2011年10月31日月曜日

タイの洪水

 本のなかであれこれと読み、想像してきた遠い過去のことや、遠い未来に起こるはずの出来事が、いま現実に起きている。準備や心積もりができる前に、時代のほうが一足早く動乱の時代に入ってしまったかのようだ。地球温暖化で海面が上昇したら、タイの中央平野はナコーンサワン付近までたちまち海面下になると以前に読んだ記憶があるが、それが雨季の洪水でこれほど見事に冠水するとは。友人たちも次々に被災しており、この先、流通だけでなく水道や電気などのインフラにも混乱が起き、食糧難や疫病の流行すらありうることなどを予想すると、なんとも気が重い。   

 日本のマスコミの報道は、タイに進出した日系企業の被災状況ばかりに集中している。タイで生産すれば安い、ということにしか関心のない企業人は、思わぬ痛手を受ければそそくさと引き揚げてしまうのだろうか。外国企業を多数誘致し、高層ビルから都市交通網まで海外の技術を使って建設し、高級な外車を乗り回し、海外ブランド品で身を固めてきたタイのエリートたちは、豪邸にじわじわと迫る泥水にどう対処するのだろうか。  

 大河の流域で暮らすことがつねに危険と隣り合わせだということを私たちは忘れている。川の水は大量の土砂やシルトを運び、それが堆積すれば川床は高くなり、蛇行するようになる。集中豪雨などで短期間に流量が急増すれば、川はより低い場所を求めて流れを勝手に変えていく。人間は定住地を築くために川に堤防を築いて川筋を固定しようとするけれど、水の流れは地表面だけでなく、実際には地下でも起きている。堤防を超えて水があふれれば、あるいは堤防そのものが崩れれば、頭上高くから水が押し寄せる事態になる。あふれた場所の多くが市街地や工場になれば、水は地面に浸透せずにすべて排水溝へ流れる。  

 バンコクは海抜が一メートル以下の地域も多く、高い場所でも二、三メートルしかない。かつて国際貿易都市として栄え、今回は多数の日系企業の工場が冠水したアユタヤも、海岸から九〇キロ近く内陸にあるのに、海抜は四メートルほどしかない。十七世紀にチャオプラヤー川をさかのぼってアユタヤを訪れたフランスのイエズス会士ギー・タシャールはこう書いている。「シアム〔アユタヤ〕まで数日の距離にあるこの地は非常に低い土地だ。一年の半分はすべて冠水している。数ヵ月は降りつづく雨が〔チャオプラヤー〕川を氾濫させ、大洪水を引き起こし、おかげでこの土地は肥沃になっている(中略)。それがこの洪水のもう一つの好都合な点で、どこへでも、農地のなかへも船で行かれるのだ。そのため、あらゆるところに多数の船があり、この王国の中心地には人よりも船のほうが多い。なかにはかなり大型で、上に家が載っている船もあり、一家全員がそこに住んでいる。こうした船が出合う機会のある場所では、何隻もが一緒に集まって、水上村のようなものをつくっている」。ペルシャ人はアユタヤを「船と運河の都市」と呼んでいた。運河はもともとこの氾濫原を干拓するための排水路としてつくられたのだ。  

 二十世紀以降、タイでは人口が急増し、運河は道路に変わり、高床式の住宅も地方にしか見られなくなった。今日のバンコクはニューヨークや東京となんら変わりない大都会に変貌しているが、タイが熱帯の国である現実は変わらない。温暖化が進めば、モンスーンの豪雨がさらに激しくなる可能性も充分にある。タイを利用する外国企業も、お金で見かけの繁栄を買うタイのエリートも、もっと自分たちの置かれた環境をよく知らなければ、何を築いたところで足元から崩れていくだろう。同じことはどこの国にも言える。 

 追伸:以前にコウモリ通信に書いた新しい訳書『なぜ本番でしくじるのか』(シアン・バイロック著、河出書房新社)がこのたび刊行されました。ふだんはできるのに、肝心なときに失敗して損をしている方、ぜひお読みください!

1690年にケンペルが描いたチャオプラヤー川沿いの光景(A Description of the Kingdom of Siam 1690, 1998年の復刻版より)

ケンペルが描いた屋形船(同上)

2011年9月30日金曜日

不運続き

 この9月はなぜか「事件」の多い月だった。始まりは母からの電話だった。こともあろうにキャッシュカード詐欺に遭って、総合口座の定期預金まで引きだされてしまったのだ。うちの近所はほぼ連日、パトカーやゴミ収集車、消防団などがこの手の詐欺に気をつけろと、耳にたこができるほど言って回っているので、自分の母親がそれにまんまと引っかかるとは夢にも思わなかった。頭に血が上った私は、ともかく状況を正確に把握しなければと思い、船橋の警察署で母と落ち合わせることにして電車に飛び乗った。  

 発端は前日の夕方、警察を名乗る犯人からかかってきた電話だったが、母が私に連絡してきたのは翌日の夕方近くになってからだった。いわゆる劇場型の犯罪で、犯人グループは警察や銀行員になりすまして母に電話をかけつづけ、その間にもうカードを回収する実行犯が玄関口に現われたらしい。なぜ、すぐ私に連絡してくれなかったのか、どうしてそんな猿芝居に騙されたのかと、話を聞けば聞くほど情けなくなった。つい口調がきつくなっていたのだろう。事件を担当した刑事さんにあとから、「犯人はじつに巧みに話すので、誰でも引っかかるものなんですよ。お母さんをあまり責めると、この事件をきっかけにうつ病になったり、認知症になったりすることもありますから」とたしなめられた。確かに、それだけはなんとしても避けたい。  

 あとから考えてみれば、犯行があった晩は台風の影響で荒れ模様だったため、母に電話をかけなければと、一瞬思ったのだ。あのとき私が電話をかけていれば、少なくとも日付が変わってすぐ、一日の引き出し限度額が更新された瞬間に深夜のコンビニのATMから下ろされた二度目の犯行は防げたはずだ。防犯カメラには実行役の姿が映っているそうだが、こういう犯罪は毎日あまりにも多くの件数で起こっているので、捜査の手が回らないのが実情のようだ。あとは金融機関が詐欺事件の被害者のために設けている制度で、被害額の何割かでも戻ってくることを願うばかりだ。  

 この事件のショックから立ち直る間もなく、今度はあちこちから突然の訃報がつづいた。例年、夏の終わりから秋口にかけては、真冬と並んで亡くなる人が多いそうだが、今年は震災のストレスに加えて、暑い夏を節電しながら過ごしたせいだろうか。まだ当分は活躍するだろう思っていた人たちが、まるでもうこんな世の中はご免だと言うように、あの世へ旅立ってしまった。  

 さらに、台風15号にもやられた。お隣とのあいだに並んでいたカイヅカイブキが5本も曲がり、そのうちの2本が窓に覆いかぶさっている。たしかに風の通り道にありながら、丈が高いまま放置されていたのだが、こんな被害がでるとは。これでは歯抜けになって目隠しの役割をはたさない。どうせお隣はもうずっと空き家だから当面はいいか、などと思っていた矢先に、今度はそのお隣が取り壊しになることになった。すでに足場を覆うシートの向こうで、連日、バリバリ、ガッシャーンと、気の滅入るような騒音がつづいている。  

 私の周囲の一連の出来事は大震災の余波のようなもので、こんな末端までついにその波紋が広がったのだろうか。それともこの先さらに「大事件」が待ち構えているのだろうか。We'll cross that bridge when we come to it. その橋まできたら、渡ればいい。取り越し苦労をしても仕方ない。以前はこう言われると腹が立ったが、いまはこうして開き直るしかない気がする。

2011年8月31日水曜日

モビール

 おそらく狭い家で生まれ育ったせいだろう。私は子供のころから天井を眺めるのが好きだった。ものがあふれる床の上とは異なり、天井にはわくわくするほどスペースがある。小さいころはよく、『長くつ下のピッピ』みたいに接着剤を足裏に塗って天井を歩けたら、と夢見ていた。そのせいか、天井に近い空間をゆらゆらと不規則に揺れ動くモビールについ心をそそられる。  

 ここ一ヵ月ほど暑くて散歩もままならず、あきらめて仕事に専念しようとパソコンに向かってみたものの、なかなか集中できない。秋のお祭り用に何か新商品をつくらなければ、などとぼんやり考えているうちに名案が浮かんだ。ペーパークラフトで鳥のモビールをつくるのだ。これまでに何度か精巧な鳥の紙模型はつくったことがあったし、翼の動くスキハシコウの玩具を真似て工作してみたこともあった。数年前、「こまたん」から娘が実物大に近いアオバトのモビールの絵を描かせていただいたこともある。  

 でも、私が考えたのはそんな難しいものではない。鳥のかたちは複雑そうだけれど、飛んでいるときは魚のような流線型の体に、翼が二枚ついているようにしか見えない。サギのような足の長い鳥は別にして、たいていの鳥は足も見えないし、体だって正面からは小さい丸にしか見えない。ならば、胴体は紙二枚分の厚みしかない薄っぺらでもいいかもしれない。翼と尾羽を開けば、それなりに立体的に見える。あいだに糸を挟むだけで重心がとれるだろうか。試してみたら、ほんのわずか後ろにすると鳥はまっさかさまに落ちそうになり、少し前にずらすと昇天しそうになる。ところが、中心当たりで両翼を開くと不思議に安定するのだ。翼をさらに下げたり、少し上向きにひねったりすると、いまにも飛びそうだ。ツバメ、コアジサシ、カワウ、サシバなど、いろいろな鳥の試作品をつくってみたが、まずはかたちも単純なアオバトをつくることにした。大磯の海の上を、朝日を浴びながら群れをなして旋回する姿をモビールで再現しよう。  

 飛んでいる鳥が肉眼で見える程度のラフな模様を娘に水彩で描いてもらったものを、A4の用紙1枚に収まるように5羽分並べ、裏表がぴったりの位置になるように失敗を重ねながら調整した。これならたった1枚の紙から、オス3羽、メス2羽の小さいアオバトがつくれる。贅沢な材料と時間と手間をたっぷりかけた工芸品は、誰もが手に入れられるものではない。子供でもお小遣いで用紙が買えて、30分もあれば家にある材料で、自分で設計するモビールがつくれたら、楽しいではないか! この工作を機に、バランスや空間造形の面白さに目覚める人や、本物のアオバトを見に行こうと思う人がいるかもしれない。針金ならつけても軽いし薄いので、糸が絡まないようにうまくたためば、定形郵便で遠方の友達に送ってあげることもできる。もちろん、針金の代わりに小枝を使ってもいいし、一羽だけぶら下げても、ただ押しピンで壁につけてもいい。  

 マットコートの厚紙に印刷してもらったアオバトはきれいな色に仕上がった。私は調子に乗って10羽が舞うモビールをつくり、夜風に乗ってゆっくりと思いがけない方向に漂っている様子をほれぼれと眺めている。このお手軽工作シリーズは、ペーパー・バードと名づけることにした。「It’s only a paper bird, hanging over a baby cot……」。娘がすかさずメールで替え歌をつくってよこした。信じてくれれば、紙の鳥でも本物になる。

2011年7月31日日曜日

お手玉の効能

 ジャグリングが脳にいいということは、5、6年前から神経科学の実験でたびたび証明されており、いまさら私がここに書くまでもないかもしれない。両手、両腕を正確なタイミングで動かし、速く動くものをつかみ、視界の周辺で動くものを追う必要があるジャグリングは視覚運動技能の典型だ。「両手の動きを協調させるには、左右の脳が対話する必要がある。この対話は基本的に、左右の半球をつなぐ神経細胞の線維路の太い束、つまり脳梁を通じて行なわれている」と、この秋に刊行予定の『なぜ本番でしくじるのか』という本のなかで、著者のバイロックは書いている。「ジャグリングの練習を数ヵ月間つづけると灰白質(ニューロンの細胞体がある部分)が増す。これは一般に、運動を理解することにかかわる脳の部位で、脳細胞間の情報伝達が増すことを意味する」のだそうだ。  

 視線を上げて投げる、取る、という単純な動きだけに精神を集中させる運動には、瞑想のように頭のなかの邪念を追い払ってくれる効果もある。運動不足で脳の言語野ばかりを使いがちな現代人は、柔軟な発想ができない、ストレスがあっていざというときに力が発揮できない、不安や怒りに駆られるとそこから抜けだせないなど、多くの問題をかかえている。そんな現代人が手軽に始められる娯楽として、ジャグリングは注目されているのだ。 記憶には体で覚える「手続き記憶」や、意識的に覚える短期および長期の「顕在記憶」など異なった種類のものがあり、脳のさまざまな部位に少しずつ蓄えられていることがいまでは判明している。老化は20代から始まるし、いつか脳梗塞に見舞われたり、アルツハイマー病を患ったりすることもあるだろう。脳の一部を損傷しても、一度にすべてが失われないためにも、日ごろから普段あまり使わない脳の部分を鍛えておくのは重要だ。  

 ジャグリングというと、何本ものクラブを自在に操る大道芸を思い浮かべるかもしれないが、お手玉でもいい。「なんだ、おばあちゃんの遊びか」と、ばかにしてはいけない。ビーンバッグ(豆袋)は世界各地のジャグラーも使っている。聖徳太子もお手玉で遊んだらしいが、「石なご」と呼ばれたこの遊びはジャグリングではなく、ナックルボーンズという遊びに似ていて、お手玉では「よせ玉」という遊びになっている。布のお手玉が広まって、ジャグリングである「ゆり玉」遊びが流行したのは江戸末期から明治のようだ。子供のころお手玉でよく遊んだという私の母などは、いまでも両手三つゆりが上手にできる。  

 日本のお手玉の会が推奨する40gの小豆入りざぶとん型のお手玉は、当たっても痛くないし、手によく馴染み、手ごろな大きさだ。長方形の布(4.5×9cm)四枚を風車のように並べて縫い合わせる。誰が最初に考えたのか知らないが、わずかな布で簡単にボールをつくれるこのアイデアはすばらしい。私は別の展開図を考え、娘がつくった型で鳥の図案を一枚一枚ステンシルで染め、これと同じ仕様の鳥のお手玉を製作している。滑稽な顔の鳥がポン、ポンと舞い、ときどき空中衝突するさまは何度見ても笑ってしまう。  

 お手玉をやる人はたいがい、右手で投げて左手で取り、それを右に送る方法で三つゆりをする人が多い。でも、これから始めようという人は、ジャグリングの基礎と言われる3つのカスケードを先に習得するほうがよいようだ。これは両手が同じ動きをし、右手で投げたら、その玉を取る前に左手の玉を投げ、その玉を取る前に右手の2個目を投げるという技だ。球戯が得意でない私には、左手で投げることがそもそも難しい。取る前に投げる、などと考えていると、どれを投げるのかわからなくなる。そこで取ることは意識せず、投げることだけに専念した。「な・げ・る」は三音節なので、「ほぃ」「ほぃ」と唱えながら練習する。そのうちに私の脳にもめでたく新たな回路が形成されたようだ。以来、毎日少なくとも5分は練習している。

『なぜ本番でしくじるのか』 シアン・バイロック著
(河出書房新社)

2011年6月30日木曜日

『アイデンティティと暴力――運命は幻想である』

 先日、遊歩道を見つけて歩いていたら、裏山を丸ごと開発した巨大な城のようなマンションの敷地内に入り込みそうになり、立ち入り禁止の看板に行く手を阻まれてしまった。林地の一部がそっくり私有地になり、一種のゲーテッド・コミュニティになっていたのだ。あきらめて周囲を回ると、ちょうど幼稚園のバスが帰ってくる時間帯で、若いお母さんたちが30人ほど出迎えていた。まるで申し合わせたように下の子をベビーカーに乗せ、育児の真っ只中でありながら、流行のファッションに身を包み、にこやかに談笑している。一人だけなら絵に描いたようなほほえましい光景なのに、人生の勝ち組であることを高らかに宣言するような集団に気圧され、私は足早にその場を去った。  

 同質な人ばかりで構成された集団というのは、無意識のうちに外部の人間を締めだす。隔離された世界に特定の条件を満たす人だけが住める社会は、犯罪が横行するいまの世の中では、一見、治安のよい楽園のように思えるかもしれないが、外の雑多な世界に暮らす人びとの目にはどう映るだろうか。こういう集団は得てして、自分たちの身分や資格を明確にする条件、たとえばマンションの住人かどうかを過度に意識するようになる。  閉鎖的な社会では、その構成員に画一的な規範や制約が課されがちでもある。「みんなちがって、みんないい」どころか、理想像はたいがい一つしかなく、子供のいない人はもちろん、共働きで子供を保育園に預けている人ですら、その輪には入りにくいだろう。輪のなかで愛想よく笑みをたたえている人も、内心は子供の教育からご主人の出世ぶりまであれこれ競い合ったりしていて、案外、窮屈な世界に違いない。  

 規模は違うけれども、同じことは民族や国のような、より大きな集団に関しても言える。特定の宗教や言語、文化などをもとに一つの民族として括られた集団は、その条件である信仰心や愛国心などを重視する。人をまずそうした観点から区別し差別して、集団の権利を主張するようになるのだ。その正当性を主張するために昔は神話をつくり、いまは法律を盾にする。こうした集団は、確かに外敵から自分たちの利益を守るうえでは好都合かもしれない。でも、しょせん人間社会全体にいちじるしい格差があるのだ。こうした気圧差は、少なければ心地よいそよ風になるけれど、圧力が高まれば犯罪という隙間風になって脆い場所に吹き込む。ときには内戦のような暴風にもなるだろう。内部の人間も外部の人間も、結局は住みよい土地や資源をめぐって生存競争をしているに過ぎないのだから。  

 このたび刊行されるアマルティア・センの『アイデンティティと暴力』は、人間のコミュニティに関するこうしたさまざまな問題をとりあげたものだ。「住民が本能的に一致団結して、お互いのためにすばらしい活動ができるよく融和したコミュニティが、よそから移り住んできた移民の家の窓には煉瓦を投げ込むコミュニティにも同時になりうるのだ。排他性がもたらす災難は、一体性がもたらす恵みとつねに裏腹なのである」と、センは言う。  

 人間が所属するコミュニティの一員であることを極端に重視するようになり、それがその人の唯一のアイデンティティになると、本来は多様であるはずの個人は画一化された枠組みのなかに埋没し、そのアイデンティティを共有しない集団とのあいだには敵対関係が生まれる。資源が乏しくなり、生きることが難しくなればなるほど、こうした傾向は顕著になる。過度の自由主義への批判から共同体主義が脚光を浴びている現在において、そうした動きが偏狭なナショナリズムに発展することを危惧した書と言えるだろう。サンデル教授の本ばかり読まずに、ぜひこの本も読んでみて欲しい。

『アイデンティティと暴力――運命は幻想である』
 アマルティア・セン著、大門毅監訳、東郷えりか訳(勁草書房)

この統一感のない雑多な光景こそ、日本がまだ平和である証拠なのかもしれない

2011年5月31日火曜日

散歩のすすめ

 飽きっぽい私にしては珍しく、昨年末からほぼ毎日、散歩をつづけている。とは言っても、運動不足やストレスの解消という当初の目的からは大幅にずれて、何かおもしろいものを発見すると、翌日にはそれを調べにさらに足を伸ばすという具合なので、最近は行きたい場所が広がりすぎて、自転車を使うことが増えている。仕事の合間の1時間の息抜きだったはずが、ママチャリで何時間もアップダウンを繰り返しながら走ると、さすがにくたびれて仕事にならず、本末転倒になりつつある。  

 ふだんは用事をすますためになるべく平坦な最短距離を通るので、何度も近くを通っていても何も見ていないことが多い。電車に乗り遅れないように急いでいれば、なおさらだ。一本違う路地を行くだけで、ほんの少し寄り道をするだけで、思いがけない発見があるものだ。たとえば、私の住んでいる地区から駅に徒歩で向かう人は、たいてい福寿観音という小さいお堂の脇を通る。1982年に建てられたこの観音にある石碑を読むと、「昭和38年嘗て内務省官吏の経験を持つ弁護士で新一開発株式会社社長の福原政二郎氏が土地区画整理事業に依る開発を計画、同時に新駅設置運動を再燃せしめ」、その新駅の誕生を祝って建てられたことがわかる。しかも、駅前広場用地を無償提供し、駅舎総工費30億円のうち25億円を福原氏個人が負担したという!「近代的な駅と是を中心に東西を結ぶ自由通路を基盤とした都市構造は、巧にその地形を生かした全国でも稀に見る弐十壱世紀を魁する街造り……」、いや、たしかに。  

 以前、『巨大建築という欲望』を訳していたころ、浅い谷間にまたがる人工的な地上階に巨大高層建築物を建てたニューヨーク州オールバニーの開発の光景を見て、私の住む東戸塚の駅前開発地とどことなく似ていると思ったことがある。ネルソン・ロックフェラーが新しい行政中心地をつくろうと1958年に立てたこの計画には、18年の歳月と10億ドルが費やされ、完成したころにはロックフェラーの政治生命はとうに終わっていたという。東戸塚の開発は規模こそ小さいものの、駅周辺の開発工事が終了したのは昨年のことだから、じつに当初の構想から半世紀近い歳月がたっていたことになる。起伏の多いこの土地の35メートルほどと思われる高低差を、東西に一直線に伸びる自由通路と長いエスカレーターで結び、その間に高層マンションと商業コンプレックスが並ぶ様子は、見慣れた光景とはいえ、改めて眺めると圧倒される。駅の反対側からでも、旧東海道沿いに残る高い杉の木の下に福寿観音が小さく見える。福原氏はこの景観をどんな思いで眺めたのだろうか。  

 最近になって、駅の反対側にも同じ福原氏が建てた新戸塚観音堂があることを知り、散歩の折に探してみた。駅をはさんで東西両側に観音堂を建てようと考えるような人なら、当然、一直線の軸上に建てただろうと予想したのだが、どうもそれらしい建物が見当たらない。付近をぐるぐる回ったあげくに、横浜新道の脇に相輪が見えてきた。驚くほど立派な建物で、なかも豪華絢爛だ。ただし、東西の軸からは多少ずれており、駅の西口からは100均や量販店が入る建物などが邪魔をして見えず、裏口をでてよほど見回さないと気づかない。あえて目立たない場所を選んだのか、壮大な計画のなかの誤算だったのか。これまで何一つ知らずに日々、彼が引いた軸上を往復していた私には、もちろん知る由もない。

 東戸塚東口

 福寿観音からの光景

 新戸塚観音堂

 西方には横浜新道が見える

2011年4月30日土曜日

震災に思うこと

 もうだいぶ昔のことだが、八ヶ岳の赤岳を編笠山からキレット経由で登るという無謀な計画を立てて、あまりの険しさに立ち往生したことがあった。小学校2年だった娘と60歳近い母を連れた山行だったので、運よく通りかかった頂上小屋の管理人さんに、「夕方までにたどり着けなかったら、捜索にきてください」と、お願いしてみた。ところが、「山に入ったら、人に助けてもらおうなんて思うんじゃない」と言われ、頭を殴られたような気分になった。引き返すこともできず、平均斜度35度という、下を見ると気が遠くなるようなガレ場を何時間も登りつづけ、日も暮れるころに疲労困憊して頂上に着いた。私たちの到着に気づいた管理人さんは一瞬にやっとしたが、何も言わなかった。頂上から見た日の入りは格別だったが、それにも増して管理人さんの言葉は忘れられないものとなった。  

 キレットからの登りがどの程度の難所かは、ガイドブックを読めばきちんと書いてある。ろくに調べもせずに勝手に登ったのは私たちなのだ。どんなリスクがあるのか前もって把握し、それでも行くのかと自問すべきだった。この山行で親は当てにならないと悟った娘は、それ以降はふりがなを振ってもらいながら、自分でガイドブックを読み、地形図を丹念に調べるようになった。  

 個人的な山登りの体験と、今回の震災をくらべることはできないと思うが、被災地がいずれも危険と隣り合わせで暮らしていたことを考えると、どこか似ているような気がする。生き延びるためには結局、自分で調べ、判断し、行動するしかないのだ。昔から津波被害に遭ってきた三陸地方では、「津波てんでんこ」という教えを子供たちに徹底して教えていたため、下校中の小学生が自分たちの判断で高台を目指して一目散に走り、おかげで助かったという記事を何度か目にした。結局、いざとなれば自分の身は自分で守るしかない。それでも、自然が相手の場合は運しだいだ。ほんの数分、数秒の差で命を落とした人は大勢いるのだろう。自分はもういいから、おまえだけが逃げろと言って、波にのまれていったお年寄りもいたという。大津波であれだけ被害を受けても、漁師たちはまた海にでていく。厳しい自然のなかで生き抜くというのは、こういうことを言うのだろう。  

 一方、日常生活を唐突に奪われ、最低限の衣食住をあてがわれ、プライバシーのない生活を長期にわたって余儀なくされている人たちはストレスをためている。こうした状態が長引けは、体調を崩して落ち込み、理性を失って八つ当たりしたくなるのは仕方がない。同じことは、震災以来、緊張の連続を強いられている現場で働くさまざまな人びとや、政府や報道関係者などにも言える。差し迫った危険が少なくなったいまは、抑えていた不満が方々から一気に吹きでているように見える。  

 それでも、いがみ合い、責任をなすりつけ合えば、ストレスはさらに増し、冷静になれば対応できたはずのことすら進まなくなるばかりだ。原発という危険が日本の各地にあって、そこで発電された電力を使って日々、エスカレーターに乗ってはルームランナーで走るような生活をつづけていることは、少し考えれば誰にでもわかることだ。本当にこの危険を受け入れるのか、いざというときはどう身を守るのか、子供やお年寄りを含め、誰もが真剣に考える必要がある。ころころと政権の変わる政府や、一私企業でしかない東電に責任を追及してみたところで、しょせんわずかな賠償金をもらえるに過ぎないのだから。