2014年7月31日木曜日

神田小川町

「愛宕山に参って、下谷に寄って、松坂通って、目黒さんに参って、花坂下りて、お花を摘んで、お池のまわりをぐるっと回って、碁石を拾って、方々で叱られて、無念なことよ、お臍でお茶沸かせ」。こんな遊び歌をご存じだろうか? 頭、額、眉、目、鼻、小鼻、口、歯、頬、胸、臍と順番に触りながら歌う。 「東京市、日本橋、蠣殻町、パン屋のおツネさん」というのもあった。手の甲に、指一本、二本と線を引き、くすぐって、叩いて、つねる、という「一本橋こちょちょ」に似た遊びだ。いずれも母が、自分の祖母たちから教わった遊びで、母もよく孫たちにやって大受けしていた。  

 曾祖母のタケさんは神田の材木問屋の娘で、「松竹梅」ではないが、マスとウメという姉妹がいたというのが、私の聞かされていた話だった。目がぎょろりとして刈り上げ髪のモダン婆さんで、母は子供のころ一緒に住んでいたが、どうも苦手だったらしい。そのタケさんの生まれた場所が「神田区小川町一番地」であることがわかり、先日、梅雨の明けないうちにこの界隈を回ってみた。  

 私は長らく神田松永町に勤めていたので、須田町まではときどきでかけていたが、小川町はどこに位置するのか、いま一つ理解していなかった。娘の鳥グッズでお世話になっているバードウォッチング専門店ホビーズワールドが小川町なので、地下鉄の最寄り出口からお店までのほんの数メートルは知っていたが、私の頭のなかでその「点」はどこにもつながっていなかった。ネット上で明治時代の地図を見つけ、あれこれ調べるうちに、いまさらながらここが御茶ノ水駅から駿河台下まで下りた一帯、ちょうど学生時代にスキー用品を買いに足繁く通ったヴィクトリアやニッピンの店が並ぶ界隈であることを理解した。  

 曾祖母が生まれたのは1883年(明治16年)。江戸末期(1863年)の切絵図では、小川町絵図は内神田から飯田橋まで広がる広大な地域で、日本橋川沿いには騎兵当番所の馬場や洋学研究機関の蕃書調所があり、現在の小川町には老中だった稲葉長門守の上屋敷をはじめ、大名屋敷が並んでいた。小川町公式サイトによると、「明治5年(1872)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治11年、神田区に所属」したそうなので、曾祖母の家はその跡地に乗り込んだのだろう。明治時代には「東京を代表する繁華街」で、夏名漱石の『坊っちゃん』の主人公が「四畳半の安下宿に籠って」父の遺産である600円を投資して3年間学んだ東京物理学校や、「神田の西洋料理屋」がある学生街でもあった。  

 材木問屋は神田佐久間河岸にたくさんあったようだが、なぜ曾祖母の家は小川町にあったのだろうか。元禄時代に防火対策で、材木置場は深川猟師町や木場に移動させられたとのことなので、住む場所はどこでもよかったのかもしれない。佐久間河岸とどのくらい離れているのか確かめたいこともあり、浅草橋駅で下りて神田川沿いの通りを歩いてみた。見慣れた秋葉原周辺まではほんのわずかな距離で、そこから万世橋、須田町の交差点を通って靖国通りに入り、あっという間に小川町に着いた。なんと、ホビーズワールドの2軒先のビルが、漱石も訪ねたという金石舎のビルだった。美濃国の高木勘兵衛が1887年に創設した鉱物・宝石店らしい。表通りには昔を偲ばせるものは看板の文字くらいしかなかったが、裏通りに回ると、少なくとも昭和初期くらいの民家が二軒まだ残っていた。小川町界隈には以前にお世話になった編集者の事務所や神田医師会、白水社などがあった。稲葉家の屋敷神として祀られていた鍛冶屋稲荷は、幸徳稲荷神社と名を変え、ビルのなかにあった。この界隈はあちこちにお稲荷さんがあるが、開発の波のなかでどれも肩身が狭そうだ。  

 タケさんは、貧乏でも商売人ではなく医者と結婚したいと思ったそうだが、18歳で嫁いだあと、大勢の子供をかかえて早くに寡婦になったあげくに、関東大震災で焼けだされるという波瀾万丈の人生を送った。晩年の厳しい表情の写真からは、神田でニコライ堂の建設を眺めながら育ったであろう少女時代は想像がつかない。「洋画を観るのが好きな洒落た方だった」という親戚の言葉が、小川町の歴史を調べてようやく少し理解できた。

 佐久間河岸

 ニコライ堂

2014年6月30日月曜日

『姫神の来歴』

 ここ数カ月、あまりにも多忙で仕事以外何もできない状態がつづいたなかで、つい夢中になって読んだ1冊の本がある。『姫神の来歴』(高山貴久子著、新潮社)という日本の神話の謎を追った本だ。じつは著者の高山さんは大学時代の同級生で、卒業以来、音信不通になっていた。その彼女が昨年3月、本書の刊行を待たずに闘病の末に他界していたという訃報とともに、遅まきながらこの遺作のことを知った。きっこ(と私たちは呼んでいた)は、個性派揃いのクラスのなかでも、持ち前の明るさと美しい容姿ゆえにひときわ輝く存在だった。  

 日本の神話はこれまで私が敬遠していた世界だった。子供のころ松谷みよ子の本で、一連の神話を読んだのが最後だろう。神道と右翼がやたら結びついていることへの抵抗もあるが、古代の名前の読みにくさや、神話にありがちな矛盾だらけの突拍子もなさも、私が苦手とするものだ。しかし、「人は、実在しなかった人物やその事績を、長きにわたり、これほどの熱意をもって守り伝えることはするまい」という本書の序文につられて一気に読んだあげくに、たびたび引用されていた『出雲国風土記』まで図書館で借りて斜め読みしてみた。  
 本書のなかで、きっこは大胆な仮説をいくつも提示している。その一つは、八岐大蛇と国譲りの話が、実際には一つの連続した出来事ではないかという推理だ。出雲の地を治めていた大穴持命、つまり大国主命を、よそからきた(新羅と推測している)スサノオが酒を飲ませて斬り殺し、その妻であった櫛名田姫を奪って妻とした。しかし、それでは体裁が悪いので、八岐大蛇を退治したことにし、櫛名田姫を前面に立てるかたちで、事実上は自分が出雲を支配した。「出雲大社に大国主命が住まうとは、すなわち、〈死んで祀られた〉ことを意味する」。「櫛名田姫は、これ以上、国が荒れ、民人の命が失われることを良しとせず、新羅系渡来氏族との和睦を図ることとした」 櫛名田姫というのは、本来は『日本書記』にあるように「奇稲田姫」で、「霊妙なる実り多き田」という意味なのだそうだ。となると、「記・紀」にある櫛名田姫を櫛に変えて頭に差したエピソードは、のちに同じ音の「櫛」表記が定着して追加されたのだろうか。『出雲国風土記』にはスサノオがサセの木の葉を頭に刺して踊るという記述が見られる。出土している最古の横櫛は4 世紀末ごろで、呪力があると考えられていたそうだ。神話を彩るには都合がよさそうだ。  

 本書は1994〜96年に出雲の荒神谷遺跡などから300 本を超える銅剣と総数45個の銅鐸、銅矛16本が出土したことにも触れている。国内でこれほど大量の青銅器が一度に出土した例はほかにない。いずれも紀元前2世紀後半から紀元1世紀前半に製造されているそうだ。青銅器は一般に銅と錫の合金だが、インダス以東のアジア地域のものは鉛も含まれていることを、ネット検索で知った。錫の産地は非常に限られているし、鉛は同位体分析で産地が特定しやすい。『古事記』がつくられた712年は和銅5年。これは秩父市から日本で初めて銅が産出したことを記念した年号だ。733年完成の『出雲国風土記』にも金属に関する記述と言えば、飯石郡の飯石小川と波多小川に「有鉄」、大穴持命の本拠地の仁多郡に「以上諸郷所出鉄」と、砂鉄が産出する旨が記されているだけだ。荻原千鶴氏の解説によれば、中国山地では遅くとも6世紀には製鉄が行なわれていた形跡はあるそうだ。偶然ネットで見つけた阿部真司氏の「スサノヲの命の原像を求めて」という論文は、スサノオが産鉄集団のトップだった可能性を示唆し、『風土記』の飯石郡熊谷郷にでてくる久志伊奈大美等与麻奴良比売命(クシイナダミトヨマヌラヒメ)の名の「マヌラ」は、鍛冶の女神を意味するかもしれないと述べている。大量の銅剣や銅矛、銅鐸はどこからきたのか。所持していたのは誰だったのか。八岐大蛇からでてきた草薙の剣や、それに当たって刃が欠けてしまった十束剣は、鉄器の生産の始まりを暗示していたのか。本書を読んだおかげで、「神代」の出来事がおもしろくなってきた。  

 ついでながら、『出雲国風土記』は本草学の本かと思うほど植物には詳しく、動物に関しても、仁多郡には「鳥獣は、タカ、ハヤブサ、ハト、ヤマドリ、キジ、クマ、オオカミ、イノシシ、シカ、キツネ、ウサギ、サル、ムササビがいる」といった具合にそれなりに書かれている。タカ、ハヤブサの記述が多く、鷹狩りが盛んだったのは間違いない。狼は10郡中6郡に出没したらしい。タヌキ、カラス、スズメに関する記述はなく、なぜかムササビは頻出する。  

 きっこは、付箋紙だらけになるまで「記・紀」を読み、『延喜式神名帳』だの、貝原益軒だの、古代朝鮮の歴史書など多数の文献に当たり、およそ関係のある場所にはすべて足を運び、山奥の神社に祀られた神名を確かめ、土地の人に話を聞いている。美人のきっこにあれこれ由緒を問いつめられ、困惑する神主さんの顔が目に浮かぶようだ。詩人でもあった彼女は文章も美しい。10年かけて調べつづけたという入り組んだ謎のうち、神話に疎い私にもすぐに理解できたのはごくわずかだ。会ってもっともっといろいろ話を聞きたかった。

『姫神の来歴』高山貴久子著(新潮社)

2014年3月31日月曜日

ウィリアム・ウィリス医師の報告書

 東京の下町は、関東大震災と空襲で二度焼け野原になっているので、多くの人が過去の記憶を失っている。母方の祖父の家も震災で全焼し、焼け跡には金槌が一本しか残らなかったという。そのため、震災前に早死にした曾祖父については、断片的に伝え聞いたことしかわからない。さらに先代にいたっては、門倉伝次郎信敏という名前と上田藩の馬医だったことしか伝えられていない。  

 気まぐれにその名前をネットで検索してみたら、驚くような記事を見つけた。「上田で、ヨーロッパの服装をきちんと着こなした老紳士に会った。彼は騎兵教練を教えたアプリン大尉(英国公使館付陸軍騎馬護衛隊長)のかつての教え子で、大尉が日本を去る時、その鞍を買った。それはきちんと保存され、私が見た時は見事な日本馬にとりつけてあった。その老紳士は松平備後守の家臣で、名は門倉伝次郎という」。『ある英人医師の幕末維新』(ヒュー・コータッツィ著、中須賀哲郎訳)からの抜粋で、幕末にイギリス公使館付医官として来日したウィリアム・ウィリスが、負傷兵を治療するため1868年の北越・会津戦争に従軍した際の報告書の一部だった。念のため原書を当たってみると、案の定、最後の一文がすっぽり抜けていた。ウィリスのこの報告書はイギリスの「青書」に掲載されていて、昭和初期から日本でも研究されていたので、訳者がいい加減に付け加えたとは思えなかった。しかし、松平備後守なら加賀の大聖寺藩主で、上田藩主を指すなら松平伊賀守なので、なんとも謎な一文だった。  

 いろいろ調べてみると、ウィリスとアプリンは東禅寺事件や生麦事件など多数の事件に遭遇しており、アプリンは確かに1868年には帰国していることがわかった。江戸時代には馬の乗り方も西洋とまるで違っていたそうなので、西洋の鞍は貴重なものだったのだろう。さらに上田女子短期大学の大橋敦夫教授の「信州洋学史研究序説」には、門倉伝次郎についてこう書いてあった!「佐久間象山・伊東玄朴らに師事。蘭書ネッテントを訳し、『西洋馬術規範』として出版」。好奇心が勝り、図々しくも大橋教授に問い合わせてみたところ、訳書のほうはある時期に売りたてられ、所在不明になっているけれど、佐賀大学の青木歳幸教授の『上田市誌』に関連の記述があるとして、ご親切にコピーまで同封してくださった。そこには、「横浜で英国騎兵士官アプリンに就いて西洋馬術を修めました。伝次郎の指導で、慶応年間の長州戦争のとき、上田藩の騎兵は西洋式で出陣しました」とあった。ウィリスの報告書と一致する内容だ。 『象山全集』にでていた佐久間象山の門人帳を調べてみると、嘉永四年(1851年)に小林虎三郎や吉田大二郎(松蔭)につづいて、「松平伊賀守様御家来八月十五日、門倉傳次郎」の名前があった。嘉永三年には山本覚馬、勝麟太郎(海舟)、六年には坂本龍馬が入門している。『在村蘭学の研究』(青木歳幸著)によれば、医学関係ではなく、砲術関係者だったらしい。  

 もう一人の伊東玄朴はシーボルト事件で地図を手渡した当人で、佐賀藩がその才能を惜しんだため連座を免れ、のちに日本の医学に大きな貢献をした人だった。玄朴の門人帳を複数の書で確認してみたが、伝次郎さんの名前は見つからなかった。ただし、国会図書館には、杉田玄端が「門倉傳二郎」に宛てた書簡があるので、何かしらの医学・獣医学を学んだ可能性はある。この巻物は達筆すぎて、私には象形文字と同じくらい、さっぱり読めなかった。 

 上田藩の1865年の分限帳という藩士のリストも「信州デジくら」で見つけ、毛筆のリストを一枚一枚めくったところ、伝次郎さんのほかに「伝次郎伜 門倉庄次郎」と、私には読める謎の人物も発見した。上田市立博物館発行の『上田藩の人物と文化』を古本屋から取り寄せてみたところ、1839年の分限帳には「五両三人、門倉伝次郎(25歳)、御馬乗、宗(吽寺)」と書かれていた。計算すると幕末には54歳になっているので、ウィリスに「老紳士」と書かれても仕方ない。でも、伝次郎さんの息子とされてきた私の曾祖父は1870年前後の生まれのはずだ。本当は庄次郎さんの息子だったのか、伝次郎さんが若い後妻をもらったのか、これまた謎だ。同じ39年の分限帳には中小姓として「十石三人、門倉門蔵(54歳)、御馬役」という人物もいた! 門蔵さんは1813年のリストにも登場する。祖先は馬医だと伝えられてきたが、むしろ馬乗りだったのか。ささやかな俸禄で、親の名付けセンスが疑われるこの御馬役が、とりあえずは情報化社会のおかげでたどり着いた、私の最も古いご先祖さまのようだ。

『ある英人医師の幕末維新』(ヒュー・コータッツィ著、中須賀哲郎訳)

Dr. Willis in Japan, 1862-1877: A British Medical Pioneer, Hugh Cortazzi, Athlone Pr

2014年2月28日金曜日

朝陽丸

 咸臨丸と言えば、勝海舟や福沢諭吉が乗ってサンフランシスコまで往復した船として誰もが知っているが、幕府所有のこの3本マストのコルベット艦が木造外輪式の蒸気船で、幕末にオランダで建造された軍艦だったことはあまり知られていない。ペリー来航に慌てた幕府が、「長いつきあいのあるオランダに相談を持ちかけ、軍艦購入と、その軍艦の乗組員を養成するための長崎海軍伝習所設立が決まったのである」と、ウィキペディアには書いてある。1856年に建造されたオランダ海軍のバリ号と同型の、最先端の軍艦だったという。このとき発注された2隻のコルベットのうち、先に完成したヤッパン号がキンデルダイク造船所からカッテンディーケ船長のもとで回航されてきて、咸臨丸と名前を付け替えられた。太平洋横断航海のときは、ジョン万次郎以外の日本人はひどい船酔いになり、「アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった」らしい。  

 2隻目のエド号は1858年5月に長崎に到着し、朝陽丸と命名され直された。幕末の動乱期に、この船は咸臨丸と、ヴィクトリア女王から寄贈された蟠竜丸とともに、幕府の主力艦として小笠原諸島を含む日本各地の輸送任務に使われた。ところが、朝陽丸は1868年の戊辰戦争のさなかに明治政府の手に渡り、翌年の函館戦争に投入された。長崎奉行所の振遠隊28名を含む、各地からの乗組員は2月に長崎を出航し、4月14日には松前城を攻撃した。「しかし5月11日の函館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の最後の奮闘により、砲撃が朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈」。80名前後が戦死し、長崎の振遠隊の生存者はわずか2名だった。戦死者の大半は10代後半から20代の若者で、15歳の少年もいたようだ。  

 振遠隊の戦死者のなかに、山口亀三郎という士官格の若者がいた。享年19歳だった。じつはこの名前が、先月の「コウモリ通信」に書いた、娘の親戚聞き取り調査のときのノートに書き留めてあった。「戊辰の役で長崎知事からもらった掛け軸がある。明治2年5月11日、山口亀三郎源克明戦死、その後、褒美の禄をもらった証明書」と、メモにはあった。この亀三郎が誰に当たるのか、長崎から祖母の死後に戸籍を取り寄せた叔父夫婦にも見当がつかなかった、と娘は記憶している。  

 この名前だけを頼りにネットで検索したところ、函館に己巳役海軍戦死碑があって、戦没者を調べあげたサイトなどがあったおかげで、前述のような内容が判明したのである。私の曾祖父は実父が放蕩親父だったらしく、山口家に養子入りしている。その経緯については誰も詳しく知らず、私も山口家のモヤさんという曾祖父の義母がすばらしい美人で、略奪されるようにしてお嫁にきたという話を、高校生のころに祖母から聞いた限りだ。「血はつながっていないんだけどね」という祖母のオチに、大笑いした記憶だけがある。  

 祖母の戸籍等から判明したモヤさんとその夫の生没年、およびこの朝陽丸の事件の年代を書きだしてみると、意外なことがわかった。私の曾祖父が養子縁組をしたころには、山口家の生存者はモヤさんしかいなかったという事実だ。ここからは私の推理でしかないが、おそらく山口家は残っていた唯一の息子の亀三郎が19歳で戦死してしまったあと、1880年には父親も亡くなり、モヤさんだけが取り残されたのだろう。曾祖父がいつごろ養子に入ったのか定かではないが、実の弟たちと戦後まで付き合いがあったようなので、大きくなってからの養子縁組で、学費をだしてもらった可能性が高そうだ。大事な跡取り息子を亡くした山口家の悲しみは、掛け軸と褒美をもらい、石碑に名前を刻まれることで癒されたのだろうか。地元長崎にも明治初期に振遠隊戦没者のために梅ヶ崎招魂社が建てられたが、その後、台湾出兵の戦没者などと合祀され、あげくに原爆でそのすべてが失われたらしい。身近な過去を調べることで、近代史の思いがけないさまざまな事実を知ることになった。

長崎海軍伝習所絵図。陣内松齢作(昭和初期の作品)。徴古館蔵。

蟠竜丸の砲撃を受けて沈む朝陽丸。作者不詳(岩橋教章の一連の作品の可能性がある)

2014年1月31日金曜日

『嗚呼此一戦』

 娘が高校時代、ラザファードの小説『ロンドン』を真似て、夏休みの宿題に祖先をテーマにした短編小説を書くために、親戚から聞き取り調査をしたことがあった。ところが、激動の時代を生きたはずのほんの数代先のことですら断片的にしかわからず、江戸時代までさかのぼると、名前くらいしか判明しなかった。人の記憶とはこんなに脆いものかと、愕然としたのを覚えている。先日、法事で親戚が顔を合わせ、そんな話がでたこともあって、仕事の合間に少しばかり検索してみた。すると、以前は古本屋のデータか何かが引っかかったに過ぎなかった曾祖父の名前で、今回はアマゾンのサイトや誰かのブログがヒットしただけでなく、教えていた大学の資料に写真まで見つかった。ウェブ上の情報は過去のものまで、年月とともに猛烈な勢いで増殖しているらしい。  

 母方のこの曾祖父は長崎の人で、日露戦争時に陸軍通訳となるほどロシア語ができたという。どんな功績があったのかは不明だが、おそらくその関連で、勲六等単光旭日章というものを22歳でもらっている。その後、日露戦争関係のロシア語の本を28歳で翻訳し、ロシア語のテキストも書いている。  

 それにしても、明治時代になぜ曾祖父がそれほど若くしてロシア語を学べたのか。もしや単身ロシアに渡って、現地で独学したのだろうかと想像をたくましくしてみたが、どうもそうではなさそうだ。片手間に調べてみた限りだが、長崎には江戸末期に英語・ロシア語・フランス語を教える語学伝習所が設立されている。ここは広運館、長崎英語学校などとたびたび名称を変え、曾祖父の時代には長崎中学校となっていた。曾祖父はおそらくここで学んだに違いない。  

 それどころか長崎奉行には、ペリー来航の翌年1854年にロシアのプチャーチンが長崎で幕府と交渉したときには、すでに数名のロシア語通詞がいたという。彼らがロシア語を学ぶきかっけとなったのは、1782年にアリューシャン列島まで漂流し、その後ロシアに渡って10年近くのちに帰国した大黒屋光太夫だというから驚きだ。先月のコウモリ通信に書いた紀州の蜜柑船の状況と似て、彼も伊勢から江戸に向かう回船の船頭で、嵐に遭遇して7カ月間も漂流し、アムチトカ島にたどり着いた。一行はそこで樹木の育たない過酷な環境で暮らすアレウト族と、海獣の毛皮猟にきていたロシア人に出会った。フェイガンが『海を渡った人類の遥かな歴史』に書いていた世界だ。迎えにきたロシア船が目の前で沈没してしまったため、光太夫一行はロシア人とともに流木を集めて船を建造し、ラッコの毛皮を帆にして、1カ月半かけてカムチャッカまで渡った、とウィキペディアに書いてある。その後、出島の三学者の一人ツンベリーの弟子の博物学者キリル・ラクスマンの尽力により、エカチェリーナ2世に謁見して帰国を許され、息子のアダムに伴われて3人だけ根室に戻ってきた。  

 光太夫のロシア語は耳で覚えた不完全なものだったが、長崎の馬場佐十郎をはじめとする蘭通詞らが彼の単語帳をもとに、オランダ語の文法の知識を応用してロシア語の解読を試み、露仏辞書を手に入れ、並々ならぬ努力のあげくに、江戸末期にはロシア語教育が始まっていたのだ。  

 私の曾祖父はその恩恵をこうむって早くからロシア語を学ぶことができたのだろう。祖母の晩年、家を片づけた際に、ピナフォー姿の幼女の横に山高帽をもってすました洋装の青年がいる写真を見つけ、「これ誰?」と聞くと、皺くちゃの祖母が照れたような笑顔になり、自分を指さしたことがある。年齢から考えると、本が出版されてお金が手に入り、奮発して記念に写真館で撮影したものかもしれない。最近は古い書物がスキャンされ、ネット上で公開されているおかげで、会うことのなかった曾祖父の書いた学習テキストも読むことができた。ひ孫が100年後にネット・オークションで自分の訳書を落札するとは、曾祖父は夢にも思わなかっただろう。

嗚呼此一戦』ウラジミル・セメョーノフ 著、山口虎雄訳、博文館、明治45年

2013年12月31日火曜日

ボニン諸島

 ボニン諸島と聞いて、どこの島かすぐに思い浮かぶ日本人はどのくらいいるだろうか。じつは小笠原群島のことだ。歴史時代で最初にこの群島および火山列島などを見つけたのは、太平洋経由で香料諸島に到達しようとしたスペインのビリャロボスの艦隊の一部で、なんと1543年のことだった。ザビエルの時代である。実際、この艦隊に同乗していたコスメ・デ・トーレスも、戦国時代の日本で布教活動をしている。マニラとアカプルコ間の航路を開拓していたスペイン艦隊は、やがて日本の本土東岸沖を北上し、偏西風に乗ってサンフランシスコまで同緯度を進む、マニラ・ガレオンの航路を見出した。  

 日本人がこの群島の存在を知ったのは、それから一世紀後の寛文期で、紀州の蜜柑船が1000 キロほどの距離を72日間かけて漂流し、母島に流れ着いたためだった。当時は江戸までミカンを輸送するにも苦労していたわけであり、小笠原はまさに絶海の孤島に思えたのだろう。その後も長らくここは無人島だったが、オランダ商館長ティチングが1796年にもち帰った林子平の『三国通覧図説』にブニンジマ(無人島、本名小笠原島と云)と書かれていたため、ボニン・アイランズとして知られることになった。  

 早くも1824年にはイギリスの捕鯨船が、小笠原海域に豊富にいたセミクジラやマッコウクジラを追ってここまでやってきた。1830年にはアメリカ人ナサニエル・セイヴァリーをはじめとする欧米人数人とポリネシア人が父島に入植している。太平洋の真っ只中にあるこの群島は、水や食糧を確保できる貴重な寄港地と目されていたのだ。このころにはロシアやイギリスの軍艦、捕鯨船がきわめて頻繁にこの島々を訪れるようになった。ペリー艦隊も1853年に浦賀に来航する前に小笠原探検をしている。小笠原の野生化したヤギは、ペリー艦隊がもち込んだとも言われているが、すでに欧米系入植者がいたので、彼らが連れてきた可能性のほうが高そうだ。  

 日本は1862年になってようやくこれらの離島の重要性に気づいたようだ。外国奉行の水野忠徳が咸臨丸で小笠原に赴き、セイヴァリーら島民に、今後は日本がこの島を管理する旨を告げ、日本人移住者も八丈島から送り込まれた。その後、日本は急速に海外へと進出するようになり、第一次世界大戦では連合国側について、当時ドイツ領だったミクロネシアの島々を無血で占領した。ヴェルサイユ条約によって1922年からは南洋諸島としてこの海域一帯を委任統治することになり、1933年に国際連盟を脱退後も居座り、父島には要塞を築いた。第二次世界大戦が始まると、日本はアジア各国のほか、太平洋の島々もソロモン諸島やニューギニアにいたるまで一時的に占領したが、1944年には北マリアナ諸島も大激戦の末に米軍に奪われ、その後、グアム、サイパン、テニアンから日本本土への空襲が始まった。翌年3月には米軍は硫黄島でも日本軍を壊滅させ、この島からも多数の小型戦闘機などを送り込んだ。広島・長崎の原爆投下のB-29爆撃機は、テニアン島から2500キロほどの距離を飛んできた。往復で13時間ほどの飛行だったという。中間点の硫黄島は、往路に上空で編隊を組む地点となったほか、復路に不時着可能な場所にもなった。  

 いまの日本人の大半にとって、小笠原諸島は再び天気予報で名前を聞くだけの、地図の片隅に別枠で記された遠方の島々に過ぎなくなった。この一カ月ほどは、西ノ島沖に新島が出現したために、やれ領有権だ、領域拡大だと騒がれているようだが、フィリピン海プレートの端に位置し、そのすぐ東で太平洋プレートが沈み込み、小笠原海溝が形成されているこの特殊な海域で、大きな海底火山の噴火があり、地殻変動も起きていることが、はたして朗報なのかどうか。北硫黄島にマリアナ諸島と関連がありそうな先史時代の痕跡があるそうだが、火山の噴火から逃げるために移住してきた可能性があるという。父島に渡るフェリーは竹芝桟橋から週に一回しかでておらず、片道25時間30分もかかるようだが、いつか行ってみたい。  

 自宅のパソコン前からなかなか動けない私の駄文ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします

 三国通覧輿地路程全図、部分

2013年11月30日土曜日

ストレス解消

 10年間、連日のように酷使し、修理に修理を重ねたDELLのXPマシンの動きがかなり怪しくなったため、一大決心をしてMac miniに乗り換えた。これで煩わしかった数日ごとのアップデートに悩まされることもなくなり、雑用をしながら起動するのを待つ必要もなくなった。いちばんうれしいのは、音が静かなことかもしれない。前のPCはふだんでもうるさかったが、暑くなるとファンが恐ろしい音を立てるので、真冬以外は保冷剤が欠かせなかったが、新しいパソコンは電源が入っているのか、思わず耳を近づけたくなるほど静かだ。そのおかげか、長時間、仕事をしても疲労感が少ないような気がする。  

 日常的に聞こえるこうした騒音などは、いつの間にか慣れてしまい、あまり意識にのぼらなくなるが、実際には慢性ストレスとなって体内に蓄積されているのだろう。満員電車に乗って出勤し、職場であれこれ言われ、合間に私用メールやSNSをチェックし、色も音もあふれる繁華街を歩いて、高くて買えない/買ってはいけない誘惑物に囲まれる生活をつづければ、たとえ何事もなく一日が終わったとしても、体に大きな負担がかかるに違いない。最近、誰もが苛立って見えるのは無理もない。だから、帰宅途中に人身事故で電車が十数分遅れでもすれば、それが英語で言うlast strawになる。荷を極限まで積まれたラクダは、あと藁一本でも載せれば背骨が折れるということわざだ。  

 ラクダも藁もいまの日本人にはピンとこないので、こういう慢性ストレスについて家族や友人に注意を喚起するときなどは、私はその状況をコップの水にたとえることにしている。水位が低ければ、数滴増えたところで別に問題はないけれど、水がコップの縁まで入っていて、表面張力ですっかり盛り上がった状態であれば、そこに最後の一滴が落ちただけで、水はあふれてしまう。誰かにちょっと何か言われたくらいで落ち込んだり、些細なことで家族に腹を立てたりするようになったら要注意だ。パソコンなどは簡単に買い替えられるものではないし、嫌な上司に異動していただくのはさらに難しいだろうが、変えられることから始めて、余計な刺激は取り込まないようにし、日頃からコップの水位を下げておく努力はしたい。  

 何よりも、自分がいまどんな精神状態にあるのかを客観視する、鬼太郎パパのような目が欲しい。そのための手っ取り早い方法は、自己中心になりがちな日常を抜けだして尺度を変えてみることだろう。遠くを見る、空を見上げる、 野山や海辺を歩くなどして、自分の存在が小さくなれば、かかえていた不満も悩みも相対的に小さくなる。そんなことを考えて、先週、朝五時に起きて近くの空き地までアイソン彗星を見にでかけた。北斗七星からアルクトゥルスを探し、そこからスピカを見つけて、水星とのあいだの夜空を双眼鏡で懸命に見たが、暗い星がいくつか見えるばかりだった。2日つづけて頑張ったが、横浜の住宅街では夜空が明るすぎて、双眼鏡では尾が見えなかった。光がありすぎて見えないなんて、情報過多で肝心なものが見えなくなっているいまの時代のようだと妙に納得していたら、今度はアイソンが崩壊したというニュースが。今年最高の天体ショーはお流れらしいが、残った塵くらいは見えることを期待したい。  

 余談ながら、夕日に照らされた飛行機雲を誰かが彗星と間違えたらしく、かなりの人がスマホで夕空を撮影している光景も駅前で見かけた。いまの時代、ふだん夕空を見上げることもない人がきっと大勢いるに違いない。