るので、それを読んだ人から批判される可能性は充分にある。それでも、私が発信したわずかなことが、誰かの心に残り、なんらかの影響力をもつことだってあるだろう。  

 フェイスブックの場合は半公共スペースであり、おたがい少なくともある程度は素性のわかる人同士のやりとりなので、掲示板などで見られる匿名の誹謗・中傷の心配はない。顔をだすことは、集団の一人に紛れるのではなく、個人として活動することなので勇気がいるかもしれない。自分の弱みや内面をいっさいさらけださないタイプには向かない。ストーカーもいるので、神経を尖らせる人がいるのも無理はない。でも、みんなが鎧に身を固めて当たり障りのない話しかしなくなれば、それはもう社会ではない。実際には誰もが同じような悩みをかかえて生きている。要はそれを恥と思って苦にするか、しないかの違いなのだ。  

 震災後はとくに、フェイスブック上でかなり真面目な議論も交わされていた。人はいろいろな意見をもっているものであり、反対意見があってこそ、よりよい方向が見えてくる。これこそまさに弁証法だ。民主主義にとって「脅かされることなく発言し他の意見をきくことのできる機会」が、選挙と同じくらい大切だとアマルティア・センも書いていた。  

 選挙だけの議会制民主主義が機能しなくなって久しいのは誰でもわかっているはずだ。結局、政治家も官僚も地方行政も、これだけ複雑な社会の隅々の問題まで対処はできないのだ。世界の人口がこれだけ増え、どの国も食糧や水、エネルギー資源のようなごく基本的なものですら他国に依存せずには暮らせないいまでは、一国の努力では何事も解決しない。いら立つあまり強いリーダーを求める声もよく聞かれるが、英雄など幻想に過ぎないことは、ローマや漢王朝どころか古代エジプトを見ても歴然としている。金正日の葬儀で、霊柩車の上に彼の特大の写真が載っていたが、あれこそまさに「強いリーダー」の実態だ。国を代表する特大の顔は、裏に回れば薄っぺらなものであり、あの国を動かしているのはいまも昔も、周囲にいる顔の見えない大勢の将軍たちであるに違いない。  

 結局、できることは、一人ひとりが周囲の人を理解して支え合うことくらいしかない。でも、一人が差し伸べられる手は弱いから、手は何本もあったほうがいい。救われたいと思う側は、相手を泥沼に引きずり込まないために、自分でも這い上がろうとしなければならない。  

 なんと言っても、今年はついに2012年なのだ。5年前に『2012地球大異変』という本を訳して以来、私なりに心の準備はしてきたつもりだ。あの風変わりな著者の予測どおり、中東はいま不穏な空気に包まれている。「集団的な心理的虚脱状態を防ぐために、ぼくらにできることはないのだろうか? ことわざにもあるように、備えあれば憂いなしだ。まったくの不意打ちを食らいさえしなければ、間違いなくトラウマは軽減されるだろう」。来年のいまごろも、「コウモリ通信」が書ける世の中であることを心から祈っている。

2011年11月30日水曜日

ユニコーンは実在したか?

「タール砂漠には、かつてもう一つの川が流れていた。古代にはサラスヴァティーと呼ばれ、いまはガッガル・ハークラーと呼ばれる川だ。この川もまたリグ・ヴェーダのなかでこの地域の七人の川の姉妹の一人として称えられている」と、水をテーマにしたブライアン・フェイガンの新しい本に書かれている。  

 ハラッパーやモヘンジョダロで有名なインダス文明は、実際にはサラスヴァティー川流域にあったといまでは考えられている。この川が干上がるにつれて人びとは四散したのだろう。下水道まで完備した高度な都市を築き、メソポタミアや中央アジアの国々と交易をしていたこの文明の存在は、二十世紀初頭まで忘れられていた。再発見のきっかけをつくったのが、インダスの印章と呼ばれるものだ。ソープストーンという柔らかい石に彫られていて、封印のように粘土に押して交易に使われていたと考えられている。  

 いま訳している大英博物館の本にこの印章について書かれた章があり、いつもながら、つい調べ物に夢中になってしまった。この印章にはまだ解読されていないインダスの文字とともに、驚くほど写実的な動物の姿が陰刻されている。ゾウ、トラなど、一目でそれとわかる動物もいれば、あまり馴染みのない動物もいる。鎧を着たようなイボイボのサイは、デューラーの「犀」の絵によく似ていたので、インドサイだと見当がついたが、襞襟をつけた蹄のある動物は、ヤギなのか牛なのかもわからず、延々と画像検索したあげくに、フェイガンの本にあったコブウシだ!と思いついた。しかし、縞模様の一本角がある妙な動物はなんだろう。大英博物館の本には「牛とユニコーンが合体したような獣」と書いてあったが、私には架空の動物には思えなかった。後ろ脚の付き方や蹄などは、動物をよく観察した人ならではの正確な描写だし、空想上の動物にしてはずんぐりしている。  

 気になって今度はユニコーンを調べてみると、インダス文明からはるかのちの紀元前390年ごろペルシャ王の医師を務めていたクテシアスというギリシャ人が『インド誌』のなかで「インドには、ウマぐらいの大きさか、もしくはそれ以上の大きさの野生のロバがいる。その体は白く、頭は暗赤色で、眼は紺色、そして額に縦1キュビットほどの長さの1本の角を持つ」(ウィキペディア「ユニコーン」より、1キュビットは約45センチ)と書いている。「この動物は、非常に力強く、足が速く(中略)その肉はひどく苦く、食すこともままならないので、角とアストラガロス(距骨)のためだけに狩られる」。その100年ほどのちに、実際にパータリプトラに駐在していたギリシャ人、メガステネスが現地人から聞いた話もウィキに掲載されている。メガステネスの記述はインドサイと混同しているが、角には「螺旋状の筋が入って」いるとしている。インダスの印章の動物にそっくりではないか。  

 アレクサンドロス大王はインド遠征時に大きな大学のあるタキシラの町を訪れ、現地の人びとと哲学談義を楽しんでいる。パンジャーブ地方にあるこの町にいた文化人たちは、インダス文明を築いた人びとの子孫だったのかもしれない。  

 中世のヨーロッパ人がインドについて知っていたことはすべて、古代ギリシャ人が残した書物からの知識であり、そこから一本角の白馬のような空想の動物ユニコーンが生まれたらしい。その間に、一本角のロバのほうは砂漠化と乱獲によって絶滅した可能性はないだろうか? インダス文明の研究は着実に進んでいるようだ。そのうちどこからかユニコーンの化石が出土するかもしれない!