2014年2月28日金曜日

朝陽丸

 咸臨丸と言えば、勝海舟や福沢諭吉が乗ってサンフランシスコまで往復した船として誰もが知っているが、幕府所有のこの3本マストのコルベット艦が木造外輪式の蒸気船で、幕末にオランダで建造された軍艦だったことはあまり知られていない。ペリー来航に慌てた幕府が、「長いつきあいのあるオランダに相談を持ちかけ、軍艦購入と、その軍艦の乗組員を養成するための長崎海軍伝習所設立が決まったのである」と、ウィキペディアには書いてある。1856年に建造されたオランダ海軍のバリ号と同型の、最先端の軍艦だったという。このとき発注された2隻のコルベットのうち、先に完成したヤッパン号がキンデルダイク造船所からカッテンディーケ船長のもとで回航されてきて、咸臨丸と名前を付け替えられた。太平洋横断航海のときは、ジョン万次郎以外の日本人はひどい船酔いになり、「アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった」らしい。  

 2隻目のエド号は1858年5月に長崎に到着し、朝陽丸と命名され直された。幕末の動乱期に、この船は咸臨丸と、ヴィクトリア女王から寄贈された蟠竜丸とともに、幕府の主力艦として小笠原諸島を含む日本各地の輸送任務に使われた。ところが、朝陽丸は1868年の戊辰戦争のさなかに明治政府の手に渡り、翌年の函館戦争に投入された。長崎奉行所の振遠隊28名を含む、各地からの乗組員は2月に長崎を出航し、4月14日には松前城を攻撃した。「しかし5月11日の函館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の最後の奮闘により、砲撃が朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈」。80名前後が戦死し、長崎の振遠隊の生存者はわずか2名だった。戦死者の大半は10代後半から20代の若者で、15歳の少年もいたようだ。  

 振遠隊の戦死者のなかに、山口亀三郎という士官格の若者がいた。享年19歳だった。じつはこの名前が、先月の「コウモリ通信」に書いた、娘の親戚聞き取り調査のときのノートに書き留めてあった。「戊辰の役で長崎知事からもらった掛け軸がある。明治2年5月11日、山口亀三郎源克明戦死、その後、褒美の禄をもらった証明書」と、メモにはあった。この亀三郎が誰に当たるのか、長崎から祖母の死後に戸籍を取り寄せた叔父夫婦にも見当がつかなかった、と娘は記憶している。  

 この名前だけを頼りにネットで検索したところ、函館に己巳役海軍戦死碑があって、戦没者を調べあげたサイトなどがあったおかげで、前述のような内容が判明したのである。私の曾祖父は実父が放蕩親父だったらしく、山口家に養子入りしている。その経緯については誰も詳しく知らず、私も山口家のモヤさんという曾祖父の義母がすばらしい美人で、略奪されるようにしてお嫁にきたという話を、高校生のころに祖母から聞いた限りだ。「血はつながっていないんだけどね」という祖母のオチに、大笑いした記憶だけがある。  

 祖母の戸籍等から判明したモヤさんとその夫の生没年、およびこの朝陽丸の事件の年代を書きだしてみると、意外なことがわかった。私の曾祖父が養子縁組をしたころには、山口家の生存者はモヤさんしかいなかったという事実だ。ここからは私の推理でしかないが、おそらく山口家は残っていた唯一の息子の亀三郎が19歳で戦死してしまったあと、1880年には父親も亡くなり、モヤさんだけが取り残されたのだろう。曾祖父がいつごろ養子に入ったのか定かではないが、実の弟たちと戦後まで付き合いがあったようなので、大きくなってからの養子縁組で、学費をだしてもらった可能性が高そうだ。大事な跡取り息子を亡くした山口家の悲しみは、掛け軸と褒美をもらい、石碑に名前を刻まれることで癒されたのだろうか。地元長崎にも明治初期に振遠隊戦没者のために梅ヶ崎招魂社が建てられたが、その後、台湾出兵の戦没者などと合祀され、あげくに原爆でそのすべてが失われたらしい。身近な過去を調べることで、近代史の思いがけないさまざまな事実を知ることになった。

長崎海軍伝習所絵図。陣内松齢作(昭和初期の作品)。徴古館蔵。

蟠竜丸の砲撃を受けて沈む朝陽丸。作者不詳(岩橋教章の一連の作品の可能性がある)

2014年1月31日金曜日

『嗚呼此一戦』

 娘が高校時代、ラザファードの小説『ロンドン』を真似て、夏休みの宿題に祖先をテーマにした短編小説を書くために、親戚から聞き取り調査をしたことがあった。ところが、激動の時代を生きたはずのほんの数代先のことですら断片的にしかわからず、江戸時代までさかのぼると、名前くらいしか判明しなかった。人の記憶とはこんなに脆いものかと、愕然としたのを覚えている。先日、法事で親戚が顔を合わせ、そんな話がでたこともあって、仕事の合間に少しばかり検索してみた。すると、以前は古本屋のデータか何かが引っかかったに過ぎなかった曾祖父の名前で、今回はアマゾンのサイトや誰かのブログがヒットしただけでなく、教えていた大学の資料に写真まで見つかった。ウェブ上の情報は過去のものまで、年月とともに猛烈な勢いで増殖しているらしい。  

 母方のこの曾祖父は長崎の人で、日露戦争時に陸軍通訳となるほどロシア語ができたという。どんな功績があったのかは不明だが、おそらくその関連で、勲六等単光旭日章というものを22歳でもらっている。その後、日露戦争関係のロシア語の本を28歳で翻訳し、ロシア語のテキストも書いている。  

 それにしても、明治時代になぜ曾祖父がそれほど若くしてロシア語を学べたのか。もしや単身ロシアに渡って、現地で独学したのだろうかと想像をたくましくしてみたが、どうもそうではなさそうだ。片手間に調べてみた限りだが、長崎には江戸末期に英語・ロシア語・フランス語を教える語学伝習所が設立されている。ここは広運館、長崎英語学校などとたびたび名称を変え、曾祖父の時代には長崎中学校となっていた。曾祖父はおそらくここで学んだに違いない。  

 それどころか長崎奉行には、ペリー来航の翌年1854年にロシアのプチャーチンが長崎で幕府と交渉したときには、すでに数名のロシア語通詞がいたという。彼らがロシア語を学ぶきかっけとなったのは、1782年にアリューシャン列島まで漂流し、その後ロシアに渡って10年近くのちに帰国した大黒屋光太夫だというから驚きだ。先月のコウモリ通信に書いた紀州の蜜柑船の状況と似て、彼も伊勢から江戸に向かう回船の船頭で、嵐に遭遇して7カ月間も漂流し、アムチトカ島にたどり着いた。一行はそこで樹木の育たない過酷な環境で暮らすアレウト族と、海獣の毛皮猟にきていたロシア人に出会った。フェイガンが『海を渡った人類の遥かな歴史』に書いていた世界だ。迎えにきたロシア船が目の前で沈没してしまったため、光太夫一行はロシア人とともに流木を集めて船を建造し、ラッコの毛皮を帆にして、1カ月半かけてカムチャッカまで渡った、とウィキペディアに書いてある。その後、出島の三学者の一人ツンベリーの弟子の博物学者キリル・ラクスマンの尽力により、エカチェリーナ2世に謁見して帰国を許され、息子のアダムに伴われて3人だけ根室に戻ってきた。  

 光太夫のロシア語は耳で覚えた不完全なものだったが、長崎の馬場佐十郎をはじめとする蘭通詞らが彼の単語帳をもとに、オランダ語の文法の知識を応用してロシア語の解読を試み、露仏辞書を手に入れ、並々ならぬ努力のあげくに、江戸末期にはロシア語教育が始まっていたのだ。  

 私の曾祖父はその恩恵をこうむって早くからロシア語を学ぶことができたのだろう。祖母の晩年、家を片づけた際に、ピナフォー姿の幼女の横に山高帽をもってすました洋装の青年がいる写真を見つけ、「これ誰?」と聞くと、皺くちゃの祖母が照れたような笑顔になり、自分を指さしたことがある。年齢から考えると、本が出版されてお金が手に入り、奮発して記念に写真館で撮影したものかもしれない。最近は古い書物がスキャンされ、ネット上で公開されているおかげで、会うことのなかった曾祖父の書いた学習テキストも読むことができた。ひ孫が100年後にネット・オークションで自分の訳書を落札するとは、曾祖父は夢にも思わなかっただろう。

嗚呼此一戦』ウラジミル・セメョーノフ 著、山口虎雄訳、博文館、明治45年

2013年12月31日火曜日

ボニン諸島

 ボニン諸島と聞いて、どこの島かすぐに思い浮かぶ日本人はどのくらいいるだろうか。じつは小笠原群島のことだ。歴史時代で最初にこの群島および火山列島などを見つけたのは、太平洋経由で香料諸島に到達しようとしたスペインのビリャロボスの艦隊の一部で、なんと1543年のことだった。ザビエルの時代である。実際、この艦隊に同乗していたコスメ・デ・トーレスも、戦国時代の日本で布教活動をしている。マニラとアカプルコ間の航路を開拓していたスペイン艦隊は、やがて日本の本土東岸沖を北上し、偏西風に乗ってサンフランシスコまで同緯度を進む、マニラ・ガレオンの航路を見出した。  

 日本人がこの群島の存在を知ったのは、それから一世紀後の寛文期で、紀州の蜜柑船が1000 キロほどの距離を72日間かけて漂流し、母島に流れ着いたためだった。当時は江戸までミカンを輸送するにも苦労していたわけであり、小笠原はまさに絶海の孤島に思えたのだろう。その後も長らくここは無人島だったが、オランダ商館長ティチングが1796年にもち帰った林子平の『三国通覧図説』にブニンジマ(無人島、本名小笠原島と云)と書かれていたため、ボニン・アイランズとして知られることになった。  

 早くも1824年にはイギリスの捕鯨船が、小笠原海域に豊富にいたセミクジラやマッコウクジラを追ってここまでやってきた。1830年にはアメリカ人ナサニエル・セイヴァリーをはじめとする欧米人数人とポリネシア人が父島に入植している。太平洋の真っ只中にあるこの群島は、水や食糧を確保できる貴重な寄港地と目されていたのだ。このころにはロシアやイギリスの軍艦、捕鯨船がきわめて頻繁にこの島々を訪れるようになった。ペリー艦隊も1853年に浦賀に来航する前に小笠原探検をしている。小笠原の野生化したヤギは、ペリー艦隊がもち込んだとも言われているが、すでに欧米系入植者がいたので、彼らが連れてきた可能性のほうが高そうだ。  

 日本は1862年になってようやくこれらの離島の重要性に気づいたようだ。外国奉行の水野忠徳が咸臨丸で小笠原に赴き、セイヴァリーら島民に、今後は日本がこの島を管理する旨を告げ、日本人移住者も八丈島から送り込まれた。その後、日本は急速に海外へと進出するようになり、第一次世界大戦では連合国側について、当時ドイツ領だったミクロネシアの島々を無血で占領した。ヴェルサイユ条約によって1922年からは南洋諸島としてこの海域一帯を委任統治することになり、1933年に国際連盟を脱退後も居座り、父島には要塞を築いた。第二次世界大戦が始まると、日本はアジア各国のほか、太平洋の島々もソロモン諸島やニューギニアにいたるまで一時的に占領したが、1944年には北マリアナ諸島も大激戦の末に米軍に奪われ、その後、グアム、サイパン、テニアンから日本本土への空襲が始まった。翌年3月には米軍は硫黄島でも日本軍を壊滅させ、この島からも多数の小型戦闘機などを送り込んだ。広島・長崎の原爆投下のB-29爆撃機は、テニアン島から2500キロほどの距離を飛んできた。往復で13時間ほどの飛行だったという。中間点の硫黄島は、往路に上空で編隊を組む地点となったほか、復路に不時着可能な場所にもなった。  

 いまの日本人の大半にとって、小笠原諸島は再び天気予報で名前を聞くだけの、地図の片隅に別枠で記された遠方の島々に過ぎなくなった。この一カ月ほどは、西ノ島沖に新島が出現したために、やれ領有権だ、領域拡大だと騒がれているようだが、フィリピン海プレートの端に位置し、そのすぐ東で太平洋プレートが沈み込み、小笠原海溝が形成されているこの特殊な海域で、大きな海底火山の噴火があり、地殻変動も起きていることが、はたして朗報なのかどうか。北硫黄島にマリアナ諸島と関連がありそうな先史時代の痕跡があるそうだが、火山の噴火から逃げるために移住してきた可能性があるという。父島に渡るフェリーは竹芝桟橋から週に一回しかでておらず、片道25時間30分もかかるようだが、いつか行ってみたい。  

 自宅のパソコン前からなかなか動けない私の駄文ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします

 三国通覧輿地路程全図、部分

2013年11月30日土曜日

ストレス解消

 10年間、連日のように酷使し、修理に修理を重ねたDELLのXPマシンの動きがかなり怪しくなったため、一大決心をしてMac miniに乗り換えた。これで煩わしかった数日ごとのアップデートに悩まされることもなくなり、雑用をしながら起動するのを待つ必要もなくなった。いちばんうれしいのは、音が静かなことかもしれない。前のPCはふだんでもうるさかったが、暑くなるとファンが恐ろしい音を立てるので、真冬以外は保冷剤が欠かせなかったが、新しいパソコンは電源が入っているのか、思わず耳を近づけたくなるほど静かだ。そのおかげか、長時間、仕事をしても疲労感が少ないような気がする。  

 日常的に聞こえるこうした騒音などは、いつの間にか慣れてしまい、あまり意識にのぼらなくなるが、実際には慢性ストレスとなって体内に蓄積されているのだろう。満員電車に乗って出勤し、職場であれこれ言われ、合間に私用メールやSNSをチェックし、色も音もあふれる繁華街を歩いて、高くて買えない/買ってはいけない誘惑物に囲まれる生活をつづければ、たとえ何事もなく一日が終わったとしても、体に大きな負担がかかるに違いない。最近、誰もが苛立って見えるのは無理もない。だから、帰宅途中に人身事故で電車が十数分遅れでもすれば、それが英語で言うlast strawになる。荷を極限まで積まれたラクダは、あと藁一本でも載せれば背骨が折れるということわざだ。  

 ラクダも藁もいまの日本人にはピンとこないので、こういう慢性ストレスについて家族や友人に注意を喚起するときなどは、私はその状況をコップの水にたとえることにしている。水位が低ければ、数滴増えたところで別に問題はないけれど、水がコップの縁まで入っていて、表面張力ですっかり盛り上がった状態であれば、そこに最後の一滴が落ちただけで、水はあふれてしまう。誰かにちょっと何か言われたくらいで落ち込んだり、些細なことで家族に腹を立てたりするようになったら要注意だ。パソコンなどは簡単に買い替えられるものではないし、嫌な上司に異動していただくのはさらに難しいだろうが、変えられることから始めて、余計な刺激は取り込まないようにし、日頃からコップの水位を下げておく努力はしたい。  

 何よりも、自分がいまどんな精神状態にあるのかを客観視する、鬼太郎パパのような目が欲しい。そのための手っ取り早い方法は、自己中心になりがちな日常を抜けだして尺度を変えてみることだろう。遠くを見る、空を見上げる、 野山や海辺を歩くなどして、自分の存在が小さくなれば、かかえていた不満も悩みも相対的に小さくなる。そんなことを考えて、先週、朝五時に起きて近くの空き地までアイソン彗星を見にでかけた。北斗七星からアルクトゥルスを探し、そこからスピカを見つけて、水星とのあいだの夜空を双眼鏡で懸命に見たが、暗い星がいくつか見えるばかりだった。2日つづけて頑張ったが、横浜の住宅街では夜空が明るすぎて、双眼鏡では尾が見えなかった。光がありすぎて見えないなんて、情報過多で肝心なものが見えなくなっているいまの時代のようだと妙に納得していたら、今度はアイソンが崩壊したというニュースが。今年最高の天体ショーはお流れらしいが、残った塵くらいは見えることを期待したい。  

 余談ながら、夕日に照らされた飛行機雲を誰かが彗星と間違えたらしく、かなりの人がスマホで夕空を撮影している光景も駅前で見かけた。いまの時代、ふだん夕空を見上げることもない人がきっと大勢いるに違いない。

2013年10月31日木曜日

日没点の観測

 一つのことをコツコツとつづけるのが苦手な私だが、この一年間、頑張りつづけたことがある。コウモリ通信にも何度か書いた日没点の変化の観測だ。近所に、北斎が富嶽三十六景に選んだ旧東海道の尾根道の近くで、西に富士山が望める開けた場所がある。夕方、西の空が明るい日にはその尾根道まで通い、同じ場所から日没の瞬間を写真に撮りつづけた。住宅地とはいえ、横浜の地形は山あり谷ありなので、最後の坂を登るまで実際にはこの眺望は見えない。今日はきっと富士山も日没も見える、と思って行っても、ちょうど富士山のあたりだけ曇っていたり、山並のすぐ上に細く棚引く雲がでていて日没が見えなかったり、空振りに終わることもたびたびあった。逆に、薄曇りであきらめていたら、日没の瞬間になって富士山がシルエットで浮きあがることもよくあった。  

 そんなこんなで記録しつづけた日没の写真は、冬至のころには真西よりはるかに南に沈む太陽があり、春分、秋分のころは富士山のやや北に、夏至になると駅前のビルの陰で見えないほど北に日没点が移動する。太陽が沈む地点の手前にある陸標———マンションや鉄塔など———の位置が地図上で確認できれば、南または北に何度ずれているか、方角がわかるだろうと考え、数キロ先に見える高層の建造物を自転車で探しにも行った。冬至の太陽が沈む方向に見えるひときわ高い鉄塔は、うちから遠く離れた米軍の深谷通信隊内にそびえる鉄塔だった。春はどんどん日没点が富士山の裾野を移動する様子を観察しつづけ、幸運にも晴天の日にダイヤモンド富士を見ることもできた。  

 自他ともに認める方向音痴の私がこんな苦労をして観測しつづけたのは、地図や方位磁石のない時代、古代人にとって季節ごとの太陽の昇る位置や沈む位置は重要な意味をもっていたことを知ったからだ。天照大神を祀る伊勢神宮や福知山市の皇大神社が、冬至の太陽の昇る位置からその場所が決まったという説もある。  

 時計のない時代には、まぶしい太陽を見つづけて南中を見届けなければ正午がわからないし、空高く昇っている天体は角度を測るのが難しい。しかも、その高度は日ごとに変わるのだから、そこから自船位置の緯度を割りだそうと思えば、その日に計測した数値に当てはまる緯度を知るための複雑な計算か、膨大な数値表が必要だ。昔の航海士の知識に追いつくのは、私にはあまりにも難しそうだが、せめて地平線に太陽が沈む位置の季節ごとの変化くらいは、誰かに教えられた既存の知識としてではなく、自分で確かめてみたいと思ったのだ。 

 グレゴリオ暦とグリニッジ標準時が定まり、正確な地図が描かれるようになってからまだ一世紀半も経ていないのに、それ以降に生まれた人はみな、暦と時計と地図に従って生きるようになり、自然には目を向けなくなったのかもしれない。あらゆる情報がネットで調べられる現代では、正確な時刻も、自分がいる位置も、日没時刻も、コンピューターで計算された数値として瞬時に得られる。必要なのは検索能力だけになり、自然の変化が実際はどう起きているのかも知らないまま、暦どおりに衣替えをし、冬も夏も定時に出勤し、天気予報を見て傘や上着を持参するか決める。何か肝心なものが欠けてはいないのか。  

 一年間、同じ場所に通ったおかげで、夕方この尾根道に散歩にくる近所の多くの人とも顔見知りになった。秋のダイヤモンド富士は曇り空と雨天つづきで見られなかったが、「太陽は見えても、肝心の山がないねえ」などと他愛もない会話を交わしながら入り日に見入り、雲を眺める時間を、一日のうち数分でももてたことが、何よりもの収穫だった。

2013年9月30日月曜日

東北旅行2013年

 青春18きっぷの使用期限すれすれの9月初旬、仕事で来日していたタイの友人たちと、イギリスから帰国したばかりの娘と一緒に東北旅行にでかけた。震災以来、津波の被災地を自分の目で見たいと思っていたので、短い旅とはいえ、これでようやく念願がかなったわけだ。音楽家の友人たちは仙台の定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルにつられ、娘は福島で開催されていた若冲展を目当てに、私の東北鈍行列車の旅に同行してくれた。  

 福島へ行くと言うと、別のタイの友人が心配して、本当に安全なのかと何度も確認してきた。海外から見れば、福島という地名はチェルノブイリと変わらない。汚染水の問題等を考えれば、安全だと言い切ることはとうていできないが、福島に暮らしつづけている人がいて、美術展を見に行くような日常的な生活も送っていることを、海外の友人たちに見せるだけでなく、自分でも納得したかった。郡山付近を通過しながら、山の向こうに日本中を震撼させた福島第一原発があることを想像してみたが、目の前に広がる長閑な田園風景とはあまりにも相容れなかった。  

 震災の翌日、毎日新聞の一面を飾ったのは名取市の海岸を襲う大津波の写真だったが、やや内陸を走る東北本線からは仙台平野の被災状況はわからなかった。上空からは浸水して塩分濃度が下がらない土地とそうでない農地とのコントラストがはっきり見えるそうだ。仙台市内がどこも満室だったので、松島の手ごろな値段の旅館に泊まったところ、子供のころからドラえもんのファンという若い友人は、初めての日本旅館体験に大はしゃぎだった。翌朝は小雨の降るなか松島の海岸を歩いた。湾内に浮かぶ多数の島のおかげで、大きな津波被害を免れたことを思うと、日本三景のこの海岸がいっそうありがたく感じられた。  

 夜行便でタイに帰国する友人たちを東京行きの高速バスに乗せたあと、娘と二人だけでさらに石巻と気仙沼まで足を伸ばした。石巻の駅のすぐそばに、津波がここまで到達したという看板があったが、町並みからはもう津波の痕跡は感じられない。震災当日、門脇小学校の生徒をはじめ、多くの人が非難したという日和山にまず向かった。山というよりは、横浜のどこにでもありそうな小高い住宅地で、てっぺんから海側を見下ろすと、雑草の生い茂った殺風景な土地が広がっていた。海岸沿いのこの低地にはところどころ水が溜まり、側溝もあふれんばかりで、流された家の土台の脇にガマが生えていた。後日、日和山幼稚園の裁判記事を読んだ際に、この新浜地区の光景がよみがえり、石巻が身近に感じられた。  

 柳津から先の海岸線沿いを走る区間は、線路を再建する代わりに、単線の幅で道路が整備され、そこを代替輸送のバスBRTが走っている。途中、道路沿いに「ここまで浸水区間」といった看板が設けられていた。何度もトンネルをくぐり、外へでた途端、目の前に小さな海岸が迫る光景が繰り返される。破壊された線路や、鉄骨だけが残った南三陸の防災庁舎なども見えた。気仙沼ではわずかな時間しか過ごせなかったが、折しも住宅街に乗りあげた330トンの漁船、第18共徳丸の解体工事が始まる直前で、ミサゴの飛ぶ青い空のもとで、すでに風化しつつある悲劇の名残をスケッチすることができた。津波は湾奥の低地を破壊し、交差点にある建物にとくに被害をもたらすが、高台に建つ家は海岸に近くても無傷で、浸水しただけならば修復可能であることなどが、急ぎ足で町を歩きながら見てとれた。帰路、金色の稲穂が一面に広がる景色のなかを、地元の元気な高校生たちと一緒にロングシートの鈍行列車で進む旅はじつに楽しかった。

 石巻新浜地区

 石巻日本製紙

 第18共徳丸

2013年8月31日土曜日

『世界一賢い鳥、カラスの科学』

 群集や暴徒を意味する英語にモッブ(mob)という言葉がある。この言葉は動物が捕食者にたいし群がり、騒ぎ立て、ときには集団で攻撃するモビングという行動を表わす場合にも使われる。生物にとって危険な状況を記憶し、次に同様の目に遭ったときにそれを思いだして、闘争か逃走かという恐怖反応を引き起こすことは、生存に必要なごく基本的な機能であり、脳の扁桃体の働きで深く脳裏に刻まれる。だが、カラスのように高度な生物は、自分がじかに体験した危険だけでなく、仲間からも危険な人間について学ぶのだという。  

 今月、河出書房新社から刊行される拙訳書『世界一賢い鳥、カラスの科学』にはこんな一節があった。「彼らはわれわれに威嚇した物知りのカラスを観察し、その仲間に加わっていた。威嚇行為は広まりやすい。そのため、一羽が威嚇すると、聞こえる範囲にいるすべてのカラスが飛んできて、その群れに加わる」。こうした「社会学習」は動物のなかでは特殊であり、認知機能として高度なものだ。自分より強い相手に立ち向かうモビングは、繁殖期にテストステロンで攻撃性が高まっている時期に増えるのだという。  

 インターネットで情報を交わし、全国から集まってくるデモと、カラスのモビングはじつによく似ている。勤めていたころ、組合活動でメーデーのデモに参加させられ、シュプレヒコールを聞きながら延々と歩く行為にうんざりした経験が何度かある。私のデモ嫌いの一部はこの体験からくるのだが、残りは自分の生存を脅かす敵がいるという意識が希薄だからかもしれない。賃上げしてくれない経営者も、原発の再稼動を目論む電力会社も、日本の離れ小島の領有権を主張するアジアの隣人も、私とは意見が異なり、議論すべき相手だとは思っても、敵ではない。しかし、中東のデモや、ヘイトスピーチを連呼する在特会のデモの参加者などは、「話せばわかる」とか「相手を説得する」理性的な段階は超え、「やるか、やられるか」という防衛本能に駆られているように見える。その多くは血気盛んな年代で、自分がじかに痛い目に遭っておらずとも、敵についてインターネットなどを通して学び、不安と憎悪のスイッチが入ってしまったようだ。  

 この本にはカラスの子殺し、仲間殺しに関するこんな気になる言及もあった。「カラスは何にとりつかれて殺害に走るのだろうか? 脳の化学的性質に生じる微妙な変化が、群れの一員にたいする態度のそのような激変の根底にあるのだろうか? われわれは誰でも、環境しだいで、あるいは社会的仲間から受ける合図しだいで、自分の感情が急速に変わることを経験している」。縄張りを守る、伴侶を守る、または捕食者を巣の近くから追い払うため、ストレスホルモンや性ホルモンによって攻撃性が高まったあげくに、それが本来は守るべき別の対象に向けられる可能性が示唆されているのだ。自制心があるはずのエリートや、正義感が強いはずの警察官が、性衝動に駆られて信じがたい行動に走ることから考えても、人間はストレスを受けると、理性が働かなくなり本能に操られるようだ。衣食足りて礼節を知るではないが、道徳教育が役立つのは世の中が平和である限りなのだろう。  

 本書には、ワタリガラスと暮らした経験もある共著者による表情豊かなイラストが多数掲載されている。邦訳版の表紙には、娘のなりさによるリノリウム版画を採用していただいた。イギリスで3年間、絵本の勉強をし、鳥のスケッチ修行を積んできた娘にとって、何よりもありがたい第一歩となった。書店で見かけたら、ぜひお手にとってみてください!

『世界一賢い鳥、カラスの科学』
 ジョン・マーズラフ/トニー・エンジェル著
(河出書房新社)