2016年3月30日水曜日

『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』

 自分の視野を狭めないために、できる限り多様な仕事に挑戦しているつもりなのだが、最近、まるで違う分野の本を訳していたはずなのに同じ話題が取り上げられていたり、関連する問題に気づかされたりすることが増え、なにやら世界が収斂しているような不思議な感覚がある。  

 たとえば、オスマンのパリ。賞賛の言葉だと思い込んでいたものの別の意味を最初に理解したのは、スジックの『巨大建築という欲望』という本だった。権力者と建築家が都市の設計図や模型を眺め、都市の中心部で膨れあがる貧民街を一掃して、整然とした美観につくり変え、その陰でどれだけの人びとの暮らしが奪われたかを、そしてそれがパリだけでなく、世界各地でどれだけ行われてきたかを同書は描いていた。『「立入禁止」をゆく』という都市探検の本では、オスマンのパリが、パリ市内の地下から石灰岩を採掘して建造され、空洞になった地下の採石場には、貧民街の古い墓から掘りだした遺骨を移動させたことを知った。いわゆるカタコンブ・ド・パリで、実際には18世紀から始められた。先月ようやく刊行された『エンゲルス──マルクスに将軍と呼ばれた男』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)では、こうした一方的な都市整備を「オスマン」と名づけたのがエンゲルスであったことを知り、驚いた。「体裁の悪い横丁や小路は、この一大快挙へのブルジョワ階級からの惜しみない自我自賛の声とともに姿を消す」と、彼は1872年に『住宅問題』のなかで書いた。  

 エンゲルスが生きた19世紀には、ロンドンでも人口が急増し、土地も埋葬地も不足していた。彼より12年先に亡くなったマルクスは新設されたハイゲート墓地に葬られ、のちに大きな銅像まで建てられたため、彼の墓所はいまも観光客や思想家が定期的に訪れる場所となっている。しかし、エンゲルスの墓はない。彼の遺体は遺言に従ってネクロポリス鉄道で運ばれ、火葬され、海に散骨されたからだ。「なかでも奇妙な私鉄路線はロンドン・ネクロポリス鉄道だ。これはロンドンと市の南西のサリー州にあるブルックウッド墓地とのあいだで遺体を運ぶために使われていた」と、『「立入禁止」をゆく』には書かれていた。この鉄道は第二次世界大戦中に空襲で破壊され、再建されなかったが、十数年前に訳した『ミイラはなぜ魅力的か』にも、地価の高い土地に残る古い墓地を処分し、死体の発掘を商売にする会社としてヴィクトリア朝時代からあるネクロポリス社がでてきたので、一部の事業は現在も継続しているようだ。 

『エンゲルス』の著者は野暮な説明はしていなかったが、イギリスで火葬が合法化されたのはそのわずか10年前のことなので、エンゲルスの最期はいかにも、科学を信奉し、死後には期待せず、地上の楽園の実現に生涯を賭けた彼らしい。なにしろ、古代エジプト人と同じくらい、キリスト教徒にとっても、最後の審判の日に自分の肉体が残っていることは重要だったからだ。『100のモノが語る世界の歴史』にある金や宝石で飾られた14世紀フランスの聖遺物箱には、天使の像とともに、棺に入ったまま蘇り、両手を挙げて嘆願する七宝焼きの4人の裸の男女が付いていた。カトリック教会では死後も遺体が腐らないことが聖人であることの証拠とされ、不朽の遺体は信仰の対象であったと、前述のミイラの本には書かれていた。遺体がそれほどの意味をもつ文化で育ちながら、散骨まで望んだエンゲルスは、時代を1世紀半は先駆けていたのだろう。レーニン、スターリン、毛沢東、ホー・チ・ミン、金日成らが死体防腐処理を施されたことを考えれば、これら「後継者」とエンゲルスの根本的な違いが見えてくる。ソ連崩壊後、群衆の怒りの対象となったために火葬され直したスターリンを除けば、残りの指導者たちの遺体はいまなお「信仰」対象だろう。 

 『エンゲルス』には、1度だけ私の住む横浜も登場する。彼の生きた時代は、日本の幕末から明治初期にかけてなので、この本に触発されて調べ始めた私の先祖の足跡探しの時代とぴったり重なる。もちろん、横浜にきたのはエンゲルスではなく、彼の最大のライバルの無政府主義者バクーニンなのだが、思いがけない接点にグローバル化の始まりを見た気がした。エンゲルスとバクーニンは、ベルリン大学で同じ講義を受け、1848年の革命ではそれぞれバリケードについて戦った。バクーニンはそこで逮捕され、最終的にシベリア送りとなったが、脱出してアメリカ周りでヨーロッパに戻る途中、1861年夏に横浜に立ち寄った。宿泊先は、居留地70番にあった日本最初のホテル、ザ・ヨコハマ・ホテル。オランダ船ナッソウ号の元船長フフナーゲルの家を宿屋にしたもので、御開港横浜大絵図二編には「オランダ五番ナツショウ住家」として描かれている。彼はここで48年の革命仲間で、ペリー艦隊の随行員として有名な画家のヴィルヘルム・ハイネと再会したほか、シーボルト親子、ジョゼフ・ヒコらとも会ったようだ。このホテルは、開港直後に殺されたオランダ人船長らの宿泊および葬儀場所であり、1862年ごろからしばらくイギリスの海兵隊の宿舎にもなり、日本最初のビリヤード台があったことでも知られるが、1866年の豚屋火事で焼失した。現在は、住友海上・上野共同ビルがある。調べるたびに、思わぬ接点が見えてきて、雑学はなんとも楽しい。  

 長くなって申し訳ないが、最後にもう一つ宣伝を。10年前に訳して以来、うちの食生活を大きく変えた本、『インドカレー伝』(リジー・コリンガム著、河出書房新社)がこのたび、文庫化されました! 中央アジアや帝国主義の歴史を知る本でもあります。これを機にぜひお読みください。

 居留地70番だった付近

『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』 トリストラム・ハント著(筑摩書房)

2016年2月28日日曜日

バリ旅行

 校正の仕事の合間に、こともあろうに、バリ島にきている。バリ島好きの甥がこの島で結婚式を挙げることにしたためだ。日本からはるばるバリまで飛んで、リゾートホテルの結婚式に出席するだけなんてあまりにももったいないので 前後に数日間、島内めぐりをしてみた。  

 なにしろ、これまでバリについてはあれこれ読んできたからだ。ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』には、北部の山の上にあるバトゥール湖やブラタン湖をおもな水源とするバリで、棚田の水を人びとがどのように管理してきたかが書かれていた。私たちが訪ねたウブドは、円形劇場のように棚田が広がる、と19世紀にアルフレッド・ラッセル・ウォレスが書いたこの島の中腹にある。ウブドでは南北方向に何本も峡谷が走り、棚田はそのあいだの尾根に用水路を引いてつくられていた。もっと北部のテガラランのような急峻な棚田では、畦の一部を壊して上から滝のように水を流し入れていた。ウブドの町から少し歩くだけでも、こうした田園のなかを歩ける。取水口には、本に書かれていたとおりに小さな祠が立っていた。  

 尾根沿いにある用水路と平行して、すぐ横の谷底を急流が走る場所を歩くと、バリの地形が実感できた。南北は緩い勾配だが、東西に移動しようものならたいへんだ。バリ最初の王国の所在地とも考えられているペジェンにどうしても行きたくて、地図上ではウブドからわずか4キロほどであることを確認して、自転車を借りてでかけた。ところが、途中の川を横切るたびに、猛烈な下り坂と上り坂を繰り返すはめになり、30度をはるかに超える気温のなかを、汗だくになりながらサイクリングすることになって、同行した姪と娘に大ひんしゅくを買った。それでも、この日は運良くペジェンのプラタラン・サシ寺院の祭日と重なり、村人総出のようなヒンドゥーのお祭りをのぞくことができた。もちろん、東南アジアで最古級と言われる紀元前3世紀ごろの巨大な青銅鼓、「ペジェンの月」も見てきた。裏側に回ると、空から落ちた月が爆発して割れたという言い伝えの残る底の部分が見えた。  

 ウブドでは夜に王宮の中庭で伝統舞踊を見たほか、ホテルの敷地内で催される影絵芝居ワヤン・クリも鑑賞した。演目はちょうど、『100のモノが語る世界の歴史』でとりあげられていたビーマだった。ヤシ油ランプの裸火に照らしだされた細密模様の人形は期待どおりに神秘的な雰囲気を醸しだしていたが、80才の人形遣いがあまりにも激しく人形を動かすため、ドタバタ喜劇になっていた。ウブドで滞在したのは、「ホームステイ」と呼ばれる格安の民宿だったが、その名のとおりに家庭的な宿で、敷地の裏に耕筰放棄地が広がっていたため、居ながらにして草地をヒョコヒョコ歩くシロハラクイナや、青い羽と赤いくちばしが美しいジャワカワセミを眺められ、夜はホタルを楽しめるという特典付きだった。  

 バリは、祭りを意味する言葉だそうで、年中どこかで祭りがあるらしい。210日周期のウク歴でいちばん大きな、日本のお盆のような祭りはガルンガンと呼ばれる。それが今年はそれが2月10日から始まっていたため、島内にはまだいたるところにペンジョールという竹飾りが飾られていた。バリでは昼過ぎと夜間にほぼ毎日スコールに見舞われ、結婚式の当日も途中で土砂降りになったが、甥と美人のお嫁さんのリゾート・ウェディングも、盛大なフォト・セッションも、なんとか無事に終えることができた。  

 旅の最後には娘とバリ西部の国立公園にバードウォッチングにでかけた。あいにく私は水を飲み過ぎたためか体調を崩し、嘔吐を繰り返していたので、海辺の静かなコテージでぶらぶらしながらこのエッセイを書いている。海のなかには驚くほどの種類の熱帯魚がいて、コテージのすぐそばまでルサジカやジャワルトンがやってくるため、退屈はしない。従業員はみな気軽に話しかけてくる。バリではタクシーの運転手から、通りすがりに道を尋ねた老人まで、驚くほど多くの人がカタコトながら英語を話す。英語のほかフランス語や韓国語を話す人もかなりいるようで、これからは中国語だ、と言っていた。市場などでは、「5枚で1000円」「安いよ」などと声をかけられたが、日本人はとりわけ英語の通じない国民だと誰もが思っているらしい。大多数がイスラム教徒のインドネシアでヒンドゥー教を守り通し、独自の文化を築きあげられたのは、バリ人のこの柔軟なたくましさゆえではないかと思った。いろいろな意味で貴重な体験をした旅となった。

 ペンジョール


                     祠

 テガラランの棚田

 ワヤン・クリ

 リゾート・ウェディング

 ジャワルトン

2016年1月30日土曜日

エンゲルス

 昨秋から、立てつづけに3冊もの本を校正してきたので、さすがにへばっている。先日、刊行されたフェイガンの家畜の歴史の本のほかに、10年前に訳した本がめでたくも文庫化されることになり、訳文を全面的に見直したうえに、2年前に訳し、諸般の事情で刊行が遅れていたフリードリヒ・エンゲルスの伝記がようやく動きだしたためだ。部下も外注先もない個人商店は、こういうときになんとも辛い。2、3週間という短期間に、締め切りに追われながら何百ぺージもの原稿を一字一句見直すという苦しい作業を、まるで違うテーマで相次いでこなす羽目になった。一人で気長に作業をする翻訳期間とは異なり、多くの人の予定に差し障るので、一日の遅れも大きな迷惑になる。刊行月のずれは予算上困るであろうことは、会社勤めの経験からおおよそわかる。そうした心理的プレッシャーからつい座りつづけ、腰や目に大きな負担となる。  

 なかでも先日、初校を終えたばかりのエンゲルスは500ページ近くあって、内容が内容なうえに、厄介なことが二つもあり難儀した。原書がイギリス版とアメリカ版で2割近く異なっていたのだ。半年もかけてイギリス版で最後まで訳したあとで、アメリカ版のほうが読みやすく編集し直されていることがわかったときは呆然とした。仕方なく、膨大な変更箇所を拾いだし、削除、追加、順序の入れ替えなどをして、なんとかアメリカ版に合わせた。ところが、初校で一文一文つけ合わせると、まだまだ見落としが随所にあり、その都度、双方の版の変更箇所を確認することに。細かい字の原書二冊とゲラを見くらべているうちに、自分がどこを読んでいるのかわからなくなることもしばしばだ。  

 もう一つの難題は、各章に100前後の註が付いていて、その7割くらいが『Marx-Engels Collected Works』という全50巻の英訳版の引用だったことだ。日本には大月書店の『マルクス=エンゲルス全集』という、32年もの年月をかけて翻訳された53巻ものの全集がある。いまはありがたいことに年会費を払えばネット上でも読めるのだが、英版とは編集が異なり、ページ数はもとより、収録されている巻数も違い、文字検索ができない。いつ、どこで、誰が書いたのかもわからない引用文の全文をまずはネット上で検索し、それに相当する論文や手紙と該当ページを53巻のなかから探しだす、気の遠くなるようなパズルに1カ月は費やしたと思うが、校正中に追加でまたもや調べている。  

 どう考えても仕事としては最悪なのだが、このエンゲルスの伝記、信じられないだろうけれど、驚くほどおもしろいのだ。著者は、執筆当時はロンドン大学で歴史を教えていたが、現在はイギリスの労働党の若手下院議員であり、幹部でもあるハンサム・ガイのトリストラム・ハント氏。マルクスとエンゲルスというと、もじゃもじゃペーターのような晩年のむさ苦しいイメージが定着しているが、黒イノシシとかムーア人と呼ばれていたマルクスにたいし、エンゲルスは実際にはかなりの伊達男で、若いころは相当な女たらしだった。膨大な著作物や手紙が残されているおかげで、この本では150年前の話とはとうてい思えないほど、人物が生き生きと描写されているだけでなく、20世紀を通してマルクスとエンゲルスの思想がどれだけ誤解され、曲解されてきたかがわかり、目から鱗が数十枚は落ちた気がする。おまけに、なんともユーモラスで、校正中も再び読んで一人でニヤニヤしたり、吹き出したりしてしまった。  

 イギリスに亡命中のマルクスが『資本論』を書きあげるあいだ、エンゲルスが17年にわたって自分を犠牲にし、彼の生活を支えつづけた事実がどれだけ知られているかはわからない。わずか数ポンドでも送って欲しいとマルクスはたびたびエンゲルスに懇願するのだが、わが家も似たり寄ったりで、苦笑せざるをえなかった。海外や他業界の常識から考えれば異様な慣行と思うのだが、日本の出版業界では本が刊行されてから数カ月後にようやく印税が支払われるのが一般的で、その間の労働は刊行されなければ何年間でも未払いとなりうる。翻訳者とて霞を食って生きているわけではない。そのうえ年収がこうも不安定だと、収入のない年に腹が立つほど高額の税金や保険料を納めなければならない。今回はたまりかねて直訴し、特別に一部前払い金をいただいた。マルクスは天才であっても自己管理能力に乏しく、恐ろしく遅筆だったそうで、エンゲルスは大量の資料を提供し、理論形成を手伝っただけでなく、「肝心なことは、これが執筆され、出版されることだ。君が考えている弱点など、あのロバどもには絶対に見つからない」などと、17年間、叱咤激励をつづけた。そう、なんであれとにかく出版されることだ!と、私も内心思いつづけた。 

 『共産主義者宣言』は意外なことに、出版時には世論から「沈黙の申し合わせ」に遭ったようだが、これだけ膨大な年月をかけて執筆された『資本論』も同じ運命をたどりかけ、エンゲルスは「熟練の広報担当者のような狡猾さで」宣伝工作に走る。「注目を集めるうえでの最善の策は、〈この本を非難させること〉であり、報道上で嵐を巻き起こすことだ」と考えたのだ。「現代の数々のメディア操作も本の売り込み術も、マルクスの最も有能な宣伝係によって始められた」らしい。私の2年越しの労作が鳴かず飛ばずにならないよう、なんとか3月に無事に刊行できたら、エンゲルスに倣って宣伝工作でもしたい気分だ。

 書き込みだらけになってしまった原書

 英版(左)と米版(右)

2016年1月2日土曜日

『人類と家畜の世界史』

 一冊の本を訳す際には、付け焼き刃で多数の文献を読みあさることになる。年明けに、河出書房新社から刊行されるブライアン・フェイガンの『人類と家畜の世界史』では、DNAの研究書から騎馬民族征服説をめぐる書物まで、あれこれ斜め読みした。なかでも加茂儀一氏の一連の家畜関連の著作は、インターネットもなく、デジタル資料もなかった40年近く昔に書かれたとは信じられないほど詳しく、いろいろ参考にさせていただいた。付箋を貼ったままのこれらの資料を読み返しながら、少しばかり日本在来馬について調べてみた。  

 馬と言えばサラブレッドを思い浮かべるいまの日本人には、イングランドでも16世紀までほとんどの馬が小型であり、日本にいたってはわずか150年前までポニーに分類されるような馬しかいなかったことなど想像しにくい。いま世界にいる馬はほぼすべて、なんらかのかたちで人手を介して人間の都合で品種改良されてきたため、ラスコーやペシュメルルの壁画に描かれた野生の馬とは異なっている。ターパンと呼ばれるユーラシア大陸にいた野生種はすでに絶滅し、モウコノウマという亜種がかろうじて残っている。日本の馬は江戸時代まで積極的に選択して育種せず、自然に繁殖させていたことや、栄養価の高い飼い葉ではなく、周囲の野草を食べさせていたことなどから、古来の形質を残し、環境ごとの特徴をもつ馬になったようだ。肩までの高さが170cmにもなるサラブレッドにくらべると、わずかに残る日本在来馬は体高100cm程度の野間馬から130cm程度の木曽馬や道産子まで、いずれもかなり小型である。とかく馬格だけが注目されがちだが、頭が大きく胴が長いといった骨格上の特徴のほか、毛色にも特色があるらしい。一般の馬の顔や脚によくある白い模様は、在来馬ではまず見られない。在来馬には鰻線と呼ばれる背中の濃い線や、逆立ったたてがみなど、洞窟壁画の野生馬に見られる古い特色を残す個体もいる。  

 これらの在来馬は、氷河期に日本列島にいた野生馬が家畜化されたわけではなく、野生馬が絶滅したのちに朝鮮半島経由でもち込まれた家畜種だった。加茂氏の本が書かれた当時は、縄文や弥生の遺構から馬の骨が出土したこともあって、大陸から馬がもち込まれた時期はかなり古いと考えられていたが、ずっと後世の馬の骨が混入していたことが近年、科学的に証明された。したがって、3世紀末に魏志倭人伝に「其地無牛馬虎豹羊鵲」と書かれたとおり、それまで日本人が牛馬を使うことはなかったと、いまでは考えられている。4世後半になると、甲府市の塩部遺跡から馬の歯が見つかっている。『日本書紀』には応神天皇15年(在位期間は不明)に百済王が阿直岐を遣わし良馬2匹を貢いだとあり、『古事記』にも応神天皇の時代に照古王(近肖古王、在位346-375年)から雌雄の馬が阿知吉師につけて献上されたと記されている。阿直岐は、東漢氏の祖とされる阿知使主と同一人物とも言われる。この氏族は織物工芸に長けていたため、漢の字を「あや」と読ませ、やまとのあやうじと呼ばれるようになった技術者集団だった。その子孫が坂上田村麻呂、つまり最初の征夷大将軍なのだ。5世紀に入ると馬具や馬埴輪、馬の骨などが各地で出土する。

  記紀には、スサノオが天の斑馬を逆剝ぎにして機織り小屋に投げ込む話や、保食神が死んだあと、その頭の頂が牛、馬になっていたことなどが書かれている。いくら神話とはいえ、存在すら知らない動物が登場するだろうか? となると、これらの神話も4世紀以降にできたということなのか。斑馬が文字どおり斑紋のある馬だとすれば、モウコノウマを家畜化しただけでなく、ターパンを家畜化した馬と掛け合わされていた可能性も高いようだ。「天の」という形容は、前漢時代に張騫がフェルガナからもち帰った汗血馬を天馬と呼んだことを思いださせる。秦時代の馬は、始皇帝の騎馬俑や銅車馬の馬を見る限り、かなりずんぐりして、たてがみが逆立ち、種子島にいたウシウマのように尾が棒状に見える馬だが、甘粛省の雷台漢墓から出土した有名な「馬踏飛燕」をはじめとする青銅の馬は、顔や脚、腹部の引き締まった、たてがみの垂れた馬なのだ。製作者の出身や技術の違いは当然あるだろうが、傍目にはかなり違う馬に見える。漢時代に品種改良された馬の子孫が、数百年後に日本まで渡ってきたかどうかは不明だが、後漢霊帝の末裔を自称した東漢氏にとって、天馬が大きな意味をもっていた可能性は高そうだ。在来馬のなかでは大きい木曽馬に、漢代に改良された馬を起源とするという説があるのは興味深い。塩部遺跡の歯のDNA解析ができたら、何か見えてくるかもしれない。

  戦闘用に訓練されていなかった在来馬の大半は、日清・日露戦争後に軍馬改良の目的で30年にわたって実施された馬政計画で、オスは去勢され、メスは輸入された種馬と交配させられ、やがて消滅していった。私の祖先は明治初期に軍馬買弁のために鹿児島まで行ったらしいので、一連の品種改良にいくらかは加担していたかもしれない。  

 いろいろ調べ始めると止まらなくなるが、次の仕事のためにそろそろ頭を切り替えなければならない。ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 読みあさった本の一部

 鳥獣戯画展で見た高山寺の馬像

 BC4世紀ごろの騎馬俑と秦の銅車馬





『人類と家畜の世界史』 ブライアン・フェイガン著 
 河出書房新社 東郷えりか訳

2015年11月30日月曜日

家畜の歴史

 英単語のなかには、辞書を引くとあまりにも違う意味が並んでいて、面喰らうものがある。その典型例はstockだ。「ストックがある」と言えば在庫という意味だし、ストックマーケットのように株式の意味にもなる。ところが、スープの出汁もストックだし、「アイリッシュ・ストック」ならアイルランドの出身という意味にもなり、ライブストックなら家畜という意味にもなる。言語学的には、いくつもの過程を経てこれだけの意味に変化したのだろうが、この言葉の根底には、富を増やすための種、およびその蓄え、という意味がありそうだと最近になって気づいた。日々、狩猟採集をして暮らしていた人びとが、あるとき農耕と牧畜というかたちで食糧を生産し始め、それによって余剰が生まれ、所有できる富が形成された。かつてはその富は、蹄付きの生きたon the hoofの財産である家畜や、備蓄された穀類や豆類だったのが、いつの間にか株券という紙切れに変わり、やがて電子データになってしまったのだろう。  

 いま必死に校正中のブライアン・フェイガンの家畜の歴史の本では、人間が時代とともに動物を個々の存在としてではなく、肉や乳、毛などの量という数値でしか見なくなった過程が描かれている。英単語のcattle、sheep、swine、fowlなどが通常は単複同形である理由は、じつはこの辺にありそうだ。一頭、一匹ずつ、顔を覚えて育てる存在ではなく、群れで飼い、なるべく短期間に太らせて目方で売り払うような対象だ。鹿、deerは家畜化されたことはないが、moose / elkとともに狩猟対象のgameであり、鹿肉はつねに食用とされてきた。魚、fishも同様に漁の対象で、中世ヨーロッパではcarpの養殖も盛んに行なわれていた。もちろん、食用に育てられてもgoatには複数形があるし、牛や羊や鹿を意味する言葉でも、bull / cow / ox / calf、ram / ewe / lamb、stag / doe / fawn などには複数形がある。だからこんなことを理解しても、テストの点数を取るにはそれぞれの細かい規則を覚えるしかないが、どの単語が使われているかで、話者がその動物を個々の生き物として見ているのか、単に肉や毛の塊として見ているのかがわかるのかもしれない。  

 高校時代にアメリカでお世話になった家の隣には二頭の馬がいて、あるときcoltが生まれたと聞いて見に行った。子馬を表わす別の単語があることを知っただけでも驚きだったのに、それがオスの子馬を指す言葉で、メスならfillyだと言われたときには唖然とした。なぜそんなに多くの言葉が必要なのか当時は理解できなかったが、動物を表わす語彙の豊富さは、暮らしのなかでそれらにはっきりと異なる役割があったからこそなのだ。日本人は明治なるまで、世界でも稀な非畜産民であったため、大半の人にとって家畜は「馬」や「豚」でしかなく、成獣でも雌雄をいちいち気にすることはなく、まして去勢されているかどうかなど、考えもしない。家畜を群れで飼う場合には、手間がかからず、喧嘩をせず、従順であることが何よりも優先される。繁殖用に必要な最低数の種畜以外は、たいてい幼いうちに去勢されてしまう。自然界では捕食者から身を守り、群れのなかの優劣を決めるうえで重要だった角も、囲いのなかでは無用の長物で、ほかの個体にも飼い主にも危険なものとなる。そのため、いまでは品種改良によって角のない品種が生みだされたり、角が生えないように焼ごてで除角されたりする。  

 私が通った小学校の裏にもかなり広い牧場があったし、いま住んでいる近所にも酪農家がある。牛はそれなりに馴染みのある動物だったはずだが、家畜についてあれこれ考えるまでは、あの敷地内にメスしかおらず、乳をだすために牛たちは、どこからか空輸されてきた冷凍精子というオスによってつねに妊娠させられていることなど、考えてもみなかった。子牛のいる時期には外で牛を見ることもあったように思うが、乳牛はたいがいどこでも狭い牛舎に繋がれたまま機械で搾乳されている。イギリスの湖水地方で、放牧された母牛から乳をもらっている子牛を見たときに、何か新鮮で意外な気がした自分が情けない。  

 毎日、乳製品や肉や卵を食べているのに、それらの食品を生産するために犠牲になった多数の生き物について、私は何を知っていたのだろう? 捕らわれ、食され、利用された挙句に、人間の都合に合わせて祖先の野生種とはまるで異なる生き物につくり変えられ、可能な限り効率よく利用されて生涯を終わるのだ。多くの人はペットを溺愛する一方で、自分たちの生命を支えてくれている動物のことは考えようともしない。折しも、中国でクローン肉牛100万頭計画という記事を新聞で見かけた。家畜は工場で生みだされ、工業製品である飼料を与えられて最短時間で肥大させられる、文字どおりの工業製品になるのだろうか。どうも人間は、食糧を生産しだして人口を増やし始め、stockをつくりだしたときから、生物としては道を誤りつづけたような気がしてならない。

 近所の牛舎

 イギリスで見た牛の母子

2015年10月31日土曜日

流鏑馬&乗馬

 春から取り組んでいた人間と動物の関係史、いわば家畜の歴史の本の翻訳を先日ようやく終えた。締切りをだいぶ過ぎてしまったため、この一カ月半はほとんど缶詰状態だったが、馬について気になっていた点のごく一部を調べたので、頭を整理するためにちょっと書いておく。  

 今回、訳したブライアン・フェイガンの本は、人類が野生動物を家畜化した過程を推測しながら、それが人類の歴史をどう変えてきたかを考察するものだった。いろいろ考えさせられることばかりの本だったが、そのなかで遊牧民に悩まされつづけた趙の武霊王(在位前325—前299年)のことが触れられていた。中国は、最初の王朝である商(殷)の時代にステップの騎馬文化が伝わり、その商はステップの民である周王朝によって滅ぼされた。中国の古代王朝が内陸部にあった理由も、青銅器のデザインがユーラシア的である理由も、そう考えると簡単に説明がつく。馬はもともとステップの草原の生物だ。つまり、森林に覆われることがなく、農耕にも人が定住するにも不向きなだだっ広い土地を容易に確保できて初めて、馬の量産は可能になる。中国を支配した遊牧民出身の王朝も、その何千年も前から住み着いていた農耕民を肥沃な土地から追いだして、そこを馬のための牧草地に変えたりはしなかった。そのため、定住に適した中国国内では馬はつねに不足し、辺境の地で開かれる市で、農産物や工芸品などと交換に遊牧民から馬を買わざるをえなかった。こうした市が開けない不作の年がつづくと、遊牧民は穀物倉庫を襲撃した。趙は長城を築いてそのような襲撃に対処した国の一つだが、武霊王は保守的な官僚の抵抗をよそに、遊牧民の効率のよい乗馬服を着てみせ、二輪戦車主体の戦術を抜本的に変え、趙軍の戦力を大幅に改善したという。胡服騎射として知られるものだ。  

 胡服なる服装は、人びとが馬に乗り始めてからすぐにステップで発明された衣服で、「チュニックのような衣服を何枚も重ね着してベルトで絞めたものにズボン」を履き、それをブーツのなかに仕舞い込んだおかげで、乗り手は馬上で体をひねり動き回ることができ、膝で馬の動きをうまく操作することが可能になった。確かに、春秋戦国時代や秦・漢時代の将軍の絵などを見ても、トーガのようなロングスカート状の服に鎧を着込んでいる。これでは馬にまたがれない。チュニックにズボンと聞くといかにも西洋風だが、このズボンは袴(こ)と呼ばれていたらしい。そう、はかまなのだ。大国主命のような古墳時代の服も褌(はかま)と呼ばれ、足には皮履を履いていた。ズボンと革靴がのちに着物と草履に変わったあたりに、その後の日本の歩んだ道が反映されている。  

 ステップの遊牧民は、馬に乗って高速で移動しながら振り向きざまに矢を射ることができた。パルティアンショットと呼ばれるこうした騎射は、5世紀初頭の高句麗の徳興里古墳や舞踏塚古墳などにも描かれている。高松塚古墳とキトラ古墳と似た服装の人物が描かれていることで知られる古墳だ。そうなると日本の流鏑馬はどうなのか、気になるところだ。流鏑馬の起源は9世末ごろと言われる。運よく鎌倉八幡宮で9月に流鏑馬神事があったので、締切りは気になったが、でかけてみた。両側に観客がずらりと並ぶ細長い馬場を、華麗な狩装束をまとった射手たちが馬を襲歩で走らせながら側方に設置された三つの的めがけて射る。境内のなかで全体が見通せないが、間近に見るとかなりの迫力だ。弓は弓道のものより若干、短く軽いようだが、それでもモンゴル兵の弓などにくらべるとずっと長い。馬乗袴に夏鹿毛の行騰(むかばき)という、西部劇でカウボーイが脚につけるチャップスに似たものをつけている。バンビのような白い斑点のある鹿革(これは子鹿というわけでなく、夏毛なのだそうだ!)は日本のものとしては意外な気がしたが、実際にはむしろ江戸時代が特殊だったのかもしれない。足先はよく見えなかったが、物射沓(ものいぐつ)というなめし革に黒漆を塗ったブーツのようなものを履いていたらしい。  

 馬について知りたいと思い、乗馬クラブの試乗キャンペーンにも参加してみた。じつは高校時代にアリゾナのキャンプ地で地元の若者と一時間ほど野山を走り回った経験がある。引き馬以外に乗ったことのなかった私は、落馬するまいとしがみつき、両腿内側に巨大な青あざをつくった。今回の乗馬クラブでは親切なトレーナーから、馬は走ると体が上下するので、歩くとき以外は鐙の上でタイミングよく立ち上がって腰を浮かすのだと教わった。流鏑馬でも射手は同じ位置を保ちながら、脚だけで馬を制御し、次々に矢を番えなければならない。相当な訓練を積まなければできない技だ。ところが鐙そのものがかなり後世の考案物で、4世紀初頭の中国北部の陶馬俑が最古の物証と言われるので、スキタイ人やパルティア人は鐙なしで、膝で馬を締めつけてこの離れ業をやってのけていたことになる。日本に朝鮮半島から馬が渡ってきたのは5世紀ごろで、最初から鐙付きだった可能性がある。馬との関係一つをとっても、狩りや軍事関連に留まらず、驚くほど多くの人類史が見えてくる。じつにおもしろい。

 鶴岡八幡宮 流鏑馬神事

にんじんキャンペーンで試乗させてもらった 乗馬クラブクレイン神奈川

2015年9月30日水曜日

錦の御旗

 あれは錦の御旗が揚がったのだと、安全保障関連法が成立した瞬間に思った。「宮さん、宮さん、御馬の前にひらひらするのは何じゃいな」と歌われた錦の御旗は、慶応4年1月4日(1868年1月28日)、午前8時、征討総督となった仁和寺宮が、薩摩藩本陣が置かれた東寺から鳥羽街道へ進軍を開始したときに最初に掲げられたようだ。「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ、知らないのか、トコトンヤレナ」という品川弥二郎の歌詞からもわかるように、沿道で見守る群衆はもちろん、じつは誰も見たことのない旗だった。  

 それもそのはず、錦の御旗は大政奉還に先立つそのわずか数カ月前、蟄居中の岩倉具視が玉松操という攘夷・討幕を目論む策略家に考案してもらったものだからだ。実物はおろか絵図すらないものを、平安時代から南北朝時代のわずかな記述をもとにつくりあげた。材料の大和錦と紅白緞子は、大久保利通が妾の帯にするという口実で京都の西陣で10月に買い求め、それを品川が長州に運んだ。岡吉春という有識家が平安時代に書かれた「皇旗考」をも参考に、養蚕局に籠って金糸・銀糸を使って刺繍を施させるなどして、一カ月でひそかに幟に仕立てたという。山口市後河原に製作所跡を示す石碑がある。山口市文化政策課のサイトに、これは長さ約4.5m、幅1.35mほどの大きな幟旗で、表に金で日像、裏に銀で月像があり、その上にそれぞれ赤および白セイゴの二つ引きがついており、牡丹に七宝唐草のつなぎ模様があったという明治38年の記事がある。ただし、明治21年に絵師に描かせた「戊辰所用錦旗及軍旗真図」では日月章はそれぞれ別旗だし、神号の書かれた旗もある。司馬遼太郎は「加茂の水」で錦旗は2旒で菊花章入りの紅白旗が10旒あったとしており、結局いまや誰にも実体はわからないようだ。仁和寺が所蔵する錦旗はなんら図像のない金色で、間に合わず仏壇に使われる打敷で代用したのではないかと推測されている。そのせいなのか、明治5年刊行の『近世史略』に「総督仁和寺宮進マントン錦旗前駆ニ翻カヘル賊ノ弾丸或ハ錦旗ニ中ル」と書かれた箇所を、アーネスト・サトウは “the gold brocade standard of the Mikado”と訳している。菊紋は、1869年にようやく太政官布告をもって使用が公式に制限されているので、幕末にはまだ皇室のシンボルとしての認識は薄かった可能性がある。  

 鳥羽・伏見の戦いが勃発する数週間前の慶応3年12月8日、夕方から開かれた朝議で岩倉具視の謹慎処分が解かれた。公卿たちが未明に退廷したあと、待機していた薩摩藩などが御所の門を固めるなかで岩倉が5年ぶりに参内し、玉松操が起草した王政復古の大号令が発せられた。これによって幕府だけでなく、朝廷側の摂政関白も廃止され、太政官代として総裁、議定、参与の三職が置かれた。公武合体を望んでいた孝明天皇は1年前に35歳で急逝しており、「幼冲の天子」はまだ16歳だった。公武合体派の摂政・二条斉敬や、中川宮など21名の殿上人は参内を禁じられた。小御所会議と呼ばれるクーデターだ。担ぎだされた「宮さん」の仁和寺宮は仁和寺の門跡だったが、勅命によって12月に還俗し、新政府の議定に任ぜられていた。いわゆる官軍が目印として筒袖につけていた錦の切れ端を、江戸の人びとは当初、「密カニ之ヲ嘲リ呼テ錦切ト言フ」とばかにしていたが、5月の上野戦争で彰義隊がほぼ全滅するにいたって、「錦切レの威遂ニ都会ニ振フ居ル」と、『近世史略』にはある。前述したように、当初は錦旗に発砲した人もいたわけなので、この幟旗のもつ意味は4カ月たって「錦切れ」とともに、ようやく人びとのあいだに浸透したのだろう。  

 体格のよい若手議員がスクラムを組んで委員長のまわりに防壁をつくり、「議場騒然、聴衆不能」のなかで打ち合わせどおり与党議員だけが起立した瞬間は、傍目には何が起きたかわからなかった。だが、御所の9門が封鎖されたなかで開かれた幕末の小御所会議も、じつは同様だったのではなかろうか。言論の府における暴挙を恥じるどころか、「防衛大学名物の〈棒倒し〉を参考」にした「鉄壁の守備」だとメディアが喧伝したところも、まがい物の錦の御旗の威力を平然と歌った「トコトンヤレ節」と似ている。大久保利通は子孫の活躍ぶりに満足だろうか。強引なやり方で成立させた法律がどれだけの威力をもち、国を変えてゆくのかはまだわからない。いつのまにかみな口を閉ざし、反対派としてデモの先頭に立った人が、かつての旧幕府軍のように朝敵として迫害されたり、革命に付き物の内部粛正に発展したりする事態だけは避けたい。  

 国を二分する争いの発端は、江戸時代には黒船来航に始まる西洋諸国の脅威だったが、いまは隣国の台頭という脅威、つまりは外圧だ。内戦は多くの禍根を残すだけでなく、外国からの干渉も招く。本来ならば国民が心を合わせて、こうした時代の変化に柔軟に対応すべきなのに、なぜか国内の強引な権力闘争にすり替わってしまう。「日本人が議論しないという習慣に縛られて、安んじるべきでない穏便さに安んじ、開くべき口を開かず、議論すべきことを議論しないことに驚くのみである」と、福沢諭吉が『文明論之概略』(斎藤孝訳、ちくま文庫)で述べている状態は、1世紀半を経ても変わらない。なんとも権威に弱い国民だ。国の進路が変わる重大な争点も、他人事のようにやり過ごして保身に努める大半の人を見ると、人の中身はすぐには変わらないことを痛感する。

錦の御旗:「戊辰所用錦旗及軍旗真図」国立公文書館デジタルアーカイブ

 旧500円札には岩倉具視が描かれていた

「加茂の水」は本書のなかの一篇