2013年11月30日土曜日

ストレス解消

 10年間、連日のように酷使し、修理に修理を重ねたDELLのXPマシンの動きがかなり怪しくなったため、一大決心をしてMac miniに乗り換えた。これで煩わしかった数日ごとのアップデートに悩まされることもなくなり、雑用をしながら起動するのを待つ必要もなくなった。いちばんうれしいのは、音が静かなことかもしれない。前のPCはふだんでもうるさかったが、暑くなるとファンが恐ろしい音を立てるので、真冬以外は保冷剤が欠かせなかったが、新しいパソコンは電源が入っているのか、思わず耳を近づけたくなるほど静かだ。そのおかげか、長時間、仕事をしても疲労感が少ないような気がする。  

 日常的に聞こえるこうした騒音などは、いつの間にか慣れてしまい、あまり意識にのぼらなくなるが、実際には慢性ストレスとなって体内に蓄積されているのだろう。満員電車に乗って出勤し、職場であれこれ言われ、合間に私用メールやSNSをチェックし、色も音もあふれる繁華街を歩いて、高くて買えない/買ってはいけない誘惑物に囲まれる生活をつづければ、たとえ何事もなく一日が終わったとしても、体に大きな負担がかかるに違いない。最近、誰もが苛立って見えるのは無理もない。だから、帰宅途中に人身事故で電車が十数分遅れでもすれば、それが英語で言うlast strawになる。荷を極限まで積まれたラクダは、あと藁一本でも載せれば背骨が折れるということわざだ。  

 ラクダも藁もいまの日本人にはピンとこないので、こういう慢性ストレスについて家族や友人に注意を喚起するときなどは、私はその状況をコップの水にたとえることにしている。水位が低ければ、数滴増えたところで別に問題はないけれど、水がコップの縁まで入っていて、表面張力ですっかり盛り上がった状態であれば、そこに最後の一滴が落ちただけで、水はあふれてしまう。誰かにちょっと何か言われたくらいで落ち込んだり、些細なことで家族に腹を立てたりするようになったら要注意だ。パソコンなどは簡単に買い替えられるものではないし、嫌な上司に異動していただくのはさらに難しいだろうが、変えられることから始めて、余計な刺激は取り込まないようにし、日頃からコップの水位を下げておく努力はしたい。  

 何よりも、自分がいまどんな精神状態にあるのかを客観視する、鬼太郎パパのような目が欲しい。そのための手っ取り早い方法は、自己中心になりがちな日常を抜けだして尺度を変えてみることだろう。遠くを見る、空を見上げる、 野山や海辺を歩くなどして、自分の存在が小さくなれば、かかえていた不満も悩みも相対的に小さくなる。そんなことを考えて、先週、朝五時に起きて近くの空き地までアイソン彗星を見にでかけた。北斗七星からアルクトゥルスを探し、そこからスピカを見つけて、水星とのあいだの夜空を双眼鏡で懸命に見たが、暗い星がいくつか見えるばかりだった。2日つづけて頑張ったが、横浜の住宅街では夜空が明るすぎて、双眼鏡では尾が見えなかった。光がありすぎて見えないなんて、情報過多で肝心なものが見えなくなっているいまの時代のようだと妙に納得していたら、今度はアイソンが崩壊したというニュースが。今年最高の天体ショーはお流れらしいが、残った塵くらいは見えることを期待したい。  

 余談ながら、夕日に照らされた飛行機雲を誰かが彗星と間違えたらしく、かなりの人がスマホで夕空を撮影している光景も駅前で見かけた。いまの時代、ふだん夕空を見上げることもない人がきっと大勢いるに違いない。

2013年10月31日木曜日

日没点の観測

 一つのことをコツコツとつづけるのが苦手な私だが、この一年間、頑張りつづけたことがある。コウモリ通信にも何度か書いた日没点の変化の観測だ。近所に、北斎が富嶽三十六景に選んだ旧東海道の尾根道の近くで、西に富士山が望める開けた場所がある。夕方、西の空が明るい日にはその尾根道まで通い、同じ場所から日没の瞬間を写真に撮りつづけた。住宅地とはいえ、横浜の地形は山あり谷ありなので、最後の坂を登るまで実際にはこの眺望は見えない。今日はきっと富士山も日没も見える、と思って行っても、ちょうど富士山のあたりだけ曇っていたり、山並のすぐ上に細く棚引く雲がでていて日没が見えなかったり、空振りに終わることもたびたびあった。逆に、薄曇りであきらめていたら、日没の瞬間になって富士山がシルエットで浮きあがることもよくあった。  

 そんなこんなで記録しつづけた日没の写真は、冬至のころには真西よりはるかに南に沈む太陽があり、春分、秋分のころは富士山のやや北に、夏至になると駅前のビルの陰で見えないほど北に日没点が移動する。太陽が沈む地点の手前にある陸標———マンションや鉄塔など———の位置が地図上で確認できれば、南または北に何度ずれているか、方角がわかるだろうと考え、数キロ先に見える高層の建造物を自転車で探しにも行った。冬至の太陽が沈む方向に見えるひときわ高い鉄塔は、うちから遠く離れた米軍の深谷通信隊内にそびえる鉄塔だった。春はどんどん日没点が富士山の裾野を移動する様子を観察しつづけ、幸運にも晴天の日にダイヤモンド富士を見ることもできた。  

 自他ともに認める方向音痴の私がこんな苦労をして観測しつづけたのは、地図や方位磁石のない時代、古代人にとって季節ごとの太陽の昇る位置や沈む位置は重要な意味をもっていたことを知ったからだ。天照大神を祀る伊勢神宮や福知山市の皇大神社が、冬至の太陽の昇る位置からその場所が決まったという説もある。  

 時計のない時代には、まぶしい太陽を見つづけて南中を見届けなければ正午がわからないし、空高く昇っている天体は角度を測るのが難しい。しかも、その高度は日ごとに変わるのだから、そこから自船位置の緯度を割りだそうと思えば、その日に計測した数値に当てはまる緯度を知るための複雑な計算か、膨大な数値表が必要だ。昔の航海士の知識に追いつくのは、私にはあまりにも難しそうだが、せめて地平線に太陽が沈む位置の季節ごとの変化くらいは、誰かに教えられた既存の知識としてではなく、自分で確かめてみたいと思ったのだ。 

 グレゴリオ暦とグリニッジ標準時が定まり、正確な地図が描かれるようになってからまだ一世紀半も経ていないのに、それ以降に生まれた人はみな、暦と時計と地図に従って生きるようになり、自然には目を向けなくなったのかもしれない。あらゆる情報がネットで調べられる現代では、正確な時刻も、自分がいる位置も、日没時刻も、コンピューターで計算された数値として瞬時に得られる。必要なのは検索能力だけになり、自然の変化が実際はどう起きているのかも知らないまま、暦どおりに衣替えをし、冬も夏も定時に出勤し、天気予報を見て傘や上着を持参するか決める。何か肝心なものが欠けてはいないのか。  

 一年間、同じ場所に通ったおかげで、夕方この尾根道に散歩にくる近所の多くの人とも顔見知りになった。秋のダイヤモンド富士は曇り空と雨天つづきで見られなかったが、「太陽は見えても、肝心の山がないねえ」などと他愛もない会話を交わしながら入り日に見入り、雲を眺める時間を、一日のうち数分でももてたことが、何よりもの収穫だった。

2013年9月30日月曜日

東北旅行2013年

 青春18きっぷの使用期限すれすれの9月初旬、仕事で来日していたタイの友人たちと、イギリスから帰国したばかりの娘と一緒に東北旅行にでかけた。震災以来、津波の被災地を自分の目で見たいと思っていたので、短い旅とはいえ、これでようやく念願がかなったわけだ。音楽家の友人たちは仙台の定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルにつられ、娘は福島で開催されていた若冲展を目当てに、私の東北鈍行列車の旅に同行してくれた。  

 福島へ行くと言うと、別のタイの友人が心配して、本当に安全なのかと何度も確認してきた。海外から見れば、福島という地名はチェルノブイリと変わらない。汚染水の問題等を考えれば、安全だと言い切ることはとうていできないが、福島に暮らしつづけている人がいて、美術展を見に行くような日常的な生活も送っていることを、海外の友人たちに見せるだけでなく、自分でも納得したかった。郡山付近を通過しながら、山の向こうに日本中を震撼させた福島第一原発があることを想像してみたが、目の前に広がる長閑な田園風景とはあまりにも相容れなかった。  

 震災の翌日、毎日新聞の一面を飾ったのは名取市の海岸を襲う大津波の写真だったが、やや内陸を走る東北本線からは仙台平野の被災状況はわからなかった。上空からは浸水して塩分濃度が下がらない土地とそうでない農地とのコントラストがはっきり見えるそうだ。仙台市内がどこも満室だったので、松島の手ごろな値段の旅館に泊まったところ、子供のころからドラえもんのファンという若い友人は、初めての日本旅館体験に大はしゃぎだった。翌朝は小雨の降るなか松島の海岸を歩いた。湾内に浮かぶ多数の島のおかげで、大きな津波被害を免れたことを思うと、日本三景のこの海岸がいっそうありがたく感じられた。  

 夜行便でタイに帰国する友人たちを東京行きの高速バスに乗せたあと、娘と二人だけでさらに石巻と気仙沼まで足を伸ばした。石巻の駅のすぐそばに、津波がここまで到達したという看板があったが、町並みからはもう津波の痕跡は感じられない。震災当日、門脇小学校の生徒をはじめ、多くの人が非難したという日和山にまず向かった。山というよりは、横浜のどこにでもありそうな小高い住宅地で、てっぺんから海側を見下ろすと、雑草の生い茂った殺風景な土地が広がっていた。海岸沿いのこの低地にはところどころ水が溜まり、側溝もあふれんばかりで、流された家の土台の脇にガマが生えていた。後日、日和山幼稚園の裁判記事を読んだ際に、この新浜地区の光景がよみがえり、石巻が身近に感じられた。  

 柳津から先の海岸線沿いを走る区間は、線路を再建する代わりに、単線の幅で道路が整備され、そこを代替輸送のバスBRTが走っている。途中、道路沿いに「ここまで浸水区間」といった看板が設けられていた。何度もトンネルをくぐり、外へでた途端、目の前に小さな海岸が迫る光景が繰り返される。破壊された線路や、鉄骨だけが残った南三陸の防災庁舎なども見えた。気仙沼ではわずかな時間しか過ごせなかったが、折しも住宅街に乗りあげた330トンの漁船、第18共徳丸の解体工事が始まる直前で、ミサゴの飛ぶ青い空のもとで、すでに風化しつつある悲劇の名残をスケッチすることができた。津波は湾奥の低地を破壊し、交差点にある建物にとくに被害をもたらすが、高台に建つ家は海岸に近くても無傷で、浸水しただけならば修復可能であることなどが、急ぎ足で町を歩きながら見てとれた。帰路、金色の稲穂が一面に広がる景色のなかを、地元の元気な高校生たちと一緒にロングシートの鈍行列車で進む旅はじつに楽しかった。

 石巻新浜地区

 石巻日本製紙

 第18共徳丸

2013年8月31日土曜日

『世界一賢い鳥、カラスの科学』

 群集や暴徒を意味する英語にモッブ(mob)という言葉がある。この言葉は動物が捕食者にたいし群がり、騒ぎ立て、ときには集団で攻撃するモビングという行動を表わす場合にも使われる。生物にとって危険な状況を記憶し、次に同様の目に遭ったときにそれを思いだして、闘争か逃走かという恐怖反応を引き起こすことは、生存に必要なごく基本的な機能であり、脳の扁桃体の働きで深く脳裏に刻まれる。だが、カラスのように高度な生物は、自分がじかに体験した危険だけでなく、仲間からも危険な人間について学ぶのだという。  

 今月、河出書房新社から刊行される拙訳書『世界一賢い鳥、カラスの科学』にはこんな一節があった。「彼らはわれわれに威嚇した物知りのカラスを観察し、その仲間に加わっていた。威嚇行為は広まりやすい。そのため、一羽が威嚇すると、聞こえる範囲にいるすべてのカラスが飛んできて、その群れに加わる」。こうした「社会学習」は動物のなかでは特殊であり、認知機能として高度なものだ。自分より強い相手に立ち向かうモビングは、繁殖期にテストステロンで攻撃性が高まっている時期に増えるのだという。  

 インターネットで情報を交わし、全国から集まってくるデモと、カラスのモビングはじつによく似ている。勤めていたころ、組合活動でメーデーのデモに参加させられ、シュプレヒコールを聞きながら延々と歩く行為にうんざりした経験が何度かある。私のデモ嫌いの一部はこの体験からくるのだが、残りは自分の生存を脅かす敵がいるという意識が希薄だからかもしれない。賃上げしてくれない経営者も、原発の再稼動を目論む電力会社も、日本の離れ小島の領有権を主張するアジアの隣人も、私とは意見が異なり、議論すべき相手だとは思っても、敵ではない。しかし、中東のデモや、ヘイトスピーチを連呼する在特会のデモの参加者などは、「話せばわかる」とか「相手を説得する」理性的な段階は超え、「やるか、やられるか」という防衛本能に駆られているように見える。その多くは血気盛んな年代で、自分がじかに痛い目に遭っておらずとも、敵についてインターネットなどを通して学び、不安と憎悪のスイッチが入ってしまったようだ。  

 この本にはカラスの子殺し、仲間殺しに関するこんな気になる言及もあった。「カラスは何にとりつかれて殺害に走るのだろうか? 脳の化学的性質に生じる微妙な変化が、群れの一員にたいする態度のそのような激変の根底にあるのだろうか? われわれは誰でも、環境しだいで、あるいは社会的仲間から受ける合図しだいで、自分の感情が急速に変わることを経験している」。縄張りを守る、伴侶を守る、または捕食者を巣の近くから追い払うため、ストレスホルモンや性ホルモンによって攻撃性が高まったあげくに、それが本来は守るべき別の対象に向けられる可能性が示唆されているのだ。自制心があるはずのエリートや、正義感が強いはずの警察官が、性衝動に駆られて信じがたい行動に走ることから考えても、人間はストレスを受けると、理性が働かなくなり本能に操られるようだ。衣食足りて礼節を知るではないが、道徳教育が役立つのは世の中が平和である限りなのだろう。  

 本書には、ワタリガラスと暮らした経験もある共著者による表情豊かなイラストが多数掲載されている。邦訳版の表紙には、娘のなりさによるリノリウム版画を採用していただいた。イギリスで3年間、絵本の勉強をし、鳥のスケッチ修行を積んできた娘にとって、何よりもありがたい第一歩となった。書店で見かけたら、ぜひお手にとってみてください!

『世界一賢い鳥、カラスの科学』
 ジョン・マーズラフ/トニー・エンジェル著
(河出書房新社)

2013年7月31日水曜日

アイデンティティ

 外国語が多すぎて精神的苦痛を味わったとして、一ヵ月ほど前にNHKが訴えられていたが、日本人が理解しにくい概念で、適切な訳語も見当たらない言葉はやはりある。その典型がアイデンティティだ。最近は「同一性」とよく訳されるようだが、この訳語を読んでも正直、意味はさっぱりわからない。  

 一般には、心理学者のエリクソンが提唱した自己同一性という意味と、日本人のアイデンティティのような、集団への帰属意識という意味で使われることが多い。両者はまるで違う言葉のようだが、平たく言えばどちらも自分は誰なのか、ということになる。以前、『Who Are We?』という原題のハンチントンの本の翻訳に携わったことがある。国としてのまとまりが失われ、分裂してゆくアメリカの現状を憂えた内容で、「自らを定義するために、人は他者を必要とする。では、敵もやはり必要なのか?」と、著者の本音をちらつかせた書だった。アイデンティティというのはそういう意味かと納得し、以来、私は「同一性」ではなく、「自己認識」という、少しは理解しやすい訳語をカタカナと併用するようになった。自分は自分と同一だ、そっくりだなどと言われるより、よほどわかりやすい。  

 自分は誰なのか。そんなことは歴然としているようだが、実際には自分がどういう人間で、何をしたいのか、どう生きたいのか、多くの人はわかっていない。『ソロモンの指環』に登場するガンの子マルティナは、生まれてすぐに見た生き物であったローレンツを親だと思い込み、後を必死で追った。いま訳している『世界一賢い鳥、カラスの科学』(マーズラフ/エンジェル著)によれば、カラスは自分がどういう種に属しているかは知っていて、家族や集団は見分けられるが、鏡に映った姿を見て自己を認知することは基本的にはできない。幼鳥時に拾われて人間に育てられたカラスは、人間の言葉を覚えたり、ペットの犬と遊んだりする。それでも、「もともと野生の鳥は、いずれは異種の友達のもとを去って、自分と同種の群れに再び同化する」。「秋になって、野生のカラスやワタリガラスの群れが集まるとき、あるいは翌春にホルモンが繁殖行動を促すとき、刷り込まれた記憶は成長しつつあるカラスに自分の社会に戻るよう呼びかけるのだろう」と、同書にはある。  

 カラスから類推すれば、実際には「自己同一性」よりも、「集団への帰属意識」のほうが先に形成されるのだろう。乳幼児は自分が誰なのかなどと悩みはしないが、誰についてゆけばよいのかは知っている。大方の人は、自分は誰なのかなどと深く考えることなく、与えられた環境の既存の枠組内で、自分の外面を適当に調整しながら、内面とさほど葛藤することもなく生きられるのかもしれない。ところが、たまに社会が押しつける模範的生き方を受け入れられず、軌道修正を試みる人がでてくる。「自分探しの旅」というのがひところ流行り、いまはとかく揶揄される原因もこのあたりにありそうだ。社会の制度や価値観が大きく変わる時代には、悩む人の数も増える。自分は誰なのか、悩み始めた人は浮き足立つ。その不穏さに耐えられず、原理主義的、排他的な共同体意識を同胞に押しつけ、似て非なる隣人とのあいだのグレーゾーンに明確な線引きをしようとする動きもでてくる。つまり人為的な集団アイデンティティの創生だ。  理性をもち、個を確立したことは、人間と動物のいちばんの差異に思われるが、人間は今後、さらに進化を遂げて自由に生きるようになるのか、退化してまた縄張り争いを繰り広げるのか、生物としては頭脳が大きくなり過ぎてただ自滅するのか、なかなか興味深い。

『世界一賢い鳥、カラスの科学』トニー・エンジェルによる挿絵

2013年6月30日日曜日

カササギの橋

 このところカラスの本を翻訳している。そのなかに同じカラス科の鳥である賢いカササギがたくさん登場する。カササギと聞いて、たいていの人がまず思い浮かべるのは、あの和歌だろう。「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」。読み手は万葉集の編者とも言われる大伴家持(718~785年)だ。ところが、カササギってどんな鳥と聞かれて、白と黒にくっきりわかれた鳥の姿がすぐに目に浮かぶ人は少ないだろう。それもそのはず、カササギは日本では佐賀平野と筑後平野を中心とした九州の一部にしかまず見られない鳥だからだ。秀吉の朝鮮出兵の際にもち帰った移入種だとする説が有力だ。  

 では、なぜ奈良時代にカササギの橋などという言葉が歌に詠まれたのか? カササギの橋って、いったいどんなもの? 私はついぞ知らなかったのだが、「カササギの橋と言えば、七夕に決まっているじゃない」と、母にあっさり言われた。前漢時代に編纂された『淮南子』の巻末付録に書かれたのが最初と考えられている。七月七日に織女を牽牛のもとへ渡すために、カラスとカササギが河をうずめて橋をつくるのだそうだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』にその引用として、「烏鵲填河成橋而渡織女」とある。  

 カササギもカラスも、冬季には集団でねぐら入りをする。大群が空を舞う様子を見て、天の川を連想し、空に架ける橋を思いついたのかもしれない。カササギは飛ぶと羽の白さが際立つから、暮れゆく空に映えるだろう。なにしろ、カササギの学名はピカ・ピカ(Pica pica)なのだ! もちろん単なる偶然で、ラテン語のピカはまだらという意味で、カササギを指す。カササギの分布を調べると、東は朝鮮半島からシベリア沿岸部、カムチャッカ半島まで、西はイギリス諸島まで広大な地域にまたがるが、暑い地域は苦手らしい。またアイスランドや日本の本州にいないことを考えると、海を渡るのも好きではなさそうだ。  

 カササギの橋という概念は、日本には機織の技術と七夕伝説とともに5世紀ごろに入ってきたようだ。養蚕や原始的な織物の技術はさらに早く3世紀ごろに伝わっている。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。中国では漢代にはすでに庶民の男は牛を使って農地を耕し、女は機織をするのが一般的になり、このころ七夕伝説も確立したようだが、日本では牛が少なかったからか、牽牛の技術のほうは広まらなかったらしい。彦星という、職業不詳の名称に変わったのも、牛飼いのイメージが湧かなかったからかもしれない。6世紀末に推古天皇が新羅に送った特使が2羽のカササギをもち帰っている。大阪にある鵲森宮という神社がその記念のようだが、このときは繁殖しなかったようだ。  

 大伴家持は子供時代を大宰府で過ごしているので、朝鮮半島から渡ってきたカササギをそこで見たのではないかと思ったが、可能性は薄そうだ。彼が読んだ歌も七夕ではなく、冬の情景であり、宮中の階に降りた霜を見ての連想だろうと解釈されている。有名な「月落烏啼霜満天」の漢詩も、天の川を天の霜にたとえたらしい。要するに黒地に白のまだら模様は、天の川であり、カササギの橋であり、霜なのだろう。想像すると幻想的なので、娘に頼んでカササギの消しゴム判子をつくってもらい、烏鵲橋の絵を描いてみた。  

 ついでに大伴家持の経歴を読むと、その後782年に陸奥按察使に任命され、まもなく死去したが、桓武天皇が信頼していた中納言・藤原種継の暗殺事件の首謀者と目され、埋葬も許されなかったとある。奥州で日本初の金が見つかってから約30年後のことだ。彼が書いた「賀陸奥国出金詔書歌」の一部は、準国歌とも言われた「海ゆかば」の歌詞となった。

2013年5月31日金曜日

船体験

 ブライアン・フェイガンの『海を渡った人類の遥かな歴史』という本が河出書房新社から刊行された。私にとって彼の著書を訳すのはこれで5冊目になる。これほどの縁になった理由が、本書の序文を読んだとき初めてわかった。70年におよぶ彼の航海人生の原点に、子供のころ読んだアーサー・ランサムの本があったと書かれていたのだ。私も子供のころランサム全集にはまった一人で、昨年は小説の舞台の一つとなったコニストン湖まで行ってきたほどだ。彼の根底にある価値観に、私が共感してきたのは無理もない。  

 とはいえ、自分のヨットで世界の海を旅してまわるフェイガン氏とは異なり、私の海の経験と言えば、彼が嫌う大型クルーズ船やフェリーの旅くらいしかない。帆船に乗った経験は一度もないし、カヌーやボートも川や湖でしか漕いだことがない。5万年以上におよぶ人類と海の歴史を探ろうとする本書を訳すには、私はあまりにも力不足だった。関連書をあれこれ読んでみたが、なにしろ「海を解読する」と彼が表現するものは、スポーツや芸術分野の体で覚える感覚と同様に、文字では伝えきれないものだ。大海の真っ只中で波と風に翻弄される体験は、実際にそれと闘った人にしか理解しえないだろう。それでも、その感覚を少しでもつかめたらと思い、時間を見つけてはあちこちに足を運んだ。  

 数ヵ月前には、和船に乗れる場所があることを知り、江東区の横十間川親水公園まで行ってみた。江戸時代、この一帯は縦横に運河が張りめぐらされ、多数の船が行き交っていた。この文化をいまに伝えるために、和船友の会の人たちが伝馬船、網船などに無料で乗船体験をさせてくれる。少しだけ櫓も漕がせてもらった。  

 ここで知り合った人に勧められ、神奈川大学で開かれた国際常民文化研究機構主催の研究発表会にも行ってみた。ミクロネシアのカロリン諸島ポロワット島で、手に入る材料のみを使い、上半身裸の太めのおじさんたちが大勢でわいわいがやがや楽しげに、ひたすら人力だけで大型外洋カヌーを建造する過程を撮影した貴重な映像記録などを見ることができた。蔓を巻尺代わりに使い、中央の位置は蔓を半分に折って決める人びとに、生きる力を見た気がした。そのほかに、これまで素通りしていたみなとみらいの日本丸にも初めて乗ってみたし、御座船安宅丸に一人で乗って東京湾ミニクルーズもしてみた。  

 しかし、この本が追究するのは造船の歴史ではない。海図もコンパスもなかった時代、自分がいまどこにいるのか、どこへ向かっているのかも定かでない状況で、人はなぜ海に乗りだし、どうやってその海を読み解いたのかを探るものだ。最初はもちろん、陸地から離れず、目立つ陸標を頼りに航行した。地乗りとか、山あてと呼ばれる航法だ。簡単そうに思えるが、山並みだって見る方角によってまるで違うし、天候によっては見えないこともある。船乗りは空を眺めて天気を予測し、季節ごと、日ごと、時間ごとの風、潮流、干満の変化を知り、水深を測り、五感であらゆる兆候を察知しながら慎重に海にでていった。六分儀もない時代に、太平洋に点在する小島へ渡っていった人びとの知恵と勇気は私の理解を超える。それでも高所から遠方を眺め、太陽の位置で方角を推測し、風向きを肌で感じ、日没点の変化をたどるなど、ささやかな努力はしてみた。体で覚えるこういう感覚こそが、本当の生きる力になる。怖いけれど、いつか私も本物の海を味わってみたい。

 コニストン湖

 日本丸

 横十間川親水公園

 御座船安宅丸

『海を渡った人類の遥かな歴史』
ブライアン・フェイガン著、河出書房新社