じつは井伊大老の首級は、実行犯の1人である広木松之介の手でひそかに水戸へ運ばれ、徳川斉昭に見せられていた可能性が高い。茨城県郷土文化研究会の『郷土文化』第45号(2004年)に掲載された水戸史学会副会長の久野勝弥氏の「井伊大老首級始末異聞」という論文は、水戸藩の関係者遺族たちが伝える話と、事件に関連して過去に刊行されてきた重要な史料をつぶさに検証する。この論文を読むために、4年ほど前につくば市立中央図書館まででかけて行ったのだが、それをじっくり読む暇もなく今日に至っていた。
この論文は手に入りにくいため、概略だけここに書いておくが、かなり説得力のある論旨なので、これを読まずに桜田門外の変を語るなと言いたくなるほどだ。結論から言うと、桜田門外の変の実行犯として薩摩藩からただ1人加わった有村次左衛門が、「井伊掃部頭」と声高に呼ばわり、人目につく方法で日比谷御門のほうへ走ったのは、井伊直弼の首級を無事に水戸へ運ぶための芝居、つまり囮作戦で、これは別人の首だったと久野氏は、オールコックと同じ主張をする。
久野氏がとくに重視するのは、『安政雑記』に収録された「或人松平大隈守外桜田屋敷留守居役奥沢何某か咄を直接聞致其侭写」と題された4カ条の聞き書からなる記録と、この暗殺事件に関する裁判記録だ。松平大隈守は杵築(きつき)藩主で、この事件は桜田門のすぐ前にあった同藩邸前で起きた。彦根藩の屋敷はその西隣りにあった。
『安政雑記』は沼田藩の藤川整斎(1791-1862年)の自筆稿本と推定され、明治9年に関係者から太政官修史局に寄贈されたものを、1983年になって汲古書院から、目次だけつけて、翻刻はせずに筆文字の写真版として刊行された。その第12冊から14冊は桜田門外の変に関する記録というが、私には読めないため、久野氏の論文に頼るしかない。留守居役から聞いた話の第1条は、明治21年に島田三郎が書いた『開国始末』に引用された杵築藩の留守居役「輿(奥)津何某」の話と当然ながら似ているが、こちらのほうがずっと古く、異なる点もかなりある。
留守居役の話の第4条には、「右之内供頭の首を持ち、龍之口の方へ駈走り、『掃部頭殿御首』と高声に呼び申し候に付、御家来多勢追駈け、龍之口にて其首取り申し候。又御近習のもの首打ち取り、是も外方へ駈走申し候。此方へも多勢追いかけ申し候。其内に誠の御首は窃に取隠し、何方へ持参致し候哉」と書かれている。「これを見る限り、井伊方の首級は三つ持ち去られている」と久野氏は考える。すなわち、もち去られたものの龍之口で取り返された供頭の首と、取り戻したとは書かれていない御近習の首と、井伊直弼の首である「誠の首」である。
しかし、その他の情報と突き合わせると、「三つの首級」説には首を傾げざるをえない。久野氏は「供頭の首となれば加田九郎太の首であることは間違いあるまい」としているが、供頭は加田ではなく、日下部三郎右衛門だった。日下部もこの事件で殺されたが、即死ではなく、藩邸に運び込まれてから死亡しているので、彼の首がもち去られた可能性はない。事件の目撃者は、杵築藩邸の二階から見ていたので、見誤ったのだろう。即死者は4名いて、供目付の沢村軍六と河西忠左衛門、永田太郎兵衞と加田だった。深手を負い当日死亡したのが小河原秀之丞、越石源次郎、日下部三郎右衛門、岩崎徳兵衞(または徳之進)である。
負傷した有村が和田倉門の辰の口にあった三上藩の遠藤胤統邸(現、パレスホテル東京)までたどり付き、その前で自刃したあと、横にあった首級は三上藩邸に収容され、のちに彦根藩が何度も返却を求めた際に、加田九郎太の頭と称して貰い受け、それを藩医が縫接した云々と『開国始末』に書かれていることから、加田は架空の人物だとする記述もネット上には散見される。だが、明治初期に作成されたという「桜田事変絵巻」の上巻詞書にも、明治19年建立の世田谷豪徳寺の桜田殉難派八士の碑にも、彼の名前は見られるので、実在した人物だ。加田は槍持ちだったと言われ、ならば行列の先頭のほうにいて、供頭と見間違えられたのかもしれない。
裁判記録からは、氏名不詳の被告人が、これは深慮のうえの計画で、「現にそれさえも追手等用心の為め替首をも設置」と供述しており、「誠の首」と「替玉の首」の2つが水戸に運ばれたと久野氏は推測する。首級が水戸に運ばれたとする説には、岡部三十郎が道三橋の下にある芥船に隠れて待っていて、関鉄之助が運んできた首級を受け取って、逃げてきた増子、海後の2人とともに隅田川を遡って千住大橋まで運び、そこから陸路で水戸へ行ったという説もあり、久野氏はどちらが「誠の首」を運んだかは不明とする。
しかし、「替玉の首」が実際、「御近習のもの首打ち取り」と書かれた即死者の誰かのものだったとした場合、水戸の遺族などに伝わる話に岡部らが運んだはずの首の後日談がないのは気になる。「供頭」の首は、有村が自刃した龍之口で「取りもどし候」とある。事件発生時に取り戻したのではなく、事件後、何度も三上藩邸を訪ねた挙句に取り返したという意味であれば、それが加田の首であったとも考えられ、それが本人の遺体に藩医の手で縫接されたのであれば、より筋は通る。前述したように、事件当時の情報を聞いたオールコックは、「2つの首」がなかったと書いているのだ。
衝撃的な事件が目の前で展開するのを目撃しても、40人以上もの人びとが乱闘した一部始終を正確に見てとるのは難しいだろうし、まして「誠の首」が密かに運ばれたことなど気づくだろうか。「留守居役奥沢何某か咄を直聞致其侭写」すと言っても、録音機のなかった時代、この雑記の筆者が話を聞いて書くあいだにも情報は不正確になっただろうし、奥沢某の憶測も含まれているはずだ。
留守居役の話の第1条は、「大兵の男壱人、中背の男壱人、切って懸り、短筒をどんと放すや、否(や)、刀を籠の中に指入れ、主人を引出して、二三太刀たたみかけてうち候。其音、鞠をける様成る音致し、手早く首打落とし剣に貫き、大音に『井伊掃部頭』と迄は聞こえけれども」と描く。一般には、関鉄之介が襲撃の合図に鉄砲を撃ったと言われるが、実際には銃弾は黒沢忠三郎によって駕籠のなかの大老に向けて打たれたと、前述の中居屋の伝記では推測されていた。しかも、「近年になって、井伊家文書史料を克明に研究せられた吉田常吉博士が、その著『井伊直弼』伝中に、──井伊家藩医、岡島玄達が、主君直弼の遺骸を検診した時、『太股から腰に抜ける貫通銃創があった』と、報告書に記している──と、発表」されているという。ちなみに、この本(『開国の先覚者 中居屋十兵衛』)では、中居屋が購入したのは「五連発短銃二十挺」となっており、明治になって林鶴梁が旧福井藩士の村田氏寿に語ったこととする。
拳銃で撃たれ、駕籠の外から突かれ、すでに事切れていたか、地面に瀕死の状態で崩れ落ちた大老の首は脇差しで「二三太刀たたみかけて」斬る必要があったのかもしれないが、これは複数の首が斬られた音だったとも考えうる。「御近習のもの首打ち取り、是も外方へ駈走申し候」という、有村次左衛門につづいて首を運んだ人こそ、実際には「誠の首」をもっていたという可能性もあるのではないか。
久野氏の論文には、甘酒屋に化けた水戸の侍が江戸を脱出し、利根川の大森河岸から水戸まで船で運んだとする船頭の子孫の話も引用されている。水戸まで船で運んだのだとすれば、大森河岸は千葉県の木下街道近くの六軒町のことと思われる。そこからは利根川、霞ヶ浦などを経由すれば水戸付近まで行けそうだ。となると、隅田川をそのまま遡ったのではなく、小名木川を通っただろう。実際には3つ目の首は存在せず、「誠の首」だけが岡部や広木らによって水戸まで運ばれたのではないだろうか。
広木については、1968年の明治維新百年を記念して水戸市美川町の妙雲寺境内に建てられた「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」に書かれた「供養塔由来」に、その大半がまとめられている。同論文から一部を引用させてもらうと、こんな内容だ。
「烈士の申し合わせにより 大老の御首級を携えて水戸に持ち帰り これを烈公[徳川斉昭]の御覧に入れる事が松之介の役目でありました 自宅に戻った松之介は御首級の危険を察し 姉花がその役に代りました 烈公様は御一見の後 これは浪士のなしたること 御首級は其の方へ預けおく 懇に御供養申し上ぐべしとの仰せ 松之介には墨染の衣を用意して 今死んではならん 命存えよとの仰せでありました」。このあと、事件後潜伏をつづけた広木松之助が、同志が相次いで処刑されるのを聞いて、文久2年の3月3日、事件からちょうど2年目に鎌倉の日蓮宗上行寺で自刃した旨がつづく。
台霊塔が建てられた妙雲寺には広木家の墓があり、1965年ごろに広木家とは関係のない骨壺が見つかった。三木敬次郎という檀家の1人が、井伊大老の首級に間違いないと考え、井伊家に返還を試みたが丁重に断られたという。論文に引用されていた遺族の談話によると、斉昭による首級の検分後、首台に納められ、三の丸の土堤の榎の大木の根元に埋められていたものが、大正2年に公会堂を建てるために土堤を崩した際に出土した。論文の文脈から、それを広木家の墓に埋葬し直したと読めそうだ。
その後、首級は台霊塔で供養されたわけではなく、その建立を請け負った高橋石材商店の人びとと三木敬次郎氏が、夜間にこっそりと豪徳寺の「井伊直弼の墓の前の合わせ石の下に埋葬した」のだという。この三木氏は、水戸家の3代藩主光圀の生母を助け、胎児が水子として葬られるのを救った仁兵衛之次の子孫なのだそうだ。戦後、大阪の四天王寺でこの事件の首謀者の1人である高橋多一郎の供養に訪れた折に、三木氏は偶然、松下幸之助に出会い、すっかり意気投合して出資を申しでた。それが現在のパナソニックが誕生した経緯であり、その後、この2人のあいだで水戸黄門のドラマ化の話がもちあがり、松下電器がずっとスポンサーとなったのだという驚くべき話も、久野氏は『これが水戸黄門だ!』(日之出出版、2003年)という雑誌に、高橋石材の高橋三郎聞き書きとして書いている。この石材店の高橋氏と多一郎との関係は言明されていない。
ところが、2009年に世田谷区教育文化財係が豪徳寺の井伊直弼の墓の傾きを直すために改修した際に、地表から1.5メートルの範囲には石室がないことを確認しており、その後、東京工業大学によるレーダー調査でも、地下3メートル以内に石室は見つからなかったと、2012年6月8日付の滋賀彦根新聞が報じている。記事では、豪徳寺のほかの場所に埋葬されている可能性が示唆されていたが、遺骨がなければ、首級の有無も確かめようがない。
井伊直弼の首級を取って走ったとされる有村次左衛門という21歳の若者は、生麦事件でリチャードソンにとどめを刺した海江田信義の2番目の弟である。連絡役となって事件を藩に報告したすぐ下の弟の有村雄助は、藩命によって両親と兄弟の前で自刃させられた。介錯したのは、奈良原繁、つまりリチャードソンを最初に斬りつけた喜左衛門の弟の喜八郎だった。桜田門外の変にかかわった犯人たちは、高橋多一郎や有村兄弟をはじめ大半が、明治35(1902)年までにばらばらと贈位されて靖国神社に合祀されている。鎌倉の上行事にある広木の顕彰碑も、贈位を受けて大正5年に建立された。その背景には、祖先の名誉を回復したい遺族や地元関係者の思惑があったかもしれない。それが、事件現場から逃げた数名が首級を水戸へ運ぶ任務を負ったという伝説を生んだ可能性も検証すべきだろう。この事件について書く人は、襲撃の様子ばかりを詳細に語るが、いま一度、事件全容の解明にもう少し努めるべきはないだろうか。
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