2017年2月27日月曜日

アイヌの遺骨問題

 このところ新聞紙上で何度か、ドイツからのアイヌの遺骨返還に関連する記事を読んだ。ドイツが所有する17体の遺骨のうち、明治初期に「不当な収集」によって日本国内からもち去られた1体で、アイヌ民族は「最も原始的な民族」だとされてきた、という内容だった。こうした記事を斜め読みすると、差別されてきたうえに、遺骨まで盗掘され、収集されたという怒りの感情が湧きあがる。だが、冷静になって考えると、この問題の背景には猟奇とかヘイトクライムとは異なる、もっと純粋な知的好奇心があったように思われる。  

 実際には、新聞記事にもあるように、ドイツに先立って幕末にすでにイギリスの箱館領事館が、鳥類コレクターとして知られる博物学者ヘンリー・ホワイトリーとともに、アイヌ遺骨の盗掘事件を起こしている。この事件は外交問題にも発展し、実行犯は禁固刑に処せられ、落部村から盗掘された遺骨13体は1カ月後に返還され、すでにイギリスへ送られていた森村からの3体(および頭骨か)は2年後に送り返されてきた。箱館領事のハワード・ヴァイスは罷免され、後任のエイベル・ガワー(ジャーディン・マセソンのサミュエルの弟)やパークス公使は一分銀1000枚を慰謝料として払うなどして、幕引きを図った。ヴァイス領事は、その数年前の生麦事件で薩摩藩への報復を主張したためニール代理公使と対立したことで知られる。横浜の競馬でも問題を起こして、神奈川から箱館に左遷された人だったが、イギリスに帰国後は破産宣告をしている。盗掘事件はイギリスにとって大きな失点だったのだろう。  

 ドイツにもちだされた遺骨の1体は、シュレージンガーという旅行者が盗掘し、その旨を民族学誌に武勇伝のように報告していた。インド、ヒマラヤなどを渡り歩いたのち来日し、1884年にオーストリア=ハンガリー帝国の横浜領事になったグスタフ・クライトナーも、アイヌの頭骨を入手するために発掘許可を申請しているが、却下されている。同じくオーストリア=ハンガリーの外交官を務めていたシーボルトの次男ハインリヒは大森貝塚を調査し、クライトナーとともにアイヌが日本民族の起源だと考えた。一方、同時期に大森貝塚を発掘調査したアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、日本の石器時代人はアイヌではなく、プレ(先)アイヌだと主張した。これがのちにアイヌの伝説にあるコロボックルを、彼らが遭遇した先住民の石器時代人と考える説につながったという。先日亡くなった佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』を読み返したくなる。ちなみに、クライトナーは1893年に45歳で脳卒中により死去し、横浜外国人墓地に埋葬されているようだ。『100のモノが語る世界の歴史』の縄文の鉢はハインリヒ・シーボルトが収集したものだった。  

 それにしても、これだけ多くのヨーロッパ人がなぜ、盗掘のような手段に訴えてまでアイヌの遺骨や起源にこだわったのか。彼らはなぜ本州に住む「平たい顔族」の遺骨収集には熱を上げなかったのだろうか。ヨーロッパ人がアイヌに関心をもち始めたのは、じつは1618年にイエズス会士ジラロモ・デ・アンジェリスが松前に渡ってアイヌに布教を試みて以来らしい。アンジェリスは当時のアイヌの暮らしについて書き記すとともに、アイヌ語の簡単な語彙集も作成し、アイヌは「白人」で、西洋人の「仲間」だと考えていたという。  

 幕末から明治にかけて、ヨーロッパ人がアイヌに多大な関心をいだきつづけた理由の一つがここにある。折しも、18世紀にインド判事として赴任していたウィリアム・ジョーンズが、サンスクリット語に古代ギリシャ語やラテン語との共通点を見出して以来、比較言語学が盛んに研究され、1889年にクチャの写本が発見されてトカラ語の存在が知られるようになり、20世紀に入ると敦煌やトルファンが探検されていた時代だ。ユーラシア大陸のはずれに浮かぶ日本列島に、印欧語族に加えられる可能性のある言語を話す少数民族がいるという仮定に(のちに否定されたが)、彼らは飛びついたのだ。1889年には聖公会の宣教師ジョン・バチェラーによる『蝦和英三対辞書』も刊行された。  

 いま翻訳中の本には青銅器時代の人骨の図や写真がそこかしこに掲載されている。研究者は遺跡から出土した無数の獣骨まで数え、計測して埋もれた過去を推理している。多数の骨標本があってこそ見えてくる統計値もある。そうした学問上の需要と、たとえば自分のおじいさんの骨が盗まれて、どこぞの研究室の戸棚に入っていることへの生理的嫌悪感は、どう折り合いをつければよいのか。幕末にイギリス人が返還したアイヌの遺骨は、なんと1935年に北海道大学の児玉作左衛門博士が学生と再発掘し、新たに多数の遺骨とともに収集していた。全国の12大学や博物館にいまも1600体ほどのアイヌの遺骨が研究目的で保管され、その大部分は北大にあるという。収集された副葬品も多数が行方不明らしい。遺骨の大半は身元不明だが、返還の動きや訴訟が始まっている。  

 骨格形態を研究する形質人類学は悪用もされたし、タブー視もされてきたが、分子人類学が盛んになってきた昨今では、新たな価値も見いだされるかもしれない。多くの人の想像力をかきたててきたアイヌの起源の謎を解く作業に、アイヌの人びと自身が積極的に取り組めば、遺骨を埋葬して法要を営んでおしまいとする以上に、祖先が残した究極の遺産から多くを学べないだろうか。

2017年1月30日月曜日

カタカナ音写

 1月に入ってから何度か、欧州の寒波で移民・難民に多くの死者がでているというニュースを目にした。こういう痛ましいニュースをここ数年、何度も見聞するが、「トルコに近いブルガリア山間部では、欧州を目指したイラク人男性2人とソマリア人女性1人が死亡」などと読んで、この地域の位置関係が頭に描ける人がどれだけいるだろうか。  

 昨秋から、私は無謀にも考古学と言語学を融合させたような大部の専門書に取り組んでいる。扱っている地域は黒海とカスピ海沿岸を中心に、ウラル、アルタイ山脈までという、日本人にはとかく馴染みの薄い一帯だ。全体像を把握しようにも、地図帳のなかでこれらの地域のほとんどは、別々のページの片隅に申し訳程度に載っているに過ぎない。翻訳する以前に、まずはそれらをスキャンして張り合わせ、主要な河川をハイライトし、現在のどの国を流れているのかを知り、という作業が必要となった。その過程でようやく、トルコと東欧、ギリシャ、中東という、石器時代から多くの人びとの行き来があった地域の位置関係がよくわかり、いまも同じような経路で、難民がまたヨーロッパを目指している事実に気づかされたのだ。移住の遠因に気候変動とそれに伴う社会・政治情勢の変化がある点も変わらない。ソマリアの人は、イエメンから延々と逃避行した挙句だったのだろうか。クリミア半島のヤルタもセヴァストポリもはっきりと場所を確認したことはなかったし、毎日食べているカスピ海ヨーグルトの原産地がどこなのかも、ソチが地球の歴史上で大きな意味をもつ地域にあることも、ユーフラテス川がシリアを通り、貴金属を産出するカフカース地方につながることも、恥ずかしながら認識していなかった。  

 およその地理が頭に入っても、この本に登場する無数の地名をカタカナに音写する作業は並大抵ではない。通常はカナ表記がどこかで見つかるし、いまは発音サイトも多数あるのでさほど苦労しないのだが、今回は無名の遺跡が多数含まれるため、著者が書いたラテン文字の綴りをネットで検索しても本人の論文しかヒットしないこともある。そもそも、本来はキリル文字や、ラテン文字にヒゲやら点が付く東欧やトルコの言語だったりするのが、一定の原則にもとづかないまま英語読みになっている。ピンインでない英語読みの中国語から、漢字を推測するようなものと言えば、おわかりいただけるだろうか。自国語にない音を英語流に表現したものから、その日本式の表記を想像するのは至難の業だ。結局、オリジナルの言語の表記を探しだし、ネット上にある親切な発音ガイドを頼りに読むことになるが、問題はキリル文字の固有名詞だ。  

 じつは学生時代に一般教養でロシア語の授業を取ったことがあるのだが、この文字にめげて、数カ月で諦めたという情けない事情がある。今回は必要に迫られ、文字と発音の原則だけは学び直すことにした。そこで、曽祖父が書いた『新式實用露語獨修』という本がデジタル化されていたのを思いだし、ダウンロードしてみたのだが、1912年(明治45年)に刊行されたこのテキストは、「而シテ其ノ發音ハ」といった調子で、これを判読するだけで苦労しそうなので、即却下となった。「彼露國ハ我ト一葦帶水ノ隣邦ニシテ其民諄扑些モ西歐人ノ驕傲ナク且歐洲人中最モ東洋的趣味ニ富ミ」などと書かれた序文だけは、当時の情勢もわかっておもしろかったのだが。  結局、ネット上で見つけたいくつかの親切なサイトを参考に、一日ほど無駄にして自分でアンチョコをつくり、おおよそ読めるようにはなったものの、「後ろに無声子音がくると無声化」などという細かいルールをつい見落としてしまう。しかも、ウクライナ語やブルガリア語などで微妙に発音が異なるので、地図上で国境線を確かめ、どちら読みを優先させるのか悩まされることになる。  

 固有名詞をカタカナに音写するこの作業は、日本の翻訳者にとってはかなりの負担だ。たとえば、一般読者に馴染みのあるコーカサスにすべきか、その他の地名の読みとの統一でカフカースにすべきかで、いちいち迷うはめになる。読みを間違えただけで、ここぞとばかりに揚げ足をとられるから余計に神経を使う。そもそも曖昧母音や種々の摩擦音、有気音・無気音、lとrなどは、カタカナでは表記できない。横書きの論文などは敢えて音写していないものが多く、そうなると確かに読みづらいが、外国語の文献と照らし合わせる場合にはむしろありがたいに違いない。  

 などと、ブツクサ言っているとき、たまたま『日本語を作った男──上田万年とその時代』(山口謡司著、集英社インターナショナル)を読み、明治時代の識者が日本語の表記どころか、英語を日本の公用語にすることや、日本語のローマ字化、漢字撤廃まで検討していたことを知った。キリル文字を捨てた東欧の国々や、漢字を廃止した韓国やベトナム、アラビア語をやめたトルコ、英語を公用語(の一つ)にしたシンガポール、フィリピン、インドなど、考えてみれば世界にはこれを断行した例がいくらでもある。カタカナがおもに外来語を表記するようになったのは戦後のことなのだ。曽祖父の文章は漢字カタカナ交じりだ。言語はさまざまな事情で変わりゆくものであり、そこに背景となる歴史が透けて見える、というわけか。

露語独修 : 新式実用』山口虎雄著、博文館、明治45年

2016年12月30日金曜日

日本の磁器の歴史

 昨夏、亡父の故郷である佐賀を訪ねたとき、叔父に頼んで有田の磁器ゆかりの場所へ連れて行ってもらった。日本の磁器の歴史は有田から始まったと言われる。磁器は、花崗岩の風化物からなる白色のカオリン磁土を産出する「高嶺」がある景徳鎮で、なんと2000年ほど前の後漢時代に開発されている。ここに官窯が築かれた元代以降、中近東への輸出が盛んになり、中国の磁器は世界中の羨望の的となったが、製造技法は長らく謎とされてきた。18世紀になってようやく、ドイツのマイセンでその解明に成功したことはよく知られる。しかし、陸続きの朝鮮半島では10世紀には青磁がつくられていたし、日本では17世紀初頭に磁器製造が始まった。高度な技術が、あるとき突如として別の地域に出現した場合、そこにはなんらかの人の交流や技術移転があったと推測すべきだ。たいていは友好的なものではなく、戦争捕虜、難民、移民が関係するか、外交使節や商人などのスパイ活動によることが多い。  

 日本の磁器の始まりについては、秀吉の朝鮮出兵の際に強制連行されてきた朝鮮人陶工によって先端技術が日本に流出した結果、とよく言われる。しかし、有田の陶山神社には、有田焼の祖とされる朝鮮人陶工の李参平が、彼を連れ帰った佐賀藩主である鍋島直茂と並んで相殿神として祀られている。李参平の墓は、日本の磁器発祥の地である天狗谷窯近くの白川共同墓地で半世紀ほど前に見つかっている。ご子孫はいまも有田で磁器を製作している。強制連行という言葉から連想されるものと、神として祀る行為には、どうもギャップがあるように思えて、少しばかり日本の磁器の歴史を調べてみた。  

 『多久市史』には、次のような経緯が書かれていた。朝鮮出兵の折に鍋島直茂軍が道に迷い、道案内を頼んだ一人が李参平で、そのまま朝鮮に残せば祖国を裏切ったかどで迫害を受けるだろうと、直茂の家臣の多久安順が船で連れ帰った。安順が朝鮮での職業を尋ねると、焼物をしていたと答えたため、試しに焼かせてみたところ、かなりの出来だった。この最初の試し焼きの場所は、父の実家のそばの西の原の唐人古場窯らしい。しかし、多久領内では思い通りの土が見つからず、ようやく有田で良質の磁石を探し当て、有田皿山の基礎を築いたという。もっとも、この記述の出典である「金ヶ江三兵衛由緒書」は19世紀初めに書かれたもので、実際には李参平の名前すら定かではないようだ。  

 朝鮮出兵に際して、朝鮮から大勢の人が連行されたのは残念ながら事実で、そこに多くの技術者が含まれ、それによって日本の産業が大いに発展したことも間違いない。萩焼も薩摩焼も朝鮮人陶工が興した産業だった。加藤清正が連れ帰り、細川忠興のもとで上野焼と高田焼を始めた金尊楷にいたっては、産業スパイよろしく、一時帰国して朝鮮青磁の技法を習得して再来日している。だが、各地の窯のなかで、早期に磁器生産に漕ぎつけられたのは、有田のほかは、平戸藩主松浦鎮信が連れ帰った巨関が始めた三河内焼と、大村藩主大村喜前が連れ帰った李祐慶による波佐見焼しかない。何が違ったのだろうか。関連資料をざっと読んだだけだが、これには「岸岳崩れ」が関係しているようだ。  

 朝鮮出兵では、肥前名護屋の勝雄岳に本陣として巨大な城が築かれ、諸国から何万もの将兵が集まってきたが、ここは松浦党の武将である波多親の居城があった場所だった。「海の武士団」松浦党の実態は、中国・台湾・琉球・朝鮮半島・九州一帯の海を支配した多国籍の倭寇の一派であり、略奪まがいの交易に従事していた。波多氏は1580年代に、多数の李朝の陶工を連れ帰り、岸岳の山麓に見張り役兼ねた七つの窯を築かせ、彼らの意のままに作陶することを奨励していた。これが唐津焼の始まりだが、古唐津の歴史はさらに30年ほどさかのぼるようだ。天下統一を目指した秀吉にとって波多氏のような海賊大名は目障りな存在だった。何かと難癖をつけて、朝鮮出兵後に波多氏の所領を没収した秀吉は、利休門下の茶人だった美濃出身の寵臣、寺沢広高にその所領を与えた。岸岳山麓の朝鮮陶工たちは肥前の各地に離散し、それを「岸岳崩れ」と呼ぶ。彼らが新たに有田、三河内、波佐見などで窯を築いたところへ、李参平などが加わったため、肥前では一気に産業規模の磁器生産が始まったのだ。寺沢広高ももちろん唐津焼を再興し、彼を通して、美濃焼にも新しい技術が伝わったという。唐津の叔父から聞いた郷土史がようやく理解できた気がする。  

 現代の感覚では、日本と韓国、中国といった国と国との関係でものごとを考えがちだ。しかし、統一国家としての日本という意識がまだなく、九州が征伐すべき対象であった時代には、九州諸国の水軍や海賊にしてみれば、対岸の朝鮮半島南部は、秀吉の名古屋・大阪よりもよほど近い存在だったのだ。李朝の陶工の技術は当時の世界最先端にあったわけであり、かたや日本ではまだ釉薬を使う陶器の生産もおぼつかない状況だった。強制連行して働かせたというよりは、朝鮮陶工はむしろ明治初期のお雇い外国人のような存在だったかもしれない。陶磁器はいまや趣味の工芸品のような存在になりつつあるが、磁器生産は本格的な鉱業、林業、土を粉砕する水車場や高温の登り窯、呉須などを輸入する交易体制、製品の輸送・販売体制などを必要とする一大産業だ。窯業の栄えた九州が、幕末にいち早く産業化したのは当然のことだったのである。

 陶山神社

 泉山磁石場

 李参平の墓

 寺沢広高の墓所

2016年11月30日水曜日

『分断されるアメリカ』

 イギリスのEU離脱につづいて、トランプ大統領が誕生することになった2016年という年は、のちに歴史の転換点として記憶されるのだろうか。まるで民主的なヴァイマル憲法の時代の直後に、ダミ声で喚く風采の上がらない男が権力を掌握したときのようだ。格差を見せつけて憎悪や恐怖を掻き立て、既得権益をもつ集団や、保護されてきた弱者をひとまとめに敵と見なすことで、大衆心理を操る指導者が各地に現われている。不満をもつ中間層が指導者として選んだ人物が、富を独り占めする超富裕層で、金ぴかのペントハウス御殿にトロフィー・ワイフをはべらせる王様的な人物であることは、なぜか矛盾にはならない。標的は政界のエスタブリッシュメントであり、グローバル化なのだと言われて、大衆の怒りの矛先が巧みにすり替えられたからだ。

  トランプ氏当選後に、大勢の専門家がこの選挙の勝因なり敗因なりを分析しているので、私のような現代アメリカ政治の門外漢がいまごろ何を言っても、ぼやきでしかない。ただ、12年前にサミュエル・ハンチントンの遺作で、奇しくも『分断されるアメリカ』という邦題のついた本の翻訳に携わり、その後、アマルティア・センのグローバリズムやアイデンティティに関する論文を訳し、さまざまな歴史書にかかわってきた身としては、大半の論者が見落としている点があるように思えてならない。17世紀の入植者の子孫という、正真正銘のエスタブリッシュメントだったハンチントンは、9・11後にアメリカで愛国心が一気に高まった時期に、“Who Are We?”という原題のこの本を突きつけ、アメリカのナショナル・アイデンティティを鋭く問いただした。移民問題やヒスパニック人口の増加、グローバル化、それに対抗する宗教右派の動きなどを論じた彼は、「アメリカの信条」、つまり人種や民族とはかかわりなく、宗教的信条を問われることもなく、誰でもアメリカ人になれるというイデオロギーはもう諦め、グローバルで普遍的な国から、アングロ・プロテスタントの文化を中心としたキリスト教国として再定義することを暗に提案していた。要はグローバリズムからナショナリズムへの転換を唱えたものだ。ハンチントンはとりわけアメリカの既存の文化に同化せず、英語も話せないヒスパニック系移民の増加を憂いていたが、アメリカが1830年代と40年代にメキシコから武力で奪ったテキサスからカリフォルニアにいたるまでの広大な地域を、メキシコからの移民が人口学的にレコンキスタ(再征服)していることは正しく理解していた。

  アメリカという国民国家が19世紀以降、急速に世界大国になれたのは、先住民とメキシコから広大な土地を強奪し、ロシアとフランスから不毛の土地を破格値で購入したところ、たまたま石油や金などの鉱物だけでなく、巨大な帯水層が見つかったからだ。さらに、二度の世界大戦時には疲弊した旧世界の国々に軍需物資を売って大儲けし、国が焦土と化すこともなく、戦後は独り勝ちするという幸運にも恵まれたからだ。強引な手口が大目に見られてきたのは、「アメリカの信条」という普遍的な理想を曲がりなりにも掲げて、祖国の圧政や貧困や停滞に苦しむ、トランプ氏の祖父母や母親、二人の妻のような人びとに、希望の地として門戸を開きつづけたからだ。いまになってアメリカを狭義に再定義して、自分たちの後ろで門を閉めるのであれば、支配文化に同化したくないアメリカ人にとっては、白人でもなくキリスト教徒でもない人にとっては、苦しい時代となるだろう。国民国家は多数派や支配層には居心地のよい囲いとなるけれども、少数派や弱者にとってはさまざまな機会を奪われ、自分と相容れないアイデンティティを押しつけられる檻にもなりうる。

  今後、正義の押し売りができなくなるアメリカは、自由貿易にも背を向けて、武器や食糧をどう売りつけるつもりなのだろう? 他国間の紛争を煽って商機を狙うのだろうか。中国やベトナム、メキシコなどの安い労働力を閉めだそうとするトランプ支持者は、自分たちが代わりに過酷な労働を低賃金で担うのか。それとも、オーラの消えて久しいメイド・イン・アメリカ製品を愛国心から高額で買い支え、内需拡大に努めるのだろうか。アメリカ文化ともはや切り離せないグローバル企業が世界市場で利益を上げてきたことは忘れて、アメリカ第一主義を唱えることに、矛盾はないのか。「偉大なアメリカを取り戻す」というスローガンがこれほど効果を上げたのは、大恐慌時代を知る世代がすでに他界したか、発言力を失ったことと無縁ではない。空前の好景気に生まれたベビーブーマーにとっては、その黄金時代が基準になる。地球の未来などは、老い先短い彼らの眼中にはなく、ただIPCCのような怪しい世界組織に生来の権利である炭鉱の仕事を奪われた、という理屈になるのだろう。一国のGDPを上回る売上高のグローバル企業だけでなく、国連やEUをはじめとする諸々の国際組織や、自国の連邦政府までも敵視する地域密着型のお山の大将タイプの人びとは、不況の原因も、自分の羽振りが悪くなったのも、すべてグローバル化とそれに伴う移民のせいにする。こうした外国人嫌いの論調は、近年、アメリカだけでなく、世界各地で顕著であり、日本のインテリ層にも多数見られる。 

 グローバル化は文明が行き着いた当然の結果であって、本当の問題はむしろ増え過ぎた人口と環境の悪化であり、開発と拡大がつきものの資本主義と不自然な国民国家、およびポピュリズムに移行中の民主主義の行き詰まりではないのか。便利や幸福を追求したはずの技術も、緑の革命も貧困対策も医療の発展も、あいにく裏目にでた。地球の環境収容力に合わせて人口と人間活動を平和裏に縮小するという、動物本能に逆らうような持久戦に地球規模で取り組めるほど、人類の大多数は進化しなかったのだ。科学者が立てた都合の悪い予測には耳を塞ぎ、時間は巻き戻せると主張するお山の大将たちが勝ちつつある。今後は各国が生き残りをかけて争い、その過程で環境が荒廃し、人類が大量死する道が選択されたのだと考えるのは妄想だろうか。そうして、地球はようやく人間という厄介な生物を一掃するのかもしれない。

2016年10月31日月曜日

タイ旅行2016年

 9月末に、久々にタイへ数日間行ってきた。プミポン国王が亡くなる少し前だったので、まだ平常どおりのタイを見て、友人たちとも旧交を温めて、楽しいひと時を過ごせたが、今後、タイ社会はどう変わるのだろうか。  

 今回はフアヒンヘ行ったので、プラチュワップ・キーリーカン県内のカオ・サームロイヨートまで足を伸ばした。ここを訪ねたかった理由は二つある。一つ目は1868年8月18日に、ラーマ4世、つまり『王様と私』のモンクット王が皆既日食を観測した場所と言われているからだ。タイでは昔から何事も占星術で決めてきたが、僧侶時代に西洋の天文学を独学した王は仏暦が不正確であることを知った。みずから計算をして皆既日食の日時と適切な場所を割りだし、チュラロンコン皇太子と西洋人の天文学者らの前でその時刻を秒単位で当てて見せたことで、王の威光を国内に示しただけでなく、西洋諸国にもタイ(シャム)人が科学を解する民であることを証明したのだという。モンクット王のこの偉業は、タイが東南アジアのなかで唯一、西洋に征服されることなく、独立を保てた理由の一つと言われる。もちろん、領土の割譲など、それ以外の要因のほうが大きいだろうが、幕末に西洋の技術をいち早く習得して、日本は侮れない国であることを示そうと腐心した幕府の試みと重なるものがある。 

 日食を観測した具体的な地点はわからず仕舞いで、仕方なくグーグル・マップでこの半島の地図を眺めていたところ、ケイヴ・テンプルなる場所を見つけ、とりあえずそこへ行くことにした。プラヤーナコーン洞窟というこの鍾乳洞は道路が通じておらず、小舟で近くまで行くしかない。しかも海岸には桟橋もなく、靴を脱いでズボンをたくしあげ、浅瀬をジャブジャブと歩いて乗り込まなければならない。洞窟までは山道を430メートル登る。まだ雨季の最中で、頭上に雨雲が垂れ込めてきたときに洞窟内に入ると、頭上にぽっかりと開いた割れ目から差し込む光とともに、降りだした雨が銀色の粒になって落ちてくるのが見えた。暗い洞穴のなかでも、割れ目の下だけは植生があり、まさしく恵みの雨に思われた。洞窟のさらに奥に、やはり頭上に大きな割れ目のある広い空間があり、中央にはチュラロンコン王時代に建てられたという祠があった。モンクット王は日食観測のときにマラリアに冒され、その後まもなく永眠したので、息子にとってここは思い出の地だったのかもしれない。

  もう一つの理由は、1941年12月8日、ちょうど真珠湾攻撃と同日に、マレー作戦で日本軍が上陸した地点の一つだと、どこかで読んだからだ。下調べ不足で、実際の上陸地点はさらに40キロほど南の、ラウム・ムワック山という半島の南北にあるプラチュワップ湾とマナオ湾であったことを帰国後に知った。ビルマとの国境まで10キロという地点だ。その他の上陸地点はさらに南部が多く、12月のこの時期に大雨が降るので、作戦当日も荒天で難儀したようだ。ざっと調べたところによると、タイ中部南端付近のプラチュワップでは、陸軍が徴用した輸送船、浄宝縷丸に乗り込んだ千人余りの宇野支隊の一部が、7隻の小舟に分乗して上陸作戦を実行していた。真珠湾攻撃は手違いから宣戦布告が遅れたことで知られるが、同日に奇襲が計画されたマレー作戦では、ハーグ陸戦条約などは無視して、端から宣戦布告する気もなく対英戦に突入した。それどころか、友好国のタイに領土内通過を承認させようとしたのが奇襲の数時間前で、ピブンソクラーム首相はイギリスとの関係悪化を恐れて日本主催の晩餐会に姿を見せず、正式な協定を結ぶことなく午前3時には上陸が開始された。翌日の昼過ぎまで戦闘がつづいて、日泰双方に多数の犠牲者がでたという。

  この時代、英仏日の三国から迫られていたタイは、二重外交で難局を切り抜けようとし、捕虜を使った軍需物資輸送用の泰緬鉄道の敷設という日本側の無謀な計画にも協力した。連合軍側の捕虜約6万5000人の2割ほどが過酷な労働や虐待、疫病、飢えで死亡したことは、映画『戦場にかける橋』などで有名だが、東南アジア各地から連行されてきて、人数すら正確に把握されていない数十万の「労務者」からも7万人以上の死者がでたことはどれくらい知られているだろうか。カンチャナブリーのクウェー川鉄橋やJEATH戦争博物館へは、十数年前に行ったことがある。日本兵に虐待される捕虜を描いた展示物や、連合軍共同墓地に眠る若い兵士たちの墓標を見るのは辛かったが、鉄道そのものは観光地化されていて拍子抜けした覚えがある。靖国神社の遊就館に展示された泰緬鉄道の蒸気機関車前では、知ってか知らでか、若者たちがピースサインを掲げて記念撮影していた。茶番劇として歴史が繰り返される予感がした。

  マレー作戦で主任参謀を務めたのは、最近また著作の復刻版がやたら宣伝されている「作戦の神様」、辻正信中佐だった。終戦はバンコクで迎え、僧侶に変装するなどして「潜行三千里」で東京裁判を免れ、のちに返り咲いて衆議院議員にまでなったものの、謎の失踪を遂げた人物だ。プミポン国王の兄で、20歳で死去したラーマ8世の死に、辻が関与していたという説まである。親日家のピブンソンクラーム首相は、戦後の度重なるクーデターを巧みに乗り切り、1957年の第8次内閣まで政権の座に居座ったが、晩年は日本に亡命して相模原で生涯を終えたという。誰を頼って来日したのか、気になるところだ。日本とタイの思わぬ結びつきを、いまごろになって知る旅となった。

 カオ・サームロイヨート

 プラヤーナコーン洞窟

2016年9月30日金曜日

『雨の自然誌』

 いつか読もうと思いつつ、なかなか機会のなかったスタインベックの『怒りの葡萄』。先日ようやく、ジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演の映画のYouTube版ではあったけれど、観ることができた。プア・ホワイトを描いた話であることは言うまでもないが、ジョード一家がオクラホマの農場を去る羽目になった背景は、どのくらい知られているだろうか。そう、1930年代にアメリカの西経100度線付近からロッキー山脈にかけての大平原、グレートプレーンズで断続的に発生した猛烈な砂嵐、ダストボウルのことだ。  

 梅雨のシーズンには間に合わず、先週ようやく刊行に漕ぎつけられた『雨の自然誌』(シンシア・バーネット著、河出書房新社)という本に、ダストボウルにいたるまでの経緯が綴られていた。そして、そこに『怒りの葡萄』のジョード一家も、荷物をまとめて逃げだした25万人以上の人びとの一部だと書かれていたのだ。映画では砂嵐そのものはほとんど描かれていなかったが、ジョード家のおじいさんは、著者バーネットが書いていたように、「日照りで作物を失い、土地や農耕具、家屋は銀行に取りあげられ」、いよいよ立ち退きさせられる段になると、必死の抵抗をしていた。「うちの爺さんが70年前にこの土地を手に入れ、親父はここで生まれ、わしらみんなここで生まれたんだ。ここで殺されたのもいるし、ここで死んだ者もいる」  

 ダストボウルの70年ほど前と言えば、ちょうど1862年にホームステッド法が制定されたころだ。19世紀初頭、この一帯はまだアメリカ大砂漠と呼ばれていた。アメリカバイソンの群れを追って、移動を繰り返していた先住民だけが暮らせる土地だったのだ。やがて一時的に降雨パターンが変わって降水量が増えた。すると、未開発の土地であれば160エーカー分が無償で自営農地になることがこの法律で定められ、そのうまい話につられて、大量の入植者が押し寄せた。西部の開拓と文明化は神がアメリカ人に与えた「明白な運命」だという宗教的使命感と、「耕せば雨が降る」という幻想、それに大陸横断鉄道敷設という野心と欲得に後押しされたものだった。しかし、実際には雨が順調に降る年のほうが少なく、ダストボウルの時代には10年近く旱魃がつづき、砂嵐で大量の表土が失われた。ジョード一家の祖先がようやく手に入れた土地は、本来、人が定住できるような土地ではなかったのだ。  

 軽快なジャズ音楽で知られるルート66は、ジョード一家や隣人がオンボロ・トラックに家財道具を積み込み、乳と蜜の流れる土地、カリフォルニアを目指してひたすら進んだ砂漠の道だった。著者バーネットが雨に因んだもろもろの芸術作品について書いていた章には、乾いた砂漠の土地を表現した曲として、映画『パリ、テキサス』に使われたライ・クーダーの曲のことが少しばかり触れられていた。ネット上で見つけた動画はルート66から始まり、禿山が連なり回転草が転がるような景観をどこまでも真っ直ぐ貫くハイウェイが映しだされ、ライ・クーダーのボトルネック奏法のブルース・ギターが、押し殺した嗚咽のような、切ないメロディをかき鳴らしていた。  

 1930年代の砂嵐の被害をいちばん受けた地域はテキサスの北部とオクラホマの細長く伸びた「パンハンドル」と呼ばれる地域、および隣接するカンザス、コロラド、ニューメキシコの一部だが、この一帯は現在、冬小麦の産地であるほか、トウモロコシ、綿花なども栽培されている。かつては大砂漠と呼ばれた地域が、アメリカ随一の穀倉地帯となっているのは、ダムや人造湖のおかげでもあるが、なんと言っても、テキサスからサウスダコタまでつづく巨大なオガララ帯水層が地下にあるからであり、その水を汲みあげて潅水するようになったからだ。何年も前のことだが、デトロイト経由でヒューストンに飛んだとき、巨人のオセロゲームのように奇妙な円形が無数に並んでいるのを上空から見たことがある。センターピボットで潅水するために、水が届く範囲だけがきれいに緑色の円になり、それ以外は茶色い土壌が広がっていたのだ。忘れてはならないのは、帯水層の水は何百万年もの歳月をかけて溜められた、氷河期から水だということだ。わずか半世紀ほどのあいだに、その水位は危険なレベルにまでに下がっている。しかも、こうした大規模農場を動かすにも、肥料や農薬にも、大量の石油が使われ、政府の補助金というカラクリで農産物の価格は安く抑えられ、それがまた大量の燃料を使って世界各地へ運ばれ、大量の電気を使って巨大冷凍・冷蔵庫で保管され、世界中の人びとの食糧になっている。  

 日本人にとってはあまりにも当たり前な存在である雨をテーマに、その科学からSF小説、軍事作戦、文学、ロック音楽、雨具の歴史、さらには都市から有害な流去水を海に垂れ流さないための取り組みにまで言及したこの本に取り組んでいた数カ月間、私は雨が降るたびに、雨粒が葉に当たるかすかな音に耳を傾け、空気のにおいを嗅ぎ、うちの壊れた雨樋から窓に落ちる滝を眺め、土砂降りでも道路を冠水させることなく排水されてゆく雨水の行方を追った。ネイチャー・ライティング風のバーネットの美しい文体が、私の拙い訳文でどれだけ日本の読者に伝わるか心許ないが、一部の章だけでも読んで、日々の暮らしを振り返っていただけたらうれしい。

『雨の自然誌』 シンシア・バーネット著(河出書房新社)

2016年8月31日水曜日

長崎旅行

 7月末の小旅行の続編で恐縮だが、佐賀のあと2日半ほど訪ねた長崎でも思わぬ収穫があったので、忘れないように書いておきたい。以前にも書いたので、ご記憶の方もあるかもしれないが、私の母方の曽祖父が長崎の人だった。といっても養子に入ったので、長崎の家については謎だらけだった。今回の「調査旅行」の目的は、祖母がもっていた戊辰戦争時の掛け軸に書かれていた、長崎振遠隊の山口亀三郎との関係を探り、祖母の出生地を訪ねることだった。  

 箱館海戦で戦死した亀三郎は、前年暮れに廃寺にされた大徳寺跡地の大楠神社に葬られた。この墳墓地は梅ヶ崎招魂社と改名され、J. R. ブラックが発行した『ファー・イースト』紙にも紹介された。1939年に全国の招魂社が護国神社と改名され、梅ヶ崎護国神社となったあと、42年に少し北の長崎縣護國神社に移転した。ところが、移転先は爆心地に近かったために大破し、振遠隊関連で現存するものは、仁田佐古小学校裏の墳墓地内の振遠隊戦士遺髪碑と、大徳寺公園にある梅ヶ崎招魂社跡の碑くらいしかない。19歳で箱館湾に沈んだ亀三郎は、英霊の先駆けの忠魂というわけだが、死後も翻弄されたようだ。民家のあいだの狭い階段を上って墓地にたどり着くと、あいにく門が施錠されていた。諦めきれず近くの地区センターに行ったところ、幸いにも鍵を貸してもらえた。墓地内は草木が生い茂り、碑の前まで近づけなかったが、「箱館之役我隊乗朝陽艦」の文字や、明治元年にこの部隊を派遣した「知府澤公」の文字は見えた。長崎府知事の澤宜嘉は文久3(1863)年に「七卿落ち」した1人だ。彼はすぐ外務卿に栄転したので、亀三郎への通達では府知事名は清原朝臣となっていた。  

 翌日、長崎歴史文化博物館の資料室で振遠隊について検索してみると、山口誠一という名前が目に留まった。娘が高校生のときに調べたノートにあった名前なので、閲覧させてもらった。「振遠隊人別山口誠一と葡アントニー・ロレイロ混雑一件、明治3年」と題された文書を開いてみると、密封されていた明治初期の空気が漂いだしたかのようだった。山口誠一自筆の文書は、達筆過ぎて読めなかったが、「元振遠隊山口順太郎祖父、山口誠一」という署名は読み取れた。順太郎という名は通達に書かれていたので、山口誠一の息子が亀三郎で、享年19歳の彼に順太郎という息子がいたということか。この文書には、英文の書類も同封されていた。これは判読できたので少し調べてみると、書き手はなんとデント商会で『長崎ガゼット』紙を発行していたアントニオ・ロウレイロだった。「混雑一件」は、彼のもとで働いていた誠一の弟に、長崎在住の商社名をカタカナで版木か何かに彫らせる仕事を与えたところ、納期を守らずトラブルになった挙句に、誠一が侍を連れて乗り込んできて暴言を吐いたという事件だった! 山口誠一は血気盛んなお方だったようだ。  

 祖母については、死亡時に取り寄せた戸籍があったはずなのだが、旅行前に捜してもらったものの見つからず、諦め半分で長崎市役所に立ち寄ってみた。私と祖母の関係を証明する書類一つもたず、窓口で恐る恐る尋ねたところ、担当者がそれは熱心に調べてくれ、祖母や曾祖父母の生年・死亡日、養母の名前などを伝えると、方々の役所に電話で確認し、複雑な経緯が切り貼りされた除籍謄本を二時間かけてだしてくれた。おかげで、祖母の本籍が今魚町だったことや、曾祖父の熊本の実家、曾祖母の下関の実家なども判明した。今魚町という町名はもはやないが、市職員の話と博物館で見た古地図から、魚の町付近だろうと見当をつけて行ってみると、江崎べっ甲という江戸時代からの老舗が見つかった。ゼロの桁が多すぎてお土産は買えなかったが、店員に聞いてみたら、やはりかつては今魚町と呼ばれていたそうで、古い看板にもそう書かれていた。大津事件前に、皇太子だったニコライ2世が来店したこともあり、その記念写真を店主の親戚の上野彦馬が撮影していた。彦馬は私の祖母が生まれたときにはすでに亡くなっているが、祖母の幼少期の一連の写真は、養家を継いだ証として、彦馬の後継者に撮影されたのかもしれない。長崎には当時、多くのロシア人が住んでいたため、江崎べっ甲の表看板にはロシア語も書かれている。曽祖父がロシア語を学んだ理由がようやく見えてきた気がした。  

 今魚町は、多数の石橋が架かる中島川の中心地にあり、偶然にも私はその前日、袋橋の欄干に座って眼鏡橋をスケッチしていた。もう一度、川沿いを歩いた際に、ふと見た案内板に私の目は釘付けになった。原爆がもともと小倉に落とされる予定だったことは知っていたが、長崎市の投下照準点は、袋橋の一つ手前の常盤橋から賑橋だったのだ。ところが、雲に覆われて目視できず、雲の切れ目から見えた浦上の軍需工場が目標にされたという。  

 長崎滞在の最後の日は朝から浦上へ行った。幕末に長崎にきたフランスのプティジャン神父が、ここで隠れキリシタンに出会った「信徒発見」は、奇跡として世界中で歓迎された。だが、迫害は明治になって澤宣嘉府知事のもとで過酷さを増し、1873年までに662人が命を落とした。1945年8月9日には、爆心地から半キロの距離にあった浦上天主堂は瞬時に倒壊し、2人の神父と18人の信者が下敷きになった。炎天下の浦上地区を歩きながら、上空の雲の切れ目のせいで7万4千人と言われる人びとが命を奪われた不条理を味わわされた。

 佐古墳墓地

『ファー・イースト』に掲載された梅ヶ崎招魂社

長崎大学所蔵の古写真から墓碑に山口亀三郎の名が読めました

 祖母がもっていた長崎符からの通達の巻物

 江崎べっ甲

 明治40年の長崎市地図