2024年7月21日日曜日

メスナーテントをもって編笠山へ

 15年ぶりに、泊まりがけの登山に行ってきた。娘が6歳で初めて登った本格的な山である八ヶ岳の編笠山に、5歳の孫を連れて1泊2日で行ってきたのだ。娘が子どものころの登山にはいつも母が同行してくれ、食材等を背負って登り、調理の大半を手際よくこなしてくれた。今回はそれが私の役目となり、母が使っていたリュックを背負って登った。  

 私はふだん運動らしきことをほとんどせず、中学以来の腰痛もちであるうえに、膝の調子も万全ではなかった。鳳凰三山の縦走時に膝を故障してみんなに迷惑をかけた苦い経験が、山から足が遠のいた原因だったので、直前に膝用のテーピングも注文したのだが配送の遅れで届かず、結局、YouTubeで見つけた膝のストレッチ体操だけを頼りに出発することになった。  

 今回、娘が担いでくれたテントは、まだ秋葉原で会社勤めをしていたころ、昼休みに抜けだしてニッピンで店員の勧めに乗せられて購入した3kg強の軽量の同店オリジナルの製品だった。記憶が不確かなのだが、最初に編笠に登った1994年は麓の泉郷あたりに前泊して日帰りで行ったため、薄暗い森のなかをヘンゼルとグレーテルさながらに下山するはめになり、疲労困憊して駐車場(たぶん観音平口)にたどり着いたところにソフトクリームのスタンドがあり、それを食べたことだけはやけに鮮明に覚えている。  

 初めてテントで寝たのはその翌年のようだ。これまた無謀な計画を立てて権現から赤岳まで登るつもりが、途中で道に迷って藪漕ぎをしてどうにか前年と同じ登山道に出て青年小屋で張らせてもらったのだ。その同じテントを押し入れから引っ張りだしてみたところ、縫い目を覆うシーリングは剥がれかけていたが、生地そのものの状態はよく、加水分解しているようには見えず、ネット情報を頼りに自分でアイロンを使って張り替えてみたのだ。  

 秋葉原のニッピンが撤退したのは風の頼りに聞いていたが、神田店もコロナ禍とともに閉店しいたことを今回初めて知った。しかも、ニッピンのテントと検索してみるうちに、うちのはメスナーテントと呼ばれるもので、1978年にラインホルト・メスナーがペーター・ハベラーとともに人類初のエベレスト無酸素登頂を達成した際に携行したものだったことを古いブログ記事などから知った。ニッピンの社長がミュンヘンのIPSOスポーツ見本市でメスナーと意気投合して、軽量で簡単に設営できるドライエッケンシステム(ポールと本体をロープで巻きつけるもの)のテントを開発したのだそうだ。  

 この先、どれだけ山に登るかどうかもわからないので、今回とりあえずトレッキングシューズだけは購入し、その他ウォータージャグ、銀マット、ガスバーナー用のガスを買う程度で、あとは古い登山グッズを掻き集めて出かけた。とにかく天候がよく、みんなの体調が許せるレベルで、予定の入っていない週末となると、選択肢はほとんどない。「明日行くよ〜」というメールが娘からきた翌日午後、娘一家は車で一足先に出発し、私は土曜の朝、小淵沢駅で落ち合うために、えきねっとで残っていたおそらく唯一のグリーン席を購入した。全席指定の臨時列車だったので、快適なシートで2時間ちょっと身体を休められたのはよかった。

 孫はふだんから自然公園などはよく歩いているし、低山には何度か登っているが、本格的な登山は今回が初めてだった。自分の寝袋と水、若干の食料など1.5kgほどの荷物を背負っているので、途中でダメになったら引き返すという前提で登り始めた。しかし、得てして子どもは身が軽いため登りは得意で、途中あちこちで鳥や花を見つけるたびに立ち止まっていた割には、地図に記されているコースタイムをいくらかオーバーする程度の速さで昼過ぎには青年小屋にたどり着いた。道中、行き合う人たちから口々に、「えらいねえ、何年生?」などと聞かれるたびに、「何年生でもないの。5歳」と得意げに答えており、到着した際には、小屋前でくつろいでいた人たちから拍手で迎えられていた。実際、今回の山行では子どもどころか、10代の姿すらほとんど見かけることがなかった。  

 青年小屋のテント場は所狭しと40近いテントが張られていて、まるで行者小屋のようだった。山に行く話が本格化し始めたこの一か月ほど、孫のお気に入りの遊びは「キャンプごっこ」だったので、テントを建てる作業も嬉々として手伝い、なかに入ると早速、寝袋を広げて寝転がり、「一緒におしゃべりしようよ〜」と誘われて参った。「乙女の水」という水場に水を汲みに行くごっこ遊びも、家でさんざんやっていたので、ウォータージャグに水を汲む作業も自分がやると言って聞かなかった。孫はどうやら「乙女の水」は、きれいなお姉さんがいる神秘の場所と思っていたようだったが。  

 事前に使えるかどうか確かめてみてはいたのだが、ガスバーナーが着火しなかったのは今回の失敗の一つだった。小屋からチャッカマンを借りて点火してから、コーヒーのためのお湯を沸かし、ご飯を炊き、レトルトカレー用を温める作業をつづけることで事なきを得たが、ライターでも持参すればよかった。水に浸す時間が足りず、お米は若干芯が残ってしまったが、食べられる程度には炊け、カレーを温めているあいだに、半分は翌日の昼食用おにぎりにした。孫はおにぎりも自分で握ると言って聞かず、その挙句に出来上がったおにぎりを地面に落として怒られるはめに。そんなドタバタがキャンプ場中に笑いを提供していたらしく、一つしかないトイレを待っているあいだも「ご飯炊いていましたよね」と声をかけられてしまった。  

 考えてみれば、うちのように煮炊きしている人はあまりおらず、最近は調理不要のレトルト食品で済ませてしまう人も多いのかもしれない。昔はキャンプと言えば飯盒炊爨だったので、やはりご飯は手を突っ込んで水加減を調整して炊かないとね、と私は思っている。もちろんコッヘルは使うが。お湯が沸くのにやたら時間がかかった割に、ご飯は意外に早く炊けたので、そう口にすると孫が、「うちではご飯はああいうので(電気炊飯器)炊いて、お湯はピッと(電気ケトル)と沸くでしょ。だからじゃない?」と、何やら鋭い指摘をするので驚いた。電気製品に慣らされてきた感覚なのかもしれない。  

 テントもフライシートのないものがかなりあったうえに、グラウンドシートとテントが一体になっておらず、5cmほどの隙間が空いている簡易テントすら見受けられて驚いた。あれで風雨や夜露に耐えるのだろうか。雨こそ降らなかったが、フライシートの内側はびっしょり濡れていたし、夜間にはテントが揺れるほど風が一時的に強まった。周囲のテントの大半はポールがスリーブと呼ばれる筒状の場所を通す形になっており、その出し入れに結構手間がかかりそうだった。  

 青年小屋では降るような満天の星空を見た思い出があったが、就寝するころは曇っており、月が昇ると満月に近くてあまりにも煌々としていて、ときおり霧も発生したため、星は明るいものしか見えなかった。娘もいつもテントで熟睡する子だったが、孫も結局、明け方まで一度も目を覚まさずに寝通し、私が夜中にヨタカが飛びながら鳴いていたと話すと、「なんで起こしてくれなかったのよ〜」とむくれていた。私は周囲のテントの物音や話し声が気になって細切れの睡眠しか取れなかった。  

 翌朝、古いバーナーを再度試してみると、今度はうまく着火したので、娘が好きなオートミールの朝食を食べたあと、7時ごろ出発して編笠山の山頂を目指した。自分の身長をはるかに超えるような岩塊がごろごろする場所を、孫は怖がる様子もなく果敢に登っていった。少し前までジャングルジムもてっぺんまで登れない怖がりだったのに、随分成長したものだ。私はと言えば、前日の登りで足が疲れていたことや、二晩つづきの睡眠不足、それに薄い空気なども重なって遅れがちとなり、一緒に登れるのはもうあと何年もないなと思った。こんな岩場を、60 代後半になるまでよく母が何度も登ったなと思う。登山ブームの昨今、70代後半のような人を含む年配者のパーティにも何回も出会ったので、日頃から運動して体力を維持できれば、あと10年くらいは登れるのだろうか。  

 2524mの山頂に立った私たちを迎えるように、富士山から南アルプス、そして権現、ギボシ、赤岳、阿弥陀岳など、昔登った山々がぐるりと見えて壮観だった。娘と孫がスケッチを楽しむあいだ、私は山頂でコーヒー、ココアを用意する係を命じられ、カフェを開くことに。5歳でこの山のてっぺんでココアを飲んだことを、四半世紀後、半世紀後にでも孫が思いだしてくれるなら、お安いご用だ。背負ってきた予備の水が軽くなるのもありがたい。  

 下山は、山頂から押手川まで一気に下るルートを通ったため、脚の短い孫はかなり苦戦し、この区間はコースタイムの2.5倍もかかってしまった。朝4時半から起きだしてしまったこともあって途中で眠くもなり、つい無駄口ばかり多くなる孫を励ましながら、何とか観音平まで2時過ぎにたどり着いた。ストレッチ体操が効いたと見え、私の膝も最後まで元気に働いてくれた。  

 編笠のあとはソフトクリームでしょ、とばかりに、そのあとは清里の清泉寮まで有名なソフトクリームを食べに行った。清泉寮は、清里と大泉から一字ずつ取ってつけた名称だそうで、ポール・ラッシュの名前はたぶん澤田美喜さんの本で読んだなと思い出した。復路は娘一家の車に同乗させてもらった。途中、中央高速が大渋滞していたため迂回路を通り、8時半過ぎに帰宅し、「無事に帰ってきたよ」と、母の遺影に報告した。


 青年小屋の朝のテント場

 押手川付近

1995年に青年小屋でテント泊したあとギボシから。

1994年に編笠山の頂上で

1998年ごろか

編笠山頂上。まだ同じ標識が立っていた

 編笠山頂上

 乙女の水を汲む孫

 登りの途中で出会ったメスのシカ
今回の旅での唯一のスケッチ

2024年7月3日水曜日

上田日帰り調査

 忙しかったうえに体調も思わしくなかったため、ブログをサボってしまっていたが、ようやく先月なかばの日帰り上田調査のことなどを備忘録程度に書いた。やる気になったきっかけの一つは、先日たまたま上田の「松平神社文書」が話題になり、その後、以前にお世話になったことがある和根崎剛氏の「史跡上田城址整備事業の現状と課題」(平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書)の論考を見つけことだった。  

 7年ほど前に上田市立博物館で閲覧した祖先の記録に「松平神社文書」と書かれており、その後、何かの折に「しょうへい」神社と読むことを教えていただいたはずなのだが、そんなことすら私の記憶からすっぽり抜けてしまっていた。松平神社がいつのまにか真田神社になってしまったことは、松平家のご子孫が以前に嘆いておられたので記憶に残っていたが、神社そのものが明治12(1879)年に松平氏の祖先を祀る松平神社として創建されたことはしっかり認識していなかった。  

 和根崎氏によると、廃藩置県後、城郭は大蔵省に引き渡されて払い下げられ、本丸の土地を取得した上田藩御用達商人の丸山平八郎直義が神社用地として寄付したのが始まりで、氏子のいないこの神社は、松平氏旧臣とその子孫が管理運営しているという。丸山氏はその後、現在も西櫓として残る本丸隅櫓を旧藩主の松平忠礼に献納するとともに、遊園地用地として本丸の残り部分も寄付し、明治20年ごろから上田市が公園として整備するようになったらしい。神社そのものは、戦後の1953年に上田神社となり、さらに1963年には眞田神社と改称されているが、一応、真田氏、仙石氏、松平氏の歴代城主を祀っている。  

 このあたりには、上田の人びとの複雑な思いが反映されていそうだ。わずか40年しか城主でなかった真田家にとくに縁があるわけでなくとも、上田市民のアイデンティティとして歴史は残したい。ただし、明治になってようやく武士の世から解放されたのだから、166年間も圧政を敷いた松平家はご免こうむりたい、という感じなのだろうか。最後の2代の藩主、松代忠固・忠礼がほぼ江戸にいたことも関係しそうだ。母方の家は戦後の数年間を松代で過ごしており、祖母が「真田の奥さま」の主催する会にいそいそと出かけていたとも聞いている。真田家は地元を離れなかったのかもしれない。ちなみに、仙石氏の世は85年間だった。

 上田市立博物館そのものは、博物館のホームページも参照すると、昭和4(1929)年に西櫓を「徴古館」として開館した。太平洋戦争直前の1941年に、市内の遊郭に移築されていた本丸隅櫓2棟が東京の料亭に転売される話が出て、市民がこれを買い戻して戦後の1949年に南櫓、北櫓として再建され、上田神社と改名された同年の1953年にこの2棟を加えて「上田市立博物館」として登録された。現在の本館は1965年に落成した。  

 先日、私が拝見した数々の史料は、こうした紆余曲折を経て現在に残る記録だったのだ。なかには虫食いだらけでページとページがこびりついて、なかなか開けない史料もあったが、それらは松平神社の倉庫の片隅で激動の一世紀間、ひっそりと保存されていたのかもしれない。戊辰戦争をはじめ、その後の大震災や空襲等で過去の記録が一切失われてしまった地域も多々あるなかで、上田が比較的平和な時代を過ごしてきたおかげでもある。  

 調査そのものは、短い時間を有効に活用しようと、事前に研究者の方々からいろいろな情報を仕入れ、入念に用意していった甲斐あって、予定していた史料は調べあげ、その他いくつか当てずっぽうに選んで閲覧した史料のなかにも、思いがけない発見があった。  

 直接の祖先に関しては、今回新たに得られた情報は残念ながらわずかで、だいぶ昔の祖先が、いったん妻の弟を養子にしたものの、妾に子ができたため、そちらを後継にしたという拍子抜けする記述だけだった。ただし、前回の調査で偶然に嘉永5年の地図で見つけた祖先の家の場所は、いまの地図とよく照らし合わせた結果、ここと思う場所をもう一度訪ねてみた。  

 画期的だったのは、博物館での調査後、事前にダウンロードしておいた「バイクシェア」なるアプリを使って電動アシスト自転車を借りて、願行寺を経由しつつ、佐久間象山が若いころ松代から馬で通ったという活門禅師の遺跡を訪ねたことだ。こちらは事前の下調べ不足で、遺跡が実際には3か所もあることに気づかず、わざわざ遠い岩門大日堂跡に迷い込むはめになったが、観光地とは程遠い農村地帯で、ちょうど田植え後の美しい田園風景のなかを、夕陽を浴びながら自転車ですいすいと走ることができた。  

 借りた自転車は、しなの鉄道の信濃国分寺駅で乗り捨てし、そこからさらに数駅電車に乗って滋野まで足を伸ばした。前回のコウモリ通信に書いたように、そこに高祖父が何かしらかかわった可能性がある「力士雷電之碑」が現存するからだ。グーグルマップで上田からの自転車ルートが出てこなかったため、しなの鉄道に乗ったのは正解だったが、地図上では駅から石碑まで数百メートの距離のはずが、往路はひたすら登りの坂道で、民家の正面に忽然と現われた2基の石碑にたどり着いて、何か手掛かりはないかと周囲を足早にめぐったころには、復路の電車時刻まであと5分しかなくなっていた。前後の乗り継ぎを調べておらず、とにかく駅まで走ろうと下り坂を猛ダッシュした。どうにか発車間際の電車に飛び乗ったものの、あまりに息が上がってしまい、滋野駅にあった力士雷電の大看板も、全国の田中さんが詣でるという隣の田中駅に着いたころもまだ回復せず、写真を撮り損ねてしまった。

 その後、新幹線の乗り継ぎが悪くて、結局、上田駅の六文銭の下でおやきを食べながら、だいぶ時間をつぶすことになった。それでも、9時過ぎには無事に帰宅することができ、実りある1日となった。

上田城址公園の時の鐘。数百年にわたって上田で時を告げてきた鐘だったが、戦時中の金属供出させられ、戦後に新しく鋳造したもの。

城址公園内に翻る各家の幟旗。後方に見えるのが南櫓と北櫓。

嘉永年間に祖先が住んでいたと思われる一帯(右手)。『上田歴史地図』には、「道に面したところは門倉門蔵ら三名の住居があり、鈴木六郎家の横から細い道をつけ、中央と奥の部分に長屋が置かれている」と書かれていた。

電動アシスト自転車で田園地帯を走った。

活文禅師の岩門大日堂跡
力士雷電之碑。手前にあるのが表面がすべて削られて判読不能になったという古い碑

2024年5月28日火曜日

国会図書館デジタルコレクション

 国会図書館のデジタルコレクションは、私が祖先探しを始めたころからありがたく使わせていただいているものだが、今年になって約75万点が新たにテキスト化されたとのことで、全文の検索が可能になっている。そう教えてもらっていたものの、ずっと忙しくて十分に活用していなかったが、昨夜、別の検索をしたついでにふと高祖父の門倉伝次郎の名前も入れてみたところ、思いがけない発見が多々あった。あまり興奮したせいか、今朝はやたら早く目が覚めたので、とりあえず見つけたものを書いておく。  

 高祖父は維新後、陸軍の馬医になって横浜などにいて、従七位という低い官位も一応もらい、西南の役にも駆りだされているのに、そうした記録はこれまでほとんど見つからなかったが、この新しい検索機能のおかげで、官報や陸軍の記録が上田関連の資料とともにいくつか出てきた。  

 しかし、驚いたのは『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』という明治32年刊の陸軍騎兵実施学校が刊行した書籍に、調馬師の目賀田雅周述として仙台産馬に関する例が数例並ぶなかにこう書かれていたことだ。 

「元治年間、松平伊賀守の家臣に門倉伝次郎あり。許可を得て横浜在留の英獣医某に就きて其術を学びしとき(獣医の項参照)常に一頭の三春馬に乗て通ひたり(此馬は目賀田調馬師の自ら調教したるものにして河野対馬守の所有なりしを、伊賀守に売却したるものなり。青毛にして体尺五尺一寸五分)しに、□(言偏に夾)英人懇望止まさるに至りたるを、遂に伊賀守より之を贈与せられたる欣喜、措かすして本国に牽帰り御ち其返礼として馬具一式に添ふるに若干の獣医治療器械(現今の価格に積り約三千円のもの)を以てせり」  

 おおよそ同文のものが、昭和3年刊の『日本馬政史』第3巻(帝国競馬協会)にも書かれていた。この英人はまず間違いなくアプリン大尉だ。青毛の馬は飛雲と思われ、上田の最後の藩主松平忠礼が乗り、伝次郎が横に立つ写真が残る黒馬と推測される。拙著『埋もれた歴史』の表紙に使わせてもらった貴重な古写真だ。体高は約156cmだったことになる。アプリンが日本滞在中に自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じていたことは、彼の長男が自著に書いており、前髪がもさもさした日本馬にアプリンが乗って猟をする戯画をワーグマンが描いている。ただし、上田側の記録では一年間、アプリンに預けて調教してもらい、アプリンが帰国した1866年または67年に藩に戻されている。そもそも、アプリンはアロー戦争時からの愛馬で日本に連れてきたアラブ種の馬も帰国時に売却せざるをえず、彼の鞍ですら伝次郎が「買った」と、アプリンとともにイギリス公使館にいた医師のウィリアム・ウィリスが書き残している。帰国後にアプリンが薩摩藩などに鞍を贈った記録は、横浜開港博物館で見たことがあるので、こうした諸々のことが混同されて書かれた文書かもしれない。それでも、高祖父の確かな足跡を見つけた気がした。  

 昨夜のもう一つの大発見は、『新体育37』12月号という1967年刊の雑誌に、どういうわけか伝次郎の名前が書かれていたものだ。そこには「力士雷電之碑」と書かれた拓本が写り、佐久間象山が「此碑嘉永五(1852)年所建」とあり、そのあとに「信州上田人門倉伝次郎君所贈」とだけあった。夜中に眠い目をこすりながら説明を読むと、石黒忠悳が「珍蔵」していた拓本だという。「此碑信州上田在大石村に建る所にして、土人此碑の石片を懐中すれば勝敗事に勝ち、殊に無尽講に利ありとして石以て碑面を打撃し、其石粉を持帰るを以て全碑面完膚なく一字も読む能はず、此榻本の如き極めて珍襲するに足るものなり。況や余少時初めて象山先生に謁する時、此碑文を暗誦して先生を驚したる事あるおや、家に蔵して珍襲す。 現斎石黒忠悳識」とも書かれていた。  

 石黒忠悳が文久3(1863)年に象山に会ったときのエピソードは、松本健一が『評伝 佐久間象山』に書いており、拙著でも19歳だった石黒の攘夷思想を象山が嗜めたエピソードは引用していたが、力士雷電の件は朧げにしか記憶していなかった。今朝になって該当箇所を読み直してみたら、かつて中之条にいた際に、大石村の路端で雷電為右衛門(1767〜1825年)という力士の碑文をいつも見ていたため、その全文を暗記していると言ってそれを誦じたと書かれていた。「この碑文の終わりにあります『今、余雷電のためにこの碑に識して、またまさに殆ど泣かんとするなり』というその御顔を拝見に参りました」と言うと、象山は「面白い、面白い」と笑って答えたというものだ。  

 伝次郎は象山塾に嘉永4年8月に入門している。『上田市史』の伝次郎の項目には「象山其の馬術に精妙なるを見、自らは学によりて、様式馬術を教え、彼よりは技によりて騎術を習える程なりき」と書かれていたが、どんな交流があったのか詳しく記すものは残っていない。石黒忠悳の話を信じるとすれば、この碑は少なくとも文久3年以前に前に建てられていたはずで、その碑の建立に伝次郎がかかわっていたということだろうか? 伝次郎は、弘化年間は大坂、嘉永年間以降はずっと江戸詰めで、石碑を建てる費用を捻出できるほど裕福ではなかったと思うのだが。  

 象山は嘉永7年のペリー来航後、弟子である吉田松陰の密航未遂に連座して蟄居になった。『象山全集』では未確認だが、文久元年4月に象山が雷電の容貌を問うた記録があるそうで、古い碑はこの年の建立とされている。そうだとすれば、蟄居中の象山と伝次郎のあいだでまだ親しく交流があった証左になりそうだ。 設置場所は多少移動したらしいが、東御市滋野乙牧家にいまも現存するという石碑の画像を見ると、『新体育』に掲載された拓本は明治28年に勝海舟や山岡鉄舟らによって建てられたという新しい立派なほうの碑のもののようだ。近くに立つ古いほうの碑は、確かに「完膚なく一字も読む能はず」というほど、ただの石の塊に戻っている。蟄居中の象山の「明撰并書」による碑を文久元年に建てたことには、何らかの深い意味があったに違いない。 

 昨夜は、デジコレでほかにも曽祖父たちの新たな記録が多数見つかった。テキスト化され、検索機能が加わったことで、どれほど多くの新史実が自宅に居ながらにして発見されることだろうか。日本語の古い文献をテキスト化する作業は並大抵のことではない。その技術を開発し、膨大な点数の文書に対処してくれた人びとに感謝したい。

『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』(陸軍騎兵実施学校刊)
 国会図書館デジタルコレクションより

2024年5月3日金曜日

都内散策

 再校ゲラが出たこともあって、今年も連休中は諦めて仕事を優先することにした。とはいえ、娘一家が旅行中で孫守りから解放されている期間に、それではあまりにももったいないので、半日だけ都内を回ってきた。まず目指したのは、「東京府淀橋区西大久保3丁目30番地」という戦前まで祖母の実家があった場所だ。数年前にも訪ねたのだが、場所を間違えて撮影していた。先月末に伯母が亡くなり、昭和16年にこの家の前で撮影した写真に写る3人娘も全員が故人となったので、一つの時代の終わりを実感するためでもあった。
 
   昨年、1942年4月18日のドゥーリットル空襲について調べた際に、この曽祖父母の家の南西数十メートルのところに焼夷弾が落とされ、近所の家がかなり被災したことを知った。今回は、その位置関係を確かめながら現場を歩いてみた。この空襲について詳しく調べた人がネット上で緯度・経度の座標を教えてくれていたので、大正期から昭和初めの地図で確認した30番地の場所とともに、前の晩、私にしては入念にストリートビューも使って場所をよく確認して今回は挑んだ。おかげで、この空襲で火事になった一帯からわずか二本先の通りに、曽祖父母の家があったことを確かめることができた。

 この場所に私がこだわるのは、曽祖父母の家からわずか50メートル先の西大久保4丁目に当時、陸軍射撃場があり、明治通りを挟んで東側には、陸軍幼年学校、近衛騎兵連隊、陸軍戸山学校、軍医学校など、軍関連の施設が多数あったからだ。軍医学校には731部隊と関係がある防疫研究室があって、1989年にここから多数の人骨が発見されたこともあった。

   現在、戸山公園の箱根山地区と都営戸山ハイツなどがある一帯は、幕末まで尾張藩の下屋敷があった場所だ。安政の大獄で隠居・謹慎となった徳川慶勝が写真に入れ込んだのが、この戸山屋敷だった。山手線内で最高峰の標高44.6mの人造の築山、箱根山がその中央部にあるが、高木の樹冠に遮られて、頂上からの眺めはよくなかった。この一帯はかなり起伏のある丘陵地で、屋敷跡とされる場所も傾斜地なので、土を盛って頂上部分をさらに高くしたものと思われる。 

 明治に入ってから陸軍関連施設がつくられたが、昭和になって周辺に民家が増え、流れ弾や騒音にたいする苦情が増えたために、射撃場には巨大なコンクリート製の射撃用隧道がつくられたのだという。跡地の一角に現在は早大の西早稲田キャンパスがあり、被災地となった通りからも、曽祖父母の家があった場所からも、特徴的な高層の51号棟がよく見えた。 

  私の祖母は1908年に長崎で生まれ、曽祖父が拓殖大学で教え始めた1920年ごろに東京に引っ越したのだと思われる。祖母からは1923年の関東大震災のときは庭に飛び出したという話を聞いたことがあるが、当時すでに西大久保にいたのかどうかは不明だ。除籍謄本では、1930(昭和5)年に西大久保に転居したことになっており、この家で撮影された曽祖父母の写真で残っているいちばん古いものは昭和8年だった。 

  それにしても、陸軍関連の施設とこれほど接近した場所に、よりによってなぜ曽祖父母は住んでいたのだろう。ドゥーリットル空襲時に西大久保に飛来した1番機の本来の目標は、後楽園にあった陸軍造兵厰東京工廠だったと言われているが、このとき西大久保が狙われ、1945年4月にも再び空襲に遭ったのは、陸軍関連施設が周囲にあったせいではなかったのか。そんな疑問がずっと頭の片隅にあったので、今回、もう一度、ドゥーリットル空襲関連の情報にも当たってみた。何と言っても、後楽園と西大久保では4km以上離れている。陸軍造兵厰東京工廠そのものは実際には関東大震災後で被災して、1935年に小倉へ完全に移転していた。 

  この空襲に関しては、スコット・ジェイムズという人が2016年に刊行した「Target Tokyo:Jimmy Doolittle and the Raid That Avenged Pearl Harbor」という本が好評らしく、ちょうど西大久保の空襲に関連したページがネット上で読めたので、ざっと見てみた。それによると、1番機は予定していた犬吠埼より50マイルほど北にずれて日本領土上に侵入し、手賀沼の水面をかすめ、隅田川を越えてから、皇居の北数マイルの場所にある主要ターゲットのarmory(武器庫、兵器工場)に向かった。24歳の三等軍曹フレッド・ブレーマーがarsenal(兵器庫)を目視したあと、1:15 p.m.(日本時間は1時間遅れ)に搭載していた4発の焼夷弾のうち、最初の1発が地上へ落とされたのだという。そのあとの3発はただ次々に投下されたとのみ描写されていた。それぞれに重さ訳2kgの小型爆弾(エレクトロン焼夷弾子)が128発入っていた。 

   使用されたB25という爆撃機の爆弾倉は、ボタンを押すとゆっくり観音開きに開いて、爆弾がただ落下する仕組みだったようだ。飛行高度、飛行速度、風向き、風速などによっても落下場所は大きくずれそうだし、目視してから爆弾倉が開くまでのタイムラグもあっただろう。柴田武彦の『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』を参考にすると、小石川区関口水道町、早稲田中学、陸軍幼年学校、および西大久保3丁目が被災している。結局のところ、ドゥーリットル機としては飽くまで陸軍造兵厰東京工廠を狙ったのであり、合計4発搭載していたので、残りは少しずつ南へ方向転換するなかで順次、適当に投下した、ということのようだ。 

  1945年の空襲時に陸軍関係の施設が狙われたのかどうかはまだわからないが、少なくともドゥーリットル空襲については、当時の米軍のあまりにも精度を欠く攻撃方法ゆえに、まるで無関係の学校や住宅地が被災したのだった。考えてみれば、付近には生徒が犠牲になった早稲田中学だけでなく、早大戸山キャンパスのほか、善隣協会専門学校などの教育機関が、陸軍関連施設を囲むように立っていた。空襲されるという発想がそもそもなかったのかもしれない。学習院女子大は青山で空襲に遭い、戦後になってから近衛騎兵連隊の跡地に、都立戸山高校とともに移転していた。 

   新緑の戸山公園内は、20度を超える気温でも快適な涼しさで、戸山ハイツの住民と思われるお年寄りや家族連れが、静かな連休を楽しんでいた。ここは戦後すぐにGHQの提唱によって整備が始まった団地で、その後数度にわたる建て替えを経て現在にいたる。公園内にある戸山教会と併設された幼稚園は、陸軍戸山学校の将校集会所を土台に残す形で建てられている。グーグルマップでは「旧陸軍戸山学校野外演奏場跡」も見つかったが、5月・6月にそこで予定されている野外劇の案内のほかは、現場に史跡を示す看板等は見当たらなかった。幕末か明治初期の横浜の山手公園野外音楽堂を思わせる造りだったので、一目でピンときたが、中央の銅板も戸山公園とつくり変えられていたので、付近を探し回るはめに。 

   尾張藩の広大な屋敷跡に、老朽化しつつある都営住宅が立ち並ぶ光景を見ているうちに、ふと「great leveler、偉大な格差撤廃者」という言葉が脳裡に浮かんできた。疫病や戦争のように、社会が壊滅的な打撃を受けて人口が激減してようやく、平等が推進されるというものだ。明治維新が尾張藩邸を陸軍用に接収したとき、ある程度、身分による格差は撤廃されたが、戦後、庶民が入居できる都営住宅がこの緑地に整備され、公園として一般人にも解放されたことは、より象徴的な出来事に思えた。 

   戸山公園内をぐるぐる回ったあと、地図上では大した距離ではなく見えた榎町の宗柏寺まで歩こうと思ったところ、何度も道を間違えて、暑いなかをやたら大回りすることになった。だが、おかげでドゥーリットル機が最初に焼夷弾を落とした早稲田鶴巻町も通ることができたので、よしとすることにした。歩けなくなってきたら、街歩きの際はもっと事前の下調べが必要だ。 

 グーグルマップの「スター付き」に保存してあった宗柏寺には、ハリスとの折衝を何年にもわたってつづけたあと、幕末の外国奉行の一人としても活躍した井上清直が眠る。井上は才気のある岩瀬忠震の陰になって忘れられがちだが、実兄である川路聖謨以上に、優れた外交官だったと思う。墓標は風化してよく読めなかったが、名前の横に「幕府外国奉行信濃守」の文字が読めて嬉しかった。手を合わせて黙祷した途端、蚊に刺されたのには閉口したが。隣にある水盤を覗き込んだら、ボウフラがたくさんいた。5月初めから蚊に悩まされるとは、この先が思いやられる。

  西大久保3丁目にあった曽祖父母の家の前で

ドゥーリットル1番機で被災した付近。前方に見える高層ビルが早大の51号棟

曽祖父母の家の跡地。古い地図では道の左右両側が30番となっているが、おそらく左手の白いアパートがある場所。早大の51号棟がこの位置から見える

 将校集会所の上に立つ戸山教会

 野外演奏場跡

 尾張藩の戸山屋敷跡

 戸山ハイツ
  
 宗柏寺の井上清直の墓

2024年4月9日火曜日

『江戸の憲法構想』

 このところずっと多忙で、読書時間は本当に細切れにしか取れない。そんな状態で読むにはかなり手強い本だったが、関良基先生の新著『江戸の憲法構想:日本近代史の“イフ”』(作品社)に目を通してみた。2016年の『赤松小三郎と明治維新』で書き切れなかった大きな問題に再び挑まれたような作品で、それをありがたくも献本して下さったためだ。 

 関先生は前著で薩土盟約とアーネスト・サトウに関連した鋭い分析をされており、拙著『埋もれた歴史』で引用させていただいたことがあった。今回の本では、一章を割いてサトウと長崎のイギリス商人グラバーがはたした役割を分析されている。そこで詳細に論じられるサトウの『英国策論』は、薩摩藩の松木弘安がイギリス側に出した「松木提案」とともに私も大いに興味をいだいた問題で、実際、拙著の原稿段階では「イギリスと薩長」と題した章を書いていたほどだった。かなり調べたあとで、当時の私の手には余ると判断し、「老後の楽しみ」に回してしまっていた。「サトウやグラバーの肩入れによって、薩長の武力討幕派が勝利したことによって、日本は大英帝国の極東の駒として、その世界戦略に組み入れられていくことになるのである」という関先生の言葉は、この歴史の大転換の実態を理解するうえで、非常に重要なことだ。薩土盟約の破棄と並行して起こった赤松小三郎の暗殺の真相についても、本書は説得力のある説をあげている。 

 この数年、幕末史の研究に片足を突っ込んでいるとはいえ、私は祖先の足跡をたどるまで日本史にはまるで興味がなかったので、本書で取り上げられている日本の史学者による歴史書は、恥ずかしながらいずれも未読だった。そのため、本書で多角的に論じられる「講座派」のマルクス主義の学者たちがおよぼした弊害については、これらの学説の来歴を概説する補論を読んでも、おおよそしか理解できなかった。尾佐竹猛の著作は、かろうじて生麦事件に関するものだけは読んだことはあったが、彼が講座派に対抗して憲政史研究をした人であることは、ついぞ知らなかった。講座派の影響を受けたという丸山眞男の著作も、本書で取り上げられている佐久間象山に課する講演録だけ、どうにか読んでいた程度だ。ちなみに、この講演録で丸山眞男が、過去の思想を現在の視点から気安く批判してはいけないと、プレゼンティズム(現代主義)にたいする牽制をしていたことは強く印象に残り、拙著でも引用している。丸山は松代藩士の子孫であるにもかかわらず、象山を公平な視点から見ていると思ったものだが、本書は丸山が結果的に「右派史観復活の後押しをした」と手厳しい。 

 サトウの『一外交官の見た明治維新』が講談社から新訳で出ていることも、本書で初めて知った。そのなかで訳者が、サトウが土佐の山内容堂と後藤象二郎と会談したあと、彼らの心底には明らかに、イギリスの憲法に似たものを制定しようという考えが深く根をおろしていた」という箇所を、「憲法」と訳さずに「コンスティテューション」とカナ書きし、「国家体系」といった意味の可能性があると注記している点に関先生は疑問を投げかけている。この当時、土佐藩側が何かしらの成文の法典を想定していたことは疑いないが、一方のサトウの頭のなかで「コンスティテューション」が何を意味していたかは、さほど定かではない。少なくとも、イギリスにはこの時代もいまも成文憲法は存在しない。ウィキペディアからざっと拾った限りだが、当時、成文憲法があったのは、アメリカ(1788年)、フランス(1791、1848年)、オランダ(1815、1848年)、ウルグアイ(1830年)、ベルギー(1831年)、プロイセン(1848年)、デンマーク(1849年)くらいしかない。翻訳者はその点を考慮したのではないだろうか。 

 独立当初のアメリカのように、文化的にも異なるさまざまな国からの移民で構成された共同体を、世襲制の国王のような存在なしに一つの国としてまとめるには、共通の理念や規則を定め、構成員の権利と義務を明確にし、それを書き留めておく必要があった。書き留められた結果だけが「憲法」ではなく、定めた「国家体系」そのものが重要だったのだろう。 

 幕末の危機は、帝国主義の列強が極東にまで進出してきたことによって引き起こされたものだ。その外敵を前に、為政者として何よりも避けたい事態は国内の分裂だった。「分割して統治」するのはイギリスが植民地を支配するうえでの常套手段であり、インドがそれによって手痛い目に遭ったことは、「鎖国」下の日本にも漏れ聞こえていたはずだし、アヘン戦争で中国がこうむった打撃は、海外事情に通じていた人には間違いなく大きな衝撃となった。徳川家の求心力が薄れ、朝廷を担ぎ上げる勢力が台頭するなかで、国内を一つにまとめる手段が必要となり、その一つが議会論であり、憲法構想だったのだろうが、もう一つは雄藩が離反しないよう将軍に代わって天皇を国家元首として担ぎ上げることだった。要するにナショナル・アイデンティティの創出、国民形成が必要だったのであり、それに関しては、国学者や水戸藩、藤田東湖らと交流のあった佐久間象山が、最も早くからナショナリズムを醸成する必要を認識していた人だった。 

「江戸の憲法構想」にかかわった山本覚馬と津田真道はともに象山弟子であり、赤松も象山と交流があったことが知られる。憲法を構想するということは、彼らが日本という国家単位で物事を考えていた証左であり、そう意味でのナショナリズムや、新たに国家体系をつくる必要性に迫られた背景に、もう少しページが割れていたらよかったかなと思った。ついでに言えば、本書で言及されている加藤弘之も象山弟子で、若いころ攘夷感情の強かった加藤を象山が諭したエピソードが知られている(攘夷にまつわる話は石黒忠悳の勘違いでした! 2024.6.9)。

 やはり本書で分析されている松平乗謨は、これまで私のよく知らなかった人物だが、信州佐久の田野口藩主で、母親が松平乗全の娘となると、少なくとも何かしら上田藩との関連はありそうだ。松平乗全は、上田の松平忠固と老中をともに務めた仲だからだ。 

 日本のマルクス主義史学者がどういう説を唱えてきたかを知らない私が言うのも何だが、マルクスの唯物史観そのものは、長年、考古学や人類学、生物学の分野から世界の歴史を見てきた私には、しごくまっとうな考え方に思える。本書で引用されている『経済学批判』の序文は、私も『エンゲルス』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)で翻訳したことがあり、「人びとの存在を決定するのは、人間の意識ではなく、その逆に、社会的に存在していることが彼らの意識を決定するのである」と訳した。関先生の「バタフライ史観」は、人間の自由意志からバタフライ効果が生まれ、それが歴史を変えてきたという主張のようだが、これには全面的に賛成はできない。私たちが「自由意志」だと思っていることも、自分が置かれた状況や時代、親から受け継いだ遺伝や教育、経済状態に大きく左右されるからだ。 

 ハントは同じ箇所で、マルクスらが「英雄史観」を切り捨てた経緯にも言及している。何の脈絡もなく天才は生まれないし、その天才が活躍できたとすれば、それは時の運によるのだと私は思う。よって、歴史を知るにはやはりその背景となる社会を見る必要があり、定量化して把握しやすい生産手段や生産関係にマルクスが着目したことは間違っていなかっただろう。たまたまヒトとしての生物学的な制約が歴史をどう変えてきたか、という内容の本を翻訳中であり、参考文献として昨夜読んでいたE・O・ウィルソンも、「自由意志は、結局のところ生物的であるように思える」と書いていたので、思わず夜中に付箋を探した。 

 晩年にエンゲルスが、「マルクスの全体的な考え方は、学説というよりは手法なのだ。それは出来上がった教義を提供するよりは、むしろさらなる探求を手助けし、そのような探求のための手法を与えるものなのだ」と語ったことにもハントは触れていた。昭和の初めに講座派の学者たちがマルクスの理論を曲解したとすれば、それは多分にレーニン主義を通じて教義のようにそれを受け入れたためだろうし、一部には翻訳の問題もあったと考える。民主主義の根幹となる平等の概念を考えるうえで、人の能力の差をどう扱うか、という難題にたいし、マルクスが当面は能力主義を採用し、長期目標としてはそれぞれの人が生きるのに必要なニーズに合わせるべきだと述べた重要な箇所が、これまでかなり誤解されてきたことを、『アマルティア・セン回顧録』の翻訳中に発見したこともあった。 

 私自身は憲政史をまともに調べたこともないのだが、『エンゲルス』を訳した際に、1848年のプロイセンにおける流血の三月革命を経て、国王に憲法制定を迫った経緯などは少しばかり知ることもできた。フランスに端を発した1848年の革命で、ヨーロッパ大陸のいくつかの国で憲法制定が進んだが、それによって民主主義国家になったわけではなく、幕末に憲法構想が練られていた時代には、ヨーロッパの大半の国の主権者は国王や皇帝だった。しかも、早くから民主主義国になったとされるアメリカでも、市民権は1866年まで白人男性にしか与えられておらず、黒人男性が参政権を獲得したのは1870年、女性にいたっては1920年になるまで参政権がなかった。

 つまり、『江戸の憲法構想』で取り上げられているジョゼフ・ヒコや、オランダ留学組の西周や津田真道が参考にした欧米の初期の憲法は、それ自体が多くの制約や矛盾を含むものだったわけだ。それまで人びとを束縛していた身分を撤廃した自由も平等も、実際には納税し、兵役に就いて市民としての義務をはたせる有能な白人男性に限られた話だったのであり、女性や有色人などは、その他の社会的弱者とともに考慮されていなかったのである。 

 最近、いろいろ考えてきたことと重なり合ったため、随分だらだらと辛口の評を書いてしまったが、日本史の学説に疎い一読者の、わずか一読後の読後感として、少しでも皆さんのご参考になれば幸いだ。この本には間違いなく、多方面から歴史を振り返らせるものがぎっしりと詰まっている。

 関 良基著
『江戸の憲法構想:日本近代史の“イフ”』
(作品社)

2024年3月22日金曜日

お彼岸に想う

 また3月が巡ってきて、1年前を思いだすことが増えている。辛くなるので読み返せなかった当時のメールを、先日少しばかり繰ってみた。忘れもしない春分の日の早朝に母の古い友人からかかってきた電話で、その前夜に母が緊急入院したことを知り、朝食もそこそこに電車に飛び乗ったのだった。  

 母のいない日々がもう1年近く経つとは、信じ難い。母が毎週、横浜まで通ってきて面倒を見てくれた孫は、その間に幼稚園の年中を終え、少しはピアノも練習するようになり、自転車の補助輪もとれた。先日は近所の書店で娘の近刊『あかちゃんの おさんぽ えほん』の発売記念イベントがあり、孫が代わりに絵本を読んで、カラスの羽繕いまでやって見せて拍手喝采を浴びていた。  

 昨夜は、少し前にコウモリ通信で宣伝させていただいた「懐かしい仲間、新しい響き」と題したコンサートがすみだトリフォニー小ホールで開かれた。昨年初めに姉が企画し、コロナ禍でお流れになってしまったニューヨーク在住の旧友大谷宗子さんを迎えての、いわばリベンジの催しだった。これまで姉のリサイタルや発表会のときは、いつも母が何かと支えていたので、大丈夫だろうかと一抹の不安を覚えていた。だが、そんな心配は杞憂に終わり、昨夜は大勢の観客が見守るなか、パワフルな宗子さんからエネルギーをもらったかのように、還暦を過ぎた音楽仲間たちが大熱演する会となった。 

 演奏会のあとで音楽通の古くからの知人が、宗子さんがバイオリンの小品にあまり知られていない女性作曲家の曲を選んで演奏していたことを高く評価しておられたので、彼女にそうお伝えしたら、「そうよ、ちょうど3月が国際女性デーでしょ」と即答されていた。なるほど、そうだったのか、と鈍い私はようやく気づいたしだいだ。アンコールには、クラリネットの野田祐介さん編曲でラヴェルの「マ・メール・ロワ」から妖精の庭を6人で演奏し、姉も最後のグリッサンドを格好よく決めていた!  

 コンサートに行く前に、せっかく都内に出るのだからと、年始にたまたま見つけていた曽祖母の妹の嫁ぎ先と思われる明治初期創業の会社を訪ねてみたのだが、金曜の夕方という忙しい時間に不意に訪ねたこともあって、ていよくあしらわれてしまった。地図で調べたときには気づかなかったのだが、何と薬研堀という立地にあり、すぐ近くの柳橋付近は屋形船が何隻も係留されており、隅田川の波間にはウミネコと思われる大型カモメが多数浮かんでいた。すぐ上流には上田藩の中(上)屋敷があったし、スカイツリーの方角には、母の眠るお寺がある。 

 錦糸町までは電車に乗るほどの距離でもないと思い、両国橋を渡ってそのまま14号線を直進した。出がけに思いついて1920年の本所区の地図を確認したところ、祖父一家が関東大震災時に住んでいた緑4丁目の一帯で45という番地を見つけていたからだ。この付近は焼け野原となっているので、区画がかなり変わり、現在は線路際に40という番地までしかないが、大正時代には14号線の南側に40番台があったようだ。曽祖父が存命のころは、そのすぐ南の菊川で開業していた。東に数十メートルも行けば大横川が流れており、大横川が小名木川とぶつかるところには高祖父が馬術を教えていたという上田藩抱屋敷があった。

 緑4丁目から総武線の線路を越え、大横川を渡った先に、すみだトリフォニーはある。直線距離で200メートルもない位置だ。そのホールで姉が古くは高校時代からの懐かしい仲間とともにお彼岸にコンサートを開いたというのは、亡き母にとって、先祖にとって、何よりもの供養になった。

すみだトリフォニーのコンサートのなかから、バルトークのピアノ五重奏曲の動画がこちらで視聴できます。

福音館の編集者と娘が、この赤ちゃん絵本について語る動画はこちらで見られます。
 

 両国橋からの隅田川

大横川沿いの緑4丁目からすみだトリフォニーは目と鼻の先

3月上旬、娘が多忙だったため、私がピンチヒッターでおおよそ作成し、入稿前に娘に手直ししてもらったプログラム

 地元の書店で開かれた絵本のお披露目会

 赤ちゃん絵本を読み聞かせする5歳児!

2024年3月1日金曜日

タイ旅行2024

 本当に久々にタイへ行ってきた。昨秋ごろから、娘が留学時代の仲間とタイで会おうという夢物語のような計画を立て始め、孫守りと荷物持ちを兼ねて私も同行することにしたのだ。ところが、パスポートすら期限切れになって久しく、まとまった休みを取るには、それまでにいまの仕事を終わらせなければならない。コロナは収束したとはいえ、誰かがインフルエンザになっても、計画は台無しになる。集まってくる友人たちも、タイで迎えてくれる友人たちもみな多忙なので、本当に実現するのか最後の最後までわからなかった。

 この8年ほどのあいだに、世の中は様変わりしていた。最寄駅の緑の窓口がなくなったため、成田エクスプレスの予約はえきねっとを利用せざるをえなかった。いまでは飛行機も航空会社でネット予約するほうが安くなり、チェックインもオンラインなので、タイの滞在中、Wifiで乗り切るのは難しそうだと考え、滞在日数分だけSIMカードを購入した。円安とタイの物価が上がったせいで、昔は見たこともなかったような1000バーツ札がどんどん財布から消えていった。バンコクの中心部は、どこもかしこもガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ林のようになっていた。  

 ニューヨークとバンガロールから別々の時間帯に到着する友人たちとうまく会えるかどうかが最初の難関だったが、1人は到着した旨の連絡がこないまま、到着しそうな時間にBTSスカイトレインの駅の改札で待つことで無事に会え、短い市内観光に出かけたあと、BTSで戻る途中の車内で、偶然にもサヤーム駅から乗り込んできた残りの2人とも出会うことができた。総勢6人で最初に宿泊したのは、寝室3室、バスルーム2つとトイレ1つというAirbnbの超豪華マンションだった。  

 翌日はタイからの留学生だった友人の案内で、バンルアン運河沿いのアーティスツ・ハウスへ出かけ、のんびりとスケッチを楽しんだ。タイの友人は、私たちのあらゆる望みを叶えようと奔走してくれ、簡単に拾えなくなったタクシーを「ラインマン」というタイ版ウーバーのようなアプリで手配することから、すぐに見つからないストリートフードのローティーサイマイやチャオクワイなどを差し入れ、新婚の友人たちのためのディナーにはケーキを手配してくれた。タイ土産に椰子の木細工の製品を買いたかったのに、見つからなかった友人には、ネットで注文して「ラインマン」を使って出発直前に配達させるなど、最後まで機転を効かせて面倒を見てくれた。  

 週末は、タイの鳥仲間がウタイタニー県のサケークラン川沿いの水上住宅を手配してくれ、そこでのんびりと絵を描き、鳥を見て過ごした。ちょうど万仏祭で三連休だったせいか、最初の晩は夜間にモーターボートの暴走族が何度も出現して、そのたびに家中が揺れて肝が冷えたが、夜明け前からオニカッコウの声が聞こえ、白み始める空に沈む月を眺め、贅沢な時間を過ごした。鳥仲間の友人は、女性全員に最近の流行というカンケーン・チャーンというゾウの絵柄のゆったりズボンまで用意してくれ、みんなでそれを穿いてワット・タースンというタイ版鏡の間のようなお寺にも行った。もちろん、フアイカーケン野生動物保護区にも行き、野生のトラこそ見られなかったが、そこで娘の鳥見と絵のお師匠であるアーチャン・カモンと奥さんにも会うことができた。  

 娘は1歳過ぎから何度も海外に出ていたが、コロナ世代の孫にとってはこれが初めての飛行機の旅であり、海外旅行だった。『気候変動と環境危機』を訳し、「飛び恥」についていろいろ学んだ私にとっては、「グレタ、勘弁ね」と思いながらの旅だった。タイでは例年になく早い時期から猛暑が始まり、PM2.5も深刻なレベルだという。孫は騒音や臭いに極端に敏感で、ふだんはバイクが通り過ぎるだけで両耳を手で塞いでその場で立ちすくんでしまう子なのだが、喧騒どころか大騒音の洪水と、下水や香辛料や香水、排ガスの充満するバンコクの通りや市場を数日間歩いたことは、かなりのショック療法になったようだった。友人たちはみな子ども好きで、手遊びや歌、絵の描き合い、紙飛行機飛ばし、花や実集めまで、いろんな方法で遊んでくれ、英語、タイ語、日本語が飛び交うなかで、孫は年中笑い転げて大はしゃぎだった。短い時間だったが、だいぶ記憶が曖昧になったタイのじいさんに会わせてやることができたのも大きな収穫だった。  

 娘の留学仲間がそれぞれの国に帰っていったあとの最後の晩は、2004年のインド洋大津波の年に鳥見のツアーで出会った仲間たちが夕食に招いてくれた。最高齢の友人は、コロナ以来、初めてこうした会食の場に出てきたのだそうで、二重にしたマスクがその覚悟の大きさを物語っていた。私たちに会うためにその決心をしてくれただけでなく、全員分の食事代まで払ってくれた彼女は、昔よりだいぶ痩せて、母の最晩年を思わせ、別れ際につい涙ぐんでしまった。  

 旅の途中で何人かは体調を崩したし、地球一周の旅をしたアメリカの友人は、最終目的地まで荷物が着かなかったし、私たちの帰国便も遅れて、真夜中過ぎに娘の夫に羽田まで迎えにきてもらうはめになったが、全体としては大成功・大収穫の旅だった。思い切って出かけて本当によかった。 

 さあ、これから出発前に終わらなかった巻末の参考文献の処理と、確定申告に取り掛からねば!

バンルアン運河のArtist's Houseにて、私も持参した水彩用紙の切れ端にスケッチをした

懐かしいセンセーブ運河船に少しばかり乗船

お揃いのゾウ柄パンツを穿いて「鏡の間」へ

水上住宅の東屋

ウタイタニーでの夕食