2026年5月21日木曜日

『上田郷友会月報』

 先月から、校正に次ぐ校正で、なかなか自分のペースで仕事ができない。数日ばかり本来の翻訳作業に戻ったのを機に、原稿やレジュメ、企画書などに着手する傍ら、久々にグーグルで祖先探しにつながる新しい情報がないか検索したところ、珍しく曽祖父門倉安栗の名前で2件ヒットした。よく見るとどちらも同じネットオークション関係で、曽祖父の訃報記事が掲載された大正7年の『上田郷友会月報』の古本が売りにだされていた。出品者がその号の主要項目を書きだしてくれていたおかげで、検索エンジンに引っかかったようだ。

 記事そのものは何年も前に上田市立上田図書館で閲覧した際に見つけており、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも触れているが、現物の雑誌はもっていなかった。それどころか、これまでたびたび活用させてもらったこの雑誌を一冊も所有してなかったので、ゴミを増やすことになるかと迷いつつ入札し、めでたく落札した。せっかくの機会なので、すでにゲラ刷りも届いてしまったが、この数カ月間、見つけてはデスクトップのフォルダーに放り込んでいたいくつかの情報とともに、忘れないうちにまとめておく。 

 明治18年創刊の『上田郷友会月報』は現在もつづく長寿雑誌で、実質的には明治20年創刊の『中央公論』を超える雑誌と思うが、これまで広く公開されていなかったせいか、昭和23年6月から平成8年2月まで『郷友信濃』と名前が変わったせいか、世間の認知度は低い。現在は国会図書館デジタルコレクションで平成23年分まで読むことができ、このサイトにリンクがまとめられている。 

 郷友会の活動はよく知らないし、この雑誌の歴史もざっと読んだ限りだが、もともと上田藩の藩医の子どもなど、医学関係者が発起人となって始まった会とのことで、創設者の一人とされる山極勝三郎は世界で初めてがんを人工的に生成して原因究明に寄与し、日本人でノーベル賞候補となった最初の人だ。多分に政治絡みで受賞できなかったものの、著名な医学博士である。

 勝三郎氏に私の祖父がお世話になったことは親戚から聞いていたが、曽祖父のこの訃報記事を読んで初めて、曽祖父安栗が「十四、五歳の頃、医師山極吉哉氏(山極博士の養父)の書生として厄介になったのであるが当時は中々の腕白ものであった」ことがわかった。しかも、上田藩の藩医だった養父の「山極氏の意見で獣の医者よりは人間の医者の方がよかろうと云ふ説に伝次郎氏の未亡人も同意されたので、山極氏の薬局生となって始めて医者のいろはの手解きをして貰い傍ら、本郷の済生学舎へ通うて前期試験には山極氏の宅に居る頃に及第したのである」とも書かれていた。祖先は数百年にわたって馬役を務めてきたが、このとき馬との暮らしと決別したことになる。 

 曽祖父が日本医科大の前身となった済生学舎出身であることは叔母たちから聞いていたが、いつ医師免許を取得したのかは長らくわからなかった。当時はデジコレもなかの文字の検索機能がなかったため、何年分もの官報のケシ粒のような文字をひたすら追ってみたが諦めた経緯がある。この訃報記事に明治32年に医師になったと書かれていたので、格段に便利になったデジコレで検索すると、明治33年(1900)1月26日の官報の「医籍登録者」のリストに名前がすぐに見つかった。 
 
 山極吉哉が、私の高祖父の死後まもない明治22年の月報に「故門倉伝次郎先生小伝」と題した記事を寄稿してもいたことも、最近になってデジコレから判明した。高祖父は明治21年10月に没している。しかもそこには「門人 山極吉哉謹辞」と書かれていた。藩医であった吉哉氏に、馬役から馬医になっていた伝次郎が何を教えたのか思いつかないが、親しい間柄であったことは想像がついた。だからこそ、伝次郎の遺児が医者として独り立ちするまで面倒を見てくれたのだろう。 

 明治43年になって再度、伝次郎の略伝が月報に掲載されたが、その情報源の多くは吉哉氏のこの記事だった。吉哉氏の記事で新たな情報としてすぐに目に留まったのは、安政6年9月に藩主であった松平忠固が亡くなった際に「御遺物トシテ御紋付上下拝領」となっていたことと、横浜にいたイギリス公使館付き騎馬護衛隊隊長のアプリンに西洋馬術を習い始めたのが元治元年10月と明確に年月がわかったことなどだった。 

 今回私が入手した曽祖父安栗の訃報記事を書いてくれた「無濁生」が、郷友会の創設時から多年にわたって幹事を務めた宮下釚太郎であったことものちに判明した。この追悼文には、高祖父の伝次郎が幕臣とトラブルになって追われ、「桜田門内に駆け付け役屋敷(老中邸)を三匝して塀を乗り超えて邸内にはいられたと云う」というエピソードが紹介されていた。だが、さほど広くもない西の丸下の上屋敷に高祖父がいた可能性は少ないと思ったため、図書館で読んだときは半信半疑だった。少し前のコウモリ通信に書いたように、『象山全集』の頭注から佐久間象山が松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、象山の甥から「松平伊賀守様 御上屋敷」の上田藩の弟子である伝次郎と桜井純蔵宛に、中山道に向かう途中の白山付近でひそかに会えればという内容の手紙が送られてきたことが判明したため、上屋敷のこの一件もまんざら嘘でもないかもしれないと思い直した。西の丸下からであれば、銀座の木挽町の象山塾まで通うのは訳なかっただろう。 

 宮下釚太郎はじつに多くの記事を書いているが、昭和3年の月報にも「名馬高砂に就て」というエッセイを寄稿している。当時、松平家の家令を務めていた宮下は、谷中の天王寺にあった松平家の墓地に行った帰りに立ち寄った古本屋で、『天下古今文苑奇観』に塩谷宕院の「記名馬今高砂」が収録されているのを見つけ、それが松平忠固の栗毛の愛馬のことだとわかったため、帝国図書館(いまの国会図書館)でその書を借りて読んでみた、という内容だ。 

 引用の原文は漢文で、「今高砂者奥之鍛澤所産也、其色栗毛、筋骨剛脛、眼清気深、胸下有施毛」と始まり、宮城県鍛沢産の栗毛の名馬を「嘉永三年、上田侯獲之」、つまり松平忠固が獲得したとする。「昔吾自姫路来先君賜良馬名高砂者」とつづき、姫路藩から養子にきた際に、当時の上田藩主松平忠学が高砂という良馬を与えてくれたようだ。「今此馬其流亜也、宜呼為今高砂、愛撫弗惜、出必従之」とあるので、おそらく新しい馬も仙台馬で似ているため、今高砂と呼ぶことにし、大切に飼いいつもこれに騎乗していたという。この今高砂もすでに老齢になりと書かれたあと、「如禄官吏乞骸骨者然、御藩士門倉信敏、介石野恒卿、請余為之記」とつづく。 

 古文は仮名交じり文でもなかなか読めないが、漢文となるとかなりお手上げ状態で、グーグル翻訳で中国語→日本語で変換してもよくはわからない。ただし、ここに名前の出てくる門倉信敏が高祖父伝次郎(諱が信敏)であることは間違いない。塩谷宕院(1809〜1867年)は遠江掛川藩に仕え、のちに昌平黌の教授となった儒学者とのことなので、石野恒卿を介して、伝次郎がこの馬について何か書いてくれと頼んだ、と推測してみた。うんと暇になったら、後半部分も頑張って読んでみるつもりだ。

 少なくともこの史料から、忠固は文政12年(1829)に養子入りした当初から仙台馬に乗っていて、最初の老中時代で西の丸下の上屋敷にいた嘉永3年時には新しい仙台馬を愛用していたことはわかり、伝次郎はその面倒を見る役目もあって上屋敷にいたとすれば、一応辻褄は合う。宮下釚太郎が借りたと思われる『天下古今文苑奇観』(2巻、明治12年)も、いまではデジコレで簡単に読める。便利な世の中になったものだ。この文章そのものは塩谷宕院が没する慶応3年以前に書かれたはずで、明治3年刊の『宕陰存稿』にも収録されていた。上田藩以外の古い文献に伝次郎(信敏)の名前が翻刻されていたのは、私としては画期的なことだった。 

 明治以降の伝次郎の経歴については、明治初期のものは動乱期のため史料が乏しく、私の知識がそれに輪をかけて乏しいため、長らく調べあぐねていた。だが、デジコレが進化したことと郷友会月報が公開されたおかげで、新たにいくつかのことがわかった。明治3年に伝次郎が「馬術局教頭」に任命されたなどと吉哉氏が書いているのは、明治維新後の上田藩内の組織改革に伴う組織のことで、曽祖父が生まれた翌年まで、一家は少なくとも上田に留まっていたようだ。明治5年9月に「軍医寮八等出仕拝命」、同6年3月に「允請軍医寮九等出仕拝命」、同7年1月「陸軍馬医副ニ任ス。同年三月横浜在勤被申付」とつづくので、明治5年以降は明治政府に出仕するようになったと考えられ、実際、官報などにも多少の記録が見つかる。明治8年6月には「叙従七位」ともあった。明治10年12月には、すでに57歳と当時にしては高齢だったのに、西南戦争に駆りだされた。その後も再び鹿児島へ「軍馬買弁」のために送られたりしていたため、鹿児島の馬関連でも多少の記録が残っている。  

 月報が『郷友信濃』と名称を変えていた時期の昭和35年の号には、これまた驚くべきことが書かれていた。時代もかなり経ているので、信憑性はかなり低そうだが、こう記されている。「明治天皇は乗馬が御好で馬をいたはられた。前に申上げた身長六尺余、体重三十貫の御身であるので馬に重みのかからぬ様かがみ腰でのられている天皇に、馬術の教官は馬政局長官、上田藩の門倉伝次郎先生である」。馬政局が設けられたのは伝次郎の死後の明治39(1906)年なので、長官云々は間違っているし、明治天皇も身長も167cm、体重92kg程度と考えられているので、やや大袈裟である。  

 明治天皇は、東京奠都後まもない明治5年(1872)に西洋式の出たちと馬具の騎乗姿を内田九一が撮った写真が残っている。幕末までは御所から外に出ることもままならなかったはずなので、多少の乗馬の心得はあったとしても、本格的に馬術を始めたのは東京に移ってからと思われる。『日本馬術史』(1941 年)等を参考にすると、明治天皇は西洋馬術を日本騎兵の開祖とされる大高坂正元(1850〜1924年)から学んだと言われているようだ。大高坂は土佐藩が明治初年に招聘したフランス人アントワンに西洋馬術を学んだ人らしく、明治4年に土佐藩からの御親兵のうち騎兵を率いたという。明治5年に明治天皇の馬術御指南役として宮内省出仕、6年、少尉に進み近衛騎兵隊付になるが、武技御教育をつづける等々が、ネット情報としてわかった。その後、明治10年にやはり西南戦争に行っている。明治天皇と年齢も近い現役将校なので、大高坂が実際の教官であった可能性は高い。

 もっとも、伝次郎が明治政府に出仕することになったのは、代々馬役の家で、嘉永4年に象山塾に入門して、そこである程度の西洋馬術を学び、その後、元治元年から少なくとも1年以上は横浜でアプリンから実際に訓練を受け、馬医としても活動していた経歴ゆえだろう。明治政府に出仕してまもなく叙位されたのも、明治天皇の西洋馬術と何かしら関係があるかもしれない。高祖父の戒名に「従七位」の文字が入っていたことは、最近になって一枚の古い写真から判明していた。となると、唐沢勇という人が昭和35年になって『郷友信濃』に書いた記事にも、何かしらの真実は含まれていたのかもしれない。  

 この記事は、伝次郎が「幕末東京愛宕山の石段を上り下りをして日本一の額を掲げられた人である」という、宮下釚太郎が曽祖父への追悼文に書いていたエピソードにも触れていた。上田の図書館でこの件を読んだあと、4年前に現場にも行ってみたが、女坂ならともかく、男坂はめまいがするような急坂で、この階段を馬で駆け上がったら、いまなら動物虐待と非難されること間違いなしの場所だった。神社でも「将軍梅」や「〈出世の石段〉のいわれ」も見ていたが、写真も古いPCに入れっぱなしで忘れかけていたが、本年1月に毎日新聞で講談「寛永三馬術の出世の春駒」の記事を読んだことで、この逸話を思いだした。寛永11年(1864)1月28日に将軍家光がお供の者たちに、愛宕山の急な石段を馬で駆け上がって梅の一枝を手折ってくるよう命じたところ、四国丸亀藩の曲垣平九郎が「馬を信じ、馬の気持ちを思いやりながら見事成功させ」たという内容だ。ついでにテリー・ベネットの写真集で、フェリーチェ・ベアトが1867年に撮影した愛宕神社の階段写真も見つけていた。  

 講談で長く語り継がれた話を真に受けて、高祖父がこの急階段に挑戦したのかどうかわからないが、宮下釚太郎が大正年に伝次郎の息子の訃報記事を書いたころまでは、少なくとも上田でそう語り継がれていたのだろう。愛宕山は、桜田門外の変の決起前の集合場所とも言われる。「愛宕山に参って、松坂下りて〜」という遊び歌を母が子どものころに歌って聞かせたのは誰だったのだろう。気になるところだ。

 今回入手した『上田郷友会月報』第385号 
 大正7年11月25日発行

宕陰存稿』に収録された「記名馬今高砂」 
 画像は国会図書館デジタルコレクションより

 愛宕神社 2022年2月撮影

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