2021年4月2日金曜日

イングラム桜編

 先月初めに『チェリー・イングラム』の記事で書いたように、この春はにわかに桜観察に精をだしている。観察対象はいくらでもある。 

 染井吉野が栽培品種でクローンであることや、ヤマザクラやオオシマザクラが野生種であること、それに八重桜があることくらいは私でも知っていたが、桜についてそれ以上に考えたことはなかった。 

「いにしへの奈良の都の八重桜、けふ九重に匂ひぬるかな」は、百人一首にもなっている伊勢大輔の有名な句だが、この八重桜は興福寺東円堂にあった栽培品種と考えられている。八重桜は雄しべや雌しべが花弁に変化することで八重咲きになり、実がほとんどならないため、遅くとも鎌倉時代初期には接ぎ木によって盛んに増やされていたことが確認できるという。近所の並木で咲きだした八重桜をまじまじと見てみたら、確かに花弁に変わりかけた雄しべが並んでいた。  

 接ぎ木というのは、増やしたい原木から穂木となる枝を切り取り、実生から育てた苗か、挿し木で根を生やさせた台木に切り込みを入れて、双方の切断面を密着させることで1本の木にして、原木のクローンをつくる移植技術だ。興福寺に隋や唐の影響を強く感じさせる仏像があることなどを考えると、接ぎ木の技術はこのころ伝わったのかもしれない。  

 桜は同じ遺伝子をもつ花粉からは受粉しても結実しない自家不和合性の植物とのことで、野生種の場合は、近くに何本か同種の木があれば、自然に結実し、その実生が育てば同種の新しい木となる。八重桜は結実すること自体が難しいが、染井吉野は近くにオオシマザクラなどがあれば実がなる。染井吉野は遺伝子からオオシマとエドヒガンの雑種と考えられているが、日本は歴史的に家畜化も栽培品種化もほとんど行なってこなかったので、実生からの選択や人工交配がいつごろ誰によってなされたのか、詳細は解明されていないらしい。「戻し交配」などによって染井吉野に実がなった場合、その実を植えても、当然ながら染井吉野にはならないが、試しに植えてどんな花が咲くか観察した報告もネット上にいくつかある。これはなかなか楽しそうだが、巨木になる可能性が高いので、うまく育った場合に植える場所を考えなければならない。近くに染井吉野ばかりある場所では、別の木から受粉してまったく同じ遺伝子をもつクローン同士であるため結実しないのだという。 

『徒然草』には、「花はひとへなるよし、八重桜は奈良の都にのみありけるを、このごろぞ世におほく成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆ひとへにてこそあれ。八重桜はことやうのものなり。いとこちたくねぢけたり、植えずともありなむ」と、書かれている。日本人が総じて一重の桜を好むのは、兼好法師のこの桜花観が反映されているようだ。左近の桜は、京都御所の紫辰殿南庭にある桜のことで、歴史上何度か植え替えられており、現在のものは純粋なヤマザクラではなく、オオシマの特徴が見られるという。ひな壇の下に飾る桜のモデルである。  

 八重桜には、確かにどこか人工的につくられた感じがあるうえに、花の時期が遅めでかつ長くドラマに欠けるためか、日本ではあまり人気がないが、和菓子のように美味しそうに見えて、そう嫌いではない。私がそう思うのは、祖父が八重桜のほうを好んだと母からよく聞かされていたからかもしれない。そのことが頭の片隅にあったせいか、イングラムの本で荒川堤の五色桜について読んだ際に、その多くが関山、一葉、手毬、鬱金、御衣黄などの八重桜であったことを知って俄然、興味が湧いた。  

 じつは祖先探しを始めてから何年ものあいだ、曾祖父について得られた墓石や戸籍以外の唯一の情報が、すみだ郷土文化資料館で見つけた1910(明治43)年5月の荒川并綾瀬川堤塘植付桜樹代として弐円寄付していた記録だけだったのだ。  

 ところが、荒川土手について調べているうちに、曾祖父が桜に寄付をした同じ年の8月に東京で生じた洪水としては明治最大と言われる大災害が荒川と綾瀬川で生じていたことを知った。当時の荒川の下流がいまの隅田川で、この大災害を契機に、荒川放水路の掘削工事が20年にわたって行なわれ、現在の荒川下流となっている。しかも、260カ所におよんだという堤防の決壊・越水箇所の一つが、荒川と綾瀬川の合流地点にある綾瀬橋の下左岸だった。鐘ヶ淵と呼ばれる一帯で、曾祖父は1899年からこの地にあった鐘淵紡績会社の医員となって、字古河川敷と呼ばれる区画に建てられた社宅に住んでいた。綾瀬橋からは200メートルほどの距離だ。  

 この年の8月11日午後3時に、8間(約15m)にわたって堤防が決壊した様子を、当時の新聞が「怒号して」と書いたことなどを、「濁浪の海と化す、明治43年の大洪水」という国土交通省関東地方整備局作成のパンフレットから知った。アメリカのポトマック川沿いの有名な桜並木は、この土手からの苗木を植えたものだそうだし、イングラムも荒川堤で江戸時代から受け継がれた多様な里桜を守りつづけた船津静作らと交流して、送ってもらった穂木を大切に育てていた。しかし、荒川堤の桜は、荒川放水路の大工事のなかでどんどん伐採され、戦後は蒔にされてしまい、1947年に消滅してしまったのだそうだ。  

 この大水害で鐘淵紡績がどれだけ被害を受けたのかは不明だが、鐘ヶ淵付近で撮影された写真には、軒まで水没した民家の横で船を漕ぐ人の姿が写っている。過去帳すら子孫に伝わっていなかったのは、祖先からの記録が関東大震災を待たずして、このときすでに失われていたからだろう。曾祖父は1912年3月には少し南の菊川に移り、そこで自分の医院を開業した。少しは水害のない場所に移りたかったのかもしれない。  

 あれこれ読むうちに、近年、再生された荒川土手の五色桜を見てみたくなった。八重桜の代名詞のようになっている濃いピンクの関山(かんざん、但し学名はSekiyama)は、荒川堤から広まったものという。うちの近所の並木はすべて関山だったし、横浜の馬車道も関山だ。イングラム自身は関山が大嫌いだったそうで、品がないと言って苗を引き抜いたほどという。桜湯や桜あんぱんに使用される桜花の塩漬けは、関山の蕾だということを、彼は知らなかったに違いない。ちなみに、桜餅の葉っぱには、オオシマザクラの若い葉が使われるそうだ。  

 新宿御苑が開園されたことを知って、この日はまずイングラムが日本に里帰りさせた太白を見に行った。事前予約制で入場制限をしているおかげで、都心とは思えない静かな広い公園を邪魔されることなく堪能し、珍しい桜を見つけてはそちらに向かい、一時間ほど歩き回った。ひっそりと立つ太白を見つけたときは嬉しかった。少し満開を過ぎていたためか、中心部の赤みが強くなり、思っていたほど白くはなかったが、地面に散った花弁の大きさは隣の桜のものと比べて格段に大きかった。御苑の八重は圧倒的に薄ピンクの一葉と関山が多かったが、ところどころに長州緋桜、福禄寿などの印象的な大木もあった。  

 荒川堤を歩く前に足立区都市農業公園にも立ち寄って、覚えきれないほどたくさんの品種を見て回った。この一帯は高速下の寂れた通りの街路樹にも惜しげもなく白妙、御衣黄、鬱金、さらには太白まで並んでいた。堤防の上にでると、若い苗木が等間隔に植えられており、平成25年度のふるさと桜オーナー制度で寄付した人たちの名前が品種や番号とともに記された看板がところどころにあった。私の曾祖父が寄付した2円は、こうした苗木になることなく荒川放水路の工事に使われてしまったのだろうか。土手からはスカイツリーがよく見えた。川筋は変わってしまったが、いまでも鐘ヶ淵から隅田川沿いか荒川沿いにさかのぼることは可能だ。  

 天気もよく、川からの風に吹かれながら贅沢なほど多様な桜が並ぶ五色桜の散歩道は、河川敷側を眺める限りは快適だった。あいにく反対側は頭上高くを首都高速中央環状線が通っていて、大型車がひっきりなしに通過する。ふだん静かなところにいるので、私にはその騒音がなんとも気になった。高速側の桜の写真を撮ろうと思えば、シャッターを押すタイミングを間違えると背景にトラックが写り込む。おまけに壁面はやたら目立つ赤色だ。ドライバーにとっては、この区間は狭苦しい遮音壁のない首都高速では例外的に開放的眺望の得られる場所だそうが、東側一帯は住宅地だ。失われてしまった五色桜を再現しても、曾祖父や祖父が愛でた光景はもはや取り戻せない。堤防上の広い土地が、苗木を育てる場所を提供してくれていると思うしかない。  

 帰りは扇大橋駅まで歩いて、発車間際の日暮里・舎人ライナーに飛び乗った。親切な運転士でよかったと安堵して、何駅か過ぎたところで乗客が大勢下車したため、前方がよく見えるようになった。すると、ビルの谷間を縫うように走るモノレールのような乗り物で(ゴムタイヤで走る高架の案内軌条式鉄道)、しかも自動運転であることに気づいて唖然とした。イングラムの本を読んだおかげで、なんともいろんな発見があった。

 荒川堤の五色桜の散歩道

京成堀切駅近くの水門。向こうに見えるのが荒川(2016年3月撮影)

鐘ヶ淵を訪ねた際に歩いて渡った橋が綾瀬橋だったようだ(2016年3月撮影)

 明治44年発行の東京府南葛飾郡の地図

 太白 新宿御苑にて

 荒川堤の散歩道は実際にはこう見える

 にわか勉強で覚えた栽培品種

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