2020年10月5日月曜日

追補その3:ペリー来航時の鉄道模型

  拙著では佐久間象山と松平忠固に多くのページを割いたため、必然的にペリー来航について調べることになった。ペリーに関しては整理する必要のある重要なことがいくつかあるが、そのうちの簡単なものから、とりあえず書いておきたい。 『ペリー提督日本遠征記』には驚くようなことがたくさん書かれており、ペリー一行が土産にもってきた鉄道模型に関しては、「小さなもので六歳児がようやく乗れるほどだった。それでも日本人たちは、乗車はできないなどと言いくるめられることなく、かと言って客車内に入れるほど身体は縮められなかったので、屋根へと向かった。もったいぶった役人が丸い軌道上を時速三二キロで、緩く羽織った衣服を風になびかせながらぐるぐる回る様子は、少なからず滑稽な見世物だった」と、ユーモアたっぷりに記されていた。あいにく同書の挿絵「横浜蒸気車の図」には試乗する侍の姿がなかったので、私はこの件は確認できないままとなった。

 ところが、松平忠固のドラマ脚本をお書きになり、私も講演会でお会いしたことのある本野敦彦さんが運営しておられる「松平忠固史」というサイトを拝見して、それこそ目が点になった。模型機関車の屋根に乗る侍の姿が描かれた絵がヘッダーになっていたのだ。出典が書かれていなかったので、画像検索をしてみたところ、アメリカのブラウン大学が12枚の絵からなる作者不明の「ペリー巻物」の1枚としてこの絵を公開していることがわかった。巻物自体は、1965年にアン・S・K・ブラウンという歴史学者がロサンゼルスの古本屋から購入したという。同大学の研究者が、この巻物の絵の元となった墨絵も発見して対比させていたので、それを手がかり少々調べてみた。 

 このとき汽車の屋根に乗る大冒険をした人は、斎藤一斎の娘婿で、ペリーとの交渉に立った林復斎のところで塾頭をしていた河田八之助(迪斎、てきさい)であり、日米和親条約の条約文の起草にも携わった人だった。河田はこのときの様子を「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し」などと日記に残しており、日本財団図書館のサイトにその経緯がよくまとめられていた。

 墨絵(ペン画に見える)を描いたのは、榊令輔(綽、ゆたか)という蘭学者であったことがわかり、「代戯館(沼津兵学校付属小学校生徒)」(http://daigikan.daa.jp/seito.html)によれば、杉田玄端・杉田成卿の弟子だったという。福岡藩士の家に生まれたが浪人となり、のちに津藩に召し抱えられ、安政年間に『火技全書図』というセッセレル(Sesseler)の蘭書を訳したほか、『魯西亜字筌』というロシア語入門書も書いている。榊令輔のこの絵は、大宮の鉄道博物館にパネル展示されていたことが、ブラウン大学の研究者の報告からわかったが、原画を同館を所蔵するのか、もしくはどこか別にあるのかは判明しなかった。『沼津兵学校と其人材』にある「杉田玄端略歴」も図書館で読んでみたが、多くは書かれていなかった。

  河田八之助は、鉄道ファンのあいだでは、初めて汽車に「乗った」日本人としてよく知られる存在らしい。しかし、彼が条約文の起草にもかかわったのであれば、そこで彼がはたした役割のほうももっと注目されてよさそうだ。















 画像はブラウン大学のサイトからのスクリーンキャプチャ。

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