2021年4月6日火曜日

平山謙二郎と岩瀬忠震

 2週間ほど前、図書館に行く機会があったので、館内閲覧しかできない史料の調べものをしてきた。英照皇太后に関する記事を書いた際に、九条関白の女癖について橋本左内が噂話をした相手が、平山謙二郎であったことにいまさらながら気づき、左内側の史料に何か残されていないか気になっていたのだ。平山謙二郎(敬忠・省斎)という人は、驚くほどあちこちの重要な場面に顔をだしているのに、その平凡な名前のせいかどうも見落とされがちだ。

 『平山省斎と明治の神道』(鎌田東二著、春秋社)と、『平山省斎と岩瀬忠震:開国初期の海外事情探索者たち(Ⅱ)』(陶徳民編著、関西学院大学出版部)という、平山に関して見つかる限りの本は少し前に図書館から借りていた。だが、前者は題名からもわかるように、明治以降の彼の後半生に焦点があるため、日米和親条約条文に関連した平山の驚くべき活躍に関しては、「この時、命を受け、鵜殿長鋭に随行し、ペリー一行の応接を担当した」とあるだけだった。  

 後者も力点は海外事情の探索にあり、ペリー関連ではウィリアムズと羅森という、アメリカ側の中国語通訳との文明論のようなやりとりのみが言及され、イェール大学のS・W・ウィリアムズ文書に残る史料や、羅森から贈呈された扇の画像などが掲載されているだけだった。資料集であるこの本には、平山の墓表の拓本と翻刻、和訳が掲載されており、ペリー関連では、「嘉永四年辛亥、徒目付に擢[ぬきん]でらる。六年、癸丑五月、米利堅国使節彼理[ペリー]浦賀港に入り、物情騒然たり。先生命を受け、房総相武沿海の地形を巡視す。安政元年甲寅春、米使再び金川港に到り、二年又下田港に来る。先生往いて応接の事に参ず。又目付堀利煕等と蝦夷を巡視し、樺太島を窮め、遂に東北沿海を巡って帰る」(和訳)とのみ記されていた。平山の縁故者も、彼を研究したわずかな歴史家たちも、日米和親条約で彼がはたした役割にはなぜか気づいていなかったようだ。  

 平山と岩瀬をペアで取りあげた理由として、関西学院大学教授の著者は自序に、二人の関係は「一般的な上司と部下の関係をはるかに超えた同志間の信頼関係がありました。その端的な証拠として、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動を展開する際、岩瀬は情報伝達と意思疎通のために度々秘密裏に平山を福井藩主松平春嶽のブレーン橋本左内のもとに遣わしたのでありました」と、書いている。平山は確かに岩瀬よりはるかに経験豊富であり、従者というよりは、むしろ参謀だったのだろう。  

 岩瀬は近年、開国の立役者として高く評価され、とりわけ横浜開港主唱者などと言われているが、拙著『埋もれた歴史』で指摘したように、横浜開港を主張したとされる岩瀬の上書は、当時まだ寒村にすぎなかった横浜と神奈川宿の関係を把握しないままに書かれたとしか思えない。一方、平山であれば、ペリー来航時に実際に横浜にいたわけであり、横浜警備に駆りだされた松代藩の軍議役だった佐久間象山が、下田に代わる開港地として横浜を推してもらえるよう、旧知の水戸藩参謀である藤田東湖に働きかけていたことを知っていた可能性すらある。彼の上司であった目付の鵜殿長鋭は、ペリー来航時に水戸の徳川斉昭に閣老や応接掛のあいだの情報を漏らしていたと思われるからだ。 

『昨夢紀事』から、安政5(1858)年5月25日の夕べに「平山謙二郎、左内か許へ来りて関白殿、兼ねて好色の癖座しに」と話したことはわかっていたので、『橋本景岳全集』からその時期の文書を探すと、5月24日付の岩瀬から左内宛の書簡(501)があった。ただし、書簡そのものは「姦党」と岩瀬が自虐的に呼ぶ一橋派の左遷に関することなど、ごく短い文面しかない。重要な内容は、平山謙二郎が口頭で伝えた、と解釈するしかない。

 だが、その前後を見てみると、「某公より京都某公(鷹司太閤ならん)への書翰案」(467)が「安政五年四・五月頃」として掲載されていた。発信者の某公は、左内の主君である松平慶永なのだろうか。この書翰案は、私が『昨夢紀事』で見つけた一文と合致すると思われる、かなり唖然とする内容だった。 

「関白殿下の義は、恐れ乍ら色々風説もこれ有り候」と始まり、関白九条尚忠に関するあらゆる悪い噂が並べられ、賄賂の件を「高貴の御人には御不似合の最上」と断罪し、その説を裏付けするかのように、こう書く。「閨幃中の義は、外人の知るべくにも御座無く候えども、六十有余の御年には似合わず、十六、七の艶妾御幸御の趣、其上○○に於いても嬪娥を御褺*し成され候抔、醜声申す者もこれ有り候よし承り申し候」(*なべぶたがつく)。政府高官の下ネタを探して、何としても辞任に追い込もうとする週刊誌の記者のような文章だが、「先生[左内]の手書、前編者はこの書を三月中としているが、四月以後のものであらう」と編者の注がある。開国派のはずの彼らが、幕府のために開国に協力してきた関白を失脚させようと目論んでいたわけだ。  

 英照皇太后の記事で先述したように、『昨夢紀事』には「御女なる女御の御方へ御入の折柄、其れか女房の内と猥りかはしき御事ありしか」とあった。左内が書いた某公宛の書翰案が、尚忠の娘の夙子が入内した10年前の話をしているのか、生母について言及しているのか、それとも、九条家にどんどん男子が生まれている現状について話しているのかは不明だ。しかし、安政5年には50歳近くの菅山についての噂でなかったことだけは、確かに言えそうだ。 

『平山省斎と岩瀬忠震』には、墨田区の白髭神社で私も見たことのある岩瀬鷗所君之墓碑に関する資料も掲載されていた。墓碑と言ってもこの神社に岩瀬のお墓があるわけではないので、顕彰碑と言うべきものだ。  

 どちらも上部は横書きの篆書体で大書され、その下にびっしりと漢文の碑文が彫られている。明治になってこのタイプの石碑が急に増えた背景には、新しい加工技術の導入があるのだろうか。拓本というのは、魚拓のようなものだろうとずっと思い込んでいたが、画仙紙を水で濡らして碑文の細かい溝のなかまで密着させ、綿を布で包んだタンポに墨を万遍なく含ませ、ステンシルのように上から何度も薄く叩くことを、今回初めて知った。だからこそ、拓本は鏡文字にならず、彫った文字が白くなっていたのだ! 

 碑文そのものはすでに風化してとても読めなかったので、この資料を見て、ようやく内容がわかった。全文を読んだわけではないが、次の箇所が目に留まった。「癸卯及第為教授。阿部閣老薦其才。擢徒頭」。巻末に岩瀬の略年譜がついていたので参照すると、嘉永3年1月に甲府へ出張した際に、阿部政弘より時服(衣服)を拝領していた。同7年6月、異国船渡来の際はいつでも応接に出張できるように阿部から申し渡され、11月には巻物5本を拝領。安政2年1月、日露和親条約修正交渉のために下田への出張命令が阿部より下る、などとも書かれている。  

 しかし、この略年譜にはまた、嘉永4年3月、甲府の徽典館学頭としての功績が認められ、松平伊賀守、つまり松平忠固より白銀15枚を拝領、4月に昌平黌教授となる、とも書かれている。岩瀬は同6年10月に徒頭となり、12月には教授として優秀であったため、松平伊賀守より巻物3本を拝領した。嘉永6年は癸卯ではなく癸丑だ。撰文した永井尚志は、岩瀬の経歴をよく見直さなかったらしい。さらに安政2年5月、御台場普請などの功績により松平伊賀守より重などを拝領ともある。忠固からもかなりの回数で褒美をもらい、引き立ててもらったにもかかわらず、岩瀬がのちに忠固を失脚させようと執拗に画策したことは、岩瀬忠震の記事で書いたとおりだ。  

 岩瀬は安政3年10月に、従五位下伊賀守となり、同月、伊達宗城に海外渡航の夢を語っている。翌4年10月21日、肥後守となる。老中と同一の名乗りは禁止されていたそうで、忠固が老中に再任されたのはこの年の9月13日のことだった。官名を名乗るようになって1年で名前を変えなければならなかったのは、自信家の岩瀬にとってはおもしろくない経験だったに違いない。  

 安政4(1857)年に忠固が老中再任後は、同僚である久世広周や内藤信親が岩瀬に褒賞を与えているが、忠固からの褒美は少なくとも略歴にはない。忠固にしてみれば、このころには飼い犬に噛まれた気分だったかもしれない。森山栄之助の記事で書いたように、平山謙二郎はペリー来航時に、水戸の斉昭の意向を無視して条約締結を推し進めた忠固に少なからず疑問をもっていた。岩瀬は平山からも何かと吹き込まれていたに違いない。

 関連しそうなパズルのピースが少しばかり見つかった程度で、全体像はまだまだ見えてこないが、平山謙二郎が幕末史にはたした役割はもっと調べるに値すると思う。

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