2021年1月27日水曜日

Z旗

 昨夜、遅い夕食をとりながら夕刊を斜め読みしていたら、細野豪志氏が河野太郎氏のコロナワクチン担当に関連して、「いい判断だと思う。皇国の興廃この一戦にあり」とツイートしたと書かれていた。これは日露戦争時に連合艦隊の東郷平八郎司令長官が旗艦「三笠」にZ旗を掲げた際の発言なのだと、解説には書かれていた。ふと昨年、千駄ヶ谷に行った折に初めて立ち寄った東郷神社のことを思いだし、少々調べてみた。神社の境内にもZ旗が掲げられ、幟にも小さく染められていたからだ。 

「Z旗を掲げよ!」という檄を飛ばす言葉は、折に触れて小耳には挟んでいたが、娘がイギリスからもち帰り、まだうちの壁に貼ってある国際信号旗の一覧によれば、Z旗は「I require a tug」、「本船にタグボートを求む」という意味であり、港湾内や河川で曳航してもらうときの信号なのだ。ウィキペディアによれば、この旗を漁船が漁場で掲揚した場合は、「I am shooting nets」、「本船は投網中である」という意味にもなるそうだ。  

 どちらも必要な信号とはいえ、スローガンにするには格好が悪い。そのため、神社の境内にまでZ旗が掲げられているのを見て、私の頭には疑問符がいくつも浮かんでいた。夕刊の記事を手がかりに、少しばかり検索すると、1905年5月27日、対馬東方海域に差し掛かった午後1時39分(あるいは55分)に、旗艦・三笠のマストにZ旗が翻り、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」を意味していたことがわかった。アルファベットの最後の文字なので、「もう後がない」、背水の陣の意味だったという。  

 ウィキペディアの「Z旗」の項の説明によると、ちょうど1世紀前の1805年のトラファルガー海戦でネルソン提督が「England expects that every man will do his duty」(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)というメッセージを信号旗でヴィクトリー号に掲げた故事に倣ったのだという。ネルソンが当時、使用したのは国際信号旗ではなく、戦いの数年前に考案されたパパムの信号の改良版だった。無線のなかった当時は信号旗が唯一の通信手段であったので、艦隊の信号旗担当者はその暗号を読む訓練をよく積んでいたに違いない。  

 現在も使われる国際信号旗がいつ普及したのかわからなかったが、Z旗はその一連の旗の1つだ。船舶同士が互いにメッセージを伝え合うための国際信号旗に、世界共通の意味とはまるで異なる意味を、国際ルールなどお構いなしに付与して、それが理解されたということは、開戦前に艦隊全員に訓示した際に周知させたのだろう。対戦相手のロシア艦隊は、双眼鏡で覗いて三笠にZ旗が翻っているのを見て、対馬北東の狭い海域とはいえ、海の真っ只中でタグボートを頼んでいるのだと誤解しなかったのか。  

 つい気になって、曾祖父が訳した『嗚呼此一戦』(ウラジミル・セメヨーノフ著、博文館、1912年)をぱらぱらとめくってみた。5月27日の海戦を克明に描写した箇所には、「一時三十分、第一戦艦隊が第二及び第三戦艦隊の前首に進み、将に旧進路に転進せんとし、『第二戦隊は第一艦隊に続航せよ』との信号は[が?]掲げられたとき、殆ど之れと同時に前方遥かの朦気の中に、敵の主戦隊は微茫として顕出し始めた」などと書かれている。だが、つづいて「既にして我隊の左側へ進み来りしとき、旗艦三笠は急に南方へ回針した。三笠に次いでは敷島、富士、朝日、春日、及び日進の諸艦が続航した」となり、三笠のマストに掲揚されていたはずのZ旗は、当時の双眼鏡の性能に限界があったのか、幸い気づかれなかったようだ。  

 もっとも、対馬海戦当日の早朝の描写には、「今や興廃を分かつ此の大戦闘!其の為めには先づ勢力の集中を必要とするは言を待たぬ」などとあるし、同書の初めのほうでも、「東郷は躬ら其の優秀なる十二戦艦の首脳となり、何れかの地点に一纏めに待ち伏せて、興廃を此一戦に決せんと出動し来るに相違ない」と、曾祖父は訳していた。当時、この言い回しは広く知れ渡り、流行の言葉になっていたのだろう。  

 ちなみに、この本の著者は、ロシア艦隊の記録係として旗艦スワロフに乗り組んでいた海軍中佐で、海戦で負傷しつつも午後7時40分まで甲板に横たわりながら記録を残し、その後、水雷艇で脱出したようだ。意表を突く日本側の作戦について詳細に言及しながらも、この著者はロシアの敗因を艦隊が老朽で速力に劣り、火力でもはるかに及ばなかったためとしている。  

 Z旗の掲揚はその後、日本の海軍のあいだで象徴的な意味をもつようになり、真珠湾攻撃でも空母赤城が掲げたとも言われるが、さすがに昭和なかばでは誤解を避けようと思ったのか、実際にはD旗につづけてG旗、つまりDG旗を掲揚したという。山本五十六が乗り込んだ旗艦の長門でなかったことにも、何らかの意味がありそうだ。国際信号旗では、この組み合わせ「I have a motor boat」(本船はモーターボートを保有している)という意味らしい。誤解されても無難なものを選んだのか。  

 Z旗は、一部の人にはいまなお強烈な象徴的意味をもつようで、日産のフェアレディZがその意味で命名された逸話から、この旗の刺繍ワッペンまで、いろいろネット検索された。細野氏のツイートもその流れを汲むものなのだろう。2011年にイージス艦「ちょうかい」が日米合同軍事訓練で掲揚したのをきっかけに、再燃したブームでもあるという。だが、背水の陣のつもりが、曳舟頼む、と誤解されかねないマークだ。もう少し調べればいいのに、とつい言いたくもなる。まあ、いまの日本は、それこそ誰か引っ張ってくれ、という状況ではあるが。

 東郷神社、2020年7月撮影

 国際信号旗表

『嗚呼此一戦』より

2021年1月19日火曜日

コウノトリかタンチョウか

 少し前から、知人のSNSで見たらしく、娘がコウノトリの形のハサミを欲しがっていた。とくに珍しいものでないことは知っていたが、私はなぜか中国に昔からある鶴形ハサミなのだと思い込んでいた。デザインがいかにも東洋的だからだ。だが、あれこれ調べるうちに、どうやらヨーロッパが本場で、ドイツのゾーリンゲンのものが有名だということがわかった。しかも、もともと18世紀に助産師が使う鉗子、もしくは臍の緒を切るハサミとしてつくられたようなのだ。古いものには、ハサミを開くと留め具の下あたりにクルミの殻に入った赤ん坊が現われる凝ったデザインのものまであった。握りの下には、多産のシンボルである亀が付いている。助産師が使う安産祈願も兼ねたような道具が、いつしか女性のための裁縫道具に変わったというのが、大方の見解のようだった。

 18世紀というと、東西の往来が盛んになった時代なので、鶴と亀をかたどった中国の高級工芸品にヒントを得て、ヨーロッパの金属加工が盛んな地域がコウノトリに変えた可能性が皆無とは言えない。だが、中国のハサミの老舗とされる杭州市の張小泉なども、現在こそ似たような鳥のデザインのハサミを製造しているが、19世紀以前の作品はざっと検索した限りでは見つからなかった。となると、このハサミは「コウノトリ形ハサミ」と呼ぶべきなのだろう。  

 ついでにハサミそのものの歴史もウィキペディアで読んでみた。最初のハサミは、紀元前10世紀ごろに古代ギリシャで羊毛の収穫をするためにU字形のギリシャ型ハサミとして登場したのだという。これがはるばる日本までおそらく古墳時代に伝わったのが握り鋏なのだ。このタイプのハサミがいまなお広く使われているのは、日本だけというから驚きだ。私は糸切りにはもっぱら、小学校の裁縫道具セットに入っていた握り鋏を使う。2枚の金属板をX字形に鋲で留めるローマ型のハサミが日本で広まったのは、明治以降なのだそうだ。ちなみに中国では13世紀になるとギリシャ型のハサミはつくられなくなったという。  

 そんなことをやたらに検索していたのをAIに察知されたのか、先日、ヤフオクが終了間近の「ゾーリンゲン製、高級手作り爪切り、ハサミ、ドイツ、アンティーク、鳥、ゴールド」などと書かれた商品の宣伝を送りつけてきた。どう見ても、私が何日か前に検索していた高額の裁縫用ハサミなのだが、出品者が爪切りと勘違いしたせいか、若干の入札者はいたものの低価格のまま推移し、嬉しい値段でめでたく落札することができた。出品者はツルかコウノトリか迷うこともなく、ただ「鳥」としていたが、同様の商品を「コウノトリ鶴型はさみ」などと書いているサイトも多々あった。届いてみると、想像以上に小さく繊細なハサミだった。私は30年くらい前に姉からやはりドイツ土産でヘンケルスの似たような裁縫バサミをもらい、いまも愛用している。こちらは十字架付きだ。金と銀の組み合わせは、大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』にでてきたホクスンの銀製胡椒入れや、シャープール2世の絵皿以来の金属加工の伝統を思わせる。これらのハサミがただの道具以上の意味合いをもってきた証だろう。

 ハサミの起源がツルかコウノトリかで、私がやたらにこだわって調べたのは、以前にチャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』の表紙の鳥が、その2種のいずれかで悩んだことがあるからだ。一見するとタンチョウなのだが、よく見ると頭が白いし、喉にも黒い筋がない。パンチの守さまの横に、2羽のツルではなく、コウノトリという構図は、どうも腑に落ちなかったが、見れば見るほど表紙の鳥はコウノトリのようだった。

 ところが、たまたま調べ物で全集をパラパラとめくっていた際に、1867年1月号に鶴かコウノトリか不明の件の鳥が、鷲と向かい合い、その下にそれぞれ日本人らしき人物(M・I)と西洋人(P&O)が描かれたイラストがあることに気づいたのだ。これが何を意味していたのは不明だが、左側のページをちらりと読むとワーグマンのこんな文章が書かれていた。  

「かつてはこの国特有で独自のものだったすべてが 
どんどん急速に消えてゆく。
蒸気や歯車の唸り音や、 
加工しにくい硬い金属を打ちだすハンマーが 
いまや偉大な富士山の麓の沼地一帯で聞こえる。 
かつてはこの国の聖なるツルが唯一のクレーンだった場所で。 
じきに龍のごとき巨大なエンジンの忌まわしい騒音が 
江戸と横浜を縫うように東海道沿いをシュッシュと進むだろう」  

 ということは、頭頂部と首筋の白いこの鳥を、ワーグマンは結局のところタンチョウのつもりで描いていたのかもしれない。イギリスにはツルは生息しなくなって久しく、大陸ヨーロッパと違ってコウノトリは飛来しない。つまり、ワーグマンはどちらの鳥もよく知らず、横浜の湿地で見かけたコウノトリを日本の絵画や工芸品に描かれてきたタンチョウと勘違いしていたのかもしれない。幕末の横浜にトキやガンなどの水鳥がいたことは確かだし、ツルを撃ち殺したとして逮捕されたらしい外国人もいたのだが、それらも本当にツルだったのか。  

 安藤広重なども江戸のタンチョウを描いているので、関東をはじめ、日本全国に広くいたという説がある一方で、実際にはそのほとんどはコウノトリだったという説もあることを今回初めて知った。とりわけ松の木に鶴という図柄は怪しいのだそうだ。コウノトリは松の樹上に営巣するが、鶴は木に止まらない。そうなると、花札の「松に鶴」も、松上鶴と題された数多くの名画も、画家がコウノトリを観察して描いたか、ただ頭のなかでめでたい図柄を組み合わせたことになる。鶴と松の組み合わせが平安時代から松喰鶴という、松の小枝をくわえた鶴の図柄で多数描かれていたことは、やはり大英博物館の本にでてきた日本の銅鏡で知ったが、これが正倉院の宝物にあるペルシャ起源の花喰鳥と花綱の文様から発展したものであることは、のちになって気づいた。木に止まれない鶴が、松の小枝をくわえる可能性はまずないだろうが、縁起を担ぐ人には、そんなことはどうでもいいわけだ。  

 コウノトリのハサミは先ほど無事に娘の手元に渡った。昨年、フランスの出版社から刊行されたOiseaux - Des alliés à protégerという科学絵本では、娘はゴミをあさるシュバシコウ、つまりハサミのモチーフとなったヨーロッパのコウノトリの印象的なイラストを描いた。えらく苦労した仕事だったのに、ろくに打ち上げもできなかったので、ハサミはそのお祝いということにしよう。

 中央が、今回入手したコウノトリのハサミ

復刻版『ジャパン・パンチ』第2巻、雄松堂書店より

2021年1月11日月曜日

ノーマンさん

 ノーマンさん、という名前は、子供のころからときおり母に聞かされ、何かしら関係のある人ということで、その昔、中薗英助の『オリンポスの柱の蔭に:ある外交官のたたかい』を図書館で借りて読んだことがあった。おそらくこの本が刊行されてまもない1985年に、激混みの通勤電車のなかででも読んだのだろう。当時の私には、複雑な時代背景もわからず、あまりにも大勢の登場人物に頭が混乱して、よく理解できなかったが、主人公のハーバート・ノーマンがマッカーシズムの吹き荒れた時代に赤狩りの犠牲になり、カイロのホテルで投身自殺という衝撃的な最期を遂げたことだけが印象に残っていた。  

 この小説の題名は、GHQに接収された第一生命ビルの「表玄関に立つギリシア神殿風の巨大な御影石の柱」と、その聖域に新たに住まい給うことになった「ゼウス神にも比されるべきマッカーサー元帥の姿を一目見ようとして」いた当時の人びとや、その柱の奥で展開されたことを暗示していたことも、読み返してみていまさらながら気づいた。数年前に馬場先門前のタリーズで軽食をとった際に、窓の外に見えたアカンサス葉の彫刻が見事なコリント式列柱の並ぶビルが頭に浮かんだが、こちらはアメリカ極東空軍司令部や政治顧問部が入っていた明治生命館だった。第一生命ビルのほうは、著者も指摘するように角柱なので、さほどギリシャ神殿風ではない。明治生命館を保存する形での再開発プロジェクトでは、その背後に立つ超高層の明治安田生命ビルとのあいだに、「パサージュ」が設けられたようなので、また丸の内にでかけたときに確かめてみよう。

 じつは、たまたまフェイスブックで9条地球憲章の会主催の公開研究会として、青山学院大学の中野昌宏教授が「カナダで考えた憲法と九条──H・ノーマン研究と在住邦人との交流から」という講演をZoomでなさることを知り、申し込んでみたのだ。それと同時に、ノーマンさんとどういう関連があったのか母からも聞きだしてみた。なにしろ、「ノーマンさんのピアノ」とよく聞かされていたからだ。

  実際には、母に記憶を正してもらうと、ピアノはノーマンさんのものではなく、1955年に国鉄総裁になった十河信二氏が戦争中に長野に疎開させていたものだったようだ。母は当初、轢死した下山総裁と勘違いしていたが、ネットで調べて確認してくれた。その疎開先が、祖父母が親しくしていた大滝さんというお宅で、その家が長野市県町にあったハーバート・ノーマンの父、ダニエル・ノーマン牧師の牧師館だったというのだ。少しばかり調べてみると、牧師館の建物は1904年にノーマン牧師設計で建てられた2階建ての横板張りの洋館で、母の記憶どおり1971年に飯綱高原に移築され、現存するようだ。写真も見つけたので、同じ建物か確認してみると、これに間違いなく、県町の旭幼稚園の裏にあったそうだ。長野市文化財データベース、デジタル図鑑によると、「明治39年から昭和9年までここに居住していた」という。引退後は軽井沢に移り住み、昭和15年に帰国とあり、この年、旭幼稚園のカナダ人園長も戦争で帰国していた。日本で生まれ育った息子のハーバートは15歳ごろに大学に入るためにカナダに帰り、その後、1939年までケンブリッジやハーヴァードで学び、1940年に外交官として再来日にした。太平洋戦争が始まると軟禁状態に置かれ、1942年になって交換船でカナダに帰国し、戦後再び、日本語のよくできる知日派であるがために、マッカーサーからの直々の指名で一時期、GHQの対敵諜報部に勤務することになったという。 

 占領軍として再来日したハーバートが、信州を訪ねる場面が『オリンポスの柱の蔭に』に描かれている。この作品は小説なので、事実かどうか不明だが、こんな具合だ。「宣教師館の敷地内には、実のなる木がいっぱい植えられていた。林檎、柿、桃、杏、それに胡桃まで。果実は食生活を豊かにするだけでなく、いざというときに役に立つ。父のダンは果実の栽培やジャムの作り方を信州一円にひろめていたから、自ら率先して模範を示していたのだ」。宣教師として初めて来日したのは1887年という父ダニエルは、軽井沢の別荘地開発にも協力したという。「ぼくは、じつは長野県人なんです」と、小説のなかでハーバートは自己紹介する。

 小説にはこんなことも書かれていた。「家の中にも、懐かしい場所がいっぱいあった。地下室から地下道を通って隣の宣教団の宿舎へ抜けられる、まるで忍者屋敷のような仕掛けもあった[……]。雨の日には、姉のグレースや兄のハワードと三階の屋根裏部屋へ上って遊んだものだ。屋根裏部屋の窓からは、犀川にそそぐ裾花川をへだてて、すぐ目と鼻の先の近くに旭山が見えた」。移築先では、建物内に入れないようだが、いつか訪ねてみたい。

 Zoomの講演会は、もちろんこうした少年時代の話ではなく、GHQ時代に彼がどの程度、日本国憲法の起草に関与したのかという点や、丸山眞男、羽仁五郎、鈴木安蔵、都留重人などの人脈、そしてカイロで自死した背景などに焦点が絞られていた。ハーバートの思想について調べたこともないので、私には判断がつかないが、小説にでてくるフランコ崇拝者のワインダー少将のモデルがウィロビーであることや、ゾルゲ事件のことなどを考えると、時代に翻弄された人なのだろうと思う。そう言えば、数日前の新聞に、ゾルゲがロシアでは第二次世界大戦で祖国を救った英雄として評価されていて、多磨霊園にある彼の墓の管理が、今後、遺族から在日ロシア大使館に移るという記事がでていた。ハーバートが後進国の日本をなんとか西洋並みの国に発展させたいと努力するあたりには、どことなくアーネスト・サトウに通じるものを感じる。彼が書いた『日本における近代国家の成立』を読んでみたくなり、古本を注文してみた。

 ところで、十河家から譲られたピアノのほうは、河合楽器が1927年に創立と同時に生産し始めた64鍵しかない昭和型という小型のアップライトで、350円だったことが同社のホームページから判明した。いつピアノをもらったのか、母の記憶は曖昧だったが、小学生時代を過ごした長野市内の家の応接間にもあったことを思いだしてくれたので、おそらく大滝さんに荷物を疎開させた折に、ピアノだけは直接、母の実家に運ばれたのだろう。国鉄の貨物を利用できた人ならではの特権だったかもしれない。当時はまだ楽譜も輸入品しかなく、バイエルの教本のドイツ語を祖父が訳してくれ、一緒に練習までしたのだという。松代に引っ越してからは、バスに乗って長野市の先生のところまでレッスンに通ったのだそうだ。このピアノは、私が小さいころ祖父母が住んでいた屋代の家の応接間にもまだあった。調律されていなかった記憶があり、姉に確かめてみたら、高いほうのラの音が鳴らなかったと思う、とえらく詳しく覚えていたので笑ってしまった。私はその部屋の壁際にこけしがずらりと並んでいたのが怖かったのは覚えていたのに、姉はこけしについてはさっぱり覚えていなかった。人の記憶はまちまちだ。

 たまたまオンラインで講演会を聴く機会があったおかげで、こうした一連のことを調べるきっかけとなった。また、高齢の母が記憶を探り、メールで私の質問に一つひとつ答えてくれたのは、じつにありがたかった。おかげで、わが家とピアノの始まりが明らかになったのは大きい。なにしろ、母はピアノを教えて生計を立ててきたのであり、姉はいまに至るまでピアノ一筋の人生を送っているからだ。

 タリーズから見かけた明治生命館

昭和型ピアノは、祖母や母のきょうだいたちの背後に写る小型の黒いもの

第一生命ビル 2021年6月撮影。
いまでは周囲の高層ビルに囲まれて目立たず、周囲を切り取らなければ、「オリンポスの柱」には見えない。

2021年1月2日土曜日

シベリア

 暮れに拓殖大学の関良基教授とメールのやりとりをした際に、曾祖父の論文が掲載されていた雑誌がまだ大学に残っているか、いつか確認していただければとお願いしてみたことがあった。以前に『ロシアと拓殖大学』という論文集を図書館で借りて、その巻末リストから論文名等は判明していたためだ。すると、ただでさえ慌ただしい師走に、コロナ対策で部外者は入れない学内の大学誌編纂事務室にわざわざ出向いてくださったうえに、7本の論文・翻訳をすべてコピーまでとって郵送してくださったのだ。まだお礼もできずにいるので、せめて年末年始に頂戴したコピーを読むつもりだったのだが、今年は孫連れでトンボ返り帰省となったため、その時間すらとれなかった。「労農露国の新経済政策に就て」などというタイトルの論文がほとんどなので、しっかり読んで理解するのはまだ当分先のことになりそうなので、とりあえずこの貴重なコピーを入手できたことだけは書いておこうと思う。 

「一八五五年、時の東部西伯利[シベリア]総督〈ムラウィヨフ〉が、軍事上の願慮より、黒龍江口の植民に着意し、後具加爾[バイカル]より哥薩克[コサック]兵と其家族五十一家族、四百八十一人を、水路に依りて、黒龍江の下流地方に移住せしめたるを始めとして、漸次、移民を送ったのである」などという一文を読むのにも、固有名詞の漢字が読めず一苦労なのだが、ムラヴィヨフは幕末の日本に7隻の艦隊で来航し、国境を定める交渉をした人だ。このとき樺太を50度線で分割する案を最初に言いだしたのは、オランダ通詞の森山栄之助だった。この艦隊の来日時に起きた海軍軍人殺害事件は、咸臨丸を無事にアメリカに渡らせたブルック船長も克明に書き残しており、外国奉行の水野忠徳が冷淡な対応をとったために、このポストを外されるきっかけになるなど、その後も長く尾を引くことになった。 

「露領極東の交通に就て」という論文はシベリア鉄道に関するものらしく、こんなことが書かれている。「一時中外の注意を惹きたる黒龍鉄道は、其黒龍県に入りたる最初の駅をエロフエイ、パウロウィチと称し、哈府即ちハバロフスクを端末駅として以て、往昔露国が西伯利より南進して太平洋に向い侵略の爪牙を伸したる時代に於て、当時の所謂〈ダウリヤ〉の地たる、黒龍江沿岸地方併呑の先駆者たりしハバーロフの功績を記念する為、名と父称とを採りて黒龍県の入口たる一駅に命名し、又其姓ハバーロフに因みて、黒龍江畔に建設されありたるハバーロフスク市を終点としたる建設当時に於ける露国の意気込によりても窺知さるる如く純然たる、戦略上の鉄道であった」。シベリア鉄道は当時、黒龍鉄道と呼ばれていたらしく、その一部は東支鉄道(東清鉄道)と論文には書かれていた。黒龍江というと、中国の黒龍江省を思い浮かべてしまうが、これはアムール川のことだった。  

 この長い一文が目に付いたのは、その昔、このハバロフスクにシベリア鉄道で行ったことがあるからだ。中学1年のとき、イギリスに引っ越した幼馴染の一家を訪ねる目的で母が大旅行を計画し、何を思ったか横浜から船でロシアに渡り、途中一部は飛行機を使ったが、往路はおおむね陸路と海路でイギリスまで行ったことがある。横浜の大桟橋から、ジェルジンスキー号という船で出航した折には祖母や叔母一家、それに母を焚きつけたに違いない、外語大ロシア語卒の近所のおばさんなどが見送りにきてくれ、今生の別れといわんばかりに紙テープを盛大に投げたことを覚えている。  

 2泊3日の船旅は、ひどく船酔いしたために毎回の食事がスモークサーモンで辟易したことや、津軽海峡で漁火を見たこと、甲板で乗客が巨大なチェスをしていたことくらいしか記憶にない。私が初めて訪れた異国の地はナホトカだった。当時は知らなかったが、ウィキペディアによると、冷戦下のソ連は太平洋艦隊の軍港であるウラジオストックへの外国人立ち入りを禁じていたため、商港のナホトカが利用されたのだった。これも知らなかったが、ナホトカ–ハバロフスク間はシベリア鉄道の優等列車であるロシア号に外国人は乗れなかったため、私たちが乗ったのは連絡列車だったようだ。それでも、車掌さんが「パジャールスタ」と言いながらチャイをもってきてくれる列車の旅は快適だった。  

 ハバロフスクからは、離発着時の気圧の変化に備えて乗客に飴が配られるアエロフロートに乗ってモスクワまで飛び、そこでどういうわけか宮殿ばりの豪華なホテルのスイートルームに泊まった。手提げ鞄1つの貧乏旅行にまったくふさわしくない天蓋付きのベッドがあるような部屋を、なぜか旅行会社が手配していたのだ。  

 曾祖父が訳した「一英人の観たる赤露の近情」という短い紀行文を読んで、その理由がわかった気がする。「三十有余年来絶えず露国の事情を調査研究し」てきた「チャーレス、セロリ」氏が、革命後間もない1918年に再訪したときのことなどを綴った内容で、ペトログラードで1週間滞在した「エゥロツパ、ホテル」は宿泊客が6人ほどしかいないのに、「多数の召使いや、優秀な〈オーケストラ〉や、国立劇場から十余名の俳優や踊り子を呼び寄せてあった」という。これは「一種の宣伝用として、官費で経営されているのである。宿泊人へ[ママ]見えた少数の外国人は、実は広告の意味を有する一種の飾り」などと書かれていたのである。私が旅行した当時も、ソ連時代には外国人用の宿泊施設は高級ホテルに限定されていたのだろう。  

 モスクワからポーランドやチェコスロバキアを抜けてオーストリアまで一気に移動した鉄道の旅は、途中、国境を通過するたびに夜間でも検札が回ってきて下車させられた。それでも、ロシア人の男の子にドミノを教わったり、おじいさんに似顔絵を描いてもらったりするなど、長い旅をともにする乗客のあいだでいつしか対話が生まれ、強く心に残る日々となった。船から一緒に旅をしてきた京都のお姉さんが、留学のためにブラチスラヴァで下車して行ったのも印象的だった。  

 曾祖父の論文を拾い読みしながら思いだしたのは、この旅行だけではない。「既に前世紀の終より〈アルタイ〉、〈サーヤン〉山脈及び後具加爾地方に於ける、鉱物富源の開発は官営事業として、独占的に経営し」などと読めば、スキタイ以前からの騎馬民族の歴史を思いだすし、アレウト族やベーリングの探検などはフェイガンが何度も言及していた。曾祖父自身は旅順と満州には行っていたが、生涯研究したロシアに足を踏み入れたことはあったのだろうか。ほんの数日間とはいえ、孫とひ孫がソ連時代のロシアを訪ねたことを知ったら、きっと羨ましがったに違いない。中学生の自分が書いた旅行記を読みながら、また自由に世界を旅できる日々が1日も早く戻ってくることを強く願った。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 大量の論文コピー

 昔の大桟橋

 ナホトカ港

 モスクワのホテル

 モスクワからの列車内で似顔絵を描いてくれたおじさん

 似顔絵と当時の旅行記

2020年12月28日月曜日

モノが語る歴史

 数カ月前のことだが、ちょうど『埋もれた歴史:幕末に西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)が刊行されたこともあって、藩主の松平忠固(忠優)の名前で検索をかけたところ、ヤフオクに彼の書簡が出品されていることに気づいた。同じ出品者からもう1点、上田藩関連の珍しい史料もでていたので、すぐに『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)を執筆された関良基先生にご相談してみた。関先生はこれまでも上田の赤松小三郎ゆかりの史料や道具などの散逸を防ぐべく、資金集めや上田市立博物館との交渉などに関わってこられた。  

 同時に、すでに遅い時間だったが、これまで何度も崩し字を読んでくださった私のFB友のY氏がまだオンラインであるのに気づき、失礼とは思いつつメッセージを送ってみた。なにしろ、私に読めた文字は「公方様と右大将」くらいしかなく、買うに価する内容か判断がつかなかったのだ。すると、間髪をいれず、ネット上の画像から判読できる限りの内容を読み取って、宛名がないことは気なるが、「買うべきでしょう」と力強い一押しをくださった。宛名がないためか、1万円の即決価格という設定であるにもかかわらず、誰も入札していなかったのだ。お返事を頂戴してすぐさま落札したのは言うまでもない。170年ほどの歳月を経た書状が届いたときは、深い感動があった。  

 その後、Y氏の古文書教室のお仲間の方も判読に力を貸してくださり、ほぼ全文を読むことができた。さらにだいぶ経ってから、岩下哲典先生にも読んでいただく機会があり、以下のように釈文を書いてくださった。 

二月九日付松平忠優書状(宛所欠) 
(釈文:翻刻文) 
御状、令披閲候 
公方様 右大将様、益 
御機嫌能被成御座候 
之間、可被心易候、将又 
弥無夷儀、御遵行之由 
珍重之事候、随而 
小杉紙一箱、被懸芳意 
過分之至候、恐々不宣  
二月九日  
 松平伊賀守
     忠優(花押) 
(宛所欠)

  読み方も次のように教えていただき、「基本的には、老中のルーティン業務(将軍・継嗣と大名との取次)に関わって、小杉紙(鼻紙)一箱をもらったお礼の書状」で、「相手は比較的格下」だろうとも教えていただいた。 

御状(おんじょう= お手紙)、披閲(ひえつ)せしめ候。
公方様(12代将軍家慶)、右大将様(後の13代将軍家定) 益(ますます) 
御機嫌能(ごきげんよく)被成(なられ)御座候 
之間、可被心易候(こころやすかるべくそうろう)、将又(はたまた) 
弥(いよいよ)無夷儀(いぎなく)、御遵行之由(ごじゅんこうのよし) 
珍重之事候(ちんちょうのことにそうろう)、随而(したがって) 
小杉紙一箱、被懸芳意(芳意にかけられ) 
過分之至候(かぶんのいたりにそうろう)、恐々不宣

 忠優の名で老中だった嘉永元年10月から安政2年8月にかけての期間で、将軍(公方様)の世子(右大将)が定まっていた時代となると、家慶が嘉永6年6月に熱中症から心不全で死去するまでであり、書簡の日付から、嘉永2年から同6年のいずれかの年の2月に書かれたことはすぐにわかった。押印がなくて花押のみであることや、「恐々不宣」という結語からも宛先は「格下」なのだろうと、素人にも思われた。

 しかも、岩下先生は「左端(「奥」の方)に墨の後が残っており、「殿」の最後の一画と思われ」、「出所を秘匿するために、最近切断したもの」ではないか、と推測しておられた。左側は確かに、切れ味の悪い刃物で誰かが切ったと見えてガタガタしていたが、切断面はすでにその他の部分と変わらず茶色く変色していた。ただ、じっくり見た甲斐あって、右側の上下の隅には押しピンの跡らしきものが残っているのに、左側にはそれがないことが判明した。つまり、いずれかの所有者がしばらく、この書状を壁に貼っていて、その後、宛名部分が切断されたのだ。これぞ、モノが語る歴史だ!  

「御状」が将軍と世子に見せるようなものであったことや「ますます御機嫌能く成られ」、「御遵行の由」が「珍重の事候」などとあることから、取り次いだ手紙は好意的に受け取られていたことが察せられる。その労にたいしてもらったのが鼻紙というのが、現代的な感覚からは苦笑したくなるが、将軍から頂戴したならティッシュでも貴重だったのだろう。

 出品者の方から、もともと京都の古物商から入手したという経緯も伺い、個人的にはこの条件で思い当たる人物と出来事があり、かりに私の推理どおりだとすれば、貴重な発見物となるのだが、「慎重に検討する必要がある」という岩下先生のお言葉に従うことにしよう。いずれ上田の博物館に寄贈するつもりなので、それまでにもう少し解明できれば嬉しい。

2020年12月18日金曜日

再度、生麦事件

 幕末史の転換点とも言うべき生麦事件は、なぜか非常に誤解されつづけた事件だ。この事件が被害者であるチャールズ・L・リチャードソンの落ち度ゆえに生じたとする主張がいまだに多いのは、いったいどういうわけなのか。先日、オンラインで参加させていただいたシンポジウムの発表を聞きながら、新たに疑問が湧いたので、メモ書き程度に記しておく。  

 拙著『埋もれた歴史』のなかで、これまで歴史家が見逃してきた多くの事実を指摘し、リチャードソンへの非難がいずれも根拠の乏しい、事件当時を知らない人びとによる後年の主張であることを示したつもりだが、そのなかで私が取り上げるに値しないと判断した「証言」が、いまなお引き合いにだされていることに気づき、典拠とされる板野正高氏の論文、「駐清英国公使ブルースのみた生麦事件のリチャードソン──プライベート・レターのおもしろさ」(『学士会会報』723号、1974年)を入手してみた。これを根拠とする主張はいずれも、以下の部分を引用している。 

「私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分のやとっていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホーク(mohawks)〔一七世紀に、夜、ロンドンの街を荒らした貴族のごろつき〕であったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によって些かも抑制されることのないプロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持主である」(1864年4月15日付の外務大臣ジョン・ラッセル宛の書簡) 

『学士会会報』のこのバックナンバーは簡単には読めないので、大半の人は萩原延壽の『遠い崖 1』の引用を孫引きしたウィキペディアの「生麦事件」の項の記述を引用している。アーネスト・サトウを研究した萩原氏は、サトウがこの事件では傍観者であったために、事件そのものを深く研究することはなかった。そのためか、板野氏の論文の真意を伝えず、ブルースの手紙部分だけを引用している。だが、この半公信を入手して翻訳した板野氏は、こう書き添えているのだ。「注意すべきことは、ブルースは決してリチャードソン個人を罵倒しているのではなく、彼を一類型とするような中国在留英国人の行動傾向を、中国との友好関係を維持しながら貿易の順調なる発展をはかるべき英国公使としての立場から問題としているということである」。つまり、ブルースは一般論として論じていたのである。  

 ブルースが生麦事件についてよく知らなかったのは、その前段を見れば明らかだ。「リチャードソン氏は慰みに遠乗に出かけて、日本の大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に、彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか」  

 生麦事件は、薩摩の島津久光の行列と4人のイギリス人との遭遇で生じたが、当時の横浜居留地の人びとは、島津久光が薩摩藩主の父であって、大名ではないことはよく承知していた。大名行列が通るときはいつも通知がだされていたが、久光の一行は直前に予定を変えたたこともあって、この日の予定については何ら知らされていなかった。しかも、リチャードソンは、東海道の道幅の狭い箇所で、下馬しろと薩摩藩士に命じられたものの、その言葉が通じず、殺気だけは感じたため、馬首を返したところでいきなり斬りつけられたのだ。馬を並走させていた彼の行動が、一行のなかの唯一の女性で、気の動転していたボラデール夫人を守るものであった可能性すら高いことも、当時を知る人が数十年後に書いている。リチャードソンらが久光の行列にたいして無礼を働いたわけではないことは、久光の側近だった市来四郎や、彼を斬った一人である久木村治休ですら述べている。こうした史料はいずれも拙著で取り上げたので、ぜひお読みいただきたい。  

 リチャードソンは実際にはどういう人物だったのか。横浜市歴史博物館発行の図録『生麦事件と横浜の村々』によれば、彼は1833年4月16日にロンドンで生まれた。父親はジェントルマン階級に属し、リチャードソンは姉3人、妹1人に囲まれた1人息子だった。中学程度の教育を終えると、母方の叔父の個人商会に預けられたが、1853年初めに、20歳で上海に渡り、おもに生糸取引と不動産売買に携わった。宮永孝氏の『幕末異人殺傷録』は、リチャードソンが上海に渡った時期は間違って書いているが、「清国人相手に交易を開始し、蓄財すると借地を増やしてゆき、のち南京路の清国人密集地に家屋を建て、かれら相手に賃貸していた」などと、かなり詳しく書いている。当時、太平天国の乱によって大量の難民が上海になだれ込み、人口が急増していたので、その波に乗ったのだろう。  

 リチャードソンと家族のあいだには80通ほどの書簡が残されており、その何通かが訳されて先述の図録に掲載されている。1862年6月29日には、7月2日午前中にジャーディン商会のファイアリークロス号で日本に向けて出発する旨を書き送っている。この船は、生麦事件発生の2週間ほど前に、12万5000ドル(6万7000両)という高額で売却手続きが済んでいたため、事件後に同商会から薩摩側に引き渡された。薩摩とイギリスの関係は、この一件が象徴するように、攘夷の実行を訴えながら武器や艦船をイギリス商人から買うという、非常に矛盾した関係が当初からつづいていた。  

 事件直前の9月3日には、リチャードソンは日本の滞在を1カ月延ばし、10月にいったん上海に戻ってから月末には帰国の途に就く予定なので、しばらくは音沙汰がなくても心配しないようにと書き送っていた。彼の両親と姉妹たちは、11月21日に『タイムズ』紙に掲載された短い「電報」を読んで初めて事件のことを知ったのだった。「私が深く愛した1人息子が日本で殺害されたことを『タイムズ』紙の電報によって知り、私たちは深い悲しみに暮れています」と、父親がラッセル卿に書き送った手紙が、その他数通の切々とした内容の書簡とともにジョン・デニーの『Respect and Consideration』に引用されている。  

 事件当時の横浜の人びとの証言やリチャードソンの書簡を読む限り、彼がモウホークのような人物、つまり金持ちの粗暴などら息子だったというブルースの評価には、首を傾げたくなる。もちろん、だからと言って、リチャードソンが上海で実際に苦力にひどい仕打ちをしなかったという証拠にはならない。  

 だが、そう主張するブルースは、上海でどれだけリチャードソンを個人的に知っていたのだろうか。彼に関する記述は、ネット上にはごくわずかしかなく、その大半がリチャードソンに関する短いコメントであることは、なんとも皮肉である。少ない情報を集めてみると、F・ブルースはアロー戦争時に、兄のエルギン卿が中国への特命全権大使に任命された1857年4月に、その第一秘書官として同行し、不平等条約として知られる天津条約が翌年6月に締結されると、その批准のために帰国し、その年末に在清公使に任命されている。赴任した時期は不明だが、清国政府が批准を拒みつづけたため北京入りができず、その間、上海に足留めとなっていたようだ。この当時の上海領事はハリー・パークスだったが、現地に長らく滞在し、中国語が堪能だったパークスは同年7月にはエルギン卿の中国語秘書官となって戦争に携わるようになったため、トマス・メドウズという代理領事が任命された。モンゴル騎兵軍を率いるセンゲリンチンにパークスが逮捕され、随行者が虐待され拷問死したことへの報復で、エルギン卿が円明園を破壊させたことや、数度にわたる大沽砲台の戦い、モンゴル騎兵軍を全滅させた八里橋の戦いなどはよく知られる。英仏軍は、清朝とのこうした戦いに、広東などの苦力を大量に雇ってもいた。  

 1860年に太平天国の乱の指導者の1人、李秀成の率いる軍が、欧米の商人から武器を調達しようとして上海に近づいた際には、ブルースが条約港にいる居留民の防衛という名目で攻撃し、300人近い犠牲者がでたという。清朝と条約を結んだ英仏両国は、反乱軍がアヘン貿易に反対であったことから清朝と手を結ぶことに決めたのか、このころから義勇隊や、中国人傭兵を使った西洋式軍隊である常勝軍を使ってキリスト教を信奉する反乱軍を鎮圧する側に回った。1860年10月には北京条約が結ばれたが、ブルースはしばらく天津にいて、翌年3月に北京入りしている。リチャードソン自身も、1862年2月の母宛の手紙に、4–5日に1度は騎兵隊として租界の自衛に加わらなければならないことを書き送っている。幕府が高杉晋作や中牟田倉之助を千歳丸に乗せ、密航者の五代友厚を含めた視察団を送り込んだのは、ちょうどこの混沌とした時期の上海だった。  

 ブルースはこのように、確かにしばらく上海に滞在していたのだが、こんな時代に領事裁判の一件にすぎなかったはずの、「やとっていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた」件について、公使であった彼が深くかかわったとは考えにくいし、たとえそれが事実だとしても、後年、わざわざ言及した背景には別の意図があったとしか思えない。  

 板野氏は、ラッセル卿へのブルースの手紙は、「所謂ガンボート・ディプロマシイからの転換を意味していた」として、中国人を蔑視する同胞を批判するブルースをリベラルな外交官のように描く。だが、エルギン卿とブルースこそ、中国にアヘン貿易を強要し、中国人苦力や傭兵を雇って同胞に立ち向かわせ、殺傷力の高い武器を大量にもち込ませた張本人であり、この兄弟の父親がエルギン・マーブルで知られることは言うまでもない。かりにこの半公信の内容が事実だったとしても、日本でのリチャードソンの行動には非難すべき点はなかった。真偽や意図の定かでない証言を、ただ「エルギン卿の弟」の発言というだけで真に受けて引用・拡散することは避けるべきだと主張したい。

2020年12月10日木曜日

『パサージュ論 I:パリの原風景』

 じつに遅まきながら、ようやくヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論 Ⅰ:パリの原風景』(岩波書店)を図書館で借りてみた。これまで訳書のなかでたびたびパサージュ論について言及されていながら、その場しのぎでごまかしていたが、今回の仕事で再びかなり突っ込んで取り上げられていたため、ついに読んでみたのだ。  

 私が最初に出合ったのは、『「立入禁止」をゆく』(ブラッドリー・L・ギャレット、青土社)だったように思う。ただ、この著者の関心はむしろ、ベンヤミンが言及していたナダールの地下水道の写真などにあったので、日本語ではアーケード街としか訳しようのないパサージュの意味は、よくわからないままだった。アーケード街というと、いかにも戦後の日本各地につくられたショッピング街が思い浮かべてしまう。船橋の本町にもそんな一角があったし、中野サンモール商店街などはいまも健在だ。うちの近所でも、弘明寺や大通り公園のところの横浜橋商店街など、漬物屋や八百屋、洋装店などが並ぶ昭和的な光景がまだ見られる場所がある。  

 しかし、ベンヤミンの言うパサージュは、1822年以降の15年間に、織物取引が盛んになり、大量の商品在庫が店に常備されるようになった時代に、その大半がつくられたというパリの高級商店街なのだった。最初のガス灯はこうしたパサージュに登場したのだという。その発展には、ガラス天井を支える鉄骨建築の始まりが欠かせず、にわか雨に降られても安全な遊歩道に、天井から差し込む自然光が、ファンタスマゴリー(魔術幻灯、幻像空間)の効果を与えたというものだった。うちにも子供のころは幻灯機というスライド上映する装置があったが、本来はそれを使った幽霊ショーのようなものを指す言葉のようだ。  

 この時代に、ヨーロッパの主要都市でたびたび開かれ始めた万国博覧会について、ベンヤミンはこう書く。「万国博覧会は幻像空間を切り開き、そのなかに入るのは気晴らしのためとなる。娯楽産業のおかげで、この気晴らしが簡単にえられるようになる。娯楽産業は人間を商品の高みに引き上げるやり方をするのだから。人間は、自分自身から疎外され、他人から疎外され、しかもその状態を楽しむことによって、こうした娯楽産業の術に身をまかせている。商品を玉座につかせ、その商品を取り巻く輝きが気晴らしをもたらしてくれる」。立入禁止の本でギャレットが訴えていたのは、商品化された観光地への抵抗だったし、人間が商品化されることの疎外論については、トリストラム・ハントが『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)で書いていた。「疎外」という訳語は、どうも意味が伝わりにくく、理解されていないと思いながら訳した記憶がある。  

 この本では、オスマンのパリについても何度か言及されていた。「パリ発生[ママ]の地シテ島について、人々はこんなことを言った。オースマンの手にかかった後は、教会と病院と役所と兵営しか残っていない、と」。シテ島から立ち退きさせられた多くの住民のことだ。私たちがパリだと思っている光景は、オスマン以降につくられた顔なのだ。こうした現象は世界各地の都市でその後も繰り返され、スジックの『巨大建築という欲望』(紀伊国屋書店)でも上海の開発に多くのページが割かれていたし、いま取り組んでいる本でも、やはり上海の途方もない発展の話が語られる。 「エンゲルスは、バリケード戦における戦術の問題に取り組んだ。オースマンは二つの方法をつかって、バリケード戦の防止に努めた。道路の広さはバリケード建設を不可能にするだろうし、新しい道路は兵営と労働者街とを直線で結ぶことになる。同時代の人々は、彼の事業を〈戦略的美化〉と名づけた」。ベンヤミンのこの記述を読んで、私の脳裏に浮かんだのは青山通りや外苑東通り、靖国通りなどだ。スジックもベルリンやパリの都市計画について、同様のことを書いていた。  

 このように、ざっと一読した程度ではとうてい把握しきれないことが、この1巻だけでも書かれていたので、古本を入手してまた後日、読み返してみることにした。ベンヤミンの作品などは、充分に時間のあった学生時代に、せめてその概略だけでも知っておきたかった。ただ、体系的に書かれた書ではなく、彼の膨大なメモ書きが死後に編纂されたものなので、そこに書かれた断片の意味を理解できるようになるまでは、読んでもちんぷんかんぷんだっただろうか。

 弘明寺かんのん通り商店街

 横浜橋商店街

明治安田生命ビルと明治生命館のあいだを屋根で覆ってできたパサージュ「MY PLAZA」。2021年6月撮影。