2018年11月29日木曜日

『動物たちのセックスアピール』

 9月のコウモリ通信に書いた性選択の本が、どうにか無事に『動物たちのセックスアピール──性的魅力の進化論』という邦題で河出書房新社から刊行された。原題はA Taste for the Beautiful—The Evolution of Attractionという。濃いピンクの帯に白抜きで書かれた「魅力」の文字に、キラリンとばかりに星がついていることに、いまごろになって気づいた。最近は科学書のコーナーが棚の片隅にしかない本屋さんも多いが、うちの近所の本屋さんはこれまでに何度か宣伝をお願いしたこともあったせいか、数冊平積みしてくれていた。地元の応援は何よりもうれしい。  

 この本は一般の読者向けに平易に書かれた進化生物学の本なので、訳すに当たって著書の意図を測りかねるようなことは少なかった。それでも、生物の生態の細かい状況や実験の手順の説明などは、文字だけでは正確な状況が思い描きにくく、毎度のことながら大量の動画や論文を検索して参照した。インターネットのおかげだといつも感謝しているが、その分、誰でも簡単に検索できるわけだから、訳者がその手間を惜しめば、すぐに誤訳と指摘されてしまう。  

 今回はニワシドリ科の鳥の求愛の動画をいやというほど視聴したし、特殊な羽の形状に関する説明があったキガタヒメマイコドリの論文もずいぶん探した。左右の翼の一部の羽軸が棍棒状に太くなっていて、そのためにClub-winged Manakinと英語では呼ばれる鳥だ。この鳥にはもう一本、先端部が反り返った羽があり、左右の翼を頭上に高く上げて高速でぶつけ合う際にこの反り返った羽が、棍棒状の羽軸にあるギザギザの畝をこすり、ピッピーッと甲高い音を鳴らす。翻訳中にこの鳥の研究者ボストウィクによる動画や論文をかなり見たつもりだったが、今回このエッセイを書くために改めて探すと、別のもっと詳しい動画が見つかった。それによると、棍棒状の羽は次列風切りの6番と7番で、先端が反り返った羽は5番だった。しかも、左右の翼を毎秒107回という高速でぶつける際に5番の羽が同じ翼内の6番の羽の7本の畝を往復でこすり、107x14=1498回という振動数になり、それが計測すると1.5kHzのバイオリンのような音となるのだと説明していた。本書の著者は反対側の翼の羽とぶつかると解釈しており、私もそう訳したのだが、それはまあ仕方がなかったか。今回の動画でも、やはり畝があると思われるもう1本の棍棒状の羽、つまり7番に関する説明はなかったので、仕組みが完全に解明されたわけではないのかもしれない。  

 こうしたことは、本書のなかではわずか2文の説明があっただけなのだが、私は大いに悩まされた。一連の畝をこすって音をだすということすら、最初は意味がわかりかねた。考えた末に浮かんだのが中南米のギロという楽器だった。ひょうたんなどに刻み目をつけ、棒でこすって音をだす打楽器だ。ウィキペディアの英語版でこの楽器の説明を見ると、アステカ族がオミツィカワストリ(omitzicahuastli)という類似の楽器を使っていたことや、それが小さな骨に刻み目を入れたものを棒でこする楽器だったことなどが書かれていた。ひょっとして、誰かが森でキガタヒメマイコドリの羽を拾い、そこからヒントを得たのではないか。そう思ってちょっと調べてみたが、アステカ族はメキシコ中部が本拠地で、キガタヒメマイコドリの分布はエクアドル北西からコロンビアのアンデス山脈西側であるようなので、残念ながら両者を結びつけるのは、誰かが遠くまで旅をしたのではない限り、やや無理がありそうだ。  この本のテーマである性選択の理論は、性的二形がなぜ進化したかを解明するものなので、そこにはまず雌雄ありきという大前提がある。著者によれば、性差は生殖器ではなく、配偶子、つまり精子と卵で見分けられるのだという。その配偶子のサイズとそれをつくるためのコストが雌雄をそれぞれに変化させる。雌の卵は限られた資源だが、雄の精子は数時間で補給でき、大半の配偶システムでは、繁殖可能な雄がいつの時点でも余るようになる。そのため、雄はつねに競合相手に勝とうと鋭意努力することになり、それが性的な美を進化させることにもつながったという考えだ。  冒頭からのこうした説明は非常に説得力があり、第2章に「雄ならばできる限り多くの相手を得ようと努力するはずだ。つまるところ、彼らは雄ではないか?」と書かれたくだりでは、私はとくに問題も感じずそのまま訳していた。ところが、校正者はそこに疑問を覚えたようだ。なぜそう言えるのかと。  

 じつは現在、またもや性に関する本を翻訳中なのだ。『動物たちのセックスアピール』がテキサス大学オースティン校の性選択分野では著名なマイケル・J・ライアン教授であるのにたいし、今度の本は若いインド系イギリス人女性科学ジャーナリストによるもので、従来の進化生物学のあり方そのものに挑む内容となっている。もちろん、進化論を頭から否定して人類はアダムとイブから誕生したと主張するような書ではなく、フェミニズム的な立場から性差という考えそのものに疑問の目を向けるものだ。それどころか、ダーウィンも所詮、ヴィクトリア朝時代の社会の風潮に染まった人であり、性差別主義者だったと指摘するのだ。フェミニズムもジェンダー問題も私にとってはまったく新しい領域なので、またあれこれ読んでいる。そのなかで、配偶子のサイズから男はいくらでも精子を提供できるため好色で、相手構わずとなり、女は卵子が希少なので、えり好みをして最もよい相手とのみ関係をもち貞淑だと考えるのは間違っていると主張する生物学者すら、最近ではいることを知った。これでは、ライアン教授の最初の前提が崩れることになる。校正者が疑問をいだいたのは、もっともだったのだ。  

 役者は、悪役を演じるときも舞台の上ではその役になりきるのだろうが、訳者も一冊の本に取り組んでいるあいだは著者の思考に寄り添い、いわば著者に成り代わって語らなければならない。性選択の理論は数カ月にわたって苦労しながら理解してきたものだが、いまはその根幹を揺すぶられているような気分で、正直言って頭のなかは混乱気味だ。性選択の理論に興味がある方だけでなく、ジェンダー問題に関心がある方も、ぜひまずこちらの本をお読みいただき、来年、次の本が刊行されたら、双方を読みくらべていただきたい。

2018年10月30日火曜日

『岩瀬忠震』を読んで

 遅まきながら、『岩瀬忠震』(小野寺龍太著、ミネルヴァ書房)を読んだ。扇子に覚えたての英単語をさらさらと書きつけ、「日本で出会ったなかで最も愛想がよく、聡明な人物」とオリファントに絶賛された幕府の役人が、幕末関連書の端々に登場する初代の外国奉行の一人、岩瀬忠震であることを認識してから、横浜の本覚寺に昭和の後半に建てられた「開港の恩人」の顕彰碑や、東向島白鬚神社の明治初めの「墓碑」を見に行った。だが、彼の生涯についてまとまった本を読むのは、これが初めてだった。 

 わずか2カ月半のあいだに5カ国との条約に署名し、その直後に左遷され、開港後は蟄居を言い渡され、失意のうちに病死した岩瀬は、近年、その評価が大きく上がった。「日本の将来、すなわち開国、貿易、外国文明の移入、産業振興、富国強兵を安政の始めにはっきりと見通し、断固としてその道を推し進めたのは岩瀬を措いて他に見られない」と、著者の小野寺氏は書く。だが、その岩瀬は、安政2(1855)年に下田でロシアのプチャーチンとの再交渉に臨んだころはまだ、「攘夷的気分に浸っていた」らしい。彼は蛮社の獄の「妖怪」鳥居耀蔵の甥で、昌平黌出の儒者なので、無理もないかもしれない。本書によると、アメリカ領事のハリスとの初対面では反感をいだいた岩瀬が開国へと一気に傾いたのは、オランダ船将ファビウスとの安政3(1856)年9月下田での対談だという。オランダの医師ポンペが「トロイの木馬」と呼んだスームビング号、つまりのちの観光丸を回航してきた海軍士官だ。

  ところが、「開国の立役者・岩瀬忠震」は、安政5(1858)年6月18日、ポーハタン号で神奈川小柴まで乗り込んできたハリスのもとへ出張を命じられた日に、越前藩の松平慶永に「梧桐を洗する事方今之緊要」(『橋本景岳全集』2)と書き送っているのだ。この部分を小野寺氏は「松平忠固を辞職させることは日本の為になる」と訳している。梧桐は、桐が家紋の松平伊賀守忠固を意味する隠語らしい。上田藩主の松平忠固は積極的開港を主張しつづけた老中なのに、岩瀬はなぜ辞めさせようとしたのか。  

 ハリスはその数日前、英仏の軍艦数十艘が日本に向かってくると幕府に報告して、揺さぶりをかけていた。岩瀬らは英仏の武力に屈して調印に追い込まれる前に、談判を重ねてきたハリスの助言にしたがってアメリカと条約を結ぶ必要があると考えていた。開港を目指す点では忠固と一致していたはずだが、岩瀬は幕府の独断での調印に懸念をいだいており、その点で両者はぶつかっていた。  

 じつはこの年の1月、堀田正睦と川路聖謨とともに条約勅許をもらいに上京したものの、手ぶらで帰るはめになった岩瀬は、京都を去る前夜に越前藩の橋本左内に会って意気投合していた。「江戸に戻ってからの忠震は条約問題ではなくむしろ世子問題に熱中し」ていた、と小野寺氏は書く。橋下左内は安政4年ごろ開国派に変わっていたが、彼の目下の関心事は一橋慶喜を将軍継嗣にするための裏工作だった。水戸の徳川斉昭というカリスマを父にもつ慶喜を、病弱な将軍家定の後継者とし、外様大名や朝廷も巻き込んで国難を乗り切ろうとする考えだ。当時、人びとを二分していたのは開国か攘夷かではなく、むしろ一橋派か南紀派かであったのだ。後者は、従来どおり将軍はいわばお飾りとして譜代大名の閣老が政治を担うものだった。  

 誰もが将軍継嗣問題に夢中になっていたこの時期に、老中職にあった松平忠固だけは手遅れにならないうちに列強と条約を結ぶことに専念しており、継嗣問題は二の次と考えていた。「長袖[公卿]の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取計らハすしては覇府の権もなく時機を失ひ天下の事を誤る」(『昨夢紀事』4)というのは、条約調印の当日、6月19日の城中の評議で、勅許など待たずに調印すべきだと強く主張した際の忠固の弁だ。調印をなるべく延期するようにと井伊大老に指示され、では交渉が行き詰まった場合はどうするかと下田奉行の井上清直が問うと、「其節ハ致方無之」だが、でもなるべくと井伊は言い淀んだ(『史料 公用方秘録』2007)。忠固の生涯を描いた『あらしの江戸城』(猪坂直一、1958)という小説では、このあと忠固が井上・岩瀬両人に「『大老の仰せは、最後は貴殿等両人に任せるという事じゃ』と言って、暗に勇断あるのみという意を示した」とされる。この裏づけ史料はまだ見つけていないが、このときの会議を忠固が押し切ったのは疑いない。  

 忠固の日記はまだ読めていないが、政敵が残した記録を読む限りでは、忖度とは無縁の、潔癖でとっつきにくい性格であったようだ。国難に際して、大政は関東に委任されているという幕府の伝統を主張した忠固は、「京を軽蔑せらるゝハ以の外」と慶永には言われ、堀田政睦にまで「旧套固執」と決めつけられ、宇和島の伊達宗城には「伊賀といへる奸物」扱いされ、井伊直弼からは「伊賀抔ハ小身者の分際として」と蔑まされた。将軍家定の前で条約をめぐって井伊と「台前大議論」となり、岩瀬は左内に「愛牛(井伊)之逆鱗は定て條傳(忠固)と相觸候事に相察候」と書き送った。  忠固はもともと姫路城主の酒井家の出で、通商・交易による富国政策への転換をいち早く理解し、ペリー来航時には無謀な攘夷を唱える水戸の斉昭に対抗している。『昨夢紀事』を書いた中根雪江は、開港やむなしの立場ではあったが、斉昭の信奉者であり、忠固が老中に再任した当初から、「元來姦詐にして僻見ある人」として忠固を警戒し、買収工作に失敗したのちは、「伊賀殿、殊に横柄を振はれ余抔をハ廃立を謀る不忠者の様に罵り辱しめらるゝこそ口惜けれ」と、嫌悪をあらわにした。

「伊賀殿ハ衆人の嫌悪する處にて」と中根が書くように、忠固を共通の敵とすることで、本来対立していた井伊、慶永、堀田間が味方同士になるような、いじめの構図すら感じられる。  
 
 大老就任早々、井伊が忠固の罷免を画策するなか、継嗣問題が片づくまではと将軍家定が罷免を先延ばしにしているのを察知したのか、忠固は登城しない、「異存申立」るなど抵抗を試み、京都の武家伝奏からの答書の到着を隠して公式発表を先延ばしにし、その間にハリスとの条約を締結させた可能性もあるらしい。わずか数カ月間、越前藩の裏工作に加担するうちに、煙たい上司のような忠固に敵意をいだくようになったのか、岩瀬は日米修好通商条約の調印という一大事すら、「事後に枢機の責任が問われることも予見して」強行突破し、まずは「梧桐を洗する事」が肝心と考えたと、北海学園大学の菊池久教授は「井伊直弼試論〜幕末政争の一断面」(2018)で示唆する。  

 一方の南紀派も、意のままにならない忠固を罷免しようと盛んに工作していた。東京大学史料編纂所の『大日本維新史料』の井伊家史料にもその一端が見られるが、将軍家定や側用人が忠固の罷免を拒みつづけた箇所は省かれている。この史料の原典となった「公用方秘録」は、明治政府の修史館へ提出された際に大幅な改変がなされていたのだ。条約調印の当日、6月19日の記事では、「公用方秘録」の改竄箇所は先の引用につづく部分で、井伊は実際には「事態の深刻さに後悔し、成す術を失っていた」(母利美和氏の解題)のに、明治政府に迎合して「平常、天朝を御尊敬被遊候御前」という言葉が加えられ、「勅許を待ざる重罪ハ甘じて我等壱人受候」という決意表明に書き換えられていたことが研究によって判明している(『史料 公用方秘録』に詳しい)。  

 小野寺氏はこうした事実に目をつぶったのか、福地源一郎や徳富蘇峰以来の路線を踏襲したのか、このときの井伊を「最高責任者として当然ではあるが立派な態度であった」ともちあげる一方で、忠固については「諸悪の根源」、「表裏のある」、「隠れアンチ一橋派」と酷評する。井上と並んで岩瀬が外国奉行として尽力したことは疑いないが、『昨夢紀事』や左内との書状などを読むと、「天性の陰謀家」は忠固ではなく、岩瀬や左内のほうだろうと思う。国政の機密を漏らしつづけたのは岩瀬なのだ。彼を英雄視するあまり、開国に向けて幕閣として孤軍奮闘した松平忠固を不当に貶める書き方はいただけない。罷免された翌年9月、忠固はおそらく水戸の関係者に拳銃で暗殺されたと猪坂直一氏は書いた。岩瀬は訃報を聞いて溜飲を下げたのだろうか。

『岩瀬忠震』 小野寺龍太著(ミネルヴァ書房)

 本覚寺にある岩瀬忠震の顕彰碑

 東向島白鬚神社にある「墓碑」

『史料 公用方秘録』 佐々木克編(彦根城博物館叢書)

『あらしの江戸城』 猪坂直一著(上田市立博物館)

2018年9月29日土曜日

おばあさん仮説

 昨秋からつづいていた怒涛の日々をなんとか乗り越えた気がする。数カ月ほど失業していた折、別件でお電話をいただいた編集者に、「仕事ないですかね、暇なんですけど」と言ってみたところ、ちょうどリーディングの仕事があるからと頂戴したのが、先日終えたばかりの本の仕事だった。企画会議はすんなり通ったのだが、完全原稿がまだでておらず、待っているあいだに状況が一変して別の本2冊が先に刊行されることになったため、発売予定の遅いこの仕事が後回しとなった。このように、自分の予定がまったく立たず、繁閑の差があまりにもあるのが、出版翻訳の苦しいところだ。年始にはこの本の最終原稿がPDFファイルで届いていたのだが、本腰を入れて取り組めるようになったのは5月以降だった。綱渡りも3本目となるとさすがに注意散漫になり、気力も衰え、なかなか思うように進まなかった。  

 しかも、今回は性選択という進化生物学の本で、前2冊とは分野もまるで異なり、参考文献を何冊か読んで付け焼刃の勉強はしたものの、細かい用語の使い分けなどはさっぱりわからない。学術用語は、学会ごとに、研究者ごとに勝手に訳語をつくってきたせいなのか、同じ現象でも分野が変わると用語もころころ変わるのでじつに厄介だ。生物を専攻した娘が翻訳書の誤訳を指摘するのをしょっちゅう耳にしていたので、この本は原稿段階から読んでもらうつもりだった。

 ところが、とうの娘が8月に出産をし、睡眠不足と慣れない育児と、自分自身の仕事で手一杯のため、とくに問題の多い箇所だけは引用元の論文から読んでももらったが、それ以上は頼めなかった。そこで、同じく生物好きで、少なくとも通勤時間は原稿読みに使えそうな娘の夫に、ない時間をひねりだして読んでいただいた。まあ、その分、私も週に3回は沐浴や子守を手伝い、ダッバというインド製ステンレスの弁当箱にあり合わせの昼食を詰めて通っている。まあ、餅は餅屋、適材適所ということで、私は子守と、湯女(余計なサービスなしの)と、ダッバ・ワラ(弁当運び人)を兼業し、利用できる伝は活用することにした。初校前の荒削りの訳文に婿殿は面食らったようで、怪しい箇所をあちこち見つけてくれた。そもそも言葉の定義づくりが本職とかで、見ているところがじつに細かい。生物でsupernaturalを超常的と訳すのは違和感があるとか、触角葉とすべきところを触覚葉にしていた漢字の間違いまで、いろいろ指摘された。  

 校正者や編集者からもゲラで多数の鋭い指摘を受けた。翻訳中に不明な点を深く調べてしまうと、そのことに気を取られて文脈を見誤ることがある。私が左右非対称のシオマネキの説明の続きと思い込み、人間が柄付きブラシで背中を擦るようなイメージと誤解していた箇所では、超多忙な編集者がそのブラシの絵を描き、「このような生物が思い浮かばないです」と、丁寧に間違いを指摘し、本来、著者が意図したはずの全身が左右非対称の生物である海綿の絵まで添えてくださった。自分の勘違いにようやく気づいたとき、その絵を見て笑いが込み上げてきたのは言うまでもない。働き詰めだったこの1年間に老眼も確実に進行した。イタリックで書かれた学名は2カ所もスペルを間違えていたし、tailとtrailを読み間違えていたのだ。「モルフォチョウは尾をひらひらさせて」と訳したところ、「尾があるんですよね? 念のために」と、ゲラに書かれたのには参った。慌ててモルフォチョウを画検索してみたが、尾状突起もない。蝶に尾はないよなあ、と頭をかきつつ、原文をよく見たらtrail、つまり小道沿いにひらひらと飛んでいたのであり、またもや苦笑せざるをえなかった。こうした支援体制があってこそ仕事がつづけられてきたのだと、感謝することしきりだった。  

 自分ではまだ若いつもりでも、体は確実に衰えてきている。それを実感したのが娘の出産当日だった。出産時に悲劇に見舞われた親戚、友人が何人かいるし、私自身も恐ろしい思いをしたので、出産時にはかならず付き添うと伝えてあった。破水したという電話で叩き起こされると、寝ぼけ眼で家を飛びだした。ところが路面とのあいだの最後の段差を忘れていたため、思いっきり転び、学生時代のゲレンデ以来、久々の顔面制動をするはめになった。痛む顔を押さえつつ、夜更けに坂道を駆け下りる姿を見ている人がいたならば、『やまんばのにしき』にでてくる山をゴーッと駆け下りる山姥かと思っただろう。おかげで、初孫とは、青あざに擦り傷というひどい顔で対面するはめになった。余談ながら、瀬川康男が描いた山姥の錦は亀甲繋ぎ文の錦だった!  

 娘は低体重児でシワシワのヨーダそっくりの顔で生まれたが、孫娘もかろうじて2500gのラインを超えた程度の小さい赤ん坊で、オルメカ族のトウモロコシ頭かと思うほど頭が細長かった。ふっくらツヤツヤした赤ちゃんモデルとは程遠い姿に、誰に似たんだろうねえ、とお互いを探り合った。あぐらをかいた鼻だけは間違いなく娘似で、「よりよって、鼻が似るとは」と娘が嘆いていた。「自分の顔は、ある意味で自分のものだが、実際には両親や祖父母、曽祖父母など代々受け継がれてきた特徴のコラージュからなるものだ。悩みの種の、あるいはお気に入りの唇や目も、自分だけのものではなく、祖先の特徴なのだ」と、『馬・車輪・言語』で著者アンソニーは語る。泣いて目元を真っ赤にするときは、「遮光器土偶」などと呼ばれているらしい。ひどくぐずる子ではないが、うまく寝つけないときは抱っこで子守唄や童謡がやはりいちばん効く。数十年ぶりに歌おうと思ったが、どれも歌詞はうろ覚えになっていた。適当にごまかして歌うと、おチビさんがまだ焦点のよく定まらない目で、眉間にシワを寄せ、お父さんそっくりの表情で「本当にそう?」と言わんばかりにこちらを見る。ゲラで散々、やれ、日本語として不自然だとか、同じ助詞が連続しているとか、漢字が間違っているなどと指摘された挙句に、子守唄までチェックされるのは情けない。  

 しかし、これから言語を習得する重要な時期に、間違った歌詞を教えるのはいかがなものかと思い直し、子守唄&童謡の歌詞アンチョコをつくった。娘のときは手抜きだったので、今回は「裏の松山蝉が鳴く」、「花は何の花、つんつん椿、水は天からもらい水」といった歌詞の五木の子守唄と、民謡だが「こきりこの唄」も加えた。こちらも「向かいの山に鳴くヒヨドリは、鳴いては下がり、鳴いては上がり」という歌詞があるらしく、YouTubeで見てみたら、ヤマドリの尾を、古墳時代の冠の飾りのように綾藺笠につけて、こきりこささらを打ち鳴らすささら踊りが素敵だった。  ただでさえ時間がない私に子守業の追加は痛手だが、そこから新たに学ぶことも、思わぬ発見もあるだろう。進化論の一つに「おばあさん仮説」もあるそうだし、幼児が言語を習得する過程は、昔から私の関心事の一つだ。座り詰めで悪化しつつある腰がぎっくり腰にならない程度に、うまく両立させたい。

 新入りのおチビさん

 昔つい買ってしまったダッバ

最近つい買ってしまった 遮光器土偶と馬型埴輪

2018年8月30日木曜日

鮮卑とのつながり

 日本の古代史は、手がかりとなるはずの『古事記』や『日本書記』がなんとも意味不明なうえに、解釈を試みる多くの人の渡来人アレルギーが凄まじく、一歩踏み入れるたびに辟易として長らく近づく気になれなかった。ところが、祖先のルーツ探しで北関東の歴史をおさらいした際に、以前に切り抜いてあった上野三碑や埼玉の稲荷山古墳の新聞記事を読み直したことから、多胡碑の「胡」とは何を意味するのか興味をもち、そこから大量の資料を斜め読みし始め、昔読んだ江上波夫の『騎馬民族国家』も引っ張りだしてみた。幕末までたどった祖先の一人は、高麗流八條家馬術を学んでいたので、漠然と高句麗との関係を考えていたのだが、ひょっとすると「東胡」の可能性もあるかもしれない。

 そう思った理由の一つは、『馬・車輪・言語』を訳した際に参考に読んだ、沖ノ島など、ムナカタの遺跡に関するいくつかの論文だった。図版にステップからの技術を思わされる銅矛などが掲載されていて、遼寧式と書かれていたことだ。そこで、五胡十六国時代についてざっと学び、遼寧式銅剣は春秋戦国時代の燕にいた遊牧民と関連がありそうなことまではわかったが、決定的な参考文献となりそうな本が高額で、図書館にも入っておらず、まだ読めていない。一方、少し時代は下って4世紀から5世紀にいまの遼寧省西部を中心に前燕、後燕、北燕の「三燕」を相次いで建国した鮮卑の慕容部が、日本の古墳時代と奇妙につながりがあることはわかった。そこでこれに狙いを定めて少々調べてみた。以下、その付け焼刃の知識から、頭のなかを整理するために少しばかりまとめてみた。  

 3世紀から4世紀にかけて、ユーラシアでは気候が寒冷化して牧草が育たなくなり、遊牧民が次々に南下した。鮮卑とはひどい漢字を当てはめられているが、東洋史学者の白鳥庫吉は、帯鈎(たいこう、帯金具)を意味する古代トルコ・モンゴル語särbiがその語源の一つではないかと考えていた。三頭の鹿が並ぶ図柄のベルト・バックルや、「晋式帯金具」と呼ばれる龍文や葉文の透かし彫りが施された金具が出土している。ステップの騎馬民族にとってベルトが象徴的な意味をもっていたことを考えると、なるほどと思わせる説だ。鮮卑はいくつかの部(氏族)に分かれており、華北を統一して五胡十六国時代を終わらせた北魏の建国者はその拓跋部だった。

 上野三碑は北魏や仏教関係者と関連があると言われる。鮮卑は氏族外婚制であるため、母方の血筋が部ごとにかなり異なるらしい。慕容部の始祖とされる莫護跋は3世紀後半にかつての長城の南側の大凌河流域、つまり元の「燕」に移り住み、晋の礎を築いた司馬懿に協力して勢力を伸ばし、その子孫がやはり「燕」の国号で前燕を建国した。羽振りのよい時代には中原にまで進出した三燕国だが、本拠地は遼西の龍城、現在の遼寧省朝陽市だった。慕容部については、『晋書』に、歩くと薄い金属片の葉が揺れる、当時流行の歩揺冠をこの莫護跋が気に入っていたため、歩揺が訛って慕容になった(其後音訛、遂為慕容焉)という説が、真偽はともかく書かれている。中国語だと慕容はMurong、歩揺はbuyaoで似ても似つかないが、ハングルだと容はyong、揺はyo、日本語ならどちらも音読みはヨウなので、鮮卑の言葉はこれに近かったのかもしれない。  

 この歩揺冠は、印欧祖語の原郷であるドン川下流のノヴォチェルカッスクにある紀元前1世紀のサルマタイ王女墓や、アフガニスタンの後1世紀のティリヤ・テペ遺跡などにその源流が見られ、日本では藤ノ木古墳や三昧塚古墳、山王金冠塚などから歩揺付きの金銅製の冠が出土しており、新羅からは純金の金冠も6点見つかっている。金銅は、青銅製品に水銀に溶かした金を塗り、加熱して水銀を蒸発させ金を付着させてつくるそうだ。日本では銅も金も8世紀にようやく産出するようになり、錫鉱が見つかったのは確か明治になってからで、辰砂は早くから採掘していても水銀に精錬できていたかは定かではなく、アマルガム鍍金は難易度の高い技術だ。歩揺は小さな飾りだが、歩くと揺れて光るだけでなく、金属音がしたのではなかろうか。質素な土器や炻器をつくって暮らしていた人びとにとって、その輝きと音は、文明と権力を何よりも表わす威信財だったに違いない。昭和初めの作であるうちのお雛様は、享保雛と似たような垂飾がゆらゆらと下がる冠をつけている。こんな冠を日本でも実際を使っていたのかと、子供心に不思議だったが、能や稚児行列の天冠にも似たものが見られるし、大日如来の冠や舞妓のびらびら簪まで、その後継種はいまもいたるところに健在だ。日本と朝鮮半島からは、歩揺のついた金銅製の靴も副葬品として出土している。飾履と呼ばれるこうした靴は、サイズが巨大で、底面にまで歩揺がつくなど、実用ではなかったようだ。鮮卑の飾履は本体が革製だった可能性がありそうだ。  

 鮮卑の遺跡から出土する「晋式帯金具」の詳しい研究が長年かなり行なわれているのは、4世紀前半とされる日本の新山古墳と、5世紀とされる行者塚古墳からも類似の金銅製帯金具が見つかっており、早期における東アジアの交流の証拠となっているからだ。日本で出土した帯金具についている文様は、「三葉文」と呼ばれている。三葉文は前燕建国前の晋代のものとされる十二台のM8713号墓や房身村2号墓から出土した樹状の金製歩揺の土台にも見られる。金沢大学考古学紀要32の大谷育恵氏の「三燕金属製装身具の研究」(2011)には多くの写真が掲載されており、参考になる。生命の樹を表わしたこの装飾は、土台の四隅に小さな穴があり、布製の冠に縫いつけた金璫(きんとう)と考えられている。最初に見たとき、この文様はそれこそ燕ではないかと思ったが、中央の突起のない「双葉」になることもあり、パルメットの東アジア版の忍冬唐草文、つまりスイカズラ属のつる草と考えられているそうだ。鮮卑に忍冬はしっくりこないが、中国語でも金銀花と呼ぶようなので、鮮卑の金ピカ好きを反映するのかもしれない。これは仏教と関連して西域から伝わった文様のようだ。三燕時代の墓とされる遼寧省北票市の喇嘛洞墓地から出土した帯金具には、これとそっくりなものと、少し異なるものがあり、前者が晋朝の官営工房でつくられ、後者は三燕での模倣品と考えられている。鮮卑はステップや西域の文化を身につけてきたように、漢文化も積極的に取り込んでいたのだ。新山古墳の年代が4世紀前半だとすれば、その帯金具を日本にもたらしたのは誰だったのか。  

 細々と書いたらきりがないが、馬関連で何よりも気になるのは、6世紀後半の藤ノ木古墳から出土した金銅製鞍金具と、朝陽市十二台88M1墓出土の鞍金具の文様の類似だ。金銅製で亀甲繋ぎ文に透かし彫りという点は、無関係とは思えない。しかも、それぞれの角に円形の飾りが付いている点までそっくりだ。亀甲繋ぎ文は飾履にも刻まれていたので、なおさら興味がわく。ネットで調べる限り、慶州や大邱の遺跡からも類似の鞍が出土している。三燕の鞍金具と日本で出土するものとのあいだには、型式上で若干異なる部分があるようで、朝鮮半島を経由して技術が伝わる過程で型式が変化したのではないかと、『三燕文化の考古新発見』(飛鳥資料館)には書かれていた。  鮮卑に関連した遺物は、中国でも江蘇省から広東省まで広範囲で見つかっているという。高句麗を経由せずに新羅や伽耶に鮮卑の文化が伝わったのは、黄海の交易に従事していた海洋民がなんらかの形でかかわっていたとも考えられている。いずれにせよ、古代の謎は簡単には解けそうもない。気長に調べていくことにしよう。

いくつかの地図を元に合成した遼西、遼東一帯の地図
藤ノ木古墳出土の 鞍金具の亀甲繋ぎ文

土台に三葉文の付いた 慕容部の金製歩揺付冠飾

江田船山古墳出土の金銅製飾履。 かつては歩揺が付いていた

2018年7月30日月曜日

インペリアルビル訪問

 先日、仕事が少し一段落した折に、横浜の山下町25番地にあるインペリアルビルを再び訪ねてきた。オーナーの方にお会いして貴重なお話を伺える機会だったので、私一人ではもったいないと思い、参加させていただいたばかりの地元の歴史研究会、 横浜歴史さろんの方々もお誘いして行った。  

 訪問前には少しだけ下調べもして行った。Meiji-Portraits (meiji-portraits.de/)のサイトからは、4月のコウモリ通信に書いたカルスト家の時代以降の居留地25番の歴史もいくらか判明した。本当にありがたいデータベースだ。デ・コーニングのビジネス・パートナーであった老カルスト船長の息子レントは、1864年にはデ・コーニングと袂を分かち、保険業と貿易会社のカルスト&レルズ商会を設立した。前回も書いたように、レントはやがて健康を害し、日本人女性とのあいだに生まれた当時6歳くらい娘ラウラを連れて1872年にオランダに帰国した。レントの兄のヤンは別会社を経営していたので、レントの帰国とともにカルスト&レルズ商会は撤退したと思われる。  

 居留地25番では、同社の従業員のJ・P・フォン・ヘーメルトが保険の代理店業を営むようになった。翌1873年からは、シモン・エヴァース商会もやはり保険の代理店業を25番で始めており、1886年発刊の『日本絵入商人録』にはこの両社が25番の入居者として書かれている。初代ヘーメルト氏は、1894年に箱根の奈良屋ホテルで急死し、息子が後を継いでいるが、その息子も1900年には廃業して、数年後に日本を去った。ヘーメルトのあとには、24番のマイヤー商会の従業員のR・シャフナーが自社を設立して25番に入り、少なくとも1908年までは営業していた。一方のシモン・エヴァース商会は、経営者がたびたび入れ替わりはしたが、1920年まで25番に横浜支店を構えていたようだ。同社はなんと、レイボルド株式会社として現在も日本に拠点をもっており、2005年に編纂された「レイボルド100年の歩み」には、この25番の当時の貴重な写真が掲載されていた!  1923年の関東震災で横浜は壊滅的な被害を受けた。地価が下落したのを機に、開港以来、居留地で外国人がもっていた永代借地権を政府が買収し始めたという事実を、この原稿を書きながら初めて知った。居留地そのものは1899年に廃止されたが、永代借地権が最終的に解消したのは1942年のようだ。横浜から外国商館がなくなったのは、震災と永代借地権の消滅の両方によるものだったのだ。  

 現在、この地にあるインペリアルビルは、1930年に上田屋ビルディング第2号館として建設された。長期滞在する外国人向けのアパートとして、現オーナーの祖父に当たる方が新たに始めた事業だったという。お祖父さまはジャーディン・マセソンに勤めたのち、弁天通で絹製品を製造販売する上田屋を開業なさったそうで、そちらが本業だった。アメリカのメイシーズから受注した1937年という日付入りの絹の婦人パジャマや下着などの型紙が、ガラス付き木箱のなかにまだ大切に保管されていた。見事なピンタックの入った絹のドレスシャツは、足踏みシンガーミシンで職人さんが縫製していたそうだが、太平洋戦争で徴兵されてほぼ全員が戦死してしまったという。つい数年前まで得意先であったアメリカを敵に回し、彼らはどんな思いで戦地に赴いたのだろうか。上田屋は、ホテルニューグランド裏手にあった1号館のほか、24番地の互楽荘を3号館とするはずだったが人手に渡った、という話をオーナーから伺った。私は昭和史には疎いので、そのまま聞き流していたのだが、あとで調べてみて驚いた。高級アパートとして建設されたこの建物は、太平洋戦争中に海軍に接収され、戦後は米軍に接収されて神奈川県で初の慰安所となったのだという。  インペリアルビルも、わずか一日の猶予を与えられただけで米軍に接収され、その翌日には屋上に小屋が建てられ、マッカーサーの将校用の部屋が増築されていたそうだ。川崎鉄三設計のモダニズム建築という割には、外観がいま一つ垢抜けて見えなかった理由は、屋上部に現存する占領軍による増築部分のせいだったのだ。横浜は空襲によって大被害を受けたが、インペリアルビルや隣の互楽荘は最初から接収しようと目を付けていたらしくほぼ無傷だったそうで、B29の焼夷弾攻撃はきわめて正確だったとオーナーは語っておられた。屋上の小屋はその歴史をいまに語る証人だ。  

 この日、私は川崎鉄三に敬意を表して、彼が設計した昭和ビルとジャパンエキスプレスビルも訪ねてみた。昭和ビルのほうはテナントの弁当屋がビルの雰囲気を台無しにしていたが、入り口にはインペリアルビルの一階とそっくりの八角形と正方形のタイルが敷かれていた。検索してみると、江戸東京たてもの園に移築された子宝湯にもよく似たタイルが使われていた。1929年に足立区に建てられたこの銭湯は、「施主が出身の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたという」。川崎鉄三は経歴がよく知られておらず、謎の建築家らしいが、石川県の出身と考えられている。何か関係があるだろうか? 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の建築科で欧米に留学経験のある前田松韻に学び、1912年に卒業。彼の顔写真入りの明治45年の卒業アルバムは高値で売られていた。いまも熱烈なファンがいるらしい。その後、台湾総統府に勤め、廈門、香港、海南島、広東など海外を転々としているが、西洋風の建築は、こうした東アジアの都市で学んだのだろうか。横浜へは1925年に若尾幾太郎商店の「若尾ビル」を新築するためにやってきた。幾太郎は、甲斐出身の生糸王若尾逸平の異母弟の(初代)幾造の孫に当たる。若尾家は横浜開港以来、甲州財閥として名を成し、銀行業から東京馬車鉄道、東京電燈(のちの東京電力)まで手広く経営していたようだ。まったくの偶然ながら、インペリアルビルを訪問した日に、私の先輩が送ってくださったクリスチャン・ポラック著『絹と光』(アシェット婦人画報社)には、『横浜諸会社諸商店之図』(1886年ごろ刊)に掲載された生糸賣込問屋若尾幾造の銅版画が転載されていた。上田屋も甲府の出身だそうで、川崎鉄三にビルの設計を依頼した経緯には、若尾家が何かしら関係していたのだろう。  

 ウィキペディアよると、若尾家は1930年の昭和恐慌の影響などで没落している。川崎鉄三自身も1932年にはおそらく43歳で没している。現存する彼の作品であるインペリアルビルとジャパンエキスプレスビル(ともに1930年)、昭和ビル(1931年)は、いずれも最晩年の作品ということになる。ジャパンエキスプレスビルの2階には、古い床板もそのままに、往時の雰囲気を活かした輸入雑貨・衣料店が入っている。少し暇になったら、1階でビールでも飲みながら、横浜の歴史に思いを馳せてみたい。

 インペリアルビル外観

インペリアルビル一階。 手すりの先端にあった大きな装飾物は、 戦時中、金属供出させられたという。

 インペリアルビルのモザイクの床

 ジャパンエキスプレスビル

 昭和ビル

2018年6月30日土曜日

文様の歴史

 このところ文様の歴史に興味をもっている。葛飾北斎が『新形小紋帳』や『北斎漫画』で文様の手本を描いているのを知って、図書館から本を借りたり、中古の美術本を購入したりしてパラパラ眺めている。北斎は輸入顔料の「ベロ藍」を率先して使い、遠近法を学ぶなどして、西洋の技術を積極的に取り入れたことで知られる。そんな彼が輪違い、もしくは七宝繋ぎと呼ばれる文様らしきものの描き方を指南しているのだが、その方法を見て目が点になった。この文様は私のような文系人間から見ても、まずは正方形の内側に接する形で円を描き、正方形の四隅から、同じ半径で円を描いてゆくのが本来の描き方だと思うのだが、北斎は文様の花びらのような部分に注目し、そのパターンを反復するように教えているのだ。円の接線という発想がなかったのは間違いないし、4分の1ずつ円が重なっていることすら気づいていなかったのかもしれない。  

 この文様はインダス文明の土器などに紀元前3000年には描かれていた。ヨーロッパではアレクサンドロス大王の東方遠征後に広まり、2世紀ごろからローマ帝国の各地でモザイク模様に頻繁に用いられた。ジャワ更紗ではこのモチーフはカウンと呼ばれ、13世紀以降に取り入れられた古典的文様の一つだという。17-18世紀にインドなどから輸入され、彦根藩が所有していた古渡更紗にも「輪違手」が若干含まれている。北斎はこの輪違いらしき文様に「大イ紋高麗形」と書いているので、畳の縁につける白と黒の織物である高麗縁のつもりだったのかもしれない。円を重ねずにぴったり並べた大紋の高麗縁は、親王・大臣などに使用が限られていた。四つの円のあいだに菱形のような隙間ができ、それぞれの円の中心点を結べば正方形になるところが、輪違いに共通する模様だ。高麗時代12世紀の韓国の国宝、青磁透彫七宝文香炉には、見事な輪違いの透彫りがあるので、高麗縁にも輪違いのものがあったと思われる。『枕草子』には「高麗縁の筵青うこまやかに厚きが」と書かれており、918年に建国された高麗と平安貴族に深い関係があったことが窺える。日本ではほかに、花輪違の家紋など、中心に模様を加えることも多かった。有職文様の小葵文や、更紗のウンヤ手も、輪違いの崩れたものの可能性がある。ウンヤの意味は不明だが、よく見ると盤長結のような模様が描き込まれているので、それを指していたかもしれない。  

 『北斎漫画』八編の序文には、「離婁の明公輸子の巧も規矩を以てせざれば方員を成事能はず」と、『孟子』の一節が引用されている。規はぶんまわしと呼ばれたコンパス、矩は定規のことで、これらがなければ方形も円も描けないという意味だ。孟子(紀元前372-289年)は戦国時代の人なので、中国ではこの時代にはコンパスを使って正円を描いていたことになる。  

 いや、それどころではない。紀元前3400-2250年ごろ長江下流に栄えた良渚文化から副葬品として多数出土する璧と琮という謎の玉器が、現代人から見ても完璧な幾何学工芸品なのだ。璧(へき、bi)は直径20センチ前後の特大五円玉のような形状をしている。琮(そう、cong)のほうは高さがまちまちの四角柱で、中央に円筒状の穴が貫通しており、強いて言えば、サランラップの箱の両端をくりぬいたようなものだ。どちらも工業製品を見慣れたわれわれの目にはさほど特異な形状には感じられない。しかし、新石器時代にあったはずの良渚文化で、直線、直角、平行線どころか正円、同心円、円柱といった幾何学の知識を必要とする精巧な製品が、軟玉(ネフライト)とはいえ、硬い石から製造されていたことにはただ驚かされる。琮は長いものでは47センチ以上にもなり、その中心に上下からドリルで穴をうまく貫通させる作業は、現在の電動工具でも簡単ではないだろう。  

 私が璧と琮を知ったのは数年前の『100のモノが語る世界の歴史』の本と大英博物館展の図録の仕事からだったが、用途不明の翡翠の玉器ということで、頭のなかに宙ぶらりんの状態で収まっていた。一般には、戦国時代の書とされる『周礼』に、璧と琮がそれぞれ天と地を表わすと書かれたことを根拠に、祭器として説明される。だが、実用性のない祭器をつくるために、新石器時代の人がこんな高度な技術を生みだすだろうか? 中国古代史の専門家からは、『馬・車輪・言語』に毒されているとして一笑に付されるに違いないが、結論から言うと、円盤状の璧は車輪そのものか轂(ハブ)の補強材で、円筒状にくりぬかれた琮は軸受、つまり車軸を回転させるためのベアリング・ブロックだったのではないかと推測している。これらは当初、ステップのワゴン葬墓のように、天国へ行く車の代わりに墓に納められたのではないか。硬い素材による完璧な円や円筒への異様なまでのこだわりは、車輪と軸受の製造以外に思いつかない。  

 一つのヒントは、良渚文化を代表する装飾にある。人面の神が獣にまたがる姿を表わしたものだ。おそらくより古い形態では、神は大きな被り物をしたギョロ目の人物だが、琮に刻まれ様式化されたものは、正円の左右にわずかに線を引いた切れ長の目に、頭部には二本のバンドをはめ、巻き毛の顎髭のような枠に下部を囲まれている。少し時代が下った三星堆遺跡から出土した仮面や人物像をどことなく思わせる濃い顔だ。獣もやはり正円のびっくり眼で、その周囲には幾重にも細かい同心円や渦、線が描かれている。この「神」は西方から馬に乗ってやってきた印欧語を話す民族だったとは考えられないだろうか? 高度な技術や武器・道具をもち、おそらくは硬く丈夫な素材を求めて馬で途方もない距離を一気に移動してきた少数の異民族だ。彼らが翡翠を扱う紅山文化と遭遇し、現地民と良渚文化を築いたのではないのか? 在来民にとっては、幾何学の知識や製造技術を教え、大きな馬を操る彼らはまさに神だったのではなかろうか?  

 手間暇かかる琮は早くに廃れたが、璧は漢代まではつくりつづけられ、その一つは宮崎県串間市で出土した。璧の形状はのちに青銅鏡や硬貨に受け継がれたとも考えられている。ハブが四角く、車軸に固定されていたと思われる円盤状車輪もヨーロッパで出土しているので、永楽通宝のような四角い穴開き硬貨も、五円玉も、じつは璧の遠い子孫なのかもしれない。

『北斎漫画 3編』より

 輪違い(七宝繋ぎ)文様

 良渚文化の玉琮

2018年5月31日木曜日

『馬・車輪・言語:文明はどこで誕生したか』

 いまとなってはどの本だったのか思いだせないが、2009年の「コウモリ通信」を読み返してみると、仕事でリーディングした多数の英語の原書のどれかに、老子の「無用の用」が言及されていて、原詩を調べたことがあった。「三十輻共一轂。当其無、有車之用」と始まるものだ。このときはもちろん、無についてあれこれ考える老子の哲学に感服したのだが、それとともに私の記憶に深く残ったのは、輻(スポーク)も轂(ハブ)も馴染みのない漢字であるだけでなく、訳そうにも該当する日本語が思いつかないことだった。それぞれ「や」と「こしき」と読み、強いて言えばこれが日本語の訳語なのだが、実際には「や」は細長い形状から、「矢」のようなものという意味だったかもしれない。「こしき」は、同じ音で鹿児島の甑島にも使われる字があり、これは円形で中心に穴が空いた米を蒸すための土器だった。初めて車輪を見た飛鳥時代の人たちが連想したのは、この調理用具だった可能性はないだろうか。  

 こんな経験がきっかけで車輪の歴史に興味をもったことから、あれこれ検索するうちに何度も拾い読みすることになったのが、デイヴィッド・W・アンソニーの『The Horse, the Wheel, and Language』(2007年)だった。その後、『100のモノが語る世界の歴史』の仕事でウルのスタンダードの鮮明な写真を見て、初期の車輪にはスポークすらなかったことに気づき、一つの技術が生まれる背景にどれだけの歴史が存在したのかを思い知らされた。 

 一連の仕事がひと段落した2015年にとうとう原書を手に入れ、一気に読んだあげくに、折しも開催されていた「大英博物館展」の内覧会のあと、いま思えば能天気にこの本の翻訳企画を大英の仕事の編集者にもちかけたのだった。以来、紆余曲折を経てこのたびようやく邦訳版が完成した。邦題はそのままずばり、『馬・車輪・言語』となったが、「文明はどこで誕生したか」という副題が本書の内容を凝縮している。

 言語学と考古学という二つのまるで異なる分野の架け橋をつくることと、ロシア、ウクライナ、東欧という、長らく壁の向こうで馴染みのなかった地域の歴史と地理を概説することを目的とした本なので、著者は平易な文章を心がけ、専門用語を噛み砕いて説明している。だからこそ、私のような門外漢でも訳せると錯覚したのだが、いつものように調べた訳語をノートに書きつける程度では埒が明かず、途中でキリル文字や妙なアクセントだらけの東欧の文字の表記とともに、固有名詞をエクセルに入れ直す羽目になった。著者はアメリカ人なので、ロシア語などで書かれた論文から、これらの地名や文化名を一つひとつ拾っていった苦労は並大抵のものではなかったろう。そのためか、原書はスペル間違いも散見され、私は余計に悩まされることになった。  

 本書について述べたいことはいくらでもあるが、まずは馴染みの薄い比較言語学に関連したことを書きたい。学生時代に言語学のほんのさわりだけ習ったことがあるが、当時の私にはチンプンカンプンでどうも興味がもてなかった。その後、『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』(朴炳植著、HBJ出版局)という本を読んだことがあったが、いかんせん基礎知識がないため、いつか検証してみたいと思いつつ、半分ほど理解して終わった。したがって、私にとっては本書が事実上、初めて本腰を入れて読んだ言語学の本ということで、正直言えば、過去200年にわたって言語学者たちが築いてきた功績について理解するのが精一杯だった。  

 それでも外国語を専攻し、こうして日々、言葉と格闘している身としては、本書の記述には思い当たる節が多々あった。その一つはクレオール語だ。別々の言語が収束した結果生じた言語のことで、名詞が格変化せず、単数・複数の区別がなく、動詞は時制、性別、人称によって変化せず、副詞や形容詞を強調するために反復するなどの説明を訳しながら、タイ語や日本語はクレオール言語ではないのかとふと思った。タイ語では、時制はただ助動詞か副詞を加えて表わすし、「マークマーク」や「ローンローン」のように形容詞を重ねて程度を表わす方法はえらくシンプルで、なかなか英語を覚えたがらなかった娘が、タイ語は素直に学べた理由がそこにあった。子供にしてみれば、「いっぱいいっぱい」、「暑い暑い」と言っているのと同じで、親近感を覚えたのだろう。だが、逆に言えば、日本語でもそういう表現は可能だということだ。日本の地理的条件や歴史を考えると、氷河期以降、大陸から海を越えて渡ってきた人びとは最初から家族連れで移住してきたわけではないだろう。男性中心で構成された渡来人が、すでに日本列島にいた女性と家庭を築き、その過程で語彙は増え、文法は単純化された可能性がありそうだ。渡来人は数こそ少ないが、高度な技術をもち、何よりも筆記を日本に伝えたわけだから、その影響力は絶大であったはずだ。  

 もう一つ、とくに印象に残ったのが、どういう状況で言語の交替が起こるかに関する考察だ。スコットランドの漁民が話していたゲール語が、戦後、漁業の衰退とともに急速に消えていったことが例として挙げられ、わかりやすくこう書かれていた。「廃れてゆく言語にまつわる否定的な評価は、孫子の代によって重要度の低いものへと分類され直しつづけ、しまいには誰もおじいちゃんのように話したくはなくなるのだ。言語の交替と過去のアイデンティティの蔑視は、密接に関連しているのである」

 最近、やや下火になったが、一時期、「美しい日本語」が大いに流行った。翻訳文はただでさえ固有名詞がカタカナ表記なので、できる限りカタカナ語ではなく日本語に置き換えろと、故鈴木主税先生に言われつづけたため、前述のように私は日々、「日本語の」訳語を探すことに悪戦苦闘している。でも、それは結局のところ、「配偶者選好性」のような漢語に行き着くことが多く、大和言葉はあまりにも語彙が足りない。近年の日本語礼賛ブームは、じつは日本人としてのアイデンティティが揺らいでいることへの危機感の裏返しなのであって、これは決して言語だけの問題ではない。  

 近年は、英語の早期教育をめぐる問題でも意見が大きく分かれている。実際には文科省の教育制度への不満が大きいようだが、すべての日本人に外国語が必要なわけではないという主張は、国内で安泰した地位を享受している人の発想だ。本書によると、こうした「地元型戦略」の人は、「自分が育ってきた母語である言語で、必要なことはすべて賄えるので、彼らはその言語だけを話すようになりがちだ」という。大学教育を受けた北米人の大半がこのカテゴリーだそうだ。だが、この先の世代にも、高度成長期やバブル時代を謳歌してきたわれわれの世代と同じ機会が確保できるのだろうか。あいにく、明日の暮らしの保証もない私のようなフリーランスは、リスク「分散型戦略」で多くの外国語を学ばざるをえない。言語というものにたいするこのような視点が得られることも、本書の大きな魅力の一つだ。ぜひご一読を。