2022年2月1日火曜日

日本最初の時計台

 昨年末から、忘れないうちに書いておきたいと思いつつ、仕事が終わらず、書きかけになっていたことがある。今月下旬に、河出書房新社から刊行される『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』(デイヴィッド・ルーニー著)の訳者あとがきを書いた際に、ブログの「ブリジェンス設計の町会所」で書いたことを念のためにと思って調べ直したら、次々に疑問が湧いてきたのだ。  

 昨年、日本最古の時計台が札幌市か豊岡市出石町のものかで競われ、結局わずか27日差で札幌に軍配が上がったというニュースが流れていた。どちらも1881(明治14)年のことだった。しかし、現存する時計台としては最古だとしても、札幌の時計台が日本で最初の時計台だったわけではない。  

 では、本邦初の時計台はどこに建てられたのか。初期の時計台について書いているほぼすべての情報源は、近衛兵第1、第2歩兵竹橋陣営の時計台を、明治4年竣工の第一号時計台としている。その根拠としているのが、平野光雄氏が1958年に書いた『明治・東京時計塔記』の次のような記述だった。 

「近衛歩兵隊営所の大時計は、明治年間、東京において建設された時計塔中、もっとも古く、またその生命も一等長かったものである」 
「営所正門を入り、ただちに眼前に横たわる明治四年に竣工した兵舎[……]の屋上中央に、巨大な円筒型の洋風時計塔が屹立していた」
 「時計塔機器は、明治四年に据えつけられたもののごとく、あるとき徒弟を鐘塔に上らせてみると、直径一尺六寸ほどの鐘の下部円周に刻まれた一連の欧文中に、一八七一年の年号が入っていたそうである」

 しかし、竹橋陣営の竣工年を明治7年とする資料もかなり見受けられる。実際はどうだったのか。少し調べてみると、この建物を設計したウォートルスこと、トマス・J・ウォーターズに関する丸山雅子氏の研究が『ファインスチール』という日本鉄鋼連盟の定期刊行物に掲載されていた(2017年春号・夏号)。そこに、竹橋陣営の「建設に必要になった大量の煉瓦は、ウォートルスの指導の下、東京の小菅で焼かれた」と書かれていたのだ。ウォートルスがそれ以前に設計し、明治4年に竣工した辰の口の分析所の煉瓦はおそらく上海から運ばれてきたことも、丸山氏の論考に書かれていた。竹橋陣営は規模が大きいので、輸入に頼るわけにはいかなかったのだろう。

 ところが、いまの東京拘置所がある場所に建てられていたという、その小菅のレンガ製造に関する葛飾区の公式ページを覗いてみると、この工場は明治5年2月末の銀座大火を受けて銀座を煉瓦街に改造するために建設されたものだという。工場ができたからと言って、すぐに順調にレンガが生産されるわけでもないし、竹橋陣営の規模からすれば、明治7 (1874) 年竣工説のほうが正しそうだ。こちらは『近衛歩兵第一聯隊歴史』に明治7年2月10日に連隊が竹橋陣営に移転した旨が書かれていた(国会図書館デジタルコレクション)。ただし、時計台に関する言及はない。  

 ブリジェンス設計の町会所は明治7年4月竣工で、見つけた限りで最も古い記録は、『横浜沿革誌』(太田久好著、1892年)だった。明治7年4月の項の3番目に「同月、町会所(当時市会所)時計台竣功[ママ]し、鐘及機械装置鐘声を試験す」とあるので、4月上旬と推測できるかもしれない(デジコレ有り)。当時は、アルフレッド・ジェラールも横浜でレンガの製造を始める前で、以前にも書いたように、ブリジェンスは町会所も木骨石張りで設計したようだ。日本橋の駅逓寮庁舎に時計が設置されたのが同年4月30日なので、町会所のほうが数日前に竣工したと考えられるだろう。あいにく横浜開港資料館がまとめた『横浜町会所日記 横浜町名主小野兵助の記録』も明治3年1月から4年12月までの期間しかなく、開港資料館で当時の新聞もざっと探してみたが、この時期の史料は驚くほど少ない。ある意味でいちばんの変動期、混乱期だったのかもしれない。  

 早期に建てられた時計台として、平野氏が挙げていた横浜高島町遊郭、岩亀楼のものは、前述したように明治6年ではなく、8年ごろの可能性が高い。突如として改暦になり、定時法になったのが、明治6年1月1日なのだ。この時計台は町会所のものとデザインもそっくりで、町会所のものを真似た、もしくはブリジェンスが頼まれて似たデザインで設計した、と考えるべきではないだろうか。平野氏は『時計亦楽』に、古いヨーロッパ製置時計のような形の町会所の鐘塔は明治期には珍しく、のちに陸軍士官学校や第一高等学校でこれに似た時計台がつくられたと書いている。  

 もう一つ早期に建てられたものとして、工部大学校の時計というのがある。この建物に関しては泉田英雄氏がたいへん詳しく研究しておられるのだが、時計台そのものに関する記述はわずかで、泉田氏の他の論文を含め、いくつかの論考やウィキペディアの工部大学校の項を突き合わせてみると、どうも細部に食い違いがあるような気がしてならない。泉田氏のウェブサイトによれば、時計台のある建物は当初、小学校校舎と呼ばれ、「1872[明治4]年暮れにほぼ完成」していたはずで、「時計塔は当初から設計にあったが、グラスゴーから送られてきた時計が破損していたため、あらためて注文し直し、取り付けが半年遅れた」という。そうだとすれば、1873[明治5]年中にはこの時計台が存在していたことになる。  

 だが、時計台のある小学校の建物は手狭過ぎてのちに博物館に転用されており、泉田氏の別の論文「工部大学校創設再考」によれば、工部省工学寮工学校(のちに工部大学校と改称)の校長となったヘンリー・ダイアーが日本に到着した時期には、この「建物の煉瓦壁が数フィートの高さまでしか立ち上がっておらず、翌年3月の完成までの間、近隣の屋敷で授業しなければならなかった」はずなのだ。ダイアーは1873年4月にイギリスのサウサンプトンを出港しており、8月に授業を始めている。「翌年3月」は明治7年3月であり、仮に時計の取り付けが半年遅れていれば、ウィキペディアが典拠を示さずに書くように、「1875年になって取り付けられた」可能性すらでてくる。平野氏は、この時計台の建物に使われたレンガがイギリス製で、明治6年12月に竣工という『明治工業史』建築篇の説を引用しているが、竣工時期にどんなものだろうか。  

 つまり、ごちゃごちゃと書いたが、本邦初の時計台は、明治7年2月10日(竹橋陣営)、3月(工部大学校)、4月(町会所、駅逓寮庁舎)と非常に接近した時期に完成した可能性がある、ということだ。「時計台」と呼ばれたブリジェンスの横浜の町会所は、少なくとも日本で最初の時計台の地位を争う有力候補だったのである。

横浜開港資料館で売っている絵葉書。雪の日の町会所。撮影は日下部金兵衛のはずだが、その旨の記載はない。風見鶏が切れているのが残念

平野光男著、『明治・東京時計塔記』(1959)と『時計亦楽』(1976)ともに青蛙房

『横濱史料 開港70年記念』横浜市役所、1928年刊、高島町遊郭岩亀楼、
キャプションには明治5年と入っている

町会所の跡地に立つ横浜開港記念会館(ジャックの塔)
何か史料があるかと思って、一応訪ねてみたら、2024年3月31日まで改修工事で休館中だった。2021年12月撮影。

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