2010年10月31日日曜日

秋のお祭り

 今年も、我孫子で開かれたジャパン・バード・フェスティバルに参加してきた。鳥を見るのは好きだけれど、どちらかと言うと、バードウォッチャーの保護者兼図鑑・スコープ持ちとして、鳥見に参加することの多かった私は、鳥好きの娘が渡英してしまったこの秋のお祭りはいったいどうしようかと、実はひそかに悩んでいた。たとえて言うならば、子供が卒業したあとも、部活の試合にお母さんが顔をだすようなもので、なんとも恰好が悪いのだ。それでも、例年お世話になっているワイバードと「こまたん」がまた早々に誘ってくださったので、意を決して「お母さん」だけ参加することにした。  

 このところ多忙だったため、今年はほとんど新商品がない。昨年つくった鳥のお手玉と小物入れの「きびだんご」シリーズに、スズメとエトピリカが加わったくらいだ。娘がデザインするこの鳥の正面顔のお手玉は、点のような小さい目と、おなかに張りついた無防備な足と、背中のリアルな羽の模様が特徴で、いわゆるかわいいキャラクターとはほど遠い代物だ。それでも、甥っ子が幼かったころを思いださせるこのお手玉の鳥は、見るたびに表情を変えるようで、目が合うと「遊んでくれ~」と言っているように思えてならない。  

 ぎびだんごの原型は、おそらく娘が幼いころよくつくってやったスウェーデンのウォルドルフ人形にあるのだろう。人形の目は、子供のそのときどきの心情を映せるように、できる限り小さく刺繍するという考え方に私は大きな共感を覚えた。ダ・ヴィンチがモナリザの絵で使ったスフマートの手法にもどこか似ている。  

 いちばん新しくつくったエトピリカは、赤く吊り上ったアイリングのなかに小さな黄色い目があって、ムーミンのヘムレンさんのような白髪が後ろになびいており、一見、意地悪な魔法使いにも見える。それならいっそのこと、カボチャと一緒にハロウィーンの飾りにでもしようと並べてみたところ、さすがはバードフェスティバル。こんな鳥が意外に人気で、小学校低学年と思われる子でも、一目見るなり、「あっ、エトピリカ!」と触っているほどだった。  

 お手玉のかたちをそのまま拡大してつくったリュックサックが、今年は二つとも売れたのもうれしかった。そう言えば、昨年の第一作のメジロ・リュックを買ってくださった方は、「大事にします」と、まるで子犬や子猫をもらうみたいに言ってくださった。いまごろ、あのメジ君はどうしているだろうか。いつか、歩き始めたばかりの子が、このリュックにトレーニングパンツとぬいぐるみを入れて、よちよち歩いているところを見てみたい。  

 売上げそのものはさほど芳しくなかったが、娘があちこちでお世話になった方たちが大勢ブースに立ち寄って声をかけてくださったので、日ごろ家で一人パソコンに向かっている私には、それが何よりも楽しかった。自然のなかで鳥を見るのが好き、ということだけでつながっているバードウォッチャーの世界は、もともと多様な人が適度な距離を置きながらゆるりと結びついていて、新しい仲間を自然に受け入れてくれる。とかく排他的になりがちな共同体主義と、アイデンティティの問題に関する本をいま訳していることもあって、バードウォッチャーの世界の居心地よさを実感した2日間だった。  

 11月7日の大磯の宿場祭りでは、また「あおばとや」にお世話になる予定だ。アオバトはついに大磯町の町の鳥に昇格したらしく、今年は大いに盛り上がりそうだ。

2010年9月30日木曜日

独り暮らし

 人生初めての独り暮らしが始まり、今回のコウモリ通信ではその心境をしみじみと綴ろうかと思っていたのに、このところやたらに忙しくて、物思いに耽る間もなく日々を過ごしている。半年近く、ほぼぷー太郎生活を送ってきた身にとって、仕事があるのは非常にありがたいのだが、干ばつと豪雨が交互に襲ってくるようなこの生活、なんとかならないものだろうか。  

 もっとも、フリーランスの生活も長くなって、心臓に毛が生えてきたのか、複数の仕事を同時にかかえても、このごろは以前ほどストレスを感じなくなった。昔は膨大な仕事の量に圧倒されると、あせるあまり睡眠時間を削り、そのためにかえって能率が下がるという悪循環に陥っていた。最近は、締め切りや納品の期限を考えて、優先順位をつけながら、とにかく一つずつコツコツとこなせばいつかはすべて終る、という妙な自信がついてきたようだ。三枚のお札のように、できあがったものを小出しに投げる戦術も使っているが。  

 一方、今年のように長期にわたって仕事がこない状況はやはり辛い。減りつづける預金残高を見れば憂鬱になる。フリーになったばかりのころはとくに、少しでも仕事が途切れると、前回の出来が悪かったのだろうか、もう私の存在など忘れられてしまったのだろうかと心配になった。いまでもそういう不安がないと言えば嘘になるけれども、連絡がないのは、必ずしも私が無視されているわけではなく、たまたま適当な仕事がないだけであって、しばらく待てば、またいつか声をかけてもらえると、最近は思えるようになった。だから、失業中も求人広告を見てはため息をついたりせず、これまでやりたいと思っていた「研究」などに時間を費やし、思い切って旅行にでかけることもできた。もちろん、その間、食いつなげるだけの余裕がたまたまあったからだが。  

 仕事に限らず、たいがいどんなことでも、人はえてして実際以上に、ものごとを大げさに悪く考えて、余計な不安をかかえているように思う。不安に駆られて不眠症にでもなれば、ただでさえ悪い状況がさらに悪化する。現状は変えられない場合が多いけれども、その現状を自分がどう受け止めるかは別問題であって、ものの見方、感じ方は変えられると教えられたことは大きい。心の平安を保つことが肝心だと、はるか昔にもらった瞑想の本で読んだことがある。瞑想に耽ることで苦しい現実から逃れても、仕方がないではないかと、当時は思っていた。でも、外の現実でいかに波風が立っていても、心のなかが安定していれば、一緒になってさらに大きく揺れ動くよりはものごとがうまく行く、という意味だったのだろうといまは解釈している。  

 ものの見方を変えることには、思わぬ実用的な効果もある。独り暮らしをするうえで何よりも心配だったのがゴキブリだった。子供のころに見た水攻めゴキブリ捕りのグロテスクな光景と、不潔だという過度の思い込みのせいか、私はゴキブリを見ると足がすくんでしまう。昔は母に(素手でつぶす)、近年は娘に(紙を使ってつぶす)、ゴキブリ捕りをお願いしていたのが、ついに自分で立ち向かわざるを得なくなった。娘から聞いた「ゴキげんよう、お久しブリ」をおまじないのように唱え、「怖くない、たかが虫だ!」と自分を鼓舞して丸めた紙で狙いを定め、先日、最初の一匹を見事に仕留めた。ゴキブリ恐怖症を完全に克服したとは言いがたいが、これなら独り暮らしもなんとかなる、と思えてきた。

2010年8月31日火曜日

娘の巣立ち

 30代になったばかりのころ、勤めていた会社に訪問セールスにきていた生命保険のおばちゃんの執拗な勧誘に負けて、教育保険に加入した。お勧めのプランの「設計書」によれば、積立配当金はどんどん増えて、18年後の満期時受け取り総額は400万円ほどになる予定だった。途中で私が死亡しても娘に保険金が入る、という点につられて契約してしまったのだ。なぜか満期時の娘の年齢が23歳に設定されており、いちばんお金のかかる大学入学時には、育英資金を引きだすか、解約するしかない妙な教育保険だったが、卒業後だってさらに進学するかもしれないし、結婚資金が必要になるかもしれない。そう思って、失業中の苦しい時期もとにかく保険料を支払いつづけた。  

 幸い、親の懐具合を充分に承知していた娘は、小学校から大学まで国公立に通い、塾にも行かず、通信教育も受けず、必要最低限の教育費しかかからなかったため、この教育保険は無事に満期を迎えた。ところが、90年代のバブル時代に契約した保険は、蓋を開けてみたらシュルシュルと萎み、みごとに元本割れしていた。私が苦労して払いつづけた保険料は、利潤を生むことなく、あのおばちゃんの人権費に消えてしまったのだろう。  

 娘は理系の大学に進んだものの、自分は研究者タイプではないと早々に見切りをつけていた。とりあえず数年間どこかに勤めて資金を貯めてから、好きな絵の道に進む、というのが当初の予定だったが、あいにくいまは100社回っても就職口が見つからず、就職浪人すらでるようなご時勢だ。卒論のための研究調査に4年次のほとんどを費やさなければならなかった娘には、その「とりあえず」すらままならなかった。同級生の大半は進学し、残りの多くは公務員になった。  

 進路に迷った娘に、切り詰めれば1年くらいなら教育保険で暮らせるよと伝えると、あれこれ検討したあげくに、娘はイギリスで児童書のイラストを専門に学ぶコースを選んだ。これまで学んできた生態学や生物の知識を生かしつつ、美術の世界でそれを表現してみたい。そうすることで、自然とかけ離れた暮らしをしている都会の人びとの目を、自然に向けさせたいというのが、娘の漠然とした夢のようだ。それで食べていかれる保証などどこにもないが、絵の勉強をする機会を一度くらいは与えてやりたい。初めて親元を離れ、異文化のなかで暮らせば、自分を試し、鍛えることにもなる。留学後、改めて進路を決めればいいし、そのころには不況がいくらか改善することだって、まったくありえないわけではない。一時期の景気に、生涯を左右されるのもばからしい。 実際、この円高もわが家にとっては幸運であり、2年前まで230円くらいだったポンドが、いまは140円以下になっている。最大の出費となる授業料は、送金するまでもなく、ポンドが比較的安い日にクレジットカードで簡単に決済されていた。教育保険で損をした分、いくらか取り返したかもしれない。  

 娘が日本を離れる日がいよいよ一週間後に迫っている。いまはインターネットがあるし、国際電話も無料でかけられるし、送金も簡単にできるし、航空券でもなんでもカードで買える。巣立ちの練習も何度かさせたつもりだし、山川捨松のお母さんのような覚悟はいらないはずだ。大丈夫、頑張れるよ。娘にも自分にも、そう言い聞かせている。  

 前回のコウモリ通信に書いたアラスカの本がとりあえずできたので、ご興味があればのぞいてみてください。http://www.photoback.jp/introduction/home.aspx?&mbid=261542(現在はアクセス不可)

2010年7月31日土曜日

アラスカ旅行2010年

 ついに行ってきた、アラスカに。出発当日になっても、成田発のフライトが遅れたために乗り継げないなど、トラブルが相次ぎ、本当に実現するのだろうかと半信半疑だった。アンカレッジのホテルで待ち合わせたはずのホストファミリーが現われたのも、夜の九時過ぎだった。それでも、ホテルから歩いて向かいのレストランまで行き、アラスカのビールを飲みながらハリバット(オヒョウ、巨大なヒラメ)のフィッシュ&チップスを頬張るころには、気分は最高になっていた。なにしろ、外はまだ明るいのだ!   

 翌朝は世界有数の水上飛行機の発着場であるフッド湖とスピナード湖まで徒歩で行って、観光タクシーに乗るような気軽さで小型機に乗り込み、クック湾の対岸にあるスパー山付近の氷河の上を飛んだ。沼地が点在する緑豊かな平原ではムースやブラックベアが闊歩する姿が見えた。やがて、あたりは一面、氷の世界になった。氷河の末端では氷のかけらが一斉に流れだしている。夏の氷河の表面はまるで現代絵画のように亀裂が縦横に入り、ところどころにあるメルトポンドは、なかの氷河氷を映すからなのか、宝石のように青い。 

 スパイ映画さながらに、狭いU字谷の岸壁際を飛んだあと、ベルーガ湖という誰もいない湖に着水した。湖岸には人手で植えたかと思うほどきれいな夏の野草が、あちこちに咲いていた。北米にだけあるキバナチョウノスケソウは、3種類しかないチョウノスケソウ属の1つだ。白いほうのチョウノスケソウは、花粉化石が指標となっていることで知られる。 

 空から見たときはわからなかったが、のちに船でカレッジフィヨルドやグレイシャーベイの氷河へ近づいてみると、その海域だけ気温が急激に下がり、真冬になったかのようだった。夏のあいだに氷が消滅するのか、それとも解けずに残るのかという違いが、のちの気温や植生を大きく変えるということが実感できた。アンカレッジから日帰りで行かれるポーテージ氷河は、昔はプリンスウィリアム湾とクック湾を結ぶ陸路輸送(ポーテージ)に使われていたそうだ。20年ほど前にホストファーザーが訪れたときも、まだ氷河の上を簡単に歩けたらしいが、いまでは前面に氷河湖が大きく広がっていた。 

 プリンスウィリアム湾あたりから、エトピリカやウミガラスなどの海鳥が、パドリングするように海面すれすれを飛ぶ滑稽な姿が目につくようになった。海面にケルプが浮かんでいる海域で波間に目を凝らし、2つに見える黒い点があれば、それがラッコだ。陸地の影もない大海原に浮かんで、毛づくろいをしていた。点が1つならアザラシかトドだ。クジラやイルカは水面にでている時間が短いので、注意深く見ていないと見逃してしまう。  

 アラスカのスワードから、ジュノー、ケチカンなどに寄港しながらヴァンクーヴァーまで1週間のクルーズをするあいだ、私たちはチーク材張りのプロムナードデッキに陣取って、ひたすら海を眺めていた。運動代わりにデッキを歩いている人たちは、しまいに通るたびに「何か見たか」、「クジラはでたか」と娘に聞くようになっていた。  

 旅行は3回楽しめる、とよく言われる。行く前の準備段階と、旅行中、それに帰ってからの記録整理だ。ホストファミリーへのお礼を兼ねて、いま娘と共同でアラスカ旅行記を作成している。娘が旅行中に描いたスケッチや絵をベースに、私が短い文章を書き、ウェブ上で1冊からつくれる写真の本を利用して編集・印刷することにした。

 スパー山近くの氷河

 氷河の表面

 小さなメルトポンド

 キバナチョウノスケソウ

 玩具のように見える多数の水上飛行機

 マージェリー氷河の下から解けだす水

 出会えたラッコ

 ザトウクジラ

 シャチ

2010年6月30日水曜日

ラッコに会いに行く

 小学生のころ繰り返し読んだ本の一つに『いたずらラッコのロッコ』(神沢利子作、あかね書房)がある。空の大男につかまってカニと一緒にスープにされそうになり、鍋の底にある星をはがして海に戻る場面などは、長新太のとぼけた挿絵のおかげもあって、いまでも鮮明に覚えている。 
  
 ラッコが空想の動物ではなく、実在の生き物であるのを知ったのはずいぶんのちのことだった。サンシャインの水族館で水槽のなかにいるラッコを見たときは、ちょっと悲しかった。いつか広い海で海藻を巻きつけながらぷかぷかと浮かんでいるラッコを見てみたいと、心の片隅で思いつづけてきたが、もしかしたら近々その願いがかなうかもしれない。  

 四年前、高校時代のホストファミリーを訪ねたときに、今度は一緒にアラスカへ行こう、と冗談半分で言っていたことが現実になったのだ。私はレンタカーか鉄道で回れたら、と考えていたのだが、いつの間にか海岸線沿いに氷河など見ながら旅をする豪華クルーズ船に乗ることになっていた。パンフレットと料金を見て私がひるむと、ホストマザーがクルーズ代だと言って、ぽんと小切手を送ってきた。これでは親孝行というより、「80日間世界一周」のパスパルトゥーのようになりそうだ。でも、彼らだっていつまで元気でいるかわからないし、こんな機会はもう一生ないだろう。移動・宿泊・食事・観光がすべて含まれるクルーズは、アラスカのように広大な土地を回るには割安であることもわかった。次の仕事も決まっていないけれど、腹を括り、有り金をはたいて航空券を買うことにした。  

 エクソン社のパイロットをしていたホストファーザーは、たびたびアラスカへ飛んでいた。アラスカの北端にあるプルードーベイ油田からは、全長一三〇〇キロにわたるパイプラインが、北米最北の不凍港バルディーズまで延びている。一九八九年、この積出港をでたエクソンバルディーズ号がブライリーフで座礁し、四万キロリットルの原油が流れだした。メキシコ湾の事故が起きるまでは、これが最大の油汚染事故と言われ、海鳥が数十万羽、ラッコは数千頭が犠牲になった。ラッコは、凍結しないプリンスウィリアム湾の波間に浮かんでいたのだろう。皮下脂肪の少ないラッコは、毛づくろいをして空気の層をつくることで体温の低下を防いでいるが、油まみれになると凍え死んでしまう。ラッコが仰向けになっているのは、呼吸が楽だからという説と、毛皮のない鼻先と足先を海面にだすためという説を読んだが、どうなのだろう?  

 アラスカには氷河が10万あると言われる。気候変動関連の本を立てつづけに訳していた私としては、間近に氷河を見られる機会も見逃せない。プリンスウィリアム湾付近のカレッジ・フィヨルドの氷河群やコロンビア氷河は、近年いちじるしく後退しているという。  

 旅行前にこんなことを下調べしている私の心を知ってか知らでか、元エクソン社員のホストファーザーは、「アラスカは本当に広いんだ。すべてを見ることなんてできない。ただ空気を吸い込んで、チヌーク・エールを飲めば、それだけでじつに楽しめるさ」と言ってきた。そうかもしれない。バケーションもバカンスも、仕事や責務を忘れて頭を空っぽにすることなのだから、「見るべきものリスト」ばかりをチェックするのはやめよう。 クルーズ会社から送られてきた案内を読んで目が点になった。フォーマルナイト用に女性はカクテルドレス、ガウン……男性はダークスーツ、タキシード……と書かれていたのだ。「少しだけお洒落なトップを一枚もってこられる?」と、ホストマザーがすかさずメールを送ってきた。どうせテーブルからは上半身しか見えない、ということか。何もかもお見通しらしい。いったいどんな旅になるのやら。

2010年5月31日月曜日

急激な成長と共通語

 私がクマーラジーバ(鳩摩羅什)を初めて知ったのは、数年前にアマルティア・セン博士の小論集を訳したときのことだった。西暦344年にインド僧の父と亀茲の王族の母とのあいだに生まれたクマーラジーバは、カシュガルとカシミールで仏教を学び、のちに長安に移ってサンスクリット語から中国語に数多くの仏典を翻訳した。東アジアに大乗仏教が伝わったのはこの人のおかげであり、「同業者」の端くれとして、誇らしく思ったものだ。  

 その後、同じような例がほかにもあることを知った。9世紀にイスラム帝国を築いたアッバース朝で文化が花開いたのは、衰退するビザンティン帝国から哲学、数学、医学などの書をもち帰り、それをネストリウス派キリスト教徒が翻訳したことがきっかけだったという。十字軍遠征でも、ティムール帝国でも、似たような現象が見られた。つまり、異なる文化同士が接したときに、一方の文化で長い年月をかけて培われたものが、翻訳という作業を通じて短期間に移行される現象である。その結果、新たな知識を習得した側では、文化が飛躍的な発展をとげることになる。日本でも明治維新によって、あるいは終戦後に外国文化が一気に入ってきたときに、社会は大きく発展した。交通と通信手段の発達によって、いまではこうした文化の波は地球の隅々まで広がり、加速する一方だ。  

 だが、あまりにも急速に発展すれば、変化の波に乗れる人と、乗り遅れて押しつぶされてしまう人のあいだで、格差が大きく開く。急激な変化は、それをうまく活用している人にも大きな負担を強いる。生まれたときから周囲にあった環境や、長い年月をかけて習慣化したことであれば、無意識のうちにできるようになるが、大人になってから短期間で覚えたものは、なかなか身につかないからだ。どんなに記憶力のよい脳でも、その容量には限界があるから、一夜漬けで溜め込んだ知識はいずれ格納できなくなる。急速に勢力を拡大した国の多くが、最盛期の直後に混乱し、衰退していくのは、人間がそんな大きな変化についていけないからだろう。 

 ここ数ヵ月間に激化したタイ国内の争いでは、バンコク市内で占拠をつづけ、テロ行為におよんだUDDにたいする非難を、バンコクの友人たちからたびたび聞かされた。日常生活を脅かされ、経済を混乱させられた側とすれば当然だろう。タクシン元首相が巨額の資金で人びとを動かしている、というのも事実だろう。だが、一人の実業家/政治家が、短期間に巨額の富を築くのを許した社会にも問題はなかったのだろうか? 20年以上にわたって独裁政権を築いたマルコスやチャウシェスクならいざ知らず、タクシンが政権を握っていた期間はわずか5年であり、その間にタイ経済そのものも大きく発展したはずだ。近年のタイの混乱の本当の原因も、あまりに急激な社会の発展にあったのであり、そうした変化に巻き込まれやすい社会の構造にあったのだと私は思う。 

 バベルの塔は天まで届く巨大な建築物のことだが、神の領域を侵すまでに発達し過ぎた文明を象徴していたのかもしれない。旧約聖書の時代、神はそれによる混乱を収拾するために、「全地の言葉を混乱させ」、「そこから彼らを全地に散らされた」。共通の言葉がバベルの塔をつくらせたと批判する聖書の言葉は、翻訳者の耳には痛い。だが、いまでは人口があまりにも増え過ぎて、散りようにも散るべき土地がない。となれば、共通の言葉を賢く利用して、おたがいなんとか生き延びる方法を模索するしかないだろう。

2010年4月30日金曜日

『認知症にならないための決定的予防法:アルツハイマーはなぜ増えつづけるのか』

「あの火山の名前、覚えている? エイヤフィヤトラヨークトルだよ!」
 先日、うちの母が突然こんなことを言いだした。頭の体操だと思って、三日もかけて覚えたのだそうだ。 昨年から私がアルツハイマーの本を翻訳しており、会うたびにいろいろと吹き込んだためか、母も予防策を講じているらしい。なにしろ、アルツハイマーの危険因子の一つは遺伝、つまり家族歴であり、私の祖母は、アルツハイマーと診断されることはついになかったけれども、最晩年、認知症をわずらっていたからだ。 

 祖母は七十代なかばまで英語の添削の仕事をし、趣味で彫金をやるなど、元気に老後を送っていたが、八十を過ぎたころからデパートに通っては同じような服を何枚も買い、やたらに長電話をかけてくるなど、言動がおかしくなり始めた。やがて台所に焦げた鍋がいくつも放置されるようになり、一人暮らしが危険になったため、ケアハウスに移ることになった。そこは親切なスタッフに囲まれ、狭いながらも個室があり、食堂に行けば三食がでてくる快適な生活だったが、それも長くはつづかなかった。 

 ある年のクリスマス・イブに、ケアハウスから呼びだしを食らった。駆けつけてみると、祖母はすぐ前の建物からライオンが跳びだしてくるなどと訴え、完全に錯乱していた。その晩は、バスルームの床を這い回っては、見えない虫をたたきつぶそうとする祖母を、幼い子をなだめるように抱き締め、ようやくベッドに連れ戻した。すると今度は、ベッドが水浸しで眠れないと頑なに言い張る。こうなるともうケアハウスでは暮らせない。 

 年末年始で行き場がなかったため、祖母はしばらく遠くの病院の精神病棟に預けられた。出入口が施錠されているその大部屋にはベッドがずらりと並んでおり、ぶつぶつ言いながら徘徊する人もいれば、床に転がっている人もいた。なかにはまだ五十代と思われる患者もいた。強烈なアンモニア臭に圧倒されたが、認知症になるとまず嗅覚をやられるので、祖母は気にも留めていなかった。錯乱状態はそのうち治まったが、その後は六人いる子供の誰それが浮気をしているとか、アフリカに探検に行ってしまったとか、見舞いに行くたびにおかしな話をするようになった。やがて、饒舌だった祖母もどんどん無表情に、無口になっていった。   
 
 一人娘で甘やかされて育った祖母だったけれども、好奇心旺盛でユーモアもあり、孫たちのことはかわいがり、よく面倒を見てくれた。祖母との思い出はいくらでもあるはずなのに、最晩年の豹変ぶりがあまりにも強烈で、その姿ばかりが浮かんでくるのは悲しい。  

 自分も老いたら祖母のようになるのだろうか? なぜ認知症になるのだろう? このたび刊行された私の訳書、『認知症にならないための決定的予防法――アルツハイマーはなぜ増えつづけるのか』(ヴィンセント・フォーテネイス著、河出書房新社)は、そんな長年の疑問に答えてくれる本だった。衝撃的だったのは、睡眠不足と慢性ストレスがアルツハイマーの引き金になる、という著者の指摘だ。しかも、アメリカでは八十五歳以上の人の半数はアルツハイマー病なのだという。自分の晩節を汚さないためにも、家族や社会に負担をかけないためにも、いまからできる限りの予防策をとりたいものだ。 

 著者はこんなことを書いている。「簡単な読書をすれば、脳の刺激になると考えている年配者もいますが、脳の予備力を高めるためには、もっと多くの精神的活動が必要かもしれません」。本書をはじめ、私の訳書はどれも分厚くて小難しいと、いつも周囲に不評だが、頭を使う本は認知症の予防策にもなるようだ。みなさんも、どうぞご活用ください! 

 祖母が子供のころ使っていた「舶来」のリボン

『認知症にならないための決定的予防法:アルツハイマー病はなぜ増えつづけるのか?』 ヴィンセント・フォーテネイス著 (河出書房新社)