勝海舟の伯父さんなど、私の興味の対象でなかったのが大きな原因だが、つい最近読んだ『将軍慶喜を叱った男 堀直虎』(江宮隆之著、祥伝社)から、この人の婿養子である男谷信友が、幕末の三大道場を開いていた斎藤弥九郎、桃井春蔵、千葉周作のさらに上をゆく人物で、竹刀試合を奨励した直心影流を名乗る「剣聖」であったことを知り、調べ直して誤記を発見したのだ。信州の須坂藩主となる堀直虎は、この信友の道場に通ったという。信友は生まれが1798年なので、1823年生まれの勝海舟とは世代がずれているが、系図上では従兄弟、血縁でも又従兄弟の間柄らしい。
勝海舟は墨田区の木母寺で剣の修行に励んだという記述をどこかで読んだ記憶がある程度で、あまり剣士のイメージはなかったが、信友の弟子のもとで学んだようだ。こうした道場は私塾と同様、藩などの垣根を超えて若者を結びつけていたので、勝の幅広い人脈には剣術の世界も一役買ったかもしれないとふと思った。調査の過程で陰惨なテロ事件について知ったのち、何が人をテロに駆り立てるのかに興味をもち、水戸や薩摩だけでなく、浪士関連の書物をいくつか読んだ。千葉周作に学び、清川八郎の虎尾の会にもいた山岡鉄舟と、やはりその会のメンバーでヒュースケン暗殺犯の一人である薩摩の益満休之助を勝が再会させ、それが江戸城無血開城を実現させたといくつかの本に書かれていた。実際に勝がそうした離れ業をやってのけたのだとしたら、剣術の世界での彼の地位のようなものが役立ったのかもしれない。勝の妹で、佐久間象山の妻だった順子が、象山が暗殺されたのちに、虎尾の会メンバーだった村上俊五郎と再婚というかなり不可解な行動を取ったことも、こういう背景を考えればわからなくもない。もっとも、剣の達人で知られた山岡鉄舟は、一度も人を斬ったことはなかったと言われる。彼の知行地であった埼玉県小川町には、小川和紙を売っているその名も門倉商店という店があり、そこを訪ねがてら鉄舟が好んだという「忠七めし」を姪たちと食べたことがある。
堀直虎のこの小説には、直虎の親友だった土佐新田藩の山内豊福についても詳しく書かれていた。幕府と本藩の板挟みとなって豊福と妻が自害し、あとに娘二人が残されたことは知っていたが、この本を読んでその経緯がよくわかった。堀直虎も「慶喜を叱った」あと、江戸城内で自害した人であり、その妻は上田の松平忠固の娘の俊子だった。後年、俊子の弟の忠礼がアメリカから帰国後に先妻と別れて、再婚した相手が、山内豊福の遺児の豊子だった。山内家と縁組した理由がようやく理解できた気がする。ただし直虎に関しては、以前に『維新の信州人』で読んだ青木孝寿氏の短い論考のほうが、小説仕立てでない分、私には参考になった。どちらにも、須坂藩の丸山という家老が登場し、佐久間象山に馬を手配した人が確か「須坂の丸山という人」だったなあ、などと思いだす。
『庶民のアルバム 明治・大正・昭和「わが家のこの一枚」総集編』に掲載されていた山内豊子
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