2020年10月7日水曜日

追補その4:「幕府陸軍」の指揮官は松平定敬か

 調査を始めた当初は、一次資料どころか、昭和初期の資料の古めかしい文体を読むのにすら苦労したので、古写真や横浜絵を調べることに多くの時間を費やした。早い段階で私が見つけた写真の1枚が、幕府陸軍の写真を言われてきた和洋折衷のこの一団の写真だ。『甦る幕末:ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社)に掲載されているので、おそらく現物はライデン・コレクションにあるのだと思う。

 中央に立つ洋装の指揮官が、どことなく上田藩の最後の藩主松平忠礼に似ているため、長らく頭の片隅に残っていた写真だった。忠礼は拙著の表紙に使わせていただいた写真で黒馬にまたがっている若者である。その後、『幕末維新秘録』という昭和40年ごろに出版された写真集(私が購入した古本は横浜新聞社刊)に、この同じ指揮官の騎乗姿と思われる写真を見つけた。ところがキャプションには「伏見稲荷山へ巡視の将軍慶喜」とあった。確かに双方の写真の背景には伏見稲荷のように鳥居が連なっているのだが、白黒の古写真から素人が判断する限りでは、鳥居は朱色ではなさそうだ。徳川慶喜はナポレオン3世から贈られたアラブ馬に、ナポレオン・ハットをかぶってまたがる写真が残っているが、この古い写真集の騎乗者は慶喜より明らかに細めで、黒っぽいスタンドカラーに燕尾付きの軍服のウエストに太いベルトを締めているところは、幕府陸軍写真の指揮官とそっくりだ。

 この2枚の写真に写る若者は誰なのか。馬は鹿毛か栗毛に見え、たてがみや尾の様子からも、忠礼が乗る飛雲という黒馬とは違って見える。たまたまこの2枚目の写真を見つけたころ、先述の『写真集 尾張徳川家の幕末維新』を図書館から借りて見ていたので、はたと思い当たったのが、高須4兄弟の末弟、桑名藩の松平定敬だった。この4兄弟はいずれもかなり面長だが、定敬はなかでも面長で細身であり、戊辰戦争時にはしばらく抵抗をつづけ、別の洋装姿の写真が残っている。定敬は明治に入ってから、養嗣子の定教と家臣の駒井重格とともに横浜のS・R・ブラウンの塾に通った。彼自身は日本に残ったが、定教と駒井がアメリカのラトガーズに留学したため、やはりラトガーズへ留学した上田の松平忠礼・忠厚兄弟と、多くの文献で混同されていた。名前も似ていれば、姿形も、境遇も似ているとあれば、間違われるのは無理もない。

 そんな経緯はあらかた拙著のなかに書いたのだが、入稿後に別件で検索をかけていた際に、Afloという写真素材を提供する会社のサイトで新たな情報を見つけてしまったのだ。サムネイルが小さく、報道関係者でないと登録して拡大画像を見られない規定になっていたが、無理をお願いしてウォーターマーク付きながら大きな画像を見せていただいたところ、幕府陸軍の指揮官と「伏見稲荷」の騎乗者と、同じ人物であることは間違いなかった。この写真は幕府陸軍の写真とほぼ同じ位置から撮られており、指揮官の後ろ姿が見えたために、ベルトが上着の後ろまでぐるりと回っていることもわかった。こちらの写真のキャプションは、一緒に並ぶ上田の松平兄弟の留学直前に撮影された写真と混同されたようで、「松平忠礼と鼓笛隊」(RM33318529)となっていた。

 上田の人にとっては、これはやや残念な結果となったが、桑名の関係者にとっては画期的な発見ではないだろうか。この3枚はいずれも、最後の京都所司代となった松平定敬の鳥羽伏見の戦いの前後の写真である可能性が高いと推測している。
写真:(上)Wikipedia 「幕府陸軍」より 
   (下)『幕末維新秘録』より

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