2013年5月31日金曜日

船体験

 ブライアン・フェイガンの『海を渡った人類の遥かな歴史』という本が河出書房新社から刊行された。私にとって彼の著書を訳すのはこれで5冊目になる。これほどの縁になった理由が、本書の序文を読んだとき初めてわかった。70年におよぶ彼の航海人生の原点に、子供のころ読んだアーサー・ランサムの本があったと書かれていたのだ。私も子供のころランサム全集にはまった一人で、昨年は小説の舞台の一つとなったコニストン湖まで行ってきたほどだ。彼の根底にある価値観に、私が共感してきたのは無理もない。  

 とはいえ、自分のヨットで世界の海を旅してまわるフェイガン氏とは異なり、私の海の経験と言えば、彼が嫌う大型クルーズ船やフェリーの旅くらいしかない。帆船に乗った経験は一度もないし、カヌーやボートも川や湖でしか漕いだことがない。5万年以上におよぶ人類と海の歴史を探ろうとする本書を訳すには、私はあまりにも力不足だった。関連書をあれこれ読んでみたが、なにしろ「海を解読する」と彼が表現するものは、スポーツや芸術分野の体で覚える感覚と同様に、文字では伝えきれないものだ。大海の真っ只中で波と風に翻弄される体験は、実際にそれと闘った人にしか理解しえないだろう。それでも、その感覚を少しでもつかめたらと思い、時間を見つけてはあちこちに足を運んだ。  

 数ヵ月前には、和船に乗れる場所があることを知り、江東区の横十間川親水公園まで行ってみた。江戸時代、この一帯は縦横に運河が張りめぐらされ、多数の船が行き交っていた。この文化をいまに伝えるために、和船友の会の人たちが伝馬船、網船などに無料で乗船体験をさせてくれる。少しだけ櫓も漕がせてもらった。  

 ここで知り合った人に勧められ、神奈川大学で開かれた国際常民文化研究機構主催の研究発表会にも行ってみた。ミクロネシアのカロリン諸島ポロワット島で、手に入る材料のみを使い、上半身裸の太めのおじさんたちが大勢でわいわいがやがや楽しげに、ひたすら人力だけで大型外洋カヌーを建造する過程を撮影した貴重な映像記録などを見ることができた。蔓を巻尺代わりに使い、中央の位置は蔓を半分に折って決める人びとに、生きる力を見た気がした。そのほかに、これまで素通りしていたみなとみらいの日本丸にも初めて乗ってみたし、御座船安宅丸に一人で乗って東京湾ミニクルーズもしてみた。  

 しかし、この本が追究するのは造船の歴史ではない。海図もコンパスもなかった時代、自分がいまどこにいるのか、どこへ向かっているのかも定かでない状況で、人はなぜ海に乗りだし、どうやってその海を読み解いたのかを探るものだ。最初はもちろん、陸地から離れず、目立つ陸標を頼りに航行した。地乗りとか、山あてと呼ばれる航法だ。簡単そうに思えるが、山並みだって見る方角によってまるで違うし、天候によっては見えないこともある。船乗りは空を眺めて天気を予測し、季節ごと、日ごと、時間ごとの風、潮流、干満の変化を知り、水深を測り、五感であらゆる兆候を察知しながら慎重に海にでていった。六分儀もない時代に、太平洋に点在する小島へ渡っていった人びとの知恵と勇気は私の理解を超える。それでも高所から遠方を眺め、太陽の位置で方角を推測し、風向きを肌で感じ、日没点の変化をたどるなど、ささやかな努力はしてみた。体で覚えるこういう感覚こそが、本当の生きる力になる。怖いけれど、いつか私も本物の海を味わってみたい。

 コニストン湖

 日本丸

 横十間川親水公園

 御座船安宅丸

『海を渡った人類の遥かな歴史』
ブライアン・フェイガン著、河出書房新社

2013年4月30日火曜日

ジパング伝説

 先月の「コウモリ通信」で、江戸初期にヌエバ・エスパーニャからきた使者ビスカイノについて触れた。マニラ・ガレオン船の安全な寄港地を探すため、カリフォルニアの海岸線を測量してサンディエゴなどの地名をつけ、イギリス海賊のキャヴェンディッシュに襲われたサンタアナ号にも乗船していた人だ。ビスカイノはただ返礼のために訪日したわけではない。日本近海の北緯38度付近にあるとされた「金銀島」を探す密命を帯びていたのだ。『東方見聞録』に「島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している……その宮殿は……屋根がすべて純金で覆われている」と書かれて以来、ヨーロッパ人にとって日本は謎の黄金の国だった。測量を名目に家康から航海を許可されたビスカイノのために、向井忠勝は江戸時代三隻目のガレオン船を建造したが、この船は浦賀沖ですぐに沈没した。  

 黄金の国ジパングの伝説は、平泉の金色堂の話を伝え聞いた人の妄想から生まれたのだろうと、これまで漠然と思っていた。しかしそれならなぜ、北緯38度などという具体的な位置が伝えられていたのか。この時代、日本全国の地図はまだどこにも存在しなかった。マテオ・リッチの坤輿万国全図に描かれた日本も、近畿以東は完全にデフォルメされている。1602年の日本版では、太平洋の東の沖に大きな「金嶋」が浮かぶ。もちろん、こんな沖合に島はないが、東日本大震災で5m東にずれた牡鹿半島の目と鼻の先には、その名も金華山という島がある。この島の黄金山神社は古くから金華山信仰の場で、女人禁制の修験場だった。しかし、この島では金は採れない。  

 ならば、金色堂の金はどこからもたらされたのか。すぐに思い浮かんだのは佐渡金山だったが、開発されたのは江戸時代だった。答えはどうやら北緯39度の海岸から5キロほど内陸に入った、陸前高田市の玉山金山らしい。この恐ろしく入り組んだリアス式海岸を、スペインのガレオン船に乗って測量し、金銀島を探していたビスカイノ一行は、1611年12月2日に越喜来村(現在の大船渡市三陸町)の沖で慶長三陸地震の4mの大津波に遭遇し、村人が山に向かって走って逃げ、村が一瞬にして消える様子を目撃している。

 玉山金山の歴史は、仙台藩の鉱山を1595年から代々監督してきた松阪家に伝わる、江戸後期に書かれた文書にしか残されていない。しかし、その内容は他の史料からもおおむね裏づけられるという。当初は砂金採掘だったようだ。白村江の戦い(663年)以前に人質として日本に送られてきた百済の王子の子孫、百済王敬福が743年に陸奥守に任じられ、陸奥国小田郡で大陸の採金技術を使って日本で初めて金を産出し、献上した900両の金は東大寺大仏のめっきに使われた。

「続日本紀」には749年に「陸奥国始貢黄金」と記されている。「平家物語」の「金渡」にも気仙郡の金が登場する。平重盛が1175年ごろ寧波の育王山阿育王寺と南宋皇帝に黄金数千両と材木を、宋人船頭の妙典に託して贈ったと記されているのだ。ちなみに金色堂は1124年に完成している。マルコ・ポーロが元代のモンゴル人や中国人から伝え聞いた黄金の国ジパングの噂のもとは、ここにありそうだ。  

 玉山金山は、秀吉の天下統一とともにその支配下に入ったが、金山一揆(1594年)のあと伊達政宗の直営となり、以後、仙台藩の莫大な財源となった。ビスカイノは政宗に江戸時代四隻目のガレオン船サン・フアン・バウティスタ号の建造をもちかけた。この船は石巻の月の浦か水浜で、800人の船大工、700人の鍛冶屋、および3000人の大工を総動員して45日間で建造されたと言われ、慶長遣欧使節はこの船に乗って太平洋を渡った。ビスカイノは金銀島こそ発見しなかったが、日本の金のありかにはたどり着いていたのである。
 
 坤輿万国全図(部分)

2013年3月31日日曜日

浦賀散策

 昨年、徳川家康の時計を調査した大英博物館が「16世紀最高傑作」だと発表したニュースが話題を呼んだ。1607年に房総沖で座礁したスペイン船サンフランシスコ号の乗組員317人を石和田村民が救助したことへのお礼に、来日したビスカイノから家康が贈られた品である。記事を読んで、私は時計そのもの以上に、江戸初期に1000トン級のガレオン船が房総沖でいったい何をしていたのかに興味を覚えた。少し調べてみると意外な事実が次々にわかってきた。  

 スペインはそれに先立つこと1565年には、アメリカ大陸に建設したヌエバ・エスパーニャのアカプルコから太平洋を横断して香料貿易の拠点であるマニラへ向かう貿易ルートを開発していた。アカプルコとマニラはほぼ同緯度にあるので、往路は北東からの貿易風に乗って、途中マーシャル諸島やグアムに寄航しつつ西へ向かえばよい。復路は北緯38度付近までいったん北上し、そこから偏西風に乗って島一つない太平洋のこの海域を横断し、サンフランシスコ沿岸に達したあと南下したと考えられている。スペイン船はその少し前の1596年にも土佐沖に漂着しているので、フィリピンから黒潮に乗って日本沿岸を航行していた可能性が高い。日本が鎖国しているあいだも、スペインのガレオン船は1815年にメキシコが独立するまで近海を定期的に行き交っていたのだ。  

 それどころか、家康はこの貿易の途中でスペイン船に日本に寄航してもらうことを考え、その拠点として浦賀にフランシスコ会修道院の建設を許可していたという。スペインは旧教だが、一連の交渉にはウィリアム・アダムズが通訳として幕府とのあいだに入った。浦賀については、幕末にペリー艦隊が沖合に来航したことくらいしか知らなかったが、江戸初期にアダムズが乗ってきたリーフデ号もここへ廻航されてきたし、徳川水軍の将で、巨大な安宅丸を建設した向井忠勝の本拠地でもあり、重要な湊だったらしい。そこで先日、ようやく春らしくなった日に浦賀湊と灯台や砲台跡のある観音崎を歩いてみた。  

 いちばんの目的はフランシスコ会修道院跡を探すことだった。ところが、地元の人たちに聞いてみても、「そう言えば昔は大きな墓のようなものがあった」とわかっただけで、古そうな石垣の先は行き止まりになっていた。近くにあったはずのアダムズの浦賀邸も、井戸と江戸末期の祠が残るばかりだった。三浦半島のこの一帯は関東大震災のときの震源地でもあり、江戸時代の痕跡はかき消されてしまったようだ。川幅ほどしかない浦賀湊には、桧皮葺の屋根を模した遣明船のような渡し船がいまも行き来するが、ペリー艦隊はとても入れそうにない。やはり久里浜沖に投錨してボートで上陸したようだ。海岸まで丘陵が迫り、あちこちにワカメが干してある浦賀はあまりにものどかで、マニラ・ガレオンが寄航する一大貿易港に発展したかもしれない場所とは想像もできなかった。  

 造船所で12年間、徒弟として働いた経験のあるアダムズは、家康に懇願されて80トンと120トンの小型ガレオン船を伊東で建造している。サンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴ総督らスペイン人は、後者の「サン・ブエナ・ベントゥーラ」号を家康から譲り受けて無事に太平洋を横断し、アカプルコに帰還した。ちなみに日本ではこの時代にもう二隻ガレオン船が建造されており、いずれにも向井忠勝がかかわっている。四度の貴重な実習体験を積んだ船大工たちが、江戸時代に和船の造船技術を大きく進歩させた可能性も大いにありそうだ。

 観音崎灯台からの浦賀水道

 浦賀の渡し

 フランシスコ修道院の跡地

2013年2月27日水曜日

江戸の水道

 江戸初期の史料『慶長見聞集』の「江戸町の水道の事」の項にこう書かれている。「見しは昔。江戸町の跡は今大名町に、今の江戸町は、十二年以前まで、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海を埋め陸地と為し、町を立て給ふ。然るに、町豊かに栄ゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民これを嘆く。君聞し召し、民を哀れび給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を、江戸町へ遍く与え給ふ」。十二年以前までは海だったというのは、先月のコウモリ通信で書いた日比谷入江の埋め立てを指す。同じ史料によれば、この工事は慶長8年から行なわれたそうなので、4年間で成し遂げたということだろうか。人力も侮れない。  

 一昨年、ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』を訳して以来、水道や運河の存在が気になる。水源から一定の量の水を自然流下させ、途中で両岸を浸食したり氾濫したりすることなく遠隔地まで水を運ぶには、綿密な測量にもとづく微妙な勾配の調整が必要であることを知ったからだ。人類の多くは遠くの水源から水を引いてくることで、どうにか共同体を維持してきた。灌漑用水路や水道とともに文明は発達したのであり、測量術や水理学は生きるための知恵だった。一方、世界でも稀なほど雨量の多い日本では、湧水も地下水も容易に手に入ったため、立地条件の悪い場所に許容量を超える人口が集中した江戸の建設時まで、飲料水を供給するための本格的な上水道は必要とされなかった。  

 江戸時代の水道について知ろうと、本郷にある東京都水道歴史館に行ってみた。クレタ島ではテラコッタのパイプが、ローマでは石樋や鉛管が使われており、タイでは17世紀後半に西洋人技師がやはり素焼きの水道管を導入していたが、江戸の水道管の多くは木樋だった。大半は厚板を組み合わせた、およそ水道管には見えない構造物だったが、日本では古墳時代から下水、トイレ、近距離の導水管などに同様のものが使われていたし、木材も豊富なので、当然の選択だったのかもしれない。一本だけ丸太をくり抜いた木樋も展示されていた。江戸時代にどんなドリルでこれを製造したのか想像もつかないが、イングランドでは12世紀ごろすでに中空の丸太の排水管が使われていたとフェイガンの本に書かれていたのを思いだす。画像検索で見た16~18世紀のロンドンの水道管も、これとそっくりだった。江戸時代のこの丸太の水道管は、日本で独自に発明されたものなのだろうか? 
 
 『慶長見聞集』に書かれた水道は実際にはごく限定的なもので、寛永6年(1629)ごろ水戸藩邸に上水が引かれているため、神田、日本橋方面に給水していた神田上水は、それ以降に懸樋で神田川を越え、地面に木樋を埋設するかたちで整備されたと考えられている。  

 稲作をするには田んぼを水平につくり、近くの川から水を引いてこなければならないし、巨大古墳を建造するには相当な土木技術が必要だ。ギリシャ人が発明したコロスバトス(コロバテス)と思われる水準器は、鎌倉時代にすでに日本にもあったようだ。夜間に提灯をもった人びとを立たせ、灯から灯の高さを離れた場所から測って勾配を知る提灯測量の記録も江戸時代にはかなりある。多摩川から全長43キロ、標高差92メートルで水を引いた玉川上水でも、こうした測量が実施されたとも言われるが、実際はどうだったのだろう?  

 この時代にはイエズス会士から航海術や天文測量術を学んだ人もいたし、明の数学書も入ってきている。さらに1643年のオランダ船ブレスケンス号事件の埋め合わせに、1649年から51年までオランダ商館に外科医カスパル・シャムベルゲルや臼砲射撃専門のユリアン・スヘーデルらが派遣され、このスヘーデル伍長が家光の家臣に三角測量を伝授したようだ。玉川上水は1652年に計画され、翌年4月に着工した。偶然の一致だろうか? 「当君の御威勢」の陰には、諸般の事情による技術の伝播と、試行錯誤があったに違いない。

 東京都水道歴史館の木樋

 神田上水懸樋跡

2013年1月30日水曜日

江戸時代の水運と車輪

 以前、古地図のおもしろさに目覚め、人文社の古地図ライブラリーのシリーズを四冊ほど買い込んだことがある。最近、江戸時代の船の利用について知りたくなり、またこのシリーズの東海道五十三次や名所江戸百景の本などをめくってみた。  

 広重の代表作、保永堂版の東海道五十三次には、案の定、全55枚のうち船の登場する絵が14枚もあった。ついでに調べてみると、馬のいる絵は21枚、牛はわずか2枚、車輪のある乗り物は大津の牛車1枚しかなく、あとはみな駕籠で担がれるか、ひたすら足で歩いて旅をしていた。いまからたった180年ほど前の江戸後期にである。荷物は馬に括りつけられていることもあるが、ほとんどは人が背負うか、以前の佐川急便のシンボルのように棒の先につけるか、天秤で担いでいる。東海道はかなり整備され、江戸のメインストリートは広かったようだが、日本の街道は馬車や牛車を使うにはあまりにも坂が多かったのか。  

 以前から車輪の歴史に興味をもっていたので、もう少し調べてみると、江戸百景の「高輪うしまち」の絵の解説に、1634年の増上寺安国殿建立時と、1636年の市谷見附の土手の石垣普請の際に京都から呼び寄せた牛持ち人足が、工事後に江戸への定住を許され、泉岳寺の近くに車町、俗称うし町ができたとある。神田明神祭と山王祭りの山車を曳くのも彼らの仕事であったそうだ。広重が描いた御所車に似た巨大な車輪は完全に木造に見える。ケルト族は早くも紀元前1千年紀に車輪の縁に鉄の輪をはめる発明をし、頑丈かつ軽量な車輪の馬車で遠距離を移動したそうだが。  

 大津‐京都間には車石を敷いて牛車が通れる道があり、西日本では犂を使った耕作もかなり普及していたというが、江戸の浮世絵師たちは農耕牛の姿も描いていない。江戸にも「牛込」があるし、霞ヶ浦の近くに「牛堀」もあったようだが、関東に牛は実際どのくらいいたのだろう? ひたすら人力に頼っていたのは、日本に実用的な車輪をつくる技術がなかったからか、役畜がいなかったのか、道路が不整備だったのか、興味は尽きない。  

 陸上の交通がこんな具合なので、江戸への物資の輸送の大半は海、河川、および運河によっただろう。浮世絵には筵の帆や松右衛門帆を掲げて沖合をゆく船や、お台場や永代橋近くの「江戸湊」に投錨する樽廻船などが数多く描かれている。物資はそこから小型船に積み替えられて日本橋や神田川沿いの河岸まで運ばれたそうだ。  

 私は長年、外堀通り付近に通っていたので、神田川の土手は見慣れた光景だが、この部分が江戸初期に神田山を掘削して人工的につくられた掘割であることを地図上で確認したことはなかった。しかも家康が江戸入りした当初は、いまの新橋駅付近から東京駅の南あたりまで海が入り込み、日比谷入江と呼ばれていて、神田山を掘削した残土でここを埋め立てたというのは実に意外だった。ほぼ人力しかない時代に、なぜそんな大事業を急に思いついたのか。その答えは1600年に漂着したリーフデ号らしい。生き残ったウィリアム・アダムズ(三浦按針)とオランダ人ヤン・ヨーステンは家康の顧問となり、大砲や弾薬だけでなく、干拓技術や造船技術、鮮魚を日本橋に運ぶ海運業など、さまざまな知恵を授けたほか、朱印船貿易にも携わり、アユタヤから大量の蘇芳や鹿革をもち帰っている。八重洲という地名はヤン・ヨーステンからくるそうだ。ものづくり大国を自認するのであれば、技術の伝播の歴史をもっとしっかり見つめ直す必要があるだろう。

 御茶ノ水付近の神田川

 横須賀の按針塚

 八重洲口にある ヤン・ヨーステンの碑
車輪の変遷

2013年1月5日土曜日

2012/12/21のあと

「その日はたぶん、なんということもなく過ぎていくのだろう」。5年前、ローレンス・E・ジョセフの『2012地球大異変』という本の訳者あとがきに、私は当時にしては思い切ってそう書いた。世界にはいまも終末思想を信じる人が大勢いて、最後の審判の日に自分が救われることや、メシアが現われて新しい時代が始まることをひたすら信じて生きている。現実の世界に不満をいだく人が増えているいま、ハルマゲドンですべてがリセットされることを期待する風潮は着実に高まっており、それが予言を自己成就させる可能性があることを知ったからだ。日本はこのままでは衰退し中国に侵略されるなどと主張して人びとの不安を煽り、大真面目に核武装を訴える人も、こうした終末思想家に通ずるものがある。  

 もちろん、いまの発展がいつまでもつづき、将来もずっと安泰だと思っているわけでもない。「日本を取り戻す」と言って選挙に圧勝した自民党の第一声は「経済を取り戻す」だったが、経済がすべてのキーワードだった時代はとうに終わっている。自分たちの置かれた環境のなかで持続可能な方向に進まない限り、この先は破綻の道を歩むことは明らかだ。環境収容力を超えたために滅亡した文明は、歴史上いくらでもある。公共事業に集中投資し、日銀に金融緩和を実施させたところで、一時的なカンフル剤で終わるに違いない。  

 昨秋は娘が一時帰国していたためにあれこれ忙しく、締め切りにも追われていたため、暮れには珍しくひどい風邪をひいた。それでも、2012年12月21日は何ごともなく過ぎたし、冬至を境に日没点は少しずつまた北へ戻ってきている。もともと古代マヤの予言は、5200年間の“太陽”と呼ばれる一時代が終わることを意味していたに過ぎない。2012年の終末を信じて大勢の信者を集めていた教団や核シェルターに立てこもっていた人たちは、いまごろどうしていることだろう。  

 年末年始は今年も船橋の母のところへ行って数日を過ごすことができた。母はとくに凝ったおせち料理をつくるわけでもないが、いまも黒豆、きんとん、何種類かの煮物、ごまめくらいは用意し、ベランダで育てている春菊をお雑煮に入れてくれた。暇さえあれば台所に立ち、あちこちを掃除して回っている母は、風呂の残り湯をたらいに汲んで洗濯機に移していた。「こうやって腰を鍛えているのよ」と得意げな母に、「バケツのほうがまだ楽じゃない?」と提案してみた。ポンプなど使う気はさらさらないらしい。  

 元日には近所を十数キロほど散歩した。以前、私が住んでいた場所は分譲住宅が建ち並ぶ新しい街に変わり、記憶では田んぼだった場所は荒地になり、どこもかしこも宅地化が進んでいたが、高齢の母がまだ自分の足でこれだけの距離を歩けるということが、私にはなんともありがたかった。大晦日の日の入りも初日の出も見逃したが、元日の夕方、近所の高層住宅の最上階に母と上り、沈む夕日と富士山を眺めた。意外なことに、船橋のこんな場所から富士山とスカイツリーの両方が見えた。階段の踊り場に写真を撮りにきていた近所のおばさんとひとしきりしゃべり込みながら、オレンジ色に染まる空を眺めた。  

 将来はばら色に見えないし、現実の暮らしも厳しい。でも、とりあえず健康で自立した生活が送れ、日々のちょっとしたことに感動できれば、それだけで充分に幸せだ。極端な悲観論やその逆の楽観論には惑わされず、毎日を大切に生きていきたい。本年もよろしくお願いいたします。
 
 日没点の変化

 船橋から見た富士山とスカイツリー

 取り壊し中の団地(上)と 
 新しい分譲住宅(下)

2012年11月29日木曜日

タイ旅行2012年

 久しぶりにタイにきている。前回はほんのストップオーバーだったので、バンコクの街を歩くのも、本格的に鳥を見に行くのも数年ぶりだ。遊びに行く旨を伝えると、鳥見仲間が声を掛け合ってツアーや夕食会を企画し、マレー半島の付け根にあるケンクラチャーン国立公園を案内してくれ、今週末は北部のメーウォンにも行くことになっている。  

 今回、意外だったのは、乾季であるはずの11月末に、毎日、ゲリラ豪雨のようなスコールに見舞われていることだ。バンコクではオート三輪のトゥクトゥクに乗っているときに土砂降りに遭い、右側半身がずぶ濡れになった。ケンクラチャーンの公園内では穴ぼこだらけの急傾斜の山道をピックアップトラックの荷台に乗って猛スピードで登ることになったが、途中、何度も川の浅瀬をジャブジャブと渡らなければならない。雨季には3ヵ月間通れないらしいが、乾季でもこれだけ雨が降れば、水位が高すぎる日もでてくるだろう。  

 熱帯の気候は、熱帯収束帯が南北に移動することでやたらに雨が多くなったり、逆に干ばつになったり、極端に揺れ動くという。堆積物や洪水などで川筋が変わることもある。タイにこられなかった数年間にあれこれ読んだ本のなかで、私はタイ中部をチャオプラヤ-川とほぼ平行して流れる支流のターチン川に興味をもってきた。なにしろ、アユタヤ王朝の創設期に深くかかわっていたスパンブリーやウートンなどがこの川沿いにあるだけでなく、この川はかつて「最初の市」を意味するナコーンパトム付近で海に注いでいたと言われているからだ。川の名前そのものも、中国の港(桟橋)を意味する不思議な名前だ。元時代の史料に、フビライ汗の使節が川をさかのぼってナコーンサワンと思われる「上水」を訪れている記録もあり、その川とはチャオプラヤ-ではなくターチン川で、この川のほうがかつては大動脈だった可能性すらあるのではないかと私は想像を巡らしてきた。短い小論文もどき(angkorvat.jp/doc/cul/ang-cul26.pdf)を書いてみたことすらある。これまで推理してきたことを現地に赴いて少しでも確かめてみたい、というのが今回の旅のもう一つの目的だった。  

 鳥見旅行の帰りに友人たちに連れて行ってもらったターチン川の河口域はいまでもかなり広く、大型船が多数停泊していた。スパンブリーからナコーンサワンのあいだにあるターチン川とチャオプラヤ-川の分岐点にも行ってみた。川沿いをずっとたどったわけではないが、この川は最上流地点でも小舟なら航行できそうなことがわかった。分岐点には、水の神ナーガが祀られた寺院があった。北部から流れてくる四本の川が次々に合流し、最終的にチャオプラヤ-川となる合流点パークナムポーにも行ってみた。「上水」と思われる場所だ。ついでにタイ最大の淡水湖である人造ダム湖ブン・ボラペットにも行き、広大な湖でボートを借りて水鳥を見て楽しんだ。ターチン川沿いにある100年市場と呼ばれるサムチュックが栄えた当時は、この一帯の川も地形もまるで違っていただろう。気候変動で水の循環が大きく変わろうとしているいま、川の歴史をたどることは大きな意味をもつに違いない。

 トゥクトゥク

 ターチン川の河口域

 ターチン川とチャオプラヤ―川の分岐点

 ブン・ボラペット