2011年4月30日土曜日

震災に思うこと

 もうだいぶ昔のことだが、八ヶ岳の赤岳を編笠山からキレット経由で登るという無謀な計画を立てて、あまりの険しさに立ち往生したことがあった。小学校2年だった娘と60歳近い母を連れた山行だったので、運よく通りかかった頂上小屋の管理人さんに、「夕方までにたどり着けなかったら、捜索にきてください」と、お願いしてみた。ところが、「山に入ったら、人に助けてもらおうなんて思うんじゃない」と言われ、頭を殴られたような気分になった。引き返すこともできず、平均斜度35度という、下を見ると気が遠くなるようなガレ場を何時間も登りつづけ、日も暮れるころに疲労困憊して頂上に着いた。私たちの到着に気づいた管理人さんは一瞬にやっとしたが、何も言わなかった。頂上から見た日の入りは格別だったが、それにも増して管理人さんの言葉は忘れられないものとなった。  

 キレットからの登りがどの程度の難所かは、ガイドブックを読めばきちんと書いてある。ろくに調べもせずに勝手に登ったのは私たちなのだ。どんなリスクがあるのか前もって把握し、それでも行くのかと自問すべきだった。この山行で親は当てにならないと悟った娘は、それ以降はふりがなを振ってもらいながら、自分でガイドブックを読み、地形図を丹念に調べるようになった。  

 個人的な山登りの体験と、今回の震災をくらべることはできないと思うが、被災地がいずれも危険と隣り合わせで暮らしていたことを考えると、どこか似ているような気がする。生き延びるためには結局、自分で調べ、判断し、行動するしかないのだ。昔から津波被害に遭ってきた三陸地方では、「津波てんでんこ」という教えを子供たちに徹底して教えていたため、下校中の小学生が自分たちの判断で高台を目指して一目散に走り、おかげで助かったという記事を何度か目にした。結局、いざとなれば自分の身は自分で守るしかない。それでも、自然が相手の場合は運しだいだ。ほんの数分、数秒の差で命を落とした人は大勢いるのだろう。自分はもういいから、おまえだけが逃げろと言って、波にのまれていったお年寄りもいたという。大津波であれだけ被害を受けても、漁師たちはまた海にでていく。厳しい自然のなかで生き抜くというのは、こういうことを言うのだろう。  

 一方、日常生活を唐突に奪われ、最低限の衣食住をあてがわれ、プライバシーのない生活を長期にわたって余儀なくされている人たちはストレスをためている。こうした状態が長引けは、体調を崩して落ち込み、理性を失って八つ当たりしたくなるのは仕方がない。同じことは、震災以来、緊張の連続を強いられている現場で働くさまざまな人びとや、政府や報道関係者などにも言える。差し迫った危険が少なくなったいまは、抑えていた不満が方々から一気に吹きでているように見える。  

 それでも、いがみ合い、責任をなすりつけ合えば、ストレスはさらに増し、冷静になれば対応できたはずのことすら進まなくなるばかりだ。原発という危険が日本の各地にあって、そこで発電された電力を使って日々、エスカレーターに乗ってはルームランナーで走るような生活をつづけていることは、少し考えれば誰にでもわかることだ。本当にこの危険を受け入れるのか、いざというときはどう身を守るのか、子供やお年寄りを含め、誰もが真剣に考える必要がある。ころころと政権の変わる政府や、一私企業でしかない東電に責任を追及してみたところで、しょせんわずかな賠償金をもらえるに過ぎないのだから。

2011年3月30日水曜日

東日本大震災

 のちに現在のこの状況を振り返ったとき、東日本大震災を境にすべてが変わったと誰もが思うようになるのだろうか? 津波で町ごと流された人たちにとっては、3月11日はまさに運命の日だっただろう。首都圏に暮らす者にとっては、テレビの画面で見る映像は、濁流にのまれる家であれ、雪の降る被災地の悲惨な光景であれ、あまりにも非現実的で自分の身に迫りくる危機だとは実感しにくい。  

 あの日、私の住む横浜でも異様な揺れを感じ、近隣一帯は夜中まで停電になった。震源は宮城県沖だと伝え聞いて、すぐさま脳裏に浮かんだのは福島の原発だった。二十代のころ読んだ広瀬隆の本に、福島原発で事故が起きた場合、風に乗って放射性物質が何時間後に首都圏に到達するかを示す同心円の図があったのを思いだしたのだ。  

 その後、スーパーの棚から食料がどんどん消え、計画停電によってあらゆるものの営業時間が短くなり、一時は殺気だっていた人びとも、いまではほぼ平常に戻っている。暗い照明や、動かないエレベーターを見なければ、震災などなかったかのようだ。目に見えず、異臭もせず、「ただちに人体に影響はない」微量の放射性物質など、花粉のようなもので、気にしなければ日常生活に差し障りがないと信じて、たいていの人は呑気に構えているのだろうか。それとも、景気が悪化して社会不安が増すのを恐れているのだろうか。身に危険がおよぶような急性ストレスはエネルギーを与えるけれども、漠然とした先行き不安のような慢性ストレスが長期にわたると、うつ病や認知症になりやすいと言われるから、ニュースを見つづけず、外へでて気分転換をはかることは重要だ。  

 震災にたいする反応は人それぞれだろうが、私はこれを機に、今後のエネルギー政策や、国土の開発、防災について真剣に考え直すときがきているのだと思う。文明の存亡は、そこに住む人間の英知や努力、道徳心以上に、環境収容力に見合った規模を保ちつづけられるかどうかに左右される。どんなに万全を期しても、日本が不安定な四つのプレートの上に乗った国である事実は変えようがなく、地震や火山が活動期に入り、気候変動が始まっていると言われるいまは、1000年に1度の規模の大災害は充分に起こりうるのだ。  

 石油資源のない日本が原子力発電に夢を託し、そのおかげでいまの繁栄があるのは確かだ。でもそれは日本全国の原発が最低は0.7m、最高でも9.8m(福島第一は5.7m)という根拠のない低い津波数値を想定して、収支に見合う安全対策しかとらず、たまたま数十年間は大きな自然災害がなかったという幸運に支えられていたことを忘れてはいけない。同じことは、防潮堤を築くことで低地に広がりすぎていた町にも言えるのだろう。  

 原発事故や津波災害が引き起こした環境汚染の規模はどれほどなのだろうか? 少なくとも風評被害は近隣の自治体に留まらず、日本全体におよんでいる。ただでさえ廃棄物の処理に莫大な費用がかかる原発が、あらゆる自然災害に備える(そんなことができればだが)とすれば、化石燃料による火力発電でCO2を除去する費用もはるかに超えるだろう。  

 今回の事故における東電の実態や対応は情けない限りだが、これは東電だけを責めて解決する問題ではない。蓄電が難しい電力を、風呂を炊く三助のように、需要が増えればそれに応え、余れば減らすという具合に昼夜調節しているのが電力会社であり、電気がどのように供給されているかも忘れて、「火を炊け、火を炊け」と莫大な需要を生みだしてきたのは私たち一人ひとりなのだ。  

 一昨年、購入した中国からの輸入品のソーラーランタンは、計画停電の夜に私の唯一の明かりとして活躍している。太陽光発電はもともと日本が先駆けていたはずだ。スマートグリッドの整備、自治体や各戸単位の分散発電、蓄電技術の開発など、一部の国ではすでにかなり取り組みが進んでいる。多少の犠牲は覚悟のうえで、大きな方向転換が必要だ。

 青白い小さい光だけれど、真っ暗闇よりはいい

 富士山の前を横切る幾重もの電線――まさに日本の象徴だ

2011年2月27日日曜日

ストレス解消と散歩

 以前は理性的にものごとを考え、知識も豊富で記憶力も抜群だった人が、集中力がなくなっていら立つようになり、ふとしたきっかけで、ごく簡単なことも理解できなくなるという事例にでくわしたことがないだろうか? 中高年だけでなく、若い人にも見られるので、原因はストレスにあるに違いないと以前から漠然と思っていたが、いま訳している本を読んで、その仕組みがもう少し具体的にわかってきた。  

 私なりに理解したところによると、人は不安を頭のなかで言葉にして考えているのだそうだ。文学でいう「内的独白」みたいに、頭のなかで声にしているのだ。その作業は脳の言語野で処理しているが、プレッシャーが増して不安が増幅すると、やはり同じ領域で行なう思考や推理などの活動に影響をおよぼすほど、大容量を占めるようになる。確かに自分でも不安を感じているときは、頭のなかで不安をあおる言葉が次々に浮かびあがるような気がする。不安が言語野を支配しているときは、脳のほかの領域との連携も悪くなるので、総合的な判断を下すことはもちろんできなくなるし、それどころか、ふだんなら考えずにできるような簡単な行動にも支障がでてくるのだという。 近年、日本の首相や閣僚は次から次へと失態を演じている。就任後、まるで決まったように無能ぶりを露呈するのは、本人の資質もあるだろうが、多忙なスケジュールによる睡眠不足と、四六時中、一挙一動を監視され、非難されるストレスで頭の働きが鈍っているせいもあるに違いない。  

 不安の原因となっている問題を直視し、根本的な問題解決をはかることは、もちろん何よりも大切だ。だいだい、いまの日本に暮らす人の悩みなど、社会が生みだした規範や理想像と自分の現実とのギャップのように、明日の命にかかわるほど深刻ではない問題がほとんどなのだ。少し見方を変えて、自分の価値観そのものを変えれば、些細なことに感じられる問題も多々あるはずだ。  ところが、いったん不安モードに陥ると、論理的な思考ができなくなるうえに、脳の他の領域の働きも鈍るので、この「少し見方を変える」ことができなくなる。脳の血流変化をfMRIなどを使って調べると、ストレスを感じている人は、活動すべき部位が動いていないことがわかるそうだ。要するに、頭の血のめぐりが悪くなっているのだ。それなら、ふだんからほかの脳領域を使わざるをえない状況を保つように心がければいい。 

 そんなことを考えて、最近は集中力が落ちているときだけでなく、興に乗ってつい長時間パソコンの前に座りつづけているときも、一日に一度は外にでて歩くように自分に命じている。あれこれ悩んでいるときは、歩きながらも考えごとをしがちだが、なるべく頭のなかを空にして、いままで通ったことのない道を試したり、富士山が見えるはずの場所まで行ったり、ハムストリングを鍛えるのにぴったりの急坂を登ったりする。バードウォッチングもいい。鳥を探すと、どうしてもスカイラインを目でたどるから、自然と上を見るようになる。そもそも人間の悩みなど、地表から1、2 メートル付近に集中しているのだ。上には空が広がっている。たとえ30分でも外を歩くと、気のせいか頭の動きがよくなったように感じ、そのあとは心穏やかに集中して仕事ができるようだ。

 ジョウビタキ

2011年1月31日月曜日

藤沢・江ノ島七福神めぐり

 一月なかばに、新聞記事を見て思いたち、藤沢・江ノ島歴史散歩「七福神めぐり」に行ってきた。だいぶ前に深川の七福神めぐりをして土鈴を集め、蒲鉾の板を削って娘に宝船をつくったことがあったが、藤沢の七福神はスタンプ・ラリーのように各寺社でスタンプを集めると、最後に100円で「開運干支暦手拭」が買えるというもので、いかにも商工会議所と観光協会が主催するイベントだった。肝心の七福神も、江ノ島の弁財天以外は、各寺社に祀られた多数の神仏の一つで、小さな置物が飾られているだけのところもあった。  

 それでも、湘南の冬のやわらかい日差しを浴びながら、小さい商店が並ぶ藤沢の町を地図を片手に歩くと、ちょっとした旅行者気分が味わえた。途中、真っ赤に塗られた遊行寺橋の欄干を見て、娘が中学1年の夏休みの宿題のために、旧東海道を歩いた際に同じ道を通ったことを思いだした。このコウモリ通信を書き始めて間もないころのことだ。あれからすでに10年以上の歳月がたっている。藤沢駅から南は、娘が大学受験から解放された直後に、2人で江ノ島まで行ったときにたどった境川沿いを再び歩いてみた。  

 それにしても七福神というのは、日本古来の神々から、ヒンドゥー教や道教の神々などが入り交じった不思議な信仰対象だ。宝船に乗った図は中国の八仙とそっくりだ。「福」が精神的な幸福よりも、商売繁盛とか長寿といった、財福に近い具体的なご利益であるところは、いかにも庶民的だ。七福神に限らず、日本で信仰対象となるものは得てして、合格祈願や安産、交通安全、豊作などのわかりやすいご利益のあるものか、先祖や土地の霊だろう。それぞれの願いをかなえてくれそうな神さまに、必要に応じて祈願し、その対象はお稲荷さんであったり、菅原道真や源義経のような歴史上の人物であったり、如来や菩薩であったりする。宗教は何かと問われて、答えに窮する日本人が多いのはそのためだろう。  

 でも、たとえば仏教国と言われるタイでも、街で人びとが祈りを捧げている対象はヒンドゥーの神やピー(精霊)の祠だったりするし、関帝廟も随所にある。中国風の観音菩薩の前でひれ伏して祈っている若い女性は、煩悩を捨てようとしているというよりは、恋愛成就を願っているように見える。同じような例は、一神教であるはずのキリスト教やイスラム教でも実際には見られる。カトリックではとくに、殉教者の聖遺物などが病気を治す信仰対象になっていたりするし、メキシコのグアダルーペなどでは聖母が出現したとされる地へ信者が這って詣でている。聖人信仰はイスラム教のスーフィズムにも見られ、アジアにイスラム教が広まったのは、そのためだと言われている。おそらく、土着信仰を頭ごなしに否定せずに、八百万の神に聖人を加えるかたちで徐々に布教した結果に違いない。 

 宗教的には少々怪しげなこうした信仰は、現実的かつ個人的なご利益を求めすぎるきらいはあるけれども、人びとが多様な神さまを信仰し、それによって安心を得て、結果的に多少のご利益もあるなら、結構なことではないかと最近は思う。壮大な神学体系を妄信することを強要し、勢力拡大をはかろうとして、ほかの人びとの信仰対象を否定し、暴力行為におよぶ信仰よりは、よほど平和的だ。商売繁盛だの家内安全だのを祈る人同士なら、宗教戦争にも発展しないだろう。境内のなかにところ狭しと並ぶ神さまを見ながら、八百万の神さま万歳、と言いたくなった。

 感応院

 白旗神社

 養命寺

 開運てぬぐい

2011年1月4日火曜日

イギリス旅行2010年

 暮れにバンコク経由でイギリスに行ってきた。まだ暗い早朝に上空から眺めたロンドンは、黄色い灯り一色で描いた絵のようであり、隣にいたフランス人一家が「セ・ボウ!」を連発していた。空港から市内に向かうあいだの町並みを見てまた驚いた。どの家も二階建て程度で、屋根からメアリー・ポピンズの映画の「チム・チムニー」の歌にでてくるような煙突が突きだしているのだ。築100年の家がざらにあるとは聞いていたが、家など建ててはつぶすのが当たり前の日本に慣れている身には、誰もが古い家を修復しながら住んでいるということが、新鮮な驚きだった。 乗り込んでくる早朝の通勤客の多くは、地味な色の質素なコートにニット帽をかぶっている。そうしたなかに、ニカブをまとって目だけをのぞかせている女性がいても、誰も気に留めない。イギリスは80年代以降、多文化主義を受け入れるなかで大きく変わったと、アマルティア・セン博士が書いていたことが思いだされた。 キングス・クロス駅までどうにかたどり着き、はずれにある9番線ホームを探し当て、ホグワーツならぬ、娘の住むケンブリッジ行きの列車に乗った。ロンドンを離れると、あたりは一面雪景色になり、真っ白な牧草地に羊が点々と見えた。  

 イギリスに行ったら訪ねてみたい場所は限りなくあったのだけれど、事前準備も軍資金も不足していたうえに、天候が思わしくなく、娘は休み明けに提出しなければならない課題がどっさりあったため、結局、一週間ずっと娘の狭い下宿に転がり込み、そこを拠点に行動することになった。その分、日常生活やケンブリッジ市内をよく見ることができたので、それはそれで興味深かった。大学のお友達のアパートや鳥仲間のおじさんの家にもお邪魔し、クリスマスの時期にならではのマルドワインやミンスパイをご馳走になった。新鮮なタラのフィッシュ&チップスも食べたし、ケム川を眺められるパブでIPAエールを飲みながら、ローストビーフのヨークシャープディング巻きも食べた。文字で読んで想像を膨らませていた食べ物を味見するのはじつに楽しい。まさに、百聞は一食にしかず。  

 ロンドンにも一度だけ足を伸ばした。雪のなかのロンドン塔見学はなかなか風情があった。子供のころにもきたことがあるのだが、大きな宝石のついた冠を見たことしか覚えていなかった。今回はラザファードの小説『ロンドン』でロンドン塔建設に少々詳しくなっていたので、登場人物オズリックが強烈な仕返しをしたギャルドローブ(便所)や、その後に隠れた暖炉も、しっかりと見てきた。『巨大建築という欲望』に書かれていたノーマン・フォスターのガーキンやロンドン市長舎も見たし、火力発電所を改造したテートモダンのタービンホールをのぞいたあと、ミレニアム・ブリッジも渡ってみた。対岸にあるセントポール大聖堂は、ドーム屋根といい、コリント式円柱といい、建設当時は確かにいまのガーキンと同じくらい異質な景観だったに違いない。  

 何よりもよかったのは、大雪の翌朝、銀世界のなかを凍結した川沿いにグランチェスター村まで10 キロほどの散歩したことだろうか。道中たくさんの鳥が見られ、氷点下の気温をものともせず、犬を連れたり、橇遊びをしたりして家族で楽しむイギリス人にもたくさん出会った。お茶を飲んでいると、隣のテーブルのおばあさんがにこやかに話しかけてくる。私の頭のなかにできあがっていた冷淡なイギリス人というイメージはすっかり崩れていた。娘がこちらの生活に瞬く間に馴染んだのも当然かもしれない。  

 帰国便の機内でディズニーの「クリスマス・キャロル」を観た。映画のなかの光景は、少し前まで歩いていたケンブリッジの町並みとそっくりだった。

 煙突の並ぶ町並

 トリニティカレッジの裏門

 雪のロンドン塔とガーキン(左)

 ロンドン塔内のトイレ

 ロンドン塔内の暖炉

 ミレニアムブリッジから見るセントポール

2010年11月30日火曜日

ピアノ教室

 先月、我孫子へ行った折に、母のところに、2泊ほど泊めてもらった。夕方遅くに訪ねると、母はピアノのレッスン中で、食卓に私のためのお茶とお菓子が用意されていた。私の記憶にある限り、母はいつもこうして仕事をしていた。学校から帰ると、戸棚のなかにお皿に小分けされたおやつがかならず用意されていた。たいていは、お中元やお歳暮でいただいた泉屋のクッキーだった。  

 うちに初めてピアノがきた日のことはほとんど覚えていない。物心ついたときにはすでにピアノがあり、自分の意思とは関係なく朝夕2回練習することが、まるで3度の食事のように決められていたように思う。うちでは朝から晩まで、誰かが絶えずピアノを弾いていたから、ピアノの音は空気のようなものだった。私は門前の小僧のように、たいていの曲を自分が弾く前から耳で覚えていたので、楽譜を大して見なくても、音で確かめながら適当に弾いて、それらしく繕うことができた。そのせいか、結局、私のピアノ歴は物まねの域を超えることなく、小学校を卒業する前に終わっていた。私の勉強机は、長いあいだアップライトのピアノと襖1枚を隔てた裏側に置かれていたが、とくにうるさいと思った記憶もないから、自然に耳栓もできていたのかもしれない。  

 母がなぜそこまでピアノにこだわったのかは定かではない。母自身はとくに音大をでているわけでもない。それどころか、外科の開業医だった祖父を手伝っていた母は、本当は自分も医者になりたかったらしい。切断された脚は重いんだよ、などと言っていたから、高校生のころは手術の助手もやっていたようだ。ところが、医者は女のやる仕事ではない、と祖父に猛反対されたため、母は仕方なく心理学を専攻した。それも、ハトの心理学とやらで、その道には結局、それ以上は進まなかった。その後、2 人の幼児を抱えて生計を立てなければならず、途方に暮れた母に、子供のころから習っていた「ピアノを教えたらいい」とアドバイスしたのが、やはり祖父だったという。母にとって、ピアノは生き延びるための手段であり、決して疎かにしてはいけないものだったのだろう。  

 それから半世紀近く、母はピアノを教えつづけた。ほぼ毎年、お弟子さんのために「小さい鐘の会」と題した発表会を開きつづけ、それが今年で40回目を迎える。途中から姉が開いている教室と合同で開催するようになったので、いまでは姉の生徒が大半を占めるようだが、後期高齢者となったいまも、母はまだ自宅で細々とピアノを教えている。 

「40回を記念して、冊子をまとめたいから手伝ってもらえない?」と、姉から数ヵ月前に頼まれた。昔からの発表会の写真を集めて、生徒にも配布できるアルバムをつくりたいのだと言う。第1回目は1966年だった。近所の幼稚園の講堂で開いた発表会の写真には、たくさんの幼馴染みや着物姿のお母さんたち、そして亡くなってしまった方々が写っている。別の写真には、小学校時代の同級生や近所の子供たちなど、ピアノを習いにきて、うちの家計を支えてくれた人たちが並び、やがて母の孫の時代となる。その孫たちも次々に成人し、まだピアノをつづけているのはいちばん下の高校生のみとなった。  

 記念冊子を編集しながら、これほどの長い年月、母が元気でピアノを教えつづけられたことを、つくづくありがたく思った。これは長い平和の時代がつづいたおかげでもある。

2010年10月31日日曜日

秋のお祭り

 今年も、我孫子で開かれたジャパン・バード・フェスティバルに参加してきた。鳥を見るのは好きだけれど、どちらかと言うと、バードウォッチャーの保護者兼図鑑・スコープ持ちとして、鳥見に参加することの多かった私は、鳥好きの娘が渡英してしまったこの秋のお祭りはいったいどうしようかと、実はひそかに悩んでいた。たとえて言うならば、子供が卒業したあとも、部活の試合にお母さんが顔をだすようなもので、なんとも恰好が悪いのだ。それでも、例年お世話になっているワイバードと「こまたん」がまた早々に誘ってくださったので、意を決して「お母さん」だけ参加することにした。  

 このところ多忙だったため、今年はほとんど新商品がない。昨年つくった鳥のお手玉と小物入れの「きびだんご」シリーズに、スズメとエトピリカが加わったくらいだ。娘がデザインするこの鳥の正面顔のお手玉は、点のような小さい目と、おなかに張りついた無防備な足と、背中のリアルな羽の模様が特徴で、いわゆるかわいいキャラクターとはほど遠い代物だ。それでも、甥っ子が幼かったころを思いださせるこのお手玉の鳥は、見るたびに表情を変えるようで、目が合うと「遊んでくれ~」と言っているように思えてならない。  

 ぎびだんごの原型は、おそらく娘が幼いころよくつくってやったスウェーデンのウォルドルフ人形にあるのだろう。人形の目は、子供のそのときどきの心情を映せるように、できる限り小さく刺繍するという考え方に私は大きな共感を覚えた。ダ・ヴィンチがモナリザの絵で使ったスフマートの手法にもどこか似ている。  

 いちばん新しくつくったエトピリカは、赤く吊り上ったアイリングのなかに小さな黄色い目があって、ムーミンのヘムレンさんのような白髪が後ろになびいており、一見、意地悪な魔法使いにも見える。それならいっそのこと、カボチャと一緒にハロウィーンの飾りにでもしようと並べてみたところ、さすがはバードフェスティバル。こんな鳥が意外に人気で、小学校低学年と思われる子でも、一目見るなり、「あっ、エトピリカ!」と触っているほどだった。  

 お手玉のかたちをそのまま拡大してつくったリュックサックが、今年は二つとも売れたのもうれしかった。そう言えば、昨年の第一作のメジロ・リュックを買ってくださった方は、「大事にします」と、まるで子犬や子猫をもらうみたいに言ってくださった。いまごろ、あのメジ君はどうしているだろうか。いつか、歩き始めたばかりの子が、このリュックにトレーニングパンツとぬいぐるみを入れて、よちよち歩いているところを見てみたい。  

 売上げそのものはさほど芳しくなかったが、娘があちこちでお世話になった方たちが大勢ブースに立ち寄って声をかけてくださったので、日ごろ家で一人パソコンに向かっている私には、それが何よりも楽しかった。自然のなかで鳥を見るのが好き、ということだけでつながっているバードウォッチャーの世界は、もともと多様な人が適度な距離を置きながらゆるりと結びついていて、新しい仲間を自然に受け入れてくれる。とかく排他的になりがちな共同体主義と、アイデンティティの問題に関する本をいま訳していることもあって、バードウォッチャーの世界の居心地よさを実感した2日間だった。  

 11月7日の大磯の宿場祭りでは、また「あおばとや」にお世話になる予定だ。アオバトはついに大磯町の町の鳥に昇格したらしく、今年は大いに盛り上がりそうだ。