2013年3月31日日曜日

浦賀散策

 昨年、徳川家康の時計を調査した大英博物館が「16世紀最高傑作」だと発表したニュースが話題を呼んだ。1607年に房総沖で座礁したスペイン船サンフランシスコ号の乗組員317人を石和田村民が救助したことへのお礼に、来日したビスカイノから家康が贈られた品である。記事を読んで、私は時計そのもの以上に、江戸初期に1000トン級のガレオン船が房総沖でいったい何をしていたのかに興味を覚えた。少し調べてみると意外な事実が次々にわかってきた。  

 スペインはそれに先立つこと1565年には、アメリカ大陸に建設したヌエバ・エスパーニャのアカプルコから太平洋を横断して香料貿易の拠点であるマニラへ向かう貿易ルートを開発していた。アカプルコとマニラはほぼ同緯度にあるので、往路は北東からの貿易風に乗って、途中マーシャル諸島やグアムに寄航しつつ西へ向かえばよい。復路は北緯38度付近までいったん北上し、そこから偏西風に乗って島一つない太平洋のこの海域を横断し、サンフランシスコ沿岸に達したあと南下したと考えられている。スペイン船はその少し前の1596年にも土佐沖に漂着しているので、フィリピンから黒潮に乗って日本沿岸を航行していた可能性が高い。日本が鎖国しているあいだも、スペインのガレオン船は1815年にメキシコが独立するまで近海を定期的に行き交っていたのだ。  

 それどころか、家康はこの貿易の途中でスペイン船に日本に寄航してもらうことを考え、その拠点として浦賀にフランシスコ会修道院の建設を許可していたという。スペインは旧教だが、一連の交渉にはウィリアム・アダムズが通訳として幕府とのあいだに入った。浦賀については、幕末にペリー艦隊が沖合に来航したことくらいしか知らなかったが、江戸初期にアダムズが乗ってきたリーフデ号もここへ廻航されてきたし、徳川水軍の将で、巨大な安宅丸を建設した向井忠勝の本拠地でもあり、重要な湊だったらしい。そこで先日、ようやく春らしくなった日に浦賀湊と灯台や砲台跡のある観音崎を歩いてみた。  

 いちばんの目的はフランシスコ会修道院跡を探すことだった。ところが、地元の人たちに聞いてみても、「そう言えば昔は大きな墓のようなものがあった」とわかっただけで、古そうな石垣の先は行き止まりになっていた。近くにあったはずのアダムズの浦賀邸も、井戸と江戸末期の祠が残るばかりだった。三浦半島のこの一帯は関東大震災のときの震源地でもあり、江戸時代の痕跡はかき消されてしまったようだ。川幅ほどしかない浦賀湊には、桧皮葺の屋根を模した遣明船のような渡し船がいまも行き来するが、ペリー艦隊はとても入れそうにない。やはり久里浜沖に投錨してボートで上陸したようだ。海岸まで丘陵が迫り、あちこちにワカメが干してある浦賀はあまりにものどかで、マニラ・ガレオンが寄航する一大貿易港に発展したかもしれない場所とは想像もできなかった。  

 造船所で12年間、徒弟として働いた経験のあるアダムズは、家康に懇願されて80トンと120トンの小型ガレオン船を伊東で建造している。サンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴ総督らスペイン人は、後者の「サン・ブエナ・ベントゥーラ」号を家康から譲り受けて無事に太平洋を横断し、アカプルコに帰還した。ちなみに日本ではこの時代にもう二隻ガレオン船が建造されており、いずれにも向井忠勝がかかわっている。四度の貴重な実習体験を積んだ船大工たちが、江戸時代に和船の造船技術を大きく進歩させた可能性も大いにありそうだ。

 観音崎灯台からの浦賀水道

 浦賀の渡し

 フランシスコ修道院の跡地

2013年2月27日水曜日

江戸の水道

 江戸初期の史料『慶長見聞集』の「江戸町の水道の事」の項にこう書かれている。「見しは昔。江戸町の跡は今大名町に、今の江戸町は、十二年以前まで、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海を埋め陸地と為し、町を立て給ふ。然るに、町豊かに栄ゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民これを嘆く。君聞し召し、民を哀れび給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を、江戸町へ遍く与え給ふ」。十二年以前までは海だったというのは、先月のコウモリ通信で書いた日比谷入江の埋め立てを指す。同じ史料によれば、この工事は慶長8年から行なわれたそうなので、4年間で成し遂げたということだろうか。人力も侮れない。  

 一昨年、ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』を訳して以来、水道や運河の存在が気になる。水源から一定の量の水を自然流下させ、途中で両岸を浸食したり氾濫したりすることなく遠隔地まで水を運ぶには、綿密な測量にもとづく微妙な勾配の調整が必要であることを知ったからだ。人類の多くは遠くの水源から水を引いてくることで、どうにか共同体を維持してきた。灌漑用水路や水道とともに文明は発達したのであり、測量術や水理学は生きるための知恵だった。一方、世界でも稀なほど雨量の多い日本では、湧水も地下水も容易に手に入ったため、立地条件の悪い場所に許容量を超える人口が集中した江戸の建設時まで、飲料水を供給するための本格的な上水道は必要とされなかった。  

 江戸時代の水道について知ろうと、本郷にある東京都水道歴史館に行ってみた。クレタ島ではテラコッタのパイプが、ローマでは石樋や鉛管が使われており、タイでは17世紀後半に西洋人技師がやはり素焼きの水道管を導入していたが、江戸の水道管の多くは木樋だった。大半は厚板を組み合わせた、およそ水道管には見えない構造物だったが、日本では古墳時代から下水、トイレ、近距離の導水管などに同様のものが使われていたし、木材も豊富なので、当然の選択だったのかもしれない。一本だけ丸太をくり抜いた木樋も展示されていた。江戸時代にどんなドリルでこれを製造したのか想像もつかないが、イングランドでは12世紀ごろすでに中空の丸太の排水管が使われていたとフェイガンの本に書かれていたのを思いだす。画像検索で見た16~18世紀のロンドンの水道管も、これとそっくりだった。江戸時代のこの丸太の水道管は、日本で独自に発明されたものなのだろうか? 
 
 『慶長見聞集』に書かれた水道は実際にはごく限定的なもので、寛永6年(1629)ごろ水戸藩邸に上水が引かれているため、神田、日本橋方面に給水していた神田上水は、それ以降に懸樋で神田川を越え、地面に木樋を埋設するかたちで整備されたと考えられている。  

 稲作をするには田んぼを水平につくり、近くの川から水を引いてこなければならないし、巨大古墳を建造するには相当な土木技術が必要だ。ギリシャ人が発明したコロスバトス(コロバテス)と思われる水準器は、鎌倉時代にすでに日本にもあったようだ。夜間に提灯をもった人びとを立たせ、灯から灯の高さを離れた場所から測って勾配を知る提灯測量の記録も江戸時代にはかなりある。多摩川から全長43キロ、標高差92メートルで水を引いた玉川上水でも、こうした測量が実施されたとも言われるが、実際はどうだったのだろう?  

 この時代にはイエズス会士から航海術や天文測量術を学んだ人もいたし、明の数学書も入ってきている。さらに1643年のオランダ船ブレスケンス号事件の埋め合わせに、1649年から51年までオランダ商館に外科医カスパル・シャムベルゲルや臼砲射撃専門のユリアン・スヘーデルらが派遣され、このスヘーデル伍長が家光の家臣に三角測量を伝授したようだ。玉川上水は1652年に計画され、翌年4月に着工した。偶然の一致だろうか? 「当君の御威勢」の陰には、諸般の事情による技術の伝播と、試行錯誤があったに違いない。

 東京都水道歴史館の木樋

 神田上水懸樋跡

2013年1月30日水曜日

江戸時代の水運と車輪

 以前、古地図のおもしろさに目覚め、人文社の古地図ライブラリーのシリーズを四冊ほど買い込んだことがある。最近、江戸時代の船の利用について知りたくなり、またこのシリーズの東海道五十三次や名所江戸百景の本などをめくってみた。  

 広重の代表作、保永堂版の東海道五十三次には、案の定、全55枚のうち船の登場する絵が14枚もあった。ついでに調べてみると、馬のいる絵は21枚、牛はわずか2枚、車輪のある乗り物は大津の牛車1枚しかなく、あとはみな駕籠で担がれるか、ひたすら足で歩いて旅をしていた。いまからたった180年ほど前の江戸後期にである。荷物は馬に括りつけられていることもあるが、ほとんどは人が背負うか、以前の佐川急便のシンボルのように棒の先につけるか、天秤で担いでいる。東海道はかなり整備され、江戸のメインストリートは広かったようだが、日本の街道は馬車や牛車を使うにはあまりにも坂が多かったのか。  

 以前から車輪の歴史に興味をもっていたので、もう少し調べてみると、江戸百景の「高輪うしまち」の絵の解説に、1634年の増上寺安国殿建立時と、1636年の市谷見附の土手の石垣普請の際に京都から呼び寄せた牛持ち人足が、工事後に江戸への定住を許され、泉岳寺の近くに車町、俗称うし町ができたとある。神田明神祭と山王祭りの山車を曳くのも彼らの仕事であったそうだ。広重が描いた御所車に似た巨大な車輪は完全に木造に見える。ケルト族は早くも紀元前1千年紀に車輪の縁に鉄の輪をはめる発明をし、頑丈かつ軽量な車輪の馬車で遠距離を移動したそうだが。  

 大津‐京都間には車石を敷いて牛車が通れる道があり、西日本では犂を使った耕作もかなり普及していたというが、江戸の浮世絵師たちは農耕牛の姿も描いていない。江戸にも「牛込」があるし、霞ヶ浦の近くに「牛堀」もあったようだが、関東に牛は実際どのくらいいたのだろう? ひたすら人力に頼っていたのは、日本に実用的な車輪をつくる技術がなかったからか、役畜がいなかったのか、道路が不整備だったのか、興味は尽きない。  

 陸上の交通がこんな具合なので、江戸への物資の輸送の大半は海、河川、および運河によっただろう。浮世絵には筵の帆や松右衛門帆を掲げて沖合をゆく船や、お台場や永代橋近くの「江戸湊」に投錨する樽廻船などが数多く描かれている。物資はそこから小型船に積み替えられて日本橋や神田川沿いの河岸まで運ばれたそうだ。  

 私は長年、外堀通り付近に通っていたので、神田川の土手は見慣れた光景だが、この部分が江戸初期に神田山を掘削して人工的につくられた掘割であることを地図上で確認したことはなかった。しかも家康が江戸入りした当初は、いまの新橋駅付近から東京駅の南あたりまで海が入り込み、日比谷入江と呼ばれていて、神田山を掘削した残土でここを埋め立てたというのは実に意外だった。ほぼ人力しかない時代に、なぜそんな大事業を急に思いついたのか。その答えは1600年に漂着したリーフデ号らしい。生き残ったウィリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステンは家康の顧問となり、大砲や弾薬だけでなく、干拓技術や造船技術、鮮魚を日本橋に運ぶ海運業など、さまざまな知恵を授けたほか、朱印船貿易にも携わり、アユタヤから大量の蘇芳や鹿革をもち帰っている。八重洲という地名はヤン・ヨーステンからくるそうだ。ものづくり大国を自認するのであれば、技術の伝播の歴史をもっとしっかり見つめ直す必要があるだろう。

 御茶ノ水付近の神田川

 横須賀の按針塚

 八重洲口にある ヤン・ヨーステンの碑
車輪の変遷

2013年1月5日土曜日

2012/12/21のあと

「その日はたぶん、なんということもなく過ぎていくのだろう」。5年前、ローレンス・E・ジョセフの『2012地球大異変』という本の訳者あとがきに、私は当時にしては思い切ってそう書いた。世界にはいまも終末思想を信じる人が大勢いて、最後の審判の日に自分が救われることや、メシアが現われて新しい時代が始まることをひたすら信じて生きている。現実の世界に不満をいだく人が増えているいま、ハルマゲドンですべてがリセットされることを期待する風潮は着実に高まっており、それが予言を自己成就させる可能性があることを知ったからだ。日本はこのままでは衰退し中国に侵略されるなどと主張して人びとの不安を煽り、大真面目に核武装を訴える人も、こうした終末思想家に通ずるものがある。  

 もちろん、いまの発展がいつまでもつづき、将来もずっと安泰だと思っているわけでもない。「日本を取り戻す」と言って選挙に圧勝した自民党の第一声は「経済を取り戻す」だったが、経済がすべてのキーワードだった時代はとうに終わっている。自分たちの置かれた環境のなかで持続可能な方向に進まない限り、この先は破綻の道を歩むことは明らかだ。環境収容力を超えたために滅亡した文明は、歴史上いくらでもある。公共事業に集中投資し、日銀に金融緩和を実施させたところで、一時的なカンフル剤で終わるに違いない。  

 昨秋は娘が一時帰国していたためにあれこれ忙しく、締め切りにも追われていたため、暮れには珍しくひどい風邪をひいた。それでも、2012年12月21日は何ごともなく過ぎたし、冬至を境に日没点は少しずつまた北へ戻ってきている。もともと古代マヤの予言は、5200年間の“太陽”と呼ばれる一時代が終わることを意味していたに過ぎない。2012年の終末を信じて大勢の信者を集めていた教団や核シェルターに立てこもっていた人たちは、いまごろどうしていることだろう。  

 年末年始は今年も船橋の母のところへ行って数日を過ごすことができた。母はとくに凝ったおせち料理をつくるわけでもないが、いまも黒豆、きんとん、何種類かの煮物、ごまめくらいは用意し、ベランダで育てている春菊をお雑煮に入れてくれた。暇さえあれば台所に立ち、あちこちを掃除して回っている母は、風呂の残り湯をたらいに汲んで洗濯機に移していた。「こうやって腰を鍛えているのよ」と得意げな母に、「バケツのほうがまだ楽じゃない?」と提案してみた。ポンプなど使う気はさらさらないらしい。  

 元日には近所を十数キロほど散歩した。以前、私が住んでいた場所は分譲住宅が建ち並ぶ新しい街に変わり、記憶では田んぼだった場所は荒地になり、どこもかしこも宅地化が進んでいたが、高齢の母がまだ自分の足でこれだけの距離を歩けるということが、私にはなんともありがたかった。大晦日の日の入りも初日の出も見逃したが、元日の夕方、近所の高層住宅の最上階に母と上り、沈む夕日と富士山を眺めた。意外なことに、船橋のこんな場所から富士山とスカイツリーの両方が見えた。階段の踊り場に写真を撮りにきていた近所のおばさんとひとしきりしゃべり込みながら、オレンジ色に染まる空を眺めた。  

 将来はばら色に見えないし、現実の暮らしも厳しい。でも、とりあえず健康で自立した生活が送れ、日々のちょっとしたことに感動できれば、それだけで充分に幸せだ。極端な悲観論やその逆の楽観論には惑わされず、毎日を大切に生きていきたい。本年もよろしくお願いいたします。
 
 日没点の変化

 船橋から見た富士山とスカイツリー

 取り壊し中の団地(上)と 
 新しい分譲住宅(下)

2012年11月29日木曜日

タイ旅行2012年

 久しぶりにタイにきている。前回はほんのストップオーバーだったので、バンコクの街を歩くのも、本格的に鳥を見に行くのも数年ぶりだ。遊びに行く旨を伝えると、鳥見仲間が声を掛け合ってツアーや夕食会を企画し、マレー半島の付け根にあるケンクラチャーン国立公園を案内してくれ、今週末は北部のメーウォンにも行くことになっている。  

 今回、意外だったのは、乾季であるはずの11月末に、毎日、ゲリラ豪雨のようなスコールに見舞われていることだ。バンコクではオート三輪のトゥクトゥクに乗っているときに土砂降りに遭い、右側半身がずぶ濡れになった。ケンクラチャーンの公園内では穴ぼこだらけの急傾斜の山道をピックアップトラックの荷台に乗って猛スピードで登ることになったが、途中、何度も川の浅瀬をジャブジャブと渡らなければならない。雨季には3ヵ月間通れないらしいが、乾季でもこれだけ雨が降れば、水位が高すぎる日もでてくるだろう。  

 熱帯の気候は、熱帯収束帯が南北に移動することでやたらに雨が多くなったり、逆に干ばつになったり、極端に揺れ動くという。堆積物や洪水などで川筋が変わることもある。タイにこられなかった数年間にあれこれ読んだ本のなかで、私はタイ中部をチャオプラヤ-川とほぼ平行して流れる支流のターチン川に興味をもってきた。なにしろ、アユタヤ王朝の創設期に深くかかわっていたスパンブリーやウートンなどがこの川沿いにあるだけでなく、この川はかつて「最初の市」を意味するナコーンパトム付近で海に注いでいたと言われているからだ。川の名前そのものも、中国の港(桟橋)を意味する不思議な名前だ。元時代の史料に、フビライ汗の使節が川をさかのぼってナコーンサワンと思われる「上水」を訪れている記録もあり、その川とはチャオプラヤ-ではなくターチン川で、この川のほうがかつては大動脈だった可能性すらあるのではないかと私は想像を巡らしてきた。短い小論文もどき(angkorvat.jp/doc/cul/ang-cul26.pdf)を書いてみたことすらある。これまで推理してきたことを現地に赴いて少しでも確かめてみたい、というのが今回の旅のもう一つの目的だった。  

 鳥見旅行の帰りに友人たちに連れて行ってもらったターチン川の河口域はいまでもかなり広く、大型船が多数停泊していた。スパンブリーからナコーンサワンのあいだにあるターチン川とチャオプラヤ-川の分岐点にも行ってみた。川沿いをずっとたどったわけではないが、この川は最上流地点でも小舟なら航行できそうなことがわかった。分岐点には、水の神ナーガが祀られた寺院があった。北部から流れてくる四本の川が次々に合流し、最終的にチャオプラヤ-川となる合流点パークナムポーにも行ってみた。「上水」と思われる場所だ。ついでにタイ最大の淡水湖である人造ダム湖ブン・ボラペットにも行き、広大な湖でボートを借りて水鳥を見て楽しんだ。ターチン川沿いにある100年市場と呼ばれるサムチュックが栄えた当時は、この一帯の川も地形もまるで違っていただろう。気候変動で水の循環が大きく変わろうとしているいま、川の歴史をたどることは大きな意味をもつに違いない。

 トゥクトゥク

 ターチン川の河口域

 ターチン川とチャオプラヤ―川の分岐点

 ブン・ボラペット

2012年10月30日火曜日

科学とテクノロジー

 翻訳本は固有名詞だけでもカタカナが多くなり、電文のようになって読みづらいので、カタカナ語はそれに相当する日本語があれば、なるべく置き換えるよう日ごろ心がけている。そんな言葉の一つが「テクノロジー」だ。文脈しだいで産業技術、技術などと訳すこともあるが、たいていは「科学技術」と訳す。ところが最近、科学への不信という風潮が感じられ、福島の原発事故以後はとくにそれが強まり、これまでの自分の訳語がはたして適切だったのか疑問に思うようになった。サイエンス(科学)とテクノロジー(科学技術)。どちらも定義は多様だが、敢えて言えば、科学は自然界の現象を理解しようとする人類の知恵の集大成で、数値や実験して誰もが認めうる結果を導きだす努力のことだ。一方のテクノロジーは、人間が自然を利用するために知恵を働かせ、編みだしてきた技術であり、人類が他の動物と異なった存在に進化したのはその技術ゆえとも言える。 

「科学は信じられない」という主張を見聞きするたびに、はたしてそれは「科学は信じられないから宗教や呪術へ戻れ」と言っているのか、「科学技術は信じられない」と言いたいのか、私は考えてしまう。もちろん、前者のような人も大勢いる。進化論を否定し、世界は『創世記』に記されたとおり数千年前に始まったと主張するアメリカの福音派などはその典型例だ。でも、大半の人は後者の意味で言っているのではなかろうか。少なくとも原子力発電は原子核物理学という「科学」を、原子力工学で応用した「科学技術」だ。原子核物理学からは核兵器もつくれるし、ガイガーカウンターのような機器も、考古学の世界を激変させた放射性同位体を使った年代測定技術も生みだされた。同じ大学で同じ応用物理を専攻しても、一方は水爆の設計者(ジョン・ナッコルズ)となり、もう一方は気候科学の基礎をつくる(ウォレス・ブロッカー)など、正反対の道を歩むこともある。  

 地質学の世界でも同様のことが言える。同じ地質学を学んでも、もっぱら鉱物資源に関心を示しエネルギー産業や鉱業に進む人もいれば、過去の地震や気候変動の痕跡を地層に探る研究をする人もいる。最近、日本でもシェールオイルやメタンハイドレードが話題を呼んでいる。地中の奥深くで曲がるドリルを開発し、高圧の水や化学薬品を大量に注入し、石油もたくさん使って化石燃料を取りだすといった人間の知恵と執念には脱帽したくなるが、それはひとえに、危険をはらむ中東の石油に頼ることなくアメリカやカナダがエネルギーを100年ほど自給し、雇用を増やせるという政治・経済上の理由なのだ。  

 自然は人類が利用するために存在すると考え、次々に新たなテクノロジーを考えだす工学者にも、経済の発展をとにかく最優先する財界人にも、「科学」など難解で危険だとして感情的に拒否し、それ以外の世界に没頭する人にも欠けているのは、人間社会も自然環境のなかに存在し、その大きなサイクルを乱せば自滅の道をたどるという自覚ではないだろうか。新しいテクノロジーが便利さと引き換えに環境を破壊しないか、便利になったためにかえってストレスが増え、肥満や成人病や認知症、うつ病になり、より不健全で社会保障費ばかりが増える社会になりはしないか、それを見極めるためにも、科学の知識、とりわけ環境学の基礎知識が万人に必要だ。

 ほぼ同じ場所で偶然に撮っていた写真を並べてみた

2012年9月29日土曜日

小島をめぐる争い

 ついこのあいだまで国民の最大の関心事は、「脱原発」か「原発推進」かだったはずなのに、いつの間にやら、人が住むには適さない絶海の小島をめぐる領土問題へと移り変わり、日本が潜在的核保有国であるために核燃料サイクルは継続させなければならない、これらの島を失えば、日本の存続まで危ういといった主張まで声高に聞こえてくる。日本関連の工場や飲食店の破壊、洋上の水の掛け合いにまで発展した一連の出来事が、それぞれの国の政局絡みで、単に国民の不安や恐怖、猜疑心を煽って、本来の内政問題に目を向けさせない、あるいは政権奪回のためのものなのだとすれば情けない。明治政府から30年期限で個人の実業家が無償貸与されたはずの島が、1914年の期限を過ぎ、本人も他界してだいぶたったのちに長男に払い下げになった経緯はよくわからなかったが、「固有の領土」という関係諸国の建前の裏にある係争点を少しだけ調べてみた。  

 竹島はおもに漁業権をめぐる争いらしい。尖閣諸島も魚釣島、釣魚台の名前から、この海域がかつて好漁場だったことは察せられるが、いまも本当にそうなのか。八重山諸島近海は近年、水温の上昇でサンゴが死滅し、大陸から大量のゴミが流れ着いて漁獲量が下がっているという。そもそも沖縄県全体でも漁獲量は全国33番目、1.7トン弱だ。主要産品はマグロともずく。現在、世界一の漁獲量(1480万トン)の中国本土からこの海域は300キロ離れていて、往復の燃料費に10万元(約120万円)かかるという。かつて800万トンの漁獲量を誇った日本は430万トンに減少して世界5位。数字だけ見ると、中国に漁場を奪われているようだが、養うべき人口も日本の10倍以上、13億もいる。  

 結局のところ、尖閣諸島のほうは1968年の調査で「イラクに匹敵する埋蔵量」だとされた石油が争点らしい。尖閣諸島は中国からつづく大陸棚のはずれ、水深200メートルほどの海域に位置するが、埋蔵されている場所は水深2000~9000メートルの深海だという。北海の油田の多くは水深わずか60~70メートルの海域で掘削されている。2010年にメキシコ湾で史上最悪の原油流出事故を起こしたBPの油田は、沖合80キロ、水深1522メートルの地点で掘削中だった。「ちきゅう」なら水深2500メートルの深海で地底下7000メートルまで掘れるそうだが、試料採取用の細い孔だけ開けてどうにかなるものでもないだろう。たとえ掘れたとしても、日本とは深海を隔てたこの海域の原油をどうやって運びだすのか。沖縄本島からも400キロはある。そのうえこの海域は台風の通り道だ。中国では渤海の浅瀬の油田ですら、すでに何度も原油流出事故が起きている。かりに日中両国が仲良く共同開発しても、海の生態系を破壊し、ただでさえ希少な水産資源を失う結果に終わりそうだ。  

 このままさらに状況が悪化して、武力衝突にまで発展すれば、日本経済を支える中国との貿易(輸出入ともに20%前後)も途絶えることになる。日本は現在、食料の約12%を中国に頼っている。食料の30~40%はアメリカからの輸入だが、アメリカはこの夏の大干ばつで穀類も豆類も大凶作だ。自分の国は自分で守ると勇ましい声をあげる人たちは軍備増強ばかり唱えるが、これでは精神力と竹槍で「鬼畜米英」に挑んだ時代の再来になりそうだ。食料も燃料も他国頼みの日本はそもそも自立していない。戦争になれば点滴や胃瘻チューブをはずされた状態になる。だから米軍には守ってもらい、基地を提供してオスプレイは配備させる。そんな主張に矛盾を感じないのだろうか。  

 国を武力で守れた時代はとうの昔に過ぎている。たとえ厄介な隣人でも、裏切ることのできない信頼関係と共存関係をあらゆるレベルで築き、テロリストや暴徒を生む素地をつくらせないことしか日本が生き延びる道はないはずだ。戦国時代や幕末を舞台にした時代小説や漫画、ゲームにはまりすぎて、みんな時代錯誤に陥っていると、私は改めて思った。