2023年12月31日日曜日

除夜の鐘

 横浜に住むようになって20年あまりになるが、毎年暮れから正月にかけて、船橋の母のところで過ごしていたので、横浜でお正月を迎えるのはじつは初めてだ。娘のなりさが絵本『じょやのかね』(福音館)で描いたお寺で孫に除夜の鐘を撞く機会をとうとう与えてやれなかったというのが、昨春、船橋の借家を退去するに当たって大きな心残りとなっていた。年末が近づき、諦めきれずに調べてみたら、自転車で行ける範囲に、除夜の鐘を撞くことのできるお寺がそれなりにあることがわかった。  

 うちの近所の品濃町は旗本の新見氏の知行地だったところで、近くの白旗神社の由緒書きにも、新見家の何人かの当主がかつて神社の脇に埋葬されていたと書かれている。昭和になって東戸塚一帯が開発された際にお墓は移設されたそうで、自治会の街歩きニュースか何かを見て、その共同墓地も訪ねてみたこともある。10代目の新見正興は立ち居振る舞いが立派な美男だという理由で遣米使節団の正使に抜擢され、村垣範正や小栗忠順とパウアタン号に乗って太平洋を横断して、日米修好通商条約の批准書を交換した人としてよく知られる。正興は明治に入ってまもなく病死し、あとに残された娘たちは柳橋の芸者として売られたと言われる。そのうちの一人が公家の柳原前光に妾として囲われ、二人のあいだに生まれた娘が歌人で、大正三美人の一人、柳原白蓮となった。  

 江戸住まいだった正興の墓所は中野区の願正寺にあるそうだが、新見家祖先の位牌は近所の北天院が預かっているという。このお寺は何度か訪ねたことがあり、境内の奥にシュロの幹を撞木にした梵鐘があるのを知っていたので、せっかくならそこに行こうということになり、大晦日の晩に、すっかり寝入っている5歳児を揺り起こして出かけた。静まり返った街に、すでに鐘の音が聞こえてくるなか、自転車を漕いだ。  

 山寺と呼べるようなお寺の長い石段には明かりが灯って幻想的な雰囲気になっており、雲間から顔を出す月の下に近所の檀家さんと思われる人たちがちらほら集まり、ご住職がお経をあげていた。お経が終わると、一人ずつ順番に鐘を撞き、終わると数を数えるためか、銀杏を筒のなかに入れて交代する。孫は間近に聞く鐘の音に怯え気味だったが、娘と一緒に上手に撞いていた。私は勢いをつけ過ぎて、やたら大きい近所迷惑な音になってしまった。甘酒は熱々に温めた缶入りのものが振る舞われ、飲んでいるうちに幸せな気分になった。そのころには近所の人たちが次々に列に並んでおり、小学生もそれなりに見られた。  

 頑張って夜中に自転車を漕いだ甲斐は十分にあった。遠くから別のお寺の、違う音色の鐘も聞こえるなか、「かねのおとが だんだんとおざかる」と、孫が絵本のなかの一節をつぶやいていた。こうして平和に大晦日が迎えられることのありがたさを噛み締めた。

 近所にある新見氏の墓所
(2022年10月撮影)

2023年12月26日火曜日

年末のニュースから

 書きたいこと、書いておかねばと思うことは山ほどあれど、そのためには頭のなかを整理するだけの時間と気持ちのゆとりが必要だ。このブログもしばらく放置してしまったので、年末を前に備忘録にしかならないが、『毎日新聞』の有料記事ばかりだが、最近気になったいくつかの新聞記事を挙げておく。 

 12月19日朝刊の世界人口考「若者流出 少子化追い打ち」「反移民 欧州のジレンマ」は、人口流出と移民問題に悩むポーランドからの非常に考えさせられる記事だった。1989年の東欧革命で旧共産圏から脱し、EU加盟、シェンゲン協定を経て、欧州有数の移民送りだし国となって若者の国外流出、人口減少がつづく現状を報告するものだ。若者がいなくなることについて「そりゃ寂しいですよ。だけど、高い給料がもらえるほかの国で働きたいと思うのは当たり前のこと。それが資本主義の自由だから」と語る時計家の言葉が、強く印象に残った。移民を送りだす国が、入ってくる移民に寛容かというと、そうではない。ポーランドはウクライナ侵攻後に100万人以上の避難民を受け入れたが、その直前にシリアやイラクからの難民の流入を固く拒んだことは記憶に新しい。実際、この記事によると、国内で反イスラーム感情は高まっているという。労働者不足を補うためには、文化的に近いウクライナやベラルーシの人びとが好まれるようだ。若者が出て行ってしまう国に、彼らが就きたくないと思った仕事を求めて移民や出稼ぎ労働者が入ってくるという構図は悲しい。それがはたしてポーランド人が憧れた自由だったのだろうか。  

 ポーランドからの記事から数日後の23日に読んだ「神戸、京都 危機感あらわ」という、日本国内の「消滅可能性都市」の問題をまとめた短い記事も悩ましいものだった。コロナ禍で若干進んだ地方への人口移動はすでに落ち着いてしまい、東京圏にますます人口が集中しているのだという。65歳以上が人口の65%以上を占める群馬県南牧村では、介護施設を整備して雇用を生みだして対策を取っているそうだ。南牧村は、八ヶ岳の赤岳から天狗岳にかけての稜線の東側に広がる、船橋市と八千代市を足したほどの面積130㎢の広大な村だが、人口は3200人強しかいない。野辺山の滝沢牧場は、昔、何度か訪ねたことがある。野辺山には世界最大級の電波望遠鏡がある観測所もあるのに、近年は研究費が減らされる一方で、村の活性化には役立っていないようだ。南牧村は移住者を募っており、総務省がまとめ役となっている地域おこし協力隊として、任期3年でこの村で活動する外国人もいる。地元にうまく溶け込める少数の優秀な移住者が徐々に増えていけば、過疎の自治体にとってはありがたいことだろう。ただし、成り手のいない3Kの仕事に、技能実習生を安い労働力として雇って二級市民をつくるような発想はいただけない。 

 クリスマスの朝には、朝刊の一面が「朝鮮人虐殺 新公文書」という見出しで、関東大震災後から数カ月後に熊谷市内で、警察が保護した朝鮮人のうち、夜間に護送した40数人が殺気だった群衆に殺された件に関する熊谷連隊司令部作成の報告書が発見されたと報じていた。関連記事の「民衆心理 慎重解明を」 では、「とっぴな流言が広く信じられ、自警団が進んで『不逞鮮人』を探し歩き、広範囲で虐殺が多発したのはなぜか」と問いかける。「国家ぐるみ 隠蔽か」と題された記事も興味深かった。 

 この記事を読みながら脳裡に浮かんだのは、「パクストン・ボーイズ」のことだった。スコットランドとアイルランドの長老派教会の武装集団がアメリカ先住民のコネストーガ族の村を襲い、襲撃後に連れてこられ監獄に避難していた生き残りの村人まで一人残らず虐殺された事件だ。これは1763年にJ・メイソンとC・ディクソンがペンシルヴェニアとメリーランドの両植民地の境界線を定める測量任務に乗りだした時代に起こった事件で、来年一月に刊行予定の訳書『人類と国境』(ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)で、人類が初めて地球上に直線を引くようになった出来事として取り上げられていた。定規で引いたような四角形が並ぶアメリカやアフリカの地図を見て子どものころ不思議に思ったものだが、それが意味するものを改めて認識させられることになった。 

 25日の朝刊には、同じくらい考えさせられる「ガザ『正義』の綱引き」という記事もあった。「自分たちが掲げる『正義』の戦いに参戦を呼びかける綱引き」に関するものだ。記事のなかで「幼少期に繰り返し強い心身の危険にさらされると、その3割が複雑性PTSDを発症する」という指摘が印象に残った。このストレス障害をかかえる人は、怒りや恐怖の感情を制御しにくく、リスクを伴う自虐的な行動を取る、復讐心や不信感が強くなるなどの傾向が見られるという。一方、ホロコースト生存者の親がかかえるトラウマが、子どもの精神衛生に影響をおよぼすことも判明している。この記事はエルサレム特派員だった2014年に、イスラエル軍幹部とハマース司令官の双方を取材した専門記者、大治朋子氏の記事で、双方が「敵」を「非人間化」し、暴力をもって「正義」を教えてやるしかないと考えていたことに驚かされたそうだ。 

 子どもにたいする性犯罪やネグレクトが、生涯にわたって精神に深い傷を残すことを考えれば、75年にわたって占領され、縮小する一方のパレスチナ自治区で生まれ育ち、10歳児ですらすでに3度の大規模戦闘を経験しているというガザの子どもたちの将来に悲観的にならざるをえない。2000年から2倍になって222万人になったというガザの人口の約半数は子どもなのだ。(https://en.wikipedia.org/wiki/Gaza_Strip )

 コロナも一段落して、少しは明るい話題が増えてくることを期待していたが、何やら世の中はいっそう先行き不透明になっている。UNHCRによれば、80億を超える人口のうち、1億以上が紛争や迫害によって故郷を追われている。国際移民数は2021年の段階で2億8100万人という。 日本はいまのところまだ蚊帳の外にいる感があるが、この波はいずれこの島国にも到達するだろう。少子化、過疎化の問題と併せて、各自治体が真剣に考えねばならない時期にきている。 

 喪中のため、年始のご挨拶は失礼させていただきます。
 どうぞ皆さまよい新年をお迎えください。
 
年末に娘一家に誘われて三浦の海岸でバーベキューを楽しんだ。遠くに大島が見える穏やかな海辺で、平和なひとときを実感した。

2023年11月9日木曜日

絶望感

 昨春にリーディングをし、今年初めから翻訳に取り組んできた国境問題を広く扱った本については、これまでも何度か関連の記事を思いつくままに書いてきた。この9月からその本の校正に入ったところ、10月7日にガザ地区を実行支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃したために、本に書かれていたパレスチナ人の惨状が急に現実として迫ってくるようになった。本作には、「ウォールド・オフ、壁を築く」という章がある。ガザ地区ではなく、ヨルダン川西岸地区の歴史と現状に焦点を当てたものだが、この一世紀ほどのあいだパレスチナ人が置かれてきた状況を知るうえでは、非常に有意義な章だと思う。章題そのものは、ベツレヘムにあるバンクシー経営のホテル名を借用しており、このホテル名そのものも、ニューヨークの老舗ウォルドーフホテルをもじったものである。 

 私自身は恥ずかしながら、パレスチナ問題はかなり疎い。日々の報道を適当に追うだけでは、とうてい理解できないことだからだ。中東に行った経験も、学生時代にパキスタン航空でヨーロッパに旅をした際に、ドバイを経由した数時間しかない。タラップから降り立った地面が、目玉焼きができそうなほど熱かったことや、民族衣装を着て黒いコウモリ傘を日傘にする男性たちの奇妙な光景くらいしか覚えていない。  

 パレスチナ問題を多少なりとも知るようになったのは、学生時代に緒方貞子先生の講義を受けたときのことだった。当時はまだ難民高等弁務官に就任される前だったが、ゴラン高原について語っておられたことだけを記憶している。その後、チョムスキーの『覇権か、生存か』という本の下訳をすることがあり、「憎悪の大釜」という章で2002年以降に建てられた分離壁について知り、その唖然とする実態に驚いた。だが、当時の私には知らないことだらけで、翻訳するのに精一杯で終わってしまった。  

 今回の作品でも、パレスチナ人が置かれた惨状はよく理解できたものの、地図で詳しく図解されるような作品ではないため、あまりにも複雑な経緯をたどった歴史や、いたるところに分離壁がぐねぐねと立ち並ぶ地理は、文章からはどうにも理解できなかった。再校正に入って、翻訳上の直しが減って読めるようになったゲラを前に、少しばかり背景を整理してみた。  

 まずは高校時代の世界史で覚えさせられたバルフォア宣言が、イギリスの「国王陛下の政府はユダヤ人のためのナショナル・ホーム(民族的郷土)をパレスチナに創設することを好意的に見ている」という、非常に両儀的な表現で書かれていたことをようやく知った。当初、私はこれを安易に「祖国」と訳していたのだが、バルフォア宣言の現物画像をウィキペディアで見て、待てよと考え直し、それについて言及しておられた「世界史の窓」というサイトを参考にさせていただいた。

 その後、1948年に地図上に緑の色鉛筆で引かれたグリーンラインでヨルダン領に編入されたヨルダン川西岸地区が、1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルに実効支配された「占領地」となり、戦争は公式には終わっていないので、いまもその状態なのだという。1993年のオスロ合意のときにはすでに、その土地の60%以上は「C地区」として区分され、そこからパレスチナ人は一掃されていることを、遅まきながら理解した。よく見聞きする「パレスチナ自治区」という名称は、残りの「A地区」(17.2%)と「B地区」(23.8%)、およびガザ地区をかき集めたものだったのだ。「B地区」は、行政はパレスチナ人によるが、治安はイスラエルという混合の地区だ。したがって西岸地区では、残りの3割強の虫食いのような場所だけが「パレスチナ自治区」ということになる。国連は2012年からそれらの寄せ集めにたいし「パレスチナ国」という呼称を使い、EUは「占領されたパレスチナ地域」などと呼んでいるという。パレスチナ自治政府を率いるアッバース大統領は、「私にとって(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸とガザがパレスチナであり、それ以外はイスラエルだ」と2012年に主張しているそうだ(彼のウィキペディアのページより)。グリーンラインが引かれた当時、エジプト領となったところがガザ地区で、ここも1967年以降、イスラエルが実効支配し、2007年からは軍事封鎖されていた。ガザの状況は、この10月以前も西岸地区に輪をかけて悲惨であったわけだ。  

 グリーンラインで東西に真っ二つに分断されたエルサレムは、現在も基本的にはそのままで、旧市街は東エルサレム側にある。旧市街の51%はムスリム地区で、21%がキリスト教徒地区、残りはアルメニア人とユダヤ人が14%ずつ住むという。しかし、旧市街を含む東エルサレムは、西岸地区のなかでも特殊な位置付けとされ、イスラエルはここを西岸地区とは見なしていないのだそうだ。こうなると、たとえ地図で示されても、誰がその土地を支配しているのかもさっぱりわからない。  

 こうした背景が頭に入ると、強引に、なし崩し的に土地を買収し、法律を変えて入植地を広げていったイスラエルに、住んでいた村を追われて移住させられ、周囲を高い壁で囲まれた暮らしを強いられてきたパレスチナ人の状況がより切実に感じられる。  

 西岸地区について書いたこの章を訳して何よりも強く印象に残ったのは、いまや70年以上にわたって、世代を超えて抑圧されてきた人びとのあいだにある圧倒的な絶望感だった。引用されているパレスチナ人作家の作品の一つは、10代の若者が自分を殺すことでしか、本物の世界には到達できないと思いつめ、どんどん自死する近未来を描くものだった。  

 同様の絶望感は、中南米からアメリカへ密入国する移民を描いた章や、サハラ以南の国々から地中海沿岸にあるスペインの飛び地メリリャへの侵入を試みたり、地中海を小船で横断したりする移民や難民の章でもひしひしと感じられた。分離壁の向こうで贅沢に自由に暮らすイスラエル人がかいま見え、インターネットを使えば豊かな国の情報がいくらでも入ってくる現代において、自分たちの日常とのあまりの格差を見せつけられたとき、人は何を思うのか。もちろん、ネットにも接続できず、明日の食べ物もないほど困窮していれば、その行動にすら出られないだろう。でも、ジリ貧となり、この先も決して展望は開けないと悟ったとき、座して死を待つよりは、もはや失うものは何もないと、一か八かの賭けに出る人も出てくる。「靖国で会おう」は戦後のつくり話という説も出てきているようだが、死後の世界を信じる人びとにとっては、討ち死にはどうしても美化されがちだ。そこまで追い詰められた人びとには、自分の刃の矛先が「敵側」の幼い子どもに向けられたとしても、その子が敵の子であるという理由だけで、正当化されてしまうのかもしれない。  

 平和な日本から見れば理解不能な行動に出るこれらの人びとの、こうした底知れぬ絶望感を知ると、一連の事態を単に善悪で語る政治家たちの言葉は虚しく響く。誰が彼らをそこまで追い詰めたのか、歴史を振り返り、胸に手を当てて自問してから発言してくれよと言いたくなるのだ。

Wikipedia「ベツレヘム県」のページより。この地図はUnited Nations OCHA oPtをもとに作成されている。 
ベツレヘムは拡大したエルサレムの郊外と接する南に位置するパレスチナ自治区で、その境界には分離壁(地図の赤い線)が立ちはだかる。1949年のグリーンライン(緑の線)と分離壁のあいだの地帯には、1970年以降に増えたギロなどのイスラエルの入植地がある。

2023年9月29日金曜日

またもや先祖探し

木曜日の朝、仕事を放りだして新木場まで行ってきた。 神田小川町で材木問屋の娘として生まれの曾祖母については、コウモリ通信でも何度か書いたことがあるが、このタケさんの異母兄のご子孫が見つかったのだ。しかも、いまも型枠資材の卸売りを中心とした木材関連の会社を経営しているという!   

 神田小川町は、私の学生時代はスキー用具や登山用品の量販店がひしめく一帯だったが、江戸時代には小栗忠順などの旗本屋敷や譜代大名の屋敷が立ち並んでいた。上田藩も昌平橋の手前の、現在はかんだやぶそばがある辺りに150年近くにわたって上屋敷をもっていた。少し歩けば日本橋川にも神田川にも出られる立地とはいえ、こんな街中で材木問屋が営めたのかと長らく疑問に思っていたが、4年ほど前、タケさんの父である大宮萬吉が、1875年に深川熊井町から神田に転居したことが判明して、謎が一つ解けていた。

 1862年の本所深川絵図から、熊井町は大横川が隅田川に注ぐ河口にあって、すぐ前に佃島が見える合流点の町であることもわかった。材木問屋にはうってつけの場所だ。コロナ禍で電車に乗るのもためらわれた2020年の秋、本郷弓町や谷中墓地を訪ねた日に、この一帯から両国の先までも歩いたことがある。  

 タケさんの調査はその後、あまり進んでいなかったが、母の納骨時に、大宮さんの子孫が新木場で大一木材という会社を経営しているらしいという貴重な情報を親戚から頂戴し、7月下旬のふと空いた時間に、アポも取らずにその会社を訪ねてみた。多忙な若い社長さんは当然ながらご不在だったので、経緯がわかる簡単な手紙と遠い親戚であることがわかる書類コピー、何枚かの写真のコピー、および拙著『埋もれた歴史』をお預けして帰ってきた。  

 その後、私もあれこれ多忙ですっかり忘れていたところに、大宮さんから嬉しいお電話が入った。青年実業家として野心的に事業を展開されていることは会社のHPから拝察していたが、お電話の声はとても誠実そうで、気さくな印象だった。ちょうど大部の校正も始まっており、気持ちの余裕はないに等しかったが、9月前半不調つづきだった体調は戻っていたので、この機を逃してはと思い、お会いしてきたしだいだ。 

 大一木材の代表取締役である大宮匡統さんは、正確には祖父に当たる精一さん(徳太郎さん長男)が興した会社を継いだ父上が、早くに亡くなられたために、若干24歳で家業を継がれたのだそうだ。精一さんの祖父に当たる萬吉さん(私の高祖父、1848年生)は、深川の材木屋に丁稚奉公にきて、暖簾分けしてもらったことが今回初めてわかった。除籍謄本から、萬吉さんが「尾張國海東郡勝幡村」の大宮弥兵衞次男であることはすでに判明していた。江戸の材木の最大の供給地であった木曽川に近いこの出身地を考えると、父親の弥兵衛さんも材木屋で、萬吉さんは次男坊のために江戸に出されたのだろうかと、匡統さんと推理してみた。小川町に移ったのは27歳ごろなので、十代で江戸に出てきたのではなかろうか。応接室で暖簾分けしてもらったという家紋を見せていただき、帰宅後に、私の祖父母のアルバムにあった萬吉さんの写真と推定されるものをパソコンで拡大してみたら、紋付の紋が同じであるようだった。 大宮家には萬吉さんの写真は残っていないようだった。

 どういう経緯か、4枚の古写真が祖父母のアルバムに残っていたのは、関東大震災の被害に遭った地域であることを考えれば、奇跡だったに違いない。そのうち2枚は、小川町、神田交友会などと書かれた花輪が写る葬儀の写真で、そのなかの遺影と、残る1枚の少し若いころの萬吉さんと後妻の志げさん(タケさん母)らしき写真を見比べた結果、白髭のおじいさんは萬吉さんだろうと私が結論づけたものだった。今回、家紋でも確認できたことで、萬吉さんと確定できたと思う。 

 画期的だったのは、大宮さんのご親戚の何人かがまだ深川に在住しておられるのがわかったことだ。神田小川町に住居を移したのちも、萬吉さんの実際の事業所は熊井町に残っていたのかもしれない。もしくは、徳太郎さんか精一さんの代で、大宮家の最初の拠点である深川に再び戻っていた可能性もある。除籍謄本では、1928年に志げさんの死亡時の住所は中野になっており、その届出を萬吉さんが出していた。 タケさんの嫁ぎ先である門倉の家も、関東大震災で焼けだされたあと、中野に移っている。このあたりの事情は、お父上が早くに他界されたこともあって匡統さんはご存じなかったが、伯父さまがまだご健在とのことなので、機会があればお会いしたいとお願いしてきた。何しろ、門倉の親戚にも大宮家にも、正体不明の岸さんに関する話が伝わっており、私は最近になって娘の高校時代のノートから、亡叔母がその人を「野方の岸さん」と呼んでいた事実を発見というか、再発見していたのだ。下町で焼けだされた祖先たちは、この人を頼って一時的に中野に移り住んだのではないかと、当面、私は推測している。  

 ほんの30分ほどお邪魔するつもりが、つい長々と話し込んでお仕事の邪魔をしてしまったのに、帰り際には会社の前で玄孫同士の記念撮影にまで気前よく応じてくださり、ファミリー・ヒストリアンである私としては、本当に大収穫の一日となった。突然現われた、わけのわからない遠縁のおばさんに、親身に対応してくださった匡統さんには本当に感謝している。 

 会社の倉庫から見つかったという昭和17年刊行の『木場』という東京木材問屋同業組合の貴重な資料もお貸しいただき、帰宅後、ざっと目を通してみたが、第15班まである組合員の集合写真に、精一さんは見当たらなかった。精一さんは昭和16年に、木材統制により一度廃業して、2年ほど満州に渡っていたので、おそらくちょうどその時期に発行されたものなのだろう。それでも、当時の木場の状況がわかる写真が満載された資料であり、「慶長から明治維新まで」と題された吉田正氏の論考などはとても面白かった。なにしろ、「小名木川筋南側は大川から算へて松平三河、松平右京、立花主膳、秋元但馬、松平丹羽、松平伊賀の屋敷が並び」と書かれていたのだ。松平伊賀は上田藩主であり、この扇橋の抱屋敷に馬場を築いて、私の別の高祖父の門倉伝次郎を「主任として汎く西洋馬術を練習せしめ」ていたことを、『上田郷友会月報』から知っていたからだ。伝次郎の息子とタケさんがいったいどこで知り合ったのか興味はつきない。 

 この9月は、仕事の合間に数カ月かけて整理して編集し、印刷にかけた母のアルバムも、ちょうどお彼岸に出来上がってきた。古いパソコンにしか入っていないInDesignを2年ぶりに立ち上げて制作したものだ。よし、完成だと思ってから入稿規程を読み、写真の保存の仕方を間違えていたことに気づいたときは、放りだしたくなった。小さい写真を拡大するには解像度が足りないこともわかったが、スキャンし直す元気はなかったので、貴重な休日をつぶして数百枚の写真を保存し直し、置換した。 

 表紙の背景には、唯一残っていたまともなアルバムの実際の表紙と裏表紙を活用した。よく見れば切り張りした跡もわかるが、ちょうど意図したように刷り上がって嬉しい。母のお宮参りの写真から小学校入学までは、以前に作成した祖父母のアルバムに収録したので、今回は小学校以降から最晩年までの写真を入れた。基本的には母に育ててもらった私たち娘から、ひ孫たちにまで配るつもりで、あとはごく一部の親戚などに渡そうかと。あとから読み返したら、最後に入れ替えた箇所の誤字・脱字がいくつも見つかったし、未整理写真もまだまだ大量にあるが、記憶の整理はついた気がする。

 りんかい線に乗って新木場へ

かつての熊井町付近から佃島を望む(2020年10月撮影)

 高祖父の大宮萬吉
 
 タケさん異母兄の大宮徳太郎さん

大一木材の事務所前で玄孫同士のツーショット

 今回制作した母のアルバム

2023年8月31日木曜日

祖先探しはつづく

 今朝、向島のお寺に行ってきた。この数カ月間、時間を見つけては母が残した雑多な写真を整理してきたのだが、少し前に一枚の古いお墓参りの写真に目が釘付けになったことがあった。祖母をはじめとする親戚の女性たちが記念撮影で並ぶ背後に、建て替えする前のお墓の墓碑がはっきりと写っていたのだ。しかも、別の写真からすでに文字を読み取っていた曾祖父の墓ではなく、隣にもう一基あったヒョロ長い墓碑だ。  

 昔の記憶を掘り起こせば、確かに隣にもう一基あったのに、誰も見向きもしていなかった。写真の戒名に「従七位」の文字を読み取った途端、私はこれが高祖父の門倉伝次郎の墓碑であり、隣に並ぶ戒名は妻のことさんに違いないと思った。明治8年6月に従七位に叙されたと、『上田郷友会月報』などに書かれており、そんな人はほかに思い当たらないからだ。昔の写真をあれこれ探すと、私自身が撮影した写真から墓碑の側面の文字もいくらか読め、その日付が高祖父の死亡日と同じだったので、これは間違いないと確信した。  

 母が迎えることのなかった88歳の誕生日の翌日のえらく暑い日に、姉とお墓参りに行った際に、私はあれこれ集めた古い写真の画像をA4サイズ1枚にまとめて、建て替え前のお墓の記録が、石屋さんなり、どこかに残っていないだろうかと、思い切ってご住職に相談してみた。すると、本堂まで焼けた関東大震災や東京大空襲の折に、過去帳を背負って逃げたという話を聞いているので、一応調べてみようと寛大にもおっしゃってくださった。このお墓は曾祖父が建てたことはわかっているので、その前の代について過去帳に何か書かれている可能性は非常に低い。しかし、高祖母は祖父が生まれたあとまで生きていた可能性が高いので、ご住職の調査に一縷の望みをかけてみた。

 というのも、私が小学校に入る前後のころ、祖父が姉の顔をまじまじと見て、「おこと婆さんに似ている」と唐突に言いだしたことがあったのだ。子ども時代の私は、婆さんに似ているなんて、ひどいこと言うなと思ったのだが、いまになって考えてみれば、「似ている」というからには、祖父はおこと婆さんの顔を知っていたはずで、その婆さんはおそらく姉のように色白だったのだろうとも推測できる。  

 その後、その件は忘れて翻訳の仕事を終えるのに没頭したのち、お盆明けには上田に再び調査に出かけた。歴史研究という意味では、今回の旅は大きな収穫がいくつもあったが、祖先探しという点では、祖先が藤井松平家に出仕したのが、3代忠周の関東の岩槻時代ではなく、なぜか兵庫県の出石時代(元禄2年から宝永3年)であったことがわかったほかは、上田図書館で拝見した嘉永年間の上田の城郭絵図に、伝次郎の父の門蔵の名前を見つけたことくらいだった。 

 これはこれで画期的なことで、何よりも、長屋が並ぶごちゃごちゃとしたその一角の隣人が、どうやら一年ほど前に「信州上田デジタルマップ」を通じて知り合いになった方のご先祖らしいことがわかるなど、まだお会いしたことのない子孫同士で、大いに盛り上がったりした。すでに上田の地図をいくつも調べていらしたその方から情報をもとに、門倉門蔵(まさに親の顔を見てみたいネーミング)がいた場所が、現上田市役所の道路を挟んで向かい側くらいの位置で、上田高校のある場所の外には馬場があったことなどもわかり、代々馬役の門倉さんにしてみれば、職住接近の立地であることなども教えていただいた。 

 上田から戻って、ようやく次の仕事にぼちぼち取り掛かったころに、何と、ご住職からお電話を頂戴したのだ。記録が見つかりました、と。 

 そんなわけで、今朝、相変わらずの猛暑のなか、お寺まで出かけてきた。熱心な檀家でもない私のために、ご高齢のご住職がお盆や法事で忙しい合間に、古い過去帳を繰ってくださったことや、私が口頭でお伝えした些細なこともよく記憶してくださったことに、そして何よりも、震災と戦災に苛まれたこの地域で、古い記録を守りつづけてくださったことに、私は深く感動した。 

 判明した事実はそう多くはない。高祖父母は、曾祖父がお墓を建てたと推測される1912年ごろより前に亡くなっており、2人の記録は過去帳の余白に追記されていたという。それでも、そこから2人の正確な戒名がわかったほか、おこと婆さんの死亡年月日が明治39(1906)年2月11日であったことが判明した。祖父が4歳のころだ。伝次郎の死後、曾祖父は老母を呼び寄せて一緒に暮らしていたのだろうと、私は思う。4歳のときの記憶が、面影のある色白の孫を見て、祖父の脳裡に甦ったのだろうか。それとも遺影を日々見ていたのだろうか。祖父の家は関東大震災で丸焼けになっているので、おこと婆さんの写真は残っていない。過去帳の余白には、俗名は書かれておらず、ただ「本所区緑町 門倉氏」とあるのみだったそうだ。しかし、戒名のなかに「壽」の字があり、その字と伝次郎の戒名の最初の「鶴」の字が、曾祖父の戒名になっているので、壽(こと)さんと書いたのではないかと想像している。緑町に移ったのは、菊川で開業していた曾祖父が早死にしたのちのことなので、曾祖父のお墓をもう一基建てた際に、6人の子をかかえて寡婦となった曾祖母がお寺にお願いしたのではないだろうか。そのうち1人は早逝している。 

 寺務所を辞して、墓前で今日の成果をご先祖さまたちに報告したあと、もう暑さでかなり参っていたが、八広まで行ってみることにした。十分に歩ける距離なのだが、どうも数日前に熱中症になったようで体調も思わしくなく、軟弱にも電車で移動した。八広の地名すら、恥ずかしながらこれまで知らなかったのだが、荒川沿いのこの場所が、関東大震災の折に朝鮮人虐殺事件があった場所であることを新聞で知ったためだ。明日は関東大震災の100周年記念だ。私の祖先もこの震災で散々な目に遭ったが、焼死した人はなく、こうして100年後でも先祖の生きた証をいくらかは探しだすことができる。震災後の集団ヒステリーで虐殺され、遺体がどうなったかすらわからない人たちのことや、その遺族のことを思った。追悼碑の横にある「ほうせんかの家」には、今年の追悼式は9月2日行なう旨の張り紙があった。 

 私は追悼碑の前で黙祷したあと、荒川の土手まで登ってみた。屋形船の乗り場があり、空には小さい秋のような鱗雲がうっすらと出ていた。100年前にこの場所でそんな惨劇が繰り広げられたことは想像できなかったが、時代はまたきな臭い方向に向かっている。

母の亡従姉妹が撮影してくれた奇跡の一枚。これがなければ調査はできなかった

 上田市立上田図書館で拝見した嘉永期の地図

 八広の土手から見た荒川河川敷

 ほうせんかの家の横にある追悼碑

2023年8月3日木曜日

悩ましい「ナラティヴ」

 最近、と言っても、この10年くらいのあいだに、ナラティヴ(narrative)という言葉に遭遇する機会が増え、そのたびに訳語に頭を悩ましている。ナラティヴを「物語」と訳してしまえばそれまでなのだろうが、ナラティヴとストーリーがいかに違うかを説明するサイトをあれこれ読むと、そう簡単には訳せないと思ってしまう。  

 これが多用されるようになった背景には、1960年代からのフランス構造主義者の文学理論やロシア・フォルマリズムから生まれた物語論があったようだ。が、そうした複雑な経緯は、ちらりと読んだくらいでは一向に理解できない。 ナラティヴとは何かをより端的に説明したものなどを読むと、人間の脳は個別の事実をいくら並べられても、そこからは何も理解できず、誰かがその点と点を結びつけて、意味の通る筋書きつくって初めて、そこに関心をもつようになり、それがナラティヴなのだという。 

「物語」という訳語に私が抵抗を感じてきた一因には、なぜかそう言うと架空の作り話のような気がすることもあった。英語のストーリーにも日本の物語にも、事実か創作かを区別する定義はないのに、事実であることがことさら重視される科学分野の説明にたいし「物語風」などと言うことにはどうも違和感がある。ただでさえ多くの疑念の目で見られがちな気候科学の分野などでは、「物語」とは書きたくないなと、つい思ってしまうのだった。 

 そんなナラティヴという手法が、近年ではとみに世論を操作する手段としても使われている。そのため、文脈からそれがよい意味で使われているのか、悪い意味で使われているのかも判断しなければならない。決して架空の話をでっち上げているわけではなくても、自分の主張に沿った事実だけを巧みに選んで、説得力のある「語り口」で、有利な「筋書き」を展開することも、やはりナラティヴだからだ。  

 このところ、毎日新聞の記者、大治朋子さんがナラティヴに関連した記事をいくつか書いていたので、とりあえず切り抜きだけして、適切な訳語を探るヒントがないかチェックしている。とくに7月11日付の紛争地で個人や社会のアイデンティティを形成する「集合的で支配的な物語」に関する記事などは面白かった。ご著書の『人を動かすナラティブ、なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』は図書館にリクエスト中で未読だが、この本の紹介で、養老孟司さんが「(ナラティブは)脳が持っているほとんど唯一の形式」と語っていることなどもわかり、ふむふむと思っている。 

 歴史小説や自己主張の強すぎる歴史書は総じて苦手なほうだが、それは一方的な視点の押し付けにあざとさを感じるからだ。歴史は運よく残された文字記録をつなぎ合わせて、大半は勝者の視点から語られることが多く、そのためにどうしても胡散臭さを感じてしまう。もっと客観的に多方面から史料を提示し、読者自身に物語を紡がせ、判断させるべきというのが持論だが、史料集を読んでそこから話をつなぎ合わせ、何かを読み取れるのは、実際にはごくわずかな人に限られるのかもしれない。  

 そんな話を、図鑑タイプでない科学絵本づくりにこだわっている娘にしたら、「そうだよ、ナラティヴな科学絵本をつくっているんだよ」とあっさり言われてしまった。娘の場合はもちろん、子どもに科学的な興味をもたせるためには、そこに物語が必要だという意味で使っている。  

 この数日間、少しばかり時間の余裕ができたので、重い腰を上げて亡母の写真整理を始めているが、考えてみればこれも、母の生涯を子孫に伝えるためのナラティヴをつくる作業なのだ。未整理の大量の古い写真をそのまま残せば、数十年後には誰かがただゴミとして処分してしまうのは目に見えている。  

 母が遺した写真をどうまとめるかはまだ検討中だが、87年の生涯のあいだにはいくつものドラマがあった。幼児期の写真がかなりあるのに、入学した年の暮れに太平洋戦争が始まったためか、長野師範付属小学校時代の写真は一枚も発見できなかった。戦争中に教科書を黒塗りさせた「青瓢箪」先生が、戦後にその行為を謝罪することなく、素知らぬ顔で正反対の授業を始めたことが許せなかったと、よく私たちに言っていた。開戦の朝、祖父が「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と言ったそうで、学校の作文にそう書いたところ訂正させられたと、後年、伯母が新聞に投書していた。母は小学校6年の暮れに松代小学校に転校しており、かろうじてその卒業式の写真だけが見つかった。 

 母のきょうだい6人は、横浜国大に行った叔母以外は全員が都内の私立に進学したため、祖父母は非常に苦労をしたようだ。母が大学3年次に祖母が遺産で保土ヶ谷に中古の家を買い、そこで姉妹で暮らすようになった。山道のような急坂を登った上にある月見台のこの家の跡地を、2年前に母と訪ねたことがある。女の子だけで住むのは物騒だというので、ドルフという名の番犬も祖母が買い与えていた。いとこによると、伯母は「番犬がこわかった。でも、もっと洵子[私の母]がこわかった」と、よく話していたそうだ。母の妹や弟たちからもよく同様の話を聞かされていたが、姉である伯母にも怖がられていたとは。  

 両親は創業したばかりの高輪プリンスホテルで1957年に結婚式を挙げた。当時何と呼ばれていたか定かでないが、写真に写る洋館は1911年築の旧竹田宮邸(あのお騒がせ親子のご先祖のお屋敷)で、グランドプリンスホテル高輪の敷地内に現存する。当日、母方の祖父は上機嫌だったようで、庭園で満面の笑みを浮かべる写真もあった。母方の祖母のほうは当初から父が気に入らず、父方の祖母も母が気に入らなかったと言われ、そのせいか双方の祖母の表情は対照的に硬い。

 母がお色直しに着た振袖は、祖母が張り込んで用意してくれたものだったが、結婚後、父と住みつづけた保土ヶ谷の家に空き巣が入り、盗まれてしまったらしい。番犬ドルフは何をしていたのやら。振袖はおそらく妹たちも着るはずのものだったのだろう。母は、父が酔っ払ってタクシーに乗った際に、運転手に不用意にその話をしたせいだと頑なに信じ、それが不和を招く一因になったと、父の死後に叔母から聞いたように思う。  

 私が幼かったころの写真は、自分の記憶違いを正してくれるものにもなった。母が近所のお母さんたちと保育の会をつくって幼児教室を開き、私も2歳のころしばらく通っていたことはうっすら覚えていたが、母がそこで先生をしていたことまでは認識していなかった。母がオルガンを弾き、そのすぐ隣で、姉がひな祭り用の妙な金色の冠をかぶって真剣な顔でお遊戯をし、私と思われる幼い子が、同じ冠をかぶって戸惑っている写真を見つけたときは、失笑してしまった。幼児教室では、私のピアノの先生や、幼馴染のお母さんも先生をしていたようで、当時はまさしく親たちによる手作りの教室だったようだ。  

 古い写真をスキャンし、拡大して眺めながら、そんなことをつらつらと考えるうちに、点と点がつながり、ああ、そういうわけだったかと納得しながら、なるほどこれがナラティヴの萌芽だな、などと考えている。87年の生涯からは膨大な数の写真が残されており、そのすべては残せないし、祖父母のアルバムのときのように冊子をつくるならば、かなりの取捨選択を強いられる。そこで私が選んでつなぎ合わせたものは、ナラティヴの力を借りて、あと数十年は伝えられるかもしれないが、私が選ばなかったものは、忘却されてしまうのだろう。

 こう理解できたからと言って、どの文脈にも合うナラティヴの訳語はやはり思いつかない。こうしてカタカナ語は増殖する一方となるに違いない。

「象山のあずまやにて」と、母のやや幼い字で裏書きがあった。松代中学1年時か

 保土ヶ谷の月見台の家で妹とドルフと

 高輪プリンスホテルで挙式後に

 高根台の幼児教室で

2023年7月14日金曜日

新刊紹介

 昨秋から年始にかけて、私にしてはかなり無理をして翻訳に取り組んだ仕事が、何とか無事に本になった。ノンフィクションの翻訳者として、多様なジャンルの本に挑戦をして自分の幅を広げてきたつもりだったが、実際には長年、仕事を引き受けるうえで一つだけ条件を付けていた。「数学と物理以外」、と。数学は、高校3年の夏にアメリカから帰国して、受験には不要な数3の授業で落ちこぼれて以来、苦手意識をもつようになった。物理にいたっては、そもそも授業の回数も少なく、教科書が説明する概念と、実験の結果があまりにも乖離していて、何をやろうとしているのかも理解できないまま、興味がもてなくなっていた。

 そんな私が、よりによって『私たちの生活をガラッと変えた物理学の10の日』(ブライアン・クレッグ著、作品社)という本を訳したのだ。もっとも、この本は240ページほどとかなり薄く、内容も半分くらいは物理学者の伝記なので、何とかなるに違いないと、いつもながら楽観的に、無謀にも、引き受けたのだった。原書のコンパクトさに大いに励まされながら、頑張った甲斐あって、年始にはほぼ訳し終えていた。  

 ところが、校正作業が始まった4月下旬には母が危篤状態になっており、姉と交代で病室に泊まり込まなければならなくなった。病室にゲラをもち込み、常時聞こえてくる苦しげな呼吸音や機械音、ナースステーションから聞こえてくるアラーム音など、気の滅入る音を必死にシャットアウトしながら、睡眠不足の朦朧とした頭で、ニュートンの運動法則について読んだりするのだから、われながらかなり異様な状況だったと思う。  

 病室には看護師や介護士、掃除係などが入れ替わり立ち替わり入ってくるほか、ときおりレントゲン技師もやってきた。本書でキュリー夫人がX線の医療利用を広めたことを学んだばかりだったので、いまでは病室内まで運び込めるポータブルな機械があることに驚いた。ちらりと見ると島津製作所の機械らしく、しかも丸に十文字のロゴマークであことに気づき、二度びっくりした。撮影時は被爆しないよう病室を出なければならないので、その間はデイルームが仕事場となった。校正作業は遅々としてはかどらなかったが、母を看取って納骨するまでの心身ともにきつかった期間も、校正の短い締め切りに合わせて仕事をつづけたおかげで、自分を見失わずに済んだように思う。 
 
 後日調べてみたら、島津製作所はコロナ禍でさらに小型の移動式レントゲンも開発したようだった。創業者が薩摩の島津家と血縁関係にあるわけではないが、16世紀に島津家から島津姓と家紋の使用を許可されたという。明治8年に仏具職人として木屋町二条にいた同社の初代が、この地の長州藩邸跡につくられた舎密局で学んで創業したらしい。木屋町と言えば、佐久間象山が晩年に住み、暗殺された場所だ。ただし、暗殺事件の背後にいたと言われる長州の品川弥二郎は、禁門の変の直前でその藩邸にはいなかったようだ。天王山で報告を受けて大喜びしたと、本人が後年、「つまらぬことをやったものです」という反省とともに述懐している。 

 物理学はもともと不得意な分野であるうえに、このように集中して仕事に取り組めない事情があったため、再校時には、NTTにお勤めだった電気通信の専門家と、物理を専攻した娘の夫にもゲラに目を通していただいた。画面でゲラを読むのはかなりつらい作業なので、お二方には本当に感謝している。おかげでどうにかスケジュールどおりに刊行できる運びとなった。 

 この仕事を終えたからといって、物理にたいする苦手意識は簡単に克服できそうにないが、少しでも知って理解したことには、自然とアンテナが立つようだ。アップルの拡張現実(AR)のゴーグル型端末や、常温で高速計算が可能な光量子に関するニュースなど、以前ならきっと読み飛ばしていたような記事にも目が行くようになった。せめて、日々の暮らしの基盤となる諸々の技術の根本原理くらいは理解できるよう、今後も関心をもちつづけたい。来月初めには書店に並ぶ予定なので、ぜひ多くの方にお読みいただきたい。  

 もう1冊、こちらはすでに発売されている『信州から考える世界史』(えにし書房)という本もご紹介したい。編者の一人である岩下哲典先生からお誘いを受け、私は見開き1ページの短いコラムを「横浜英人から馬術を学ぶ 上田藩士門倉伝次郎」という題名で書かせていただいた。執筆陣には、私が祖先探しの調査でお世話になった大橋敦夫先生、関良基先生、和根崎剛氏をはじめ、岩下先生はもちろん、先生の研究会に参加されている研究者の方々が名前を連ねている。 

 信州は海のない地域でありながら、古代から不思議と異国情緒を感じさせるものが残る地域だ。私自身は信州で育ったことがないので、部外者としての感想でしかないが、これぞ信州という文化はなく、むしろ山に隔てられて気風から方言、建築まで異なる多様な文化が共存しているように感じる。多分に相互の行き来が容易でなかった地理的な要因によるのだろう。32人の執筆者が古代から現代まで、じつに多様なテーマで書いたものなので、1冊の本としてまとまるのだろうかと少々疑問に思っていたのだが、蓋を開けてみると、多方面から光を当てることで、多様性を保ちつづける信州の本質をうまく炙りだした作品になっていた。一強となる支配的な文化で均質化されずに、相互に違いを認め合いながら共存できる地域、というところか。 

 目下まだ別の仕事の締め切りに追われているため、私もまだパラパラと拾い読みしただけだが、たとえば柳沢遺跡の銅戈の写真には目が釘付けになった。遼寧省から朝鮮半島北部で出土していたものとよく似ており、日本列島でこの手の青銅器が出土する地域は限られているからだ。「諏訪御神渡りと気候変動」と題された論考もあるし、私が取り上げた「横浜英人」が来日直後に遭遇した第二次東禅寺事件と松本藩を取り上げたものもある。母と一緒の祖先探しの旅で訪ねた松代大本営の地下壕など、太平洋戦争絡みのものも多い。自分が書いたコラムの再校ゲラだけは見せていたが、母なら大いに楽しんで全編を読んだだろうと思うと残念だ。 

 余談ながら、遺品からいまは母も眠る門倉家の墓の古い写真が見つかり、20年ほど前この墓を建て替えるまでは、この敷地に私の高祖父母に当たる伝次郎と妻のことの墓標があったことがわかり、戒名がほぼ判明した。親族には歴史に興味のある人が少なく、誰も古い墓標の文字を読もうとしなかったようだ。おこと婆さんとしか伝わっていない高祖母は色白だったと推測され、子孫の一部にも日焼けすると真っ赤になるタイプの色白の人がいる。彼女のルーツをたどることはまず不可能だろうが、いろいろ想像して楽しむことはできる。新盆でもあり、母の誕生日も近いので、そこに眠るご先祖の皆さんに、新たに判明したこの事実は報告しておこう。余談ついでに、「ヒーバーの新盆だから回り燈籠をつくろう」と、私の孫に言ったら、怪訝そうに膝の骨を指して「ニーボーン?」と言うので娘と爆笑してしまった。CDかYouTubeで聴いたDem Bonesの歌と、焼き場で見たひい婆さんの姿が、幼い頭のなかでごちゃ混ぜになったに違いない。

『私たちの生活ガラッと変えた物理学の10の日』(ブライアン・クレッグ著、作品社) 
インパクトのあるこの装丁は、サイニーの本を手掛けてくださった加藤愛子さん。

私の仮オフィスとなった病室の一角

島津製作所のポータブルなレントゲン。このおかげで母の容体を正確に知ることができた

『信州から考える世界史』(岩下哲典/中澤克昭/竹内良男/市川尚智編、えにし書房)