2024年2月10日土曜日

宣伝およびレゴ熱その2

 迫る締め切りを前にまだ悪戦苦闘中だが、取り敢えず本文を訳し終えたので、全体の見直しに入る前にちょっとばかり宣伝と近況報告をさせていただきたい。 

 ◉「懐かしい仲間、新しい響き」 
2024年3月22日(金)19:00開演 すみだトリフォニー小ホール 
 全自由席 一般3000円、学生2500円 

 私の姉のまどかが音楽仲間と室内楽のコンサートを開きます。船橋高校時代や、桐朋学園、東京芸大でともに学び、その後の人生のなかでママ友だったり、同じ職場で教えていたり、ニューヨークで一緒に演奏活動をしたりと、さまざまな形でつながってきた演奏家たちが集まったものです。アラ還になっても、こうやって一緒に活動できるのは、音楽家ならではだなと思います。お近くの方、ご都合のつく方、ぜひいらしてください。 

 ◉『あかちゃんの おさんぽ えほん』とうごう なりさ作、福音館書店(3冊シリーズ) 
『たんぽぽのはら』 
『あ!てんとうむし』 
『からすが かあ!』 
各990円、3冊セット箱入り 2,970円 

 こちらは娘のなりさが随分長期にわたって取り組んできた赤ちゃん用の絵本で、3月6日発売されます。3冊いずれも、赤ちゃんが表に出て最初に遭遇するような生き物を題材にした、他愛もないお話です。書店で見かけたら、どうぞお手に取ってご覧ください。出産祝いなどに、ご利用いただけるとなお嬉しいです。ちなみに、通常の書店だと箱入りは店頭では仕入れてくれず、注文になることが多いそうです。


「懐かしい仲間、新しい響き」コンサート
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『あかちゃんの おさんぽ えほん』
 これが専用の箱になっていて、以下の3冊がうまく収まります

 さて、近況のほうは、例のレゴ熱のその後、である。先月つくったカワセミにどんなパーツを使ったか教えて欲しいと、娘の知人からリクエストがあったのを口実に、まずは足の部分の改良に取り組んだ。その後、脚をもっと長くすればヤイロチョウの仲間もつくってタイの友人へのお土産にできるかもしれない、いや、カラスをつくれば、ちょうど近々刊行される娘のカラスの本ので宣伝に使える、そうだ柿の木に止まらせよう、とどんどんエスカレートした。あげくの果てに、孫が葉っぱのパーツを使ってクジャクに挑戦しているのを見て、同じパーツの白を入手して飾り羽にすればアオサギもつくれるかも、等々、どんどん泥沼にはまって行った。アオサギはとくに、長い脚になる黄色いパーツがあまりないため何度もやり直し、それでも「すぐ首チョンパになるし、ばらばらになるから嫌い」と孫に言われ、またつくり直すはめに。ある程度の形を、色を選んでつくることと、出来上がったものがただの置き物ではなく、それなりの強度で幼児が一応もって遊べるものにすることには大きな隔たりがある。最終的に、車輪をつけるためのホイールホルダーで飾り羽を固定することを思いついたときは、われながら嬉しかった。 

 そんなこんなで、パーツ店のサイトをこれまで以上にとくと眺めているうちに、ピアノの鍵盤がプリントされたタイル(表面にボッチがないパーツ)を見つけた。年末の発表会のあと、気が抜けて練習をサボりがちな孫を励ますつもりで、レッスンバッグにつける飾りをつくったところ、同じタイルを並べると、ちゃんと一続きの鍵盤になることに気づき、レゴでピアノもつくれるかと考えだした。驚いたことに、検索してみたら、つくれるどころか実際に動く鍵盤と弦やハンマー部分まで精巧に再現し、自動演奏できるレゴのグランドピアノの高級セットまであることを知った。 

 もちろん、そんなものを買う余裕も、その気もなかったが、ごく小さいアップライトのピアノならばつくってみたいと思った。モデルは、うちにあったヤマハの茶色いピアノだ。音楽の道に進むことにした姉がいつでも練習できるようにと母が奮発して買った2台目のピアノで、その後はグランドに替えたために、いとこの家に譲り、団地の建て替えでそのグランドを手放したときに、また母のところに戻ってきたものだった。耳の遠くなった母がピアノを教えるのをやめたのち、オーバーホールをして姪の家に運んだ。姪の子がこのほどピアノを始めたそうだ。 

 その茶色いピアノのミニチュアをつくって、おばあさんのミニフィグを座らせたら、生涯ピアノと縁のあった母にふさわしい飾りになるではないか。というのを口実に、またもやピアノづくりに入れ込んだ。ピアノのカーブは、鳥づくりで鍛えたおかげで簡単に思いついた。ペダルはうちにあったピアノと同様に、爪パーツを使って3本ペダルにした。背面は当初、ブロックを積み上げて平らに仕上げていたが、本物は響板と響棒がむきだしになった構造なので、支柱だけに替えてみた。マンションの手抜き工事みたいだなと思いつつ、余ったブロックは孫のレゴ箱に入れて活用してもらうことにした。パーツ店のサイトにあった楽譜は、「星に願いを」の出来損ないのような曲でちょっと残念だったが、楽譜をつけたおかげで雰囲気は出た。ネット上に作り方が公開されていたアップライトピアノは100近いピースを使っていたが、私のは椅子や照明を入れても50ピース弱で、ずっとお手軽版だ。これを機に、ビニール袋に入れたまま飾っていた母の写真も小さな額に入れたので、何やら仏壇代わりになった。 

 この間に細々としたパーツをいったい何回注文したことやら。パーツ店からも配達してくれる郵便屋からも、呆れられているだろう。そろそろ本当に終わりにしなければと思うのだが、あとまだ数点はつくってみたいものがあって困ったものだ。これも一種の依存症に違いない。

 増えに増えたレゴ鳥たち

 孫につくってやったピアノの飾り

再現してみたピアノ。本来の色はもう少し薄く、譜面台や蓋はかなり省略し、脚部はもう少し緩く先細りになっていたが、下にあった金属製の帯まで忠実に!

もちろん、連弾もできます

2024年1月18日木曜日

『国境と人類』

 昨年の大仕事、『国境と人類:文明誕生以来の難問』The Edge of the Plain, ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)がようやく形になった。ここで試し読みができます。この本は、いまの混沌とした世界情勢を読み解くうえで、驚くような視点を与えてくれるものだが、肝心の「国境」という言葉が、多くの日本人にとってどれだけピンとくるものなのか、やや心許ない。本書のなかではborder, borderline, frontier, edge, borderlandなど、いくつかの用語が使われていた。かならずしも「国境」でない場合は「境界」と訳し、辺境地、外れ、国境地帯などと訳し分けるなど、試行錯誤しながらこの概念について考えつづけた。 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という『雪国』の冒頭の一文は、上野国と越後国の「くにざかい」だった。江戸時代までの国境や藩境は、主要な街道沿いに関所や口留番所が置かれる程度で、ただ境界を示す木や石碑が建てられていた場所も多かった。日本では弥生時代の環濠集落や九州地方の山城、戦国時代に建てられた城などには周囲をぐるりと囲む障壁があったが、平安京なども南側の羅城門の両翼にしか城壁はなかったようだ。 

 海という自然の障壁に守られた島国日本でも、隣国からの領空・領海侵犯や、弾道ミサイルや人工衛星の落下を日々心配している人は確かにいる。だが、その海の向こうから実際に敵が攻めてくる経験をした世代はもう残り少ない。現代の日本人にとって、国境を越えるということは、たいがいは空港の搭乗口からいつの間にか機内に入ることを意味する。何時間か機内で過ごしたあと、同じようにボーディングブリッジを抜けると、もう外国の空港にいる。以前はタラップで乗り降りする飛行機も多かったので、少なくとも外国の地に「降り立った」という感覚はあったが、いまはそれすらめったに味わえない。 

 私が陸路で初めて国境を越えたのは、ソ連時代のモスクワから鉄道でチョップという駅(現在はウクライナ領)に着いたあとのことだった。1時間半ほど列車を止めての検問だった。中学生だった私は、「ものすごく“か”のような虫が多いのでいっしょうけんめい追いだしたとおもったら、検査の人たちが来て、また虫が入ってきてしまった。機関銃をさげている人がいたり、ベッドの下を見たり……ずいぶんきびしかった」と、旅行記に書いていた。 その後、チェコスロバキアを通ってオーストリア、スイス、フランスと列車の旅をつづけ、ドーヴァー海峡を船で渡ってイギリスにまで行き、友人一家とカーディフからエディンバラまで行く途中、ハドリアヌスの長壁の上も歩いたので、何度も国境を越える体験をしたことになる。「ローマン・ウォールというイングランドとスコットランドのさかいにある石がきの上を歩いた。もしゃもしゃの牛が何頭もいて、さくがなかったのでちょっとこわかった」と、旅行記には書いていた。羊や牛の柵にしか見えなかったこの石積みが意味したものも、本書で触れられていた。夜な夜なトマス・クックの時刻表を調べてこのヨーロッパ大旅行を計画し、イギリスではレンタカーを借りて長距離を運転してくれたのは亡き母だった。中学生で、かけがえのない経験をさせてもらったと思う。 

 数年後にアメリカの高校に留学したときは、とくに希望したわけでもなかったが、アメリカとメキシコの国境にあるテキサス州エルパソで1年弱を過ごすことになった。近年、中南米からの移民問題で、ニュースでも何度か名前を聞くことはあったが、『国境と人類』ではすっかり変わってしまったこの都市の様子が何度か触れられていた。 当時、リオグランデ川を挟んだ対岸のシウダッド・フアレスとエルパソは双子のような都市で、国境から3キロほどの距離にあった高校には、メキシコ側から毎日、自分で車を運転して通学してくる同級生がかなりいた。私が住んでいた地域は、リオグランデが北西に方向を変え、ニューメキシコ州内を抜ける流域に近く、この川から引いた灌漑用水路が裏庭の後ろにあって、その先には綿花畑が広がっていた。この土手沿いに毎日ジョギングしていた私は、ときおりテキサスとニューメキシコの州境まで走っており、川まで往復4マイルほどを走ったこともあった。当時は地図をもっておらず、私の頭のなかでこの複雑な地理はまったく理解できていなかったが。 

 一度など、ホストファミリーとフアレスの街に食事に出かけた際にパスポートを忘れ、エルパソに戻る際に気づいて青くなったこともあった。往路はそのまま通れたが、復路では検問があり、口頭で国籍を聞かれるのだった。「US」とアメリカ人風に発音する練習をさせられ、その甲斐あって無事にお咎めなく家に帰ることができた。滞在中、ホストファミリーには熱気球乗りから乗馬や射撃まで、じつに多様な経験をさせてもらったが、いま思えば、国境地帯に暮らした経験そのものも、本当に貴重だった。 

 私がエルパソに滞在していた1980年ごろもニュースでときおり移民問題は報じられていたが、フアレスに住むメキシコの友人たちは裕福そうだったし、エルパソ側にもスペイン語を母語とするヒスパニックの人が大勢住んでおり、傍目にはよく融合して暮らしているように見えた。米墨戦争の終結から1世紀しか過ぎていない時期に、かつてのメキシコ領にその子孫が住んでいたのは、考えてみれば当然だったのだろう。もっとも、エルパソの貧民街(「電気もきていないような所」)のことや、「川をへだてただけですべてがちがう」メキシコの貧しい街を見て驚いたことなども、当時の手紙に書いていた。 

 アメリカ全土で状況が変わりだしたのは、1993年にエルパソの国境警備が厳しくなったことが発端だったという。エルパソで越境できなくなった移民が、アリゾナ州のソノラ砂漠を越え始めたことによる悲劇を綴った章を訳しているころは、ちょうど母の容体がどんどん悪くなっていた時期だった。過酷な状況で若い命を失っている移民たちの現実を翻訳していたことが、逆説的なようだが、母の死を受け入れさせてくれたのだと思う。何と言っても母は、平和な日本の病院で、手厚い看護を受けながら天寿をまっとうしたのだから。 

 学生時代にヨーロッパを2カ月間放浪したときも国境を何度も越えた。シェンゲン協定の10年以上前だが、西ヨーロッパでは切符の車内改札時にパスポートを見せた程度で国境を通過していた。唯一、ハンガリーに留学中の姉を訪ねるため、ウィーンから乗り込んだオンボロの「オリエント急行」では、乗車してすぐのパスポート・コントロールのあと、実際に国境を越える際に、「いつもとはちがった雰囲気で調べられ、おまけに懐中電灯でイスの下まで照らされて、なかなかきびしい感じを受けた」と、これまた古い旅行記で再確認した。 

 本書には、国境/境界の概念が疫病対策で強化されたことを指摘する興味深い章もあり、コロナ禍に振り回されたこの数年間を振り返るよい機会にもなった。 

 原書は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったころに執筆を終えているため、国境をめぐるこの紛争に詳しく言及してはいないが、ごく最近閉鎖されたフィンランドとロシアの国境での興味深いエピソードなどは盛り込まれていた。著者はヨルダン川西岸地区を訪ねており、校正段階に入ったころに始まったガザ侵攻のニュースは、その背景が理解できていただけに身につまされるものがある。 

 年末ぎりぎりまで校正するなかで、気になっていながら、うやむやにしてしまった問題が一つあった。原書ではエレモス・コーラ(eremos chora)という古代ギリシャ語と、その英訳であるno man’s landという言葉で、たびたび言及されていたものを「無人地帯」と訳したことだ。もちろん、場所によっては38度線の軍事境界線のように、文字どおり「無人」地帯のところもあるのだが、実際には通常「無主地」と訳され、「無主地先占」という植民地主義に関連した文脈で出てくるテラ・ヌリウス(terra nullius)と同じなのではないか、という疑問だ。テラ・ヌリウスは一般には、尖閣諸島や竹島のような問題で使われる。No man’s landの英語のウィキペディアのサイトには、しっかりとテラ・ヌリウスと混同するなと書かれているが、両者の定義にはほとんど差がなく、双方を同義に使っている人もかなり見受けられる。せめてその旨を訳註で入れておけばよかった、と後悔している。 

 昨年1年、この作品に接したことで、国民国家とは何かという根源的な問いをはじめ、じつに幅広い問題を考えさせられた。先の見えないこの時代を考えるうえで、ぜひ一度お読みいただきたい。著者クロフォードはまだ40代のスコットランド人で、日本ではおそらくほとんど知られていないと思うし、450ページを超える長編だが、最後まで飽きることなく読める一冊になることを請け合いたい。発売は今月末の予定だ。

『国境と人類:文明誕生以来の難問』(ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)と原書(左側)

ハドリアヌスの長壁の上を歩く
(1975年8月撮影)

エルパソ近郊。川の流域以外は禿山と砂漠が広がっていた(1980年撮影)

通っていたエルパソの高校で
 
パリからブダペストまで延々と乗った列車の時刻表

2024年1月17日水曜日

レゴ熱

「これ□□ちゃんのおばあちゃんに似てない?って言われた」と、年末に近所のママ友の家で夜遅くに「大人レゴ」をしてきたという娘から、一枚の画像を見せられた。そこには灰色のもっさりした髪のおばあさんのミニフィグが写っていた。どうやら私のことらしい。 

 レゴの小さい人形であるミニフィグの存在は、娘が3、4歳のころに買ってやった「南海の勇者シリーズ」の小さなセットで初めて知ったが、当時は黄色い顔に鉤手の海賊人形にはとくに関心をもたなかった。その後、奮発して買った「お城シリーズ」に、暗い場所では光る幽霊や青い服の魔法使いがいたのは覚えている。この中世のお城のセットは可動する跳ね橋などが魅力的だったが、土台部分が大きな塊として成形されており、用途が限定され過ぎていた。幼稚園児が遊ぶには細々としたパーツが多過ぎるとも思った。

  レゴは自由に組み立ててこそ楽しいと思うのは、私自身がレゴっ子だったからだ。レゴに夢中になって遊んだのは小学校の低学年までなので、どうやら日本で1962年から67年にかけて朝日通商が販売した最初のレゴで遊んでいたようだ。レゴ社が現在と同じABS樹脂のブロックを発売し始めたのが1963年らしい! いまだにレゴに愛着があるのは、三つ子の魂というやつだろうか。当時のブロックは白、黒、赤、黄色、青、透明しかなく、大半は基本のブロックで、薄いプレートと赤いスロープ、タイヤとタイヤをはめる穴付きのブロックが数個あったくらいだった。シャッター部分が開閉される車庫や、ボッチで固定されておらずよく倒れる木もあった。ウィキによると、当時の価格で数百円から数千円と高額で、都市部のデパートなどでしか売っていなかったそうだ。裕福でなかったわが家で、母がなぜレゴを買い与えたのかはもう知る由もないが、教育熱心だったので、知育玩具として興味をもったのかもしれない。もっとも、母がレゴで一緒に遊んでくれた記憶はなく、代わりに叔父が赤いスロープを屋根瓦にするのを見て感心したりしていた。  

 レゴが知育玩具だなどと私が知ったのはずっとのちのことで、『なぜ本番でしくじるのか』(バイロック著、河出書房新社、2011年)を訳した際に、男女の空間認識能力の差が、子どものころの遊びに起因すると書かれており、その一例としてレゴが挙げられていたためだ。「アメリカで毎年売られているレゴのほとんどは男の子向けのものだが、レゴは高い玩具なので、低所得者層では男の子も女の子もあまりレゴを見たことがない」という同書の指摘に、私は意表を突かれた。数学は好きではなかったが、幾何だけはわりと得意で、立体を描くのに苦労もしなかったのは、幼いころのレゴ遊びのおかげだったのかもしれない。レゴのボッチの数や、ブロックの厚み・幅の違いは数の概念や分数を理解させるうえでも役立っていたはずだ。私がもっていた古いレゴはまったくジェンダーレスの玩具だったし、娘の時代のレゴセットは、アーサー・ランサムやC・S・ルイスの本を愛読した私には心惹かれるテーマだったが、そう言われてみれば男の子向けだったのだ。  

 子ども時代のレゴの一部は、娘に買ったレゴと一緒に巨大な箱に収納されていたが、母が誰かにあげてしまい、しばらくレゴから遠ざかることになった。のちに『エンゲルス』(ハント著、筑摩書房、2016年)を訳していたころ、ネット検索中に偶然、誰かがマルクスとエンゲルスをミニフィグで再現している画像を見つけ、とっつきにくかった彼らに親近感を覚えたことがあった。何しろ、そのヒゲが、昔娘がもっていた魔法使いのと色違いだったのだ。レゴ人形がミニフィグと呼ばれていることも、そのとき検索して初めて知り、しかも顔、髪、上半身、下半身、髭、持ち物等々、組み合わせられるパーツを売っているネットショップがあることもわかったが、飾っても仕方ないかと、このときは思いとどまった。 

 その後、赤ん坊にしてはやけに髪の多い孫が生まれ、半年も経つとまるで帽子をかぶったような、ミニフィグのかつらのような不自然な髪型になり、どうしても孫のミニフィグ人形が欲しくなった。孫用のパーツを頼んだついでに、以前から欲しかったエンゲルス分のパーツも注文したのがレゴ熱再発の始まりだった。その孫がブロックを口に入れる危険がなくなった2歳ごろに、レゴの大きめの基本パーツをまず数個だけ与え、一緒に遊べるようにと娘一家のミニフィグもつくってやった。最初はどうしてもブロックがはずせなかった孫が、できるようになってまずやったことが、ミニフィグの髪をはずして坊主にし、髪を取り替えっこする遊びだった。このミニフィグたちは、のちにアンニョン・タルの絵本『すいかのプール』を読んだあとに、すいかのなかで泳ぐことにもなった。 

 最近のレゴには、女の子用を意識したと一目でわかるピンク、紫、水色が多用されたお城やお店のセットなどがあるが、食指が動かない。ミニフィグも「肌色」のものが増え、さらには茶色の肌のものも登場し、体型も変化して普通の人形と変わらないシリーズもある。でも、ミニフィグは不恰好な黄色で、いろいろ組み合わせて楽しめるほうが、レゴらしくていいと私などは思う。 

 娘は私ほどレゴにはまることはなかったが、年末の「大人レゴ」で近年増えた新しいパーツの面白さに気づいたらしく、最近出たばかりの「鳥のおうち」セットを孫に買い与えていた。鉤手付きのパーツに横棒付きのパーツを差し込むと蝶番のようになって羽が動かせたりする鳥が5羽もついているセットだ。娘が仕事をするあいだに孫とそれを組み立てる係が私に回ってきたが、2羽つくったあとは孫が一人でつくれるようになっていた。出来上がった鳥たちは足の角度も変えられ、目も若干動いて表情が出せ、なかなかよくできていた。

 だが、5羽の1羽はカーディナルに似ていたが、残りは何かわからなかった。鳥となると、種を特定しないと気の済まない娘が、それらの鳥をつくり替えたいと言いだし、そのお役目も私に回ってきた。驚いたことに、孫はすでに複雑なパーツの違いを見分けており、左右に目をつけるのに使うブロックは、普通のタイプとは異なり両側にボッチがあることなどに気づいていた。まずは色を少し変えれば何とかなる種を孫と一緒に考え、メジロとコマドリをつくるために違う色のパーツを探すはずだったのだが、そのうち尾を長くすればサンコウチョウになるかなど、いろいろ欲が出てきた。 

 レゴ・パーツ専門店のサイトで膨大な種類のパーツの見分け方がわかってくると、いや、カワセミもつくれるかもしれない、サンコウチョウのアイリングにはこの丸いパーツが使えそうだ等々エスカレートし、単価8円から数十円の注文するのも気の毒な諸々のパーツを、120点以上もポチっていた。例のおばあさんミニフィグ用の灰色の髪とボディも注文した。週末だというのに、ネットショップからはすぐに発送連絡がきて、日曜にも配達されるゆうパケットで、それらのパーツが正確に注文どおりに届いた。単価の非常に安い膨大な種類のパーツの綿密な在庫管理をしながら、それぞれを1個、2個と注文する私のような迷惑な客のリストにもとづいてそれらを選び、数をかぞえて、合っているかどうか確認し、梱包して発送する……。ちゃんと商売になっているのか、従業員はうんざりしていないのか、つい気になってしまった。 

 現物のパーツがないまま、雑なスケッチと頭のなかで組み立てて注文したカワセミは猫背になり過ぎて、大きなランドセルを背負った小学1年生みたいになったが、それはそれでかわいい。画面上で見た色がイメージと違っていたり、目立たない部分のパーツを注文し忘れていたり、個数を間違ったり、あるいは別のパーツを思いついたりで、結局、どの鳥ももう一度、あれこれやり直しが必要になり、再度、パーツを大量注文することになった。

 肝心の孫は、大人主導で完璧なメジロやコマドリをつくることには興味を失い、好き勝手にパーツを組み合わせて遊び始め、一方の娘は「尾羽が長過ぎる」とか、「この部分は黄色がいいんだよね」と、細かい注文をあれこれつけ、諸々のリクエストをまとめている私に向かって「結局、最後までやっているのはえりば(私のあだ名)だね」とからかう始末。工作好きの私は昔から、娘に「つくって〜、つくって〜」と言われて、よく乗せられていたが、今回もまんまと罠にかかってしまったようだ。 

 まあ、このところずっと、締切りが迫るなかで翻訳マシンと化して溜まっていたストレスは、レゴ鳥づくりでいくらか解消されたかもしれない。ただし、これ以上はまると本業に差し障るので、そろそろ終わりにしなければ。

レゴ鳥たち。まだつくり変えたい部分があちこちにあるけれど、一応それらしく見えてきたか。サンコウチョウ、メジロ、コマドリ、カワセミ、エナガ(赤い鳥はもともとのセットのもの)

いつのまにか増えているミニフィグたちと、孫がつくったダイサギ!

最初に組み合わせてつくったミニフィグ

自費出版した折にも、表紙に使わせてもらった写真の松平忠礼のミニフィグを馬とともに記念に買った。横に立つ私の高祖父はヒゲを外したエンゲルスで代用

すいかのプール!

2023年12月31日日曜日

除夜の鐘

 横浜に住むようになって20年あまりになるが、毎年暮れから正月にかけて、船橋の母のところで過ごしていたので、横浜でお正月を迎えるのはじつは初めてだ。娘のなりさが絵本『じょやのかね』(福音館)で描いたお寺で孫に除夜の鐘を撞く機会をとうとう与えてやれなかったというのが、昨春、船橋の借家を退去するに当たって大きな心残りとなっていた。年末が近づき、諦めきれずに調べてみたら、自転車で行ける範囲に、除夜の鐘を撞くことのできるお寺がそれなりにあることがわかった。  

 うちの近所の品濃町は旗本の新見氏の知行地だったところで、近くの白旗神社の由緒書きにも、新見家の何人かの当主がかつて神社の脇に埋葬されていたと書かれている。昭和になって東戸塚一帯が開発された際にお墓は移設されたそうで、自治会の街歩きニュースか何かを見て、その共同墓地も訪ねてみたこともある。10代目の新見正興は立ち居振る舞いが立派な美男だという理由で遣米使節団の正使に抜擢され、村垣範正や小栗忠順とパウアタン号に乗って太平洋を横断して、日米修好通商条約の批准書を交換した人としてよく知られる。正興は明治に入ってまもなく病死し、あとに残された娘たちは柳橋の芸者として売られたと言われる。そのうちの一人が公家の柳原前光に妾として囲われ、二人のあいだに生まれた娘が歌人で、大正三美人の一人、柳原白蓮となった。  

 江戸住まいだった正興の墓所は中野区の願正寺にあるそうだが、新見家祖先の位牌は近所の北天院が預かっているという。このお寺は何度か訪ねたことがあり、境内の奥にシュロの幹を撞木にした梵鐘があるのを知っていたので、せっかくならそこに行こうということになり、大晦日の晩に、すっかり寝入っている5歳児を揺り起こして出かけた。静まり返った街に、すでに鐘の音が聞こえてくるなか、自転車を漕いだ。  

 山寺と呼べるようなお寺の長い石段には明かりが灯って幻想的な雰囲気になっており、雲間から顔を出す月の下に近所の檀家さんと思われる人たちがちらほら集まり、ご住職がお経をあげていた。お経が終わると、一人ずつ順番に鐘を撞き、終わると数を数えるためか、銀杏を筒のなかに入れて交代する。孫は間近に聞く鐘の音に怯え気味だったが、娘と一緒に上手に撞いていた。私は勢いをつけ過ぎて、やたら大きい近所迷惑な音になってしまった。甘酒は熱々に温めた缶入りのものが振る舞われ、飲んでいるうちに幸せな気分になった。そのころには近所の人たちが次々に列に並んでおり、小学生もそれなりに見られた。  

 頑張って夜中に自転車を漕いだ甲斐は十分にあった。遠くから別のお寺の、違う音色の鐘も聞こえるなか、「かねのおとが だんだんとおざかる」と、孫が絵本のなかの一節をつぶやいていた。こうして平和に大晦日が迎えられることのありがたさを噛み締めた。

 近所にある新見氏の墓所
(2022年10月撮影)

2023年12月26日火曜日

年末のニュースから

 書きたいこと、書いておかねばと思うことは山ほどあれど、そのためには頭のなかを整理するだけの時間と気持ちのゆとりが必要だ。このブログもしばらく放置してしまったので、年末を前に備忘録にしかならないが、『毎日新聞』の有料記事ばかりだが、最近気になったいくつかの新聞記事を挙げておく。 

 12月19日朝刊の世界人口考「若者流出 少子化追い打ち」「反移民 欧州のジレンマ」は、人口流出と移民問題に悩むポーランドからの非常に考えさせられる記事だった。1989年の東欧革命で旧共産圏から脱し、EU加盟、シェンゲン協定を経て、欧州有数の移民送りだし国となって若者の国外流出、人口減少がつづく現状を報告するものだ。若者がいなくなることについて「そりゃ寂しいですよ。だけど、高い給料がもらえるほかの国で働きたいと思うのは当たり前のこと。それが資本主義の自由だから」と語る時計家の言葉が、強く印象に残った。移民を送りだす国が、入ってくる移民に寛容かというと、そうではない。ポーランドはウクライナ侵攻後に100万人以上の避難民を受け入れたが、その直前にシリアやイラクからの難民の流入を固く拒んだことは記憶に新しい。実際、この記事によると、国内で反イスラーム感情は高まっているという。労働者不足を補うためには、文化的に近いウクライナやベラルーシの人びとが好まれるようだ。若者が出て行ってしまう国に、彼らが就きたくないと思った仕事を求めて移民や出稼ぎ労働者が入ってくるという構図は悲しい。それがはたしてポーランド人が憧れた自由だったのだろうか。  

 ポーランドからの記事から数日後の23日に読んだ「神戸、京都 危機感あらわ」という、日本国内の「消滅可能性都市」の問題をまとめた短い記事も悩ましいものだった。コロナ禍で若干進んだ地方への人口移動はすでに落ち着いてしまい、東京圏にますます人口が集中しているのだという。65歳以上が人口の65%以上を占める群馬県南牧村では、介護施設を整備して雇用を生みだして対策を取っているそうだ。南牧村は、八ヶ岳の赤岳から天狗岳にかけての稜線の東側に広がる、船橋市と八千代市を足したほどの面積130㎢の広大な村だが、人口は3200人強しかいない。野辺山の滝沢牧場は、昔、何度か訪ねたことがある。野辺山には世界最大級の電波望遠鏡がある観測所もあるのに、近年は研究費が減らされる一方で、村の活性化には役立っていないようだ。南牧村は移住者を募っており、総務省がまとめ役となっている地域おこし協力隊として、任期3年でこの村で活動する外国人もいる。地元にうまく溶け込める少数の優秀な移住者が徐々に増えていけば、過疎の自治体にとってはありがたいことだろう。ただし、成り手のいない3Kの仕事に、技能実習生を安い労働力として雇って二級市民をつくるような発想はいただけない。 

 クリスマスの朝には、朝刊の一面が「朝鮮人虐殺 新公文書」という見出しで、関東大震災後から数カ月後に熊谷市内で、警察が保護した朝鮮人のうち、夜間に護送した40数人が殺気だった群衆に殺された件に関する熊谷連隊司令部作成の報告書が発見されたと報じていた。関連記事の「民衆心理 慎重解明を」 では、「とっぴな流言が広く信じられ、自警団が進んで『不逞鮮人』を探し歩き、広範囲で虐殺が多発したのはなぜか」と問いかける。「国家ぐるみ 隠蔽か」と題された記事も興味深かった。 

 この記事を読みながら脳裡に浮かんだのは、「パクストン・ボーイズ」のことだった。スコットランドとアイルランドの長老派教会の武装集団がアメリカ先住民のコネストーガ族の村を襲い、襲撃後に連れてこられ監獄に避難していた生き残りの村人まで一人残らず虐殺された事件だ。これは1763年にJ・メイソンとC・ディクソンがペンシルヴェニアとメリーランドの両植民地の境界線を定める測量任務に乗りだした時代に起こった事件で、来年一月に刊行予定の訳書『人類と国境』(ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)で、人類が初めて地球上に直線を引くようになった出来事として取り上げられていた。定規で引いたような四角形が並ぶアメリカやアフリカの地図を見て子どものころ不思議に思ったものだが、それが意味するものを改めて認識させられることになった。 

 25日の朝刊には、同じくらい考えさせられる「ガザ『正義』の綱引き」という記事もあった。「自分たちが掲げる『正義』の戦いに参戦を呼びかける綱引き」に関するものだ。記事のなかで「幼少期に繰り返し強い心身の危険にさらされると、その3割が複雑性PTSDを発症する」という指摘が印象に残った。このストレス障害をかかえる人は、怒りや恐怖の感情を制御しにくく、リスクを伴う自虐的な行動を取る、復讐心や不信感が強くなるなどの傾向が見られるという。一方、ホロコースト生存者の親がかかえるトラウマが、子どもの精神衛生に影響をおよぼすことも判明している。この記事はエルサレム特派員だった2014年に、イスラエル軍幹部とハマース司令官の双方を取材した専門記者、大治朋子氏の記事で、双方が「敵」を「非人間化」し、暴力をもって「正義」を教えてやるしかないと考えていたことに驚かされたそうだ。 

 子どもにたいする性犯罪やネグレクトが、生涯にわたって精神に深い傷を残すことを考えれば、75年にわたって占領され、縮小する一方のパレスチナ自治区で生まれ育ち、10歳児ですらすでに3度の大規模戦闘を経験しているというガザの子どもたちの将来に悲観的にならざるをえない。2000年から2倍になって222万人になったというガザの人口の約半数は子どもなのだ。(https://en.wikipedia.org/wiki/Gaza_Strip )

 コロナも一段落して、少しは明るい話題が増えてくることを期待していたが、何やら世の中はいっそう先行き不透明になっている。UNHCRによれば、80億を超える人口のうち、1億以上が紛争や迫害によって故郷を追われている。国際移民数は2021年の段階で2億8100万人という。 日本はいまのところまだ蚊帳の外にいる感があるが、この波はいずれこの島国にも到達するだろう。少子化、過疎化の問題と併せて、各自治体が真剣に考えねばならない時期にきている。 

 喪中のため、年始のご挨拶は失礼させていただきます。
 どうぞ皆さまよい新年をお迎えください。
 
年末に娘一家に誘われて三浦の海岸でバーベキューを楽しんだ。遠くに大島が見える穏やかな海辺で、平和なひとときを実感した。

2023年11月9日木曜日

絶望感

 昨春にリーディングをし、今年初めから翻訳に取り組んできた国境問題を広く扱った本については、これまでも何度か関連の記事を思いつくままに書いてきた。この9月からその本の校正に入ったところ、10月7日にガザ地区を実行支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃したために、本に書かれていたパレスチナ人の惨状が急に現実として迫ってくるようになった。本作には、「ウォールド・オフ、壁を築く」という章がある。ガザ地区ではなく、ヨルダン川西岸地区の歴史と現状に焦点を当てたものだが、この一世紀ほどのあいだパレスチナ人が置かれてきた状況を知るうえでは、非常に有意義な章だと思う。章題そのものは、ベツレヘムにあるバンクシー経営のホテル名を借用しており、このホテル名そのものも、ニューヨークの老舗ウォルドーフホテルをもじったものである。 

 私自身は恥ずかしながら、パレスチナ問題はかなり疎い。日々の報道を適当に追うだけでは、とうてい理解できないことだからだ。中東に行った経験も、学生時代にパキスタン航空でヨーロッパに旅をした際に、ドバイを経由した数時間しかない。タラップから降り立った地面が、目玉焼きができそうなほど熱かったことや、民族衣装を着て黒いコウモリ傘を日傘にする男性たちの奇妙な光景くらいしか覚えていない。  

 パレスチナ問題を多少なりとも知るようになったのは、学生時代に緒方貞子先生の講義を受けたときのことだった。当時はまだ難民高等弁務官に就任される前だったが、ゴラン高原について語っておられたことだけを記憶している。その後、チョムスキーの『覇権か、生存か』という本の下訳をすることがあり、「憎悪の大釜」という章で2002年以降に建てられた分離壁について知り、その唖然とする実態に驚いた。だが、当時の私には知らないことだらけで、翻訳するのに精一杯で終わってしまった。  

 今回の作品でも、パレスチナ人が置かれた惨状はよく理解できたものの、地図で詳しく図解されるような作品ではないため、あまりにも複雑な経緯をたどった歴史や、いたるところに分離壁がぐねぐねと立ち並ぶ地理は、文章からはどうにも理解できなかった。再校正に入って、翻訳上の直しが減って読めるようになったゲラを前に、少しばかり背景を整理してみた。  

 まずは高校時代の世界史で覚えさせられたバルフォア宣言が、イギリスの「国王陛下の政府はユダヤ人のためのナショナル・ホーム(民族的郷土)をパレスチナに創設することを好意的に見ている」という、非常に両儀的な表現で書かれていたことをようやく知った。当初、私はこれを安易に「祖国」と訳していたのだが、バルフォア宣言の現物画像をウィキペディアで見て、待てよと考え直し、それについて言及しておられた「世界史の窓」というサイトを参考にさせていただいた。

 その後、1948年に地図上に緑の色鉛筆で引かれたグリーンラインでヨルダン領に編入されたヨルダン川西岸地区が、1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルに実効支配された「占領地」となり、戦争は公式には終わっていないので、いまもその状態なのだという。1993年のオスロ合意のときにはすでに、その土地の60%以上は「C地区」として区分され、そこからパレスチナ人は一掃されていることを、遅まきながら理解した。よく見聞きする「パレスチナ自治区」という名称は、残りの「A地区」(17.2%)と「B地区」(23.8%)、およびガザ地区をかき集めたものだったのだ。「B地区」は、行政はパレスチナ人によるが、治安はイスラエルという混合の地区だ。したがって西岸地区では、残りの3割強の虫食いのような場所だけが「パレスチナ自治区」ということになる。国連は2012年からそれらの寄せ集めにたいし「パレスチナ国」という呼称を使い、EUは「占領されたパレスチナ地域」などと呼んでいるという。パレスチナ自治政府を率いるアッバース大統領は、「私にとって(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸とガザがパレスチナであり、それ以外はイスラエルだ」と2012年に主張しているそうだ(彼のウィキペディアのページより)。グリーンラインが引かれた当時、エジプト領となったところがガザ地区で、ここも1967年以降、イスラエルが実効支配し、2007年からは軍事封鎖されていた。ガザの状況は、この10月以前も西岸地区に輪をかけて悲惨であったわけだ。  

 グリーンラインで東西に真っ二つに分断されたエルサレムは、現在も基本的にはそのままで、旧市街は東エルサレム側にある。旧市街の51%はムスリム地区で、21%がキリスト教徒地区、残りはアルメニア人とユダヤ人が14%ずつ住むという。しかし、旧市街を含む東エルサレムは、西岸地区のなかでも特殊な位置付けとされ、イスラエルはここを西岸地区とは見なしていないのだそうだ。こうなると、たとえ地図で示されても、誰がその土地を支配しているのかもさっぱりわからない。  

 こうした背景が頭に入ると、強引に、なし崩し的に土地を買収し、法律を変えて入植地を広げていったイスラエルに、住んでいた村を追われて移住させられ、周囲を高い壁で囲まれた暮らしを強いられてきたパレスチナ人の状況がより切実に感じられる。  

 西岸地区について書いたこの章を訳して何よりも強く印象に残ったのは、いまや70年以上にわたって、世代を超えて抑圧されてきた人びとのあいだにある圧倒的な絶望感だった。引用されているパレスチナ人作家の作品の一つは、10代の若者が自分を殺すことでしか、本物の世界には到達できないと思いつめ、どんどん自死する近未来を描くものだった。  

 同様の絶望感は、中南米からアメリカへ密入国する移民を描いた章や、サハラ以南の国々から地中海沿岸にあるスペインの飛び地メリリャへの侵入を試みたり、地中海を小船で横断したりする移民や難民の章でもひしひしと感じられた。分離壁の向こうで贅沢に自由に暮らすイスラエル人がかいま見え、インターネットを使えば豊かな国の情報がいくらでも入ってくる現代において、自分たちの日常とのあまりの格差を見せつけられたとき、人は何を思うのか。もちろん、ネットにも接続できず、明日の食べ物もないほど困窮していれば、その行動にすら出られないだろう。でも、ジリ貧となり、この先も決して展望は開けないと悟ったとき、座して死を待つよりは、もはや失うものは何もないと、一か八かの賭けに出る人も出てくる。「靖国で会おう」は戦後のつくり話という説も出てきているようだが、死後の世界を信じる人びとにとっては、討ち死にはどうしても美化されがちだ。そこまで追い詰められた人びとには、自分の刃の矛先が「敵側」の幼い子どもに向けられたとしても、その子が敵の子であるという理由だけで、正当化されてしまうのかもしれない。  

 平和な日本から見れば理解不能な行動に出るこれらの人びとの、こうした底知れぬ絶望感を知ると、一連の事態を単に善悪で語る政治家たちの言葉は虚しく響く。誰が彼らをそこまで追い詰めたのか、歴史を振り返り、胸に手を当てて自問してから発言してくれよと言いたくなるのだ。

Wikipedia「ベツレヘム県」のページより。この地図はUnited Nations OCHA oPtをもとに作成されている。 
ベツレヘムは拡大したエルサレムの郊外と接する南に位置するパレスチナ自治区で、その境界には分離壁(地図の赤い線)が立ちはだかる。1949年のグリーンライン(緑の線)と分離壁のあいだの地帯には、1970年以降に増えたギロなどのイスラエルの入植地がある。

2023年9月29日金曜日

またもや先祖探し

木曜日の朝、仕事を放りだして新木場まで行ってきた。 神田小川町で材木問屋の娘として生まれの曾祖母については、コウモリ通信でも何度か書いたことがあるが、このタケさんの異母兄のご子孫が見つかったのだ。しかも、いまも型枠資材の卸売りを中心とした木材関連の会社を経営しているという!   

 神田小川町は、私の学生時代はスキー用具や登山用品の量販店がひしめく一帯だったが、江戸時代には小栗忠順などの旗本屋敷や譜代大名の屋敷が立ち並んでいた。上田藩も昌平橋の手前の、現在はかんだやぶそばがある辺りに150年近くにわたって上屋敷をもっていた。少し歩けば日本橋川にも神田川にも出られる立地とはいえ、こんな街中で材木問屋が営めたのかと長らく疑問に思っていたが、4年ほど前、タケさんの父である大宮萬吉が、1875年に深川熊井町から神田に転居したことが判明して、謎が一つ解けていた。

 1862年の本所深川絵図から、熊井町は大横川が隅田川に注ぐ河口にあって、すぐ前に佃島が見える合流点の町であることもわかった。材木問屋にはうってつけの場所だ。コロナ禍で電車に乗るのもためらわれた2020年の秋、本郷弓町や谷中墓地を訪ねた日に、この一帯から両国の先までも歩いたことがある。  

 タケさんの調査はその後、あまり進んでいなかったが、母の納骨時に、大宮さんの子孫が新木場で大一木材という会社を経営しているらしいという貴重な情報を親戚から頂戴し、7月下旬のふと空いた時間に、アポも取らずにその会社を訪ねてみた。多忙な若い社長さんは当然ながらご不在だったので、経緯がわかる簡単な手紙と遠い親戚であることがわかる書類コピー、何枚かの写真のコピー、および拙著『埋もれた歴史』をお預けして帰ってきた。  

 その後、私もあれこれ多忙ですっかり忘れていたところに、大宮さんから嬉しいお電話が入った。青年実業家として野心的に事業を展開されていることは会社のHPから拝察していたが、お電話の声はとても誠実そうで、気さくな印象だった。ちょうど大部の校正も始まっており、気持ちの余裕はないに等しかったが、9月前半不調つづきだった体調は戻っていたので、この機を逃してはと思い、お会いしてきたしだいだ。 

 大一木材の代表取締役である大宮匡統さんは、正確には祖父に当たる精一さん(徳太郎さん長男)が興した会社を継いだ父上が、早くに亡くなられたために、若干24歳で家業を継がれたのだそうだ。精一さんの祖父に当たる萬吉さん(私の高祖父、1848年生)は、深川の材木屋に丁稚奉公にきて、暖簾分けしてもらったことが今回初めてわかった。除籍謄本から、萬吉さんが「尾張國海東郡勝幡村」の大宮弥兵衞次男であることはすでに判明していた。江戸の材木の最大の供給地であった木曽川に近いこの出身地を考えると、父親の弥兵衛さんも材木屋で、萬吉さんは次男坊のために江戸に出されたのだろうかと、匡統さんと推理してみた。小川町に移ったのは27歳ごろなので、十代で江戸に出てきたのではなかろうか。応接室で暖簾分けしてもらったという家紋を見せていただき、帰宅後に、私の祖父母のアルバムにあった萬吉さんの写真と推定されるものをパソコンで拡大してみたら、紋付の紋が同じであるようだった。 大宮家には萬吉さんの写真は残っていないようだった。

 どういう経緯か、4枚の古写真が祖父母のアルバムに残っていたのは、関東大震災の被害に遭った地域であることを考えれば、奇跡だったに違いない。そのうち2枚は、小川町、神田交友会などと書かれた花輪が写る葬儀の写真で、そのなかの遺影と、残る1枚の少し若いころの萬吉さんと後妻の志げさん(タケさん母)らしき写真を見比べた結果、白髭のおじいさんは萬吉さんだろうと私が結論づけたものだった。今回、家紋でも確認できたことで、萬吉さんと確定できたと思う。 

 画期的だったのは、大宮さんのご親戚の何人かがまだ深川に在住しておられるのがわかったことだ。神田小川町に住居を移したのちも、萬吉さんの実際の事業所は熊井町に残っていたのかもしれない。もしくは、徳太郎さんか精一さんの代で、大宮家の最初の拠点である深川に再び戻っていた可能性もある。除籍謄本では、1928年に志げさんの死亡時の住所は中野になっており、その届出を萬吉さんが出していた。 タケさんの嫁ぎ先である門倉の家も、関東大震災で焼けだされたあと、中野に移っている。このあたりの事情は、お父上が早くに他界されたこともあって匡統さんはご存じなかったが、伯父さまがまだご健在とのことなので、機会があればお会いしたいとお願いしてきた。何しろ、門倉の親戚にも大宮家にも、正体不明の岸さんに関する話が伝わっており、私は最近になって娘の高校時代のノートから、亡叔母がその人を「野方の岸さん」と呼んでいた事実を発見というか、再発見していたのだ。下町で焼けだされた祖先たちは、この人を頼って一時的に中野に移り住んだのではないかと、当面、私は推測している。  

 ほんの30分ほどお邪魔するつもりが、つい長々と話し込んでお仕事の邪魔をしてしまったのに、帰り際には会社の前で玄孫同士の記念撮影にまで気前よく応じてくださり、ファミリー・ヒストリアンである私としては、本当に大収穫の一日となった。突然現われた、わけのわからない遠縁のおばさんに、親身に対応してくださった匡統さんには本当に感謝している。 

 会社の倉庫から見つかったという昭和17年刊行の『木場』という東京木材問屋同業組合の貴重な資料もお貸しいただき、帰宅後、ざっと目を通してみたが、第15班まである組合員の集合写真に、精一さんは見当たらなかった。精一さんは昭和16年に、木材統制により一度廃業して、2年ほど満州に渡っていたので、おそらくちょうどその時期に発行されたものなのだろう。それでも、当時の木場の状況がわかる写真が満載された資料であり、「慶長から明治維新まで」と題された吉田正氏の論考などはとても面白かった。なにしろ、「小名木川筋南側は大川から算へて松平三河、松平右京、立花主膳、秋元但馬、松平丹羽、松平伊賀の屋敷が並び」と書かれていたのだ。松平伊賀は上田藩主であり、この扇橋の抱屋敷に馬場を築いて、私の別の高祖父の門倉伝次郎を「主任として汎く西洋馬術を練習せしめ」ていたことを、『上田郷友会月報』から知っていたからだ。伝次郎の息子とタケさんがいったいどこで知り合ったのか興味はつきない。 

 この9月は、仕事の合間に数カ月かけて整理して編集し、印刷にかけた母のアルバムも、ちょうどお彼岸に出来上がってきた。古いパソコンにしか入っていないInDesignを2年ぶりに立ち上げて制作したものだ。よし、完成だと思ってから入稿規程を読み、写真の保存の仕方を間違えていたことに気づいたときは、放りだしたくなった。小さい写真を拡大するには解像度が足りないこともわかったが、スキャンし直す元気はなかったので、貴重な休日をつぶして数百枚の写真を保存し直し、置換した。 

 表紙の背景には、唯一残っていたまともなアルバムの実際の表紙と裏表紙を活用した。よく見れば切り張りした跡もわかるが、ちょうど意図したように刷り上がって嬉しい。母のお宮参りの写真から小学校入学までは、以前に作成した祖父母のアルバムに収録したので、今回は小学校以降から最晩年までの写真を入れた。基本的には母に育ててもらった私たち娘から、ひ孫たちにまで配るつもりで、あとはごく一部の親戚などに渡そうかと。あとから読み返したら、最後に入れ替えた箇所の誤字・脱字がいくつも見つかったし、未整理写真もまだまだ大量にあるが、記憶の整理はついた気がする。

 りんかい線に乗って新木場へ

かつての熊井町付近から佃島を望む(2020年10月撮影)

 高祖父の大宮萬吉
 
 タケさん異母兄の大宮徳太郎さん

大一木材の事務所前で玄孫同士のツーショット

 今回制作した母のアルバム