象山はもともと桜を好み、桜をテーマにした詩歌を多くつくったそうだ。「自ら櫻に擬したればこそ櫻賦の大篇も成りたるなれ」と、『櫻史』には書かれていた。桜が日本人のナショナル・アイデンティティとなった端緒が、この作品ではないかと私が漠然と感じていたことを裏づけるような言葉だ。
「明治の初め象山の門人勝安房[勝海舟]その蔵する所の象山の遺墨を宮中に献ぜしが、天覧御覧あって金若干を恩賜せらる。安房感激已まず、恩典を不朽に伝えんと欲し、同門の人小松彰、牧野毅、北沢正誠と謀りて、象山の真蹟の櫻賦を石に勒して、東京飛鳥山に建てたり。而してその篆額は清人楊守敬の手に出でたるものなりという。かくて櫻賦はその所を得て、永世に伝わらん」とも書く。飛鳥山で私が見た桜賦の碑はこういう経緯で建てられたわけだが、いまではその碑文は読めないほど風化している。
『櫻史』には全文が翻刻され、読み下し文も載っていたが、いかんせん言葉が難解で意味がさっぱりわからない。ほかに解説などがないかと探したところ、『櫻賦・望岳賦講義』(市川文庫、1964年)という文学博士の市川本太郎の講義録のようなものが見つかった。図書館の蔵書にはなかったため、仕方なく古本屋で購入したところ、開けてみてびっくり。ガリ版印刷されていたのだ。自序によると、長野市狐池にお住まいの市川氏ご本人が、象山の自注をはじめ、何人かの先学の研究を参考に20年前につくった学生用の講義ノートを、象山の百年忌に再び修正を加え、みずから謄写して印刷したものという。たくさんの部数を刷ったとは思えないので、貴重な1冊を入手したようだ。
象山には10篇の賦があり、そのうちで最も傑作とされる桜賦と望岳賦の2作を解説したのが、この冊子だった。この解説書によると、「賦」というのは、「中国文学の一分野であって、一の題目下にそれに関する多方面の資料を網羅して、これを美辞麗句・難字句を以て綴る有韻の長歌である」。「賦を作ることはきわめて困難であって、詩を作る比ではない」そうだ。象山は天保10(1839)年、28歳のときに、松代にきた長崎の僧、末山から賦の作法を習ったという説が紹介されている。桜賦をつくった万延元年春には、観桜賦という作品もつくっている。この賦が孝明天皇の天覧に入ったと聞いて、象山は感激して七言絶句5首と長句1首をつくって義兄に当たる勝海舟に送った。「陪臣の作が天覧の栄光に浴することは、江戸時代には極めて稀なこと」だったという。
桜賦は、2年後の文久2年に、象山の門弟の松田直友の手で京都に運ばれ、三条実愛を経て天覧に供されたと、作家の松本健一が『佐久間象山』のなかで書いていた。梁川星巌という有力な伝を失ってから失っていた朝廷との細い糸が、それによって再びつながったとも推測していた。
「有皇国之名華、鍾九陽之霊龢、翳列樹之苯尊、嚲樛枝之交加」
「皇国の名華有り、九陽の霊龢(れいか)を鍾(あつ)む。列樹の苯尊(ほんそん)を翳(かざ)し、樛枝(きゅうし)の交加するを嚲(た)る」(読み下し文)
漢文はおろか、読み下し文でも意味がわからないどころか、これだけの「難字」をワープロで打つことがまず難しい。「苯尊」の尊の字には、実際には草冠がつく。市川氏の説明と解説を参照すると、この冒頭部分は次のような意味だ。「皇国日本には桜という名花があり、春の霊妙な和気を集める。桜並木は生い茂って覆い、曲がって入り組む枝を垂らす」。このあと延々とコノハナサクヤ姫や、平安初期の藤原良房の娘明子や在原業平などの故事や、桜そのものをたたえる、まさしく美辞麗句が並び、後半になってようやく思想史的に重視される箇所がでてくる。
問題の部分は以下のとおりだ。
「更有慷慨之志士、倜儻之豪俊、睎芳野而大息、哀皇業之不振、臨奥関而彷徨、欽上将之烈駿、嘉高徳之刑幹、題片言而暗進、雖忠誠之未報、永無慚乎王盡 」
「更に慷慨(こうがい)の志士、倜儻(てきとう)の豪俊あり。芳野を睎(のぞ)みて而して大息し、皇業の振わざるを哀しむ。奥関(おうかん)に臨んで而して彷徨し、上将の列駿を欽す。高徳の幹を刑(けず)り、片言(へんげん)を題して暗に進むるを嘉(よみ)す。忠誠の未だ報いられずと雖も、永く王盡(おうじん)に慚(は)ずることなし。」(読み下し文)
こんな内容のようだ。 「さらに嘆き憤る志士や、優れた知恵をもつ人びともいた。吉野の桜を望んで大息し、皇業の振るわなかったことを哀しむ者もいた。奥州勿来(なこそ)の関に臨んで去るに忍びず[源義家の奥州征伐の故事]、上将の烈駿さを慕う。児島高徳[南朝の忠臣]が桜樹の幹を削り、一片の句を書いて暗示したことをたたえる。いまだ忠誠が報いられることはないが、永く王の忠臣と言われても恥ずかしくない」
ここで市川氏は、通釈に「名高い吉野の桜をのぞみ、桜花のすぐれていることを賞するよりは吉野朝時代を思い、懐旧の感に堪えず嘆息し」と書く。また、児島高徳が「天勾践(こうせん)を空しくすることなし、時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず」(原漢文)の詩を書きつけて、勤皇の志を表わした故事を示すのだとも書き添える。この天勾践の部分は、尋常小学校の第5学年用唱歌となっていた。老眼にはとても読めない范蠡さんは、中国春秋時代の越の人らしい(歌詞では「空しうすること莫れ」となっている)。戦前の教育には、幕末の尊王攘夷派の思想が色濃く反映されていた。
象山も「楠公像題詩」など、いくつか南朝の忠臣をテーマにした作品を書いているが、倒幕の志士たちのように、南北朝という国内の権力が二分された時代をことさら想起させる意図がはたしてあっただろうか。彼は公武合体策を推して、迫りくる列強を前にして国内の統一を強く主張した人だった。諸藩が対立して内戦になった隙に外国につけ入れられる危険を、アヘン戦争当時から強く危惧して、注意を喚起しつづけたのが象山なのだ。ペリー来航時にも横浜警備でかかわり、日本という国を真っ先に意識した人だからこそ、万延元年という早い時期にすでに皇国と表現していたのだ。
桜賦のこのあとにつづく部分は、明治以降の桜と軍国主義が結びつく発端として利用された可能性がありそうだ。
「方華蘂之盛時、知物候之流運、対落英之繽紛、増感慨而自奮」
「華蘂(かずい)の盛時に方(あた)って、物候(ぶっこう)の流運を知る。落英(らくえい)の繽紛(ひんぷん)に対して、感慨を増して自ら奮う」(読み下し文)
文字どおりには、こんな意味である。「花の盛りに当たって、事物は流れ巡ることを知る。散る花びらが交じり乱れるさまにたいし、感慨を増してみずから奮い立たせる」。市川氏は、「桜花の繽紛としていさぎよく散るを見れば、志士たる者は『死は鴻毛より軽く』とあるが如く、また『志士仁人は身を殺して以て仁を成すことあり』とあるが如く、意気は感動して自ら奮発する。故に我も感慨を増し、当に死を決して国に尽くすべきの道を知り、以て自ら奮発するのである」と、拡大解釈する。
桜と軍国主義の関連でよく引き合いにだされる本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の和歌は、散る桜ではなく、朝日に照らされ輝くヤマザクラに、大和心をたとえたものなのだという。特攻隊にもタバコにも戦艦にも、大和、敷島、朝日、山桜という名前がつけられていた(戦艦の山桜はない)。まあ、「落英」などと命名したい人はいないだろうし、桜賦に使われる言葉はいまも当時も、凡人には理解できないし、読めない言葉だったのだろう。ある意味では、それが幸いしたと言える。それでも、散る桜に自分の行く末を予見していたかのようなこの箇所は、明治になってようやく、象山が長年主張してきたことの意味を理解した政敵たちの心を、揺り動かしたのかもしれない。
『櫻史』の近世のページには、ほかにもいくつか興味深いことが書かれていた。江戸の桜の名所である上野や隅田堤などは、寛永年間の3代将軍家光の時代にヤマザクラや里桜が植えられ、のちに8代将軍吉宗の時代である享保年間にさらに名所が増えたのだという。これらの桜の多くは吉野の桜や、吹上の桜、左近の桜の種から育てた苗とあるので、ヤマザクラが主だったと思われる。象山が詠んだ桜も白っぽい花が咲くと同時に赤い若芽がでるヤマザクラだっただろうか。
初版が1941(昭和16年)という『櫻史』には、「外つ国の櫻」という小見出しのあとにポトマック河畔の桜について述べたあと、「英国ケント州の紳士コリンウッド・イングラム氏は大正十五年に来朝せしが、氏は二十年以前よりわが国の櫻を集め、その邸内には百種以上の品種を植ゑ、なほ盛んに培養せりといふ」などとも書かれていた。
その少しあとには「櫻の会」という小見出しも設けられていたが、もともと桜を調べる発端となった鷹司信輔の名前は見出せなかった。イングラムの本を勧めてくれた娘の絵本『さくらがさくと』は、この春、韓国語にも翻訳されて、数日前に無事に刊行されたようだ。歴史的な背景を考えると、韓国での出版はじつに大きな意味がある。
7年ほど前に図書館から借りた巨大な資料集より
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